衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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仏法雑談(第一部)

作者: 釋生如 カテゴリ: 総説 更新時間: 2026年01月24日 閲覧数: 5529
<h2 style="text-indent: 2em;">第十章 修行篇(2)</h2><h3 style="text-indent: 2em;">二十、末法の時期に速成クラスをしてはならない</h3>

菩薩道の修行の道のりは長く、一時的な目の前の速さや遅さなど気にする必要はない。目標の達成は三つの無量劫にあり、三つの無量劫のうちに最も速く仏道を完成させることこそが勝者である。一万メートルの長距離走のように、いかなる智者が百メートルの間の前か後ろかを気にするだろうか。体力に基づいて長期的な計画を立てて安排し、優先的にゴールに到達することを保証することこそが根本であり、その他はすべて重要ではない。

人は遠慮なければ必ず近憂あり、目標が長遠であるほど、智慧は広大になり、胸襟は広博になり、気量は宏偉になり、志気は高遠になり、脚力は勁くなり、信心は十分になる。一時的な速さ遅さや勝敗を気にしてはならない。

今の末法の時代には、それほど多くの菩薩種性の人がおらず、それほど多くの良い道器もないので、速やかに証果と明心を得る速成クラスは絶対にやってはならない。この二年、私はいくつかの現象を見て、いくらか警戒心が芽生えた。速成クラスは人を害することが甚だしく、出てくるのはすべて偽粗悪品であり、仏教の正常で秩序ある発展を害する。

多くの人が真の修証の入手処を見つけられないのは正常な現象であり、その修証の因縁がまだ熟していないことを示している。彼らがあちこちぶつかり合う中で、次第に自分を成熟させ、次第に善根・福徳、および禅定・智慧を増長させ、菩薩の条件を完備し、菩薩の心性と徳行を養う。少なくとも人としての徳行の修養、人としての人格がなければ、どうして菩薩となって衆生を導くことができようか。衆生を泥沼の中へ連れて行きながら、みなそれに気づかず、朱に近い者は赤くなり墨に近い者は黒くなるように、衆生は知らず知らずのうちに悪習に薫染されながら、それを菩薩行だと思い込む。この結果もまた非常に恐ろしい。

私はいくつかの悟りを求める者を観察したが、人品が極めて悪く、そもそも人としての道をわきまえず、良い人になりたいとも思わない者たちである。もしこのような人たちがみな修証の入手処を知り、最後の結果を知り、いわゆる有名無実の菩薩になってしまったら、今後の仏教はどんな姿に発展してしまうのだろうか。考えるだけでも本当に恐ろしい。

速く明心・開悟・証果しようとする人ほど、悟るべきではない。このような切迫した心があるということは、目的が純粋でないことを意味し、菩薩の心性がまだ足りず、無所求の心性がまだ養い出されていないからである。このような人はひとたび悟った後、いっそう有所求となり、名聞利養の心が制御できなくなる。だから修行に関する事は、水到りて渠成るように、自然の成り行きに任すべきである。因縁の熟した人は、制御しようとしても制御できず、必ず自然に悟り、自然に菩薩となる。

速やかな証果と明心は、福徳の蓄積が足りず、業障がまだ消除されておらず、煩悩がまだ降伏されていない。ひとたび証果と明心に近づくと、業障が現れて遮障し、煩悩が現前して阻碍し、障害が幾重にも重なり、極めて菩提と道心を退失しやすく、その後の修行も無力になる。だから、いくつかの因縁が熟していない場合、絶対に手を下して導いてはならず、絶対に生瓜を摘み取ってはならない。人を害し己を害し仏教を害さないためである。

仏教が速成クラスをやるなら、心性の速成クラスと道心の速成クラス、人性の速成クラス、禅定の速成クラスしかやってはならず、証果の速成クラスと明心の速成クラスは絶対にやってはならない。心性が速成できず、人性が速成できず、道心が速成できず、禅定が速成できないなら、証果と明心がどうして速成できようか。

あれほど多くの人が私に苦情を訴えて、修行に入手処がなく、どう参禅し明心すればよいかわからず、どう観行して証果すればよいかわからないと言う。今考えてみれば、それでこそ正しい。わからないのは正常であり、入手処がないのも正常である。千辛万苦の鍛錬を一時期続け、因縁が熟せば、すべてのことがわかり、理解できるようになる。

<h3 style="text-indent: 2em;">二十一、法を学ぶにも法を説くにも当然のことと思い込んではならない</h3>

主人が部屋の中で花を観賞し、それから独り言のように言った。「赤い花はきれいだ」と。するとそばにいたオウムがそれを聞いて、続けて言った。「赤い花はきれいだ」と。オウムの言ったことは如実語であろうか。現量の観察であろうか。花の赤さときれいさを証得したのであろうか。いずれもそうではない。オウムはただ物真似をしただけで、この言葉の内包については何一つ知らず、自分が何を言っているのかさえ知らないかもしれない。だから、何かを語れるからといって、修行があり実証があるとは限らないのである。

仏経には、十信位の衆生は仏法を学んでからすでにいくつもの大劫が経っており、仏にも何尊にも出会っており、一つの無量数劫の学仏修行によっても、ようやく初地菩薩のレベルにまで修まる、とある。開悟明心した住位菩薩は、初地菩薩までまだ三分の二の修行の時劫があり、成仏の道の九分の一の道のりをすでに歩み終えたところで、これはすでに非常に長い長い時劫を修学してきたのであり、決して容易なことではない。このように、学仏修行は決して容易なことではなく、道業が一つのレベル進歩するごとに、費やさなければならない時間と精力は計り知れない。だから誰も油断してはならず、自分が理解しただけで何かの果位を成就したと思ってはならない。そんな簡単なことはない。もしその道のりを歩んでおらず、前の道のりも見えないなら、想像によって当然簡単だと思い、成仏は容易だと思うだろう。すでに成仏した人になって初めて、成仏というこの道が一体どういうものかを知るのであり、経験した事を語ってこそ信頼できるのである。

<h3 style="text-indent: 2em;">二十二、法を学ぶにはその所以を知らなければならない</h3>

課文を暗唱すると同時に、必ず課文の内包を理解しなければならない。然るを知るのみならず、その所以をも知らなければならない。学仏の過程はこうである。まず課文を読み、次に課文を暗唱し、続いて課文を理解し、それから肝心な点について課文の説く内包を証得し、さらにその後、知るところ証するところに依って実行する。こうすれば、すべての課文は自分のものとなり、学んで得たものではなく、今度からどこででも広く課文を説くことができ、それはすべて自分の心の中の課文を語っているのである。

学仏において、もし常に書物を暗唱し盲信するだけなら、道業はどうして進歩できようか。智慧はどうして増長できようか。せっかく人の身を得て、大乗了義法に出会ったのに、もし自分の頭脳をよく活用せず、深く細かに思惟し、実証を求めなければ、人の身を得たことが無駄になり、正真の仏法に出会ったことが無駄になる。数十年が過ぎても自分は依然として何者でもないのは、なんと惜しいことか。自分の正しくない如理でない学仏の方式をできる限り改めなければならない。他人のために宝を数えるのではなく、自分のポケットに宝を詰めなければならない。他人のために数えても役に立たず、結局自分は依然として一场空である。必ず定を修め、定の中で仏法を観行しなければならない。定を離れては理解も的を射ることができず、まして証得などできるはずがない。証得した智慧こそが究竟の智慧であり、自分のものとなる智慧である。理解したものは信頼できず、まして理解が的を射ていないのだからなおさらである。

三蔵十二部経をどれほど熟して暗唱できても、意根の薫習が成功していなければ、中陰身の中でこれらの知識も何の役にも立たない。理論知識はあくまで知識であり、自分が証得しておらず、自分の手の中に掌握していなければ、根本的に役に立たない。だから私は皆に常に定力と観行を強調するのであり、これは知識よりはるかに重要である。しかも果位のことは理論知識とは無関係であり、どれほど多くの仏法を暗唱できても、証得していなければ、果位はゼロである。仏法を証得した人は、それほど多くの理論知識はなくても、実際の証量がその果位の高低を決定するのである。

<h3 style="text-indent: 2em;">二十三、修道は苦行を離れることができない</h3>

現代人はみな苦を食べられないので、口実を設けて、苦行は道ではないと言う。苦行は確かに道ではないが、修道は苦行を離れることができない。これは一人の人間が種々の貪欲から脱する能力を持ち、貪欲の心と行がないことを表している。心が清浄なら修道は速い。釈迦仏の本生の修行の事跡を読めば知ることができる。釈迦仏は無量世にわたって苦修行をされ、半句の偈を求めるために身を捨てて羅刹に喂ったことさえある。諸仏菩薩は因地の修行において、いずれも苦行を主とし、いずれも貪欲を受用しなかった。今の世の中に至って、修行の風潮は逆転し、苦行は道ではないと変わり、みな一方で貪欲を享受しながら、一方で聖人の名誉と果位を追求しようとしている。魚と熊掌を兼ね得るであろうか。

ある人は貪欲が重く捨離できず、しかもこの心理を覆い隠そうとして、口実を設けて、菩薩は大福徳のある人であり、衆生に自分の福徳を示すことでこそ衆生を摂受できるのだ、と言う。だからこのような人たちは時時処処で享受を講じ、すでに成就したかのような振る舞いをする。もしそうなら、釈迦仏は当時福のない人だったのか。出家した後、福徳を享受する方法がなかったのか。十方の諸仏菩薩は修行の時、いずれも福のない人だったのか、修行の時福を享受できなかったからこそ、あのように福徳を珍惜したのか。西天の二十八祖、東土の六祖、過去の時代のすべての禅师大徳はいずれも福のない人だったのか、福徳を享受できなかったのか。

<h3 style="text-indent: 2em;">二十四、どの程度修まれば心を摂できるのか</h3>

肉を食べるか否かについて、この事を執着する必要はない、それは相を執しないことであり、心を摂して戒とすることが根本だ、と言う人がいる。しかし事実と結果、因果は、あなたが誰であろうと執着するかしないかによって左右されるものではなく、必ず現れるものであり、一方的な願いでは何の問題も解決できない。心を摂する本事があってこそ真に持戒できるのであり、心を摂する本事がなければ持戒できない。どんな人が心を摂でき、どの程度修まれば真に心を摂できるのか、これこそが鍵である。自分が心を摂できたと思えば摂できたのではなく、自分が相を執しないと思えば相を執しないのではない。その思い込みはあまりに不正確で、何の道理もない。相を執しないことができるためには、必ず相応の真理を証得しなければならず、さらに深い禅定がなければ、執しないことができず、相を破って心を摂することもできない。それ以外はすべて口頭禅にすぎない。

はっきりさせるべきは、どの程度修まれば心を摂できるのかということである。自分の胸に手を当てて問うてみよ、自分は心を摂できるのか。もしできるなら、どんな問題でも解決でき、ご飯を食べるか否かもどうでもよくなるはずである。もし肉を食べるか否かを執着することを相を執することだと言うなら、それは肉を食べるか否かを執着しない、つまり心がすでに相を執しなくなったということである。すでに相を執しないのなら、何を食べてもよいはずであり、もうこだわらず、白いご飯だけを食べればよく、あるいは漬物一枚の添えでもよく、肉のない生野菜を食べてもよく、何を食べてもよい。何を食べるかに執着しない人は、残飯や残り物でも何でも食べられるはずであり、腹を満たし、用功して道を弁じることができさえすればよく、その他は何も気にしない。真の不執着とはこのようなものであるべきで、肉を食べることを避ける必要はないというようなものではない。

<h3 style="text-indent: 2em;">二十五、修行は無我の心を修め出さなければならない</h3>

真の修行とは修心であり、修心とは自分の心地上に功夫を下すことであり、種々の我の心念を空ずること、心中の我を排出することであり、空ずるほどよく、我をできるだけ浄く排出し、ついに心中に我がなくなるまでである。外に向かって功夫を下して他人を修めるのではなく、他人や他の法を自分の我性に随順させることではない。修行の目的は、種々のレベルにおける無我に達することであり、無我であるほどよく、無我であるほど成就し、無我であるほど解脱し、無我であるほど自在であり、無我であるほど仏に近づき、最後に徹底的に無我となれば成仏する。そして心の中に衆生の利益を装い、仏教の利益を装い、自我の利益を装わないようにする。最後には、自分がやはりすべての利益を得ており、解脱の大利益を得たことに気づくであろう。この利益は無我の心、無我の行によって換えられたものであり、種々の小我の振る舞いによって得られたものではない。

それなら、毎朝目を開いてから、夜に心念が止息するまで、時時刻刻自分の内心を反観し、種々の思想や念頭を反観する。もし自分の心念がすべて我であり、我の種々の利益があると発見したなら、我があることの不利な要素を思惟し、自分を呵責し、自分を説得し、自分を収め、心中の我が氾濫して他人や他の法を侵犯し、我に順じて他を排することのないようにする。

心を嬰児のように単純で、純潔で、清潔で、清新で、剛ならず硬ならず、一糸の塵埃にも染まらないものにする。そうすれば身心は滋養され、純粋にして至柔となり、如来蔵 (tathāgatagarbha) が我々に脱胎換骨を与え、聖人の無我の素地が成型され、聖人が誕生し、それによって聖心が成就し、聖身が自在となる。こうしてこそ欲界の尊、色界の尊、無色界の尊となり、三界の尊となり、最極殊勝の果報を求めずして得、得ても着かず住せずである。

衆生を自分と一体と見なし、無我大悲の心を生じ、無我の心をもってすべての世界の苦難の衆生を救う。我々の未来には、この一事しかやるべきことがなく、世俗の事はなく、世俗の利益の争いはなく、種々の権勢や名誉地位の争いもなく、すべてが仏事・菩薩事であり、すべてが無我利他の事である。そうであるなら、我々はできるだけ今から始めるのがよく、聖賢になってから始めるのを待ってはならない。待っていては聖賢の果は来ない。

<h3 style="text-indent: 2em;">二十六、学仏人の精進は外道に負けてはならない</h3>

仏世の時に長爪梵志という外道がいた。彼は自分の甥である舎利弗と弁論するために、外道の数部の典籍を学ぶことを志し、学び通達しない限り爪を切らないと誓い、人々は彼を長爪梵志と呼んだ。一つの外道でさえ、世間で無意味な弁論のために、これほど功夫を下し、爪を切る時間もなく、長年爪を切らなかった。我々学仏人はどのように功夫を下しているのだろうか。毎日お茶を飲み、おしゃべりをし、街をぶらつき、掃除をし、食事をし、親族と団欒し、さらに養生のためにヨガや気功を練り、道友同士で無駄話をし、自慢をし、さらに十分な睡眠を取り、一日のうち、どれほどの時間を修道に使っているのだろうか。

世界に、外道たちほど修行に精進している学仏人がどれほどいるだろうか。おそらく非常に少ない。外道のように世間を見破り、世俗を放下して修道する学仏人がどれほどいるだろうか。おそらく非常に少ない。三人の中に必ず我が師あり、我々は本当に外道から多く学ぶべきであり、彼らの長所と優れた点、そして放下の精神と精進用功の精神、世俗を淡く見る精神を学ぶべきである。もし学仏人がこのような精神を持ち、しかも法義が正しければ、道を得ないようにするのが難しいほどである。

あのように功夫を下す外道は仏に出会えば得度し、戒行は清浄で、禅定は具足し、智慧もよく、適切な仏法に出会い、凝神一思すれば、証果する。それは真の証であって、解ではない。我々今の学仏人にそれができるだろうか。戒を守持できず、禅定を修め出せず、大乗法の集団の中でどれほど長く薫染されても、証悟の縁にすら触れられず、せいぜい解するくらいである。内道と外道の差はどれほど大きいのか。外道を軽んじる人もいるが、あのような外道なら、私がもし出会って教化するならどれほど楽であろうか。決して心を疲れさせることはなく、せいぜい彼らが大心を発できないだけである。学仏人が発する大心も、進んだり退いたりして、どれも頼りにならない。

<h3 style="text-indent: 2em;">二十七、菩提心を忘失して諸善法を修むるはすなわち魔業である、の意味</h3>

菩提心には二種ある。一つは先天的な不生不滅の菩提心であり、一切衆生・一切善法の所依止処となることができるもので、これは自性本心、有為でもあり無為でもある第八識を指す。もう一つは後天的に諸善法を修めることによって生じた、自度度他を望む菩提心であり、七識心が菩提自性に依止して発したもので、生滅性であり、有為から漸次無為に趨るものである。

衆生は最初に菩提心を発する時は、往々にして単純で純真である。しかし長い修道の過程の中で、自分の最初の発心を忘れてしまう可能性がある。諸善法を修めてはいても、その目的が純正でなくなり、私念や私欲が混じり、自性菩提と最初の発心に違背する。これらの私念と私欲は、目的が個人の利益に向かい、無私に仏教のため衆生のためではなく、自分の私利が仏教全体と衆生の利益より高くなることとして現れる。

そうすると、このような私心によって修行する衆生を度する善法には、魔の性質が含まれることになる。なぜなら魔王と魔民はいずれも強烈な貪欲を持ち、彼らは善事をしないわけではないが、善事をする目的が純粋でなく、利益が個人にあるので、結果は往々にして不善であり、善の表面の下に悪の実質が隠されているからである。だから、個人や小集団の利益を目的とする善業はすべて魔業である。

<h3 style="text-indent: 2em;">二十八、菩薩が三縛結を断除することは第一の要務である</h3>

菩薩は永遠に衆生を離れることができない。発心立志して成仏し無余涅槃に入らない限り、生生世世衆生と共にいることになる。菩薩は異なるレベルに分かれる。まず、我見を断していない菩薩は、衆生を離れたいと思っても不可能である。三縛結の綑縛により、三悪道は免れず、三悪道の衆生と分離できず、再び人中天上に戻っても、人天の衆生と分離できない。我見と三縛結を断してから地前の菩薩までは、どこへ行っても衆生と共にいて、衆生を離れることができない。地後の菩薩は十無尽願を発したことにより、願力の牽制を受けて、無余涅槃に入ることが不可能であり、それなら衆生と共にいなければならない。鍵は、各レベルの菩薩がどんな衆生と共にいるのがよいのかであり、この問題を必ずしっかり把握しなければならない。菩薩が発願するなら、どんな願を発するのが自分に適しているのか、よく考え、未来に後悔しないようにしなければならない。

それぞれの菩薩の第一の任務、首要の任務は、必ず三縛結を断除しなければならないことであり、しかも真に断除し、余結を残さないことである。それから初めて衆生を度することを語ることができ、相対的かつ随縁的に自分と相応する衆生を選ぶことができる。娑婆世界で衆生を度し、地球で衆生を度し、地球を離れず娑婆世界を離れないと発願しながら、自分の三縛結が断除されておらず、命終に結縛に随って三悪道へ行ってしまう。明らかに衆生を度すると発願したのに、自分自身すら度することができず、他の菩薩に度してもらう必要があるなら、何を衆生を度すると言おうか。学仏であれ、行善であれ、発願であれ、すべての事をするには相応の智慧が必要であり、一腔の熱血に頼ってはならず、衝動的に何かをしたいと思ったらすぐやるのではなく、結果を考えないのはいけない。

<h3 style="text-indent: 2em;">二十九、菩薩の十無尽願</h3>

諸仏は世に降って普く衆生を度し、八相成道を示現する。その内容をしっかり覚えておくこと。兜率天宮より降生、入胎、住胎、出生、出家、成道、転法輪、涅槃。だから仏は必ず出家者であり、僧数に属し、在家者ではない。仏は華厳経の中で菩薩に十無尽願を発するよう教えたが、そのうちの一つの願は、菩薩は必ず広大な神通を持たなければならないというもので、これは必修の内容である。神通がなければ、自分が成就できないだけでなく、衆生を度化することもできない。しかし神通は入地以後に修めるのが最もよく、開悟以後の修習も非常に無理があるので、それ以前は神通の修習は推奨されない。

菩薩の心量があまりに小さければ、このような広大な誓願を発することができず、たとえ発しても、実行することもできない。心量がどれほど大きければ、菩薩の事業もそれだけ大きい。我々一人一人の衆生が未来世にやるべきことは一つしかなく、それは自度と度人であり、生生世世すべてこの事であり、すべて仏事であり、三界世俗方面のいかなる追求もない。ならば我々は今から自分の心ができるだけ世間相に着かないよう訓練し、世間の個人の利益を追求せず、世間の生存利益のために人と争わないようにしなければならない。財色名食睡、色声香味触を含め、家親眷属を含め、一切一切、心の中で捨てられるものはできるだけ捨てる。そうすれば心は空浄広大となり、如来蔵 (tathāgatagarbha) のような程度まで広大になれば、終極に達する。

衆生界尽きなん、我が願乃ち尽く。衆生界は尽きるであろうか。いつ尽きるのか。仏経の中で、ある人が仏に問うた、衆生界は尽きるのか、衆生は度し尽くせるのか、と。仏は答えなかったようである。仏が知らず答えられないのではなく、衆生の数が実に辺際もなく数え切れないほど多いからである。それぞれの菩薩の任務は極めて繁重であり、成仏しても永遠に衆生を度する事業に忙しくするしかない。十方世界の芸芸衆生は無量無辺であり、仏も菩薩も仏法もない世界は実にあまりにも多く、それらの世界の衆生は非常に苦しんでおり、我々これらの菩薩たちが発心して度化するのを待っている。

我々が将来衆生を度する能力を持つ時には、すべてを衆生のために考量し、個人の私利のために互いに争ってはならない。菩薩たちがそれぞれの眷属の問題や名声地位の問題のために血みどろの争いをすれば、あの衆生たちはどうなるのか。往昔に発した菩提大願はどこへ行ったのか。我々は今できるだけ大願を発し、未来世にこそ菩提心を忘失しないようにし、すべては自分の道業を成就させ、衆生を成就させるためであり、世俗の利益のためではない。

衆生の善根福徳が熟していなければ、仏法に出会うことができない。我々はみなできるだけ衆生のために多く善根を植え付け、衆生の善根が一日も早く熟するようにしなければならない。もし衆生の善根が熟しておらず、福徳が欠けていれば、たとえ仏が目の前にいても役に立たない。もし衆生界が尽きて衆生がいなくなれば、仏は仏国土を何のために持つのか。仏が無数の仏国土を成就するのは、まさに衆生を度化するためである。衆生がいなくなれば、仏はまだ形を留めて住世するのか。それならもう形を留めることはなく、仏国土も役に立たなくなる。だから、未来の情景を見てみよ、我々は今何を争うことがあろうか。一切の法はすべて空であり、一時的に使えばそれでよく、執着する必要はない。

<h3 style="text-indent: 2em;">三十、合格した仏陀の弟子になる</h3>

学校で、合格した学生とは、必ず徳・智・体が全面的に発展した三好学生である。仏教において、仏陀の良い弟子とは、戒・定・慧が全面的に発展し、六度が具足した仏弟子であり、才能と心性が完璧に結合した修行人である。徳と才を兼ね備えた人は非常に得難い人材であり、非常に稀である。もし何らかの能力しかなく、心性が善でなく調柔でなければ、このような人は重用できない。もし心性が良善で能力が足りなければ、まだ無理に使うこともでき、育成できる。もし能力も心性もだめなら、断固として使ってはならない。

心性は無我に現れる。我見を断していない前には、我性の重い人もいれば、我性の軽い人もいる。我性が軽微な人はもちろん我性の重い人より我見を断しやすく、証果しやすい。常に他人を支配しようとする人は、我性の重い人である。人に管理されたくない人、指導者に服従したくない人も、我性の重い人であり、心性が調和せず、すべて我の心が祟っているのである。我性が軽微な人は、比較的気ままで、比較的温和で、いくつかの人事に対してどうでもよい態度を取り、自分の地位や権勢をあまり気にしない。一つの団体で問題が最も多いのは、この我性の重い人たちである。強力な指導者がいなければ、この団体はめちゃくちゃになってしまう。

一つの仏教団体には、必ず護法神が護持している。一人一人の心性を護法神はよく知っており、この人はどんな心性で、どんな目的があり、どんな役割を果たせるのか、護法神はすべてわかっている。だから一人の人が団体の中でどんな役割を担うべきかは、護法神が管理する。私心の重い人は団体に破壊的な作用を及ぼすことがあり、護法神は方法を考えてその人を追い出したり隔離したりする。

<h3 style="text-indent: 2em;">三十一、世間の無常を認識する</h3>

世界全体が絶えず生滅変異しており、最後にはすべて空無になってしまう。まして我々の小さな肉身はなおのこと単独では存在できず、変異はさらに速く、長く存することはできない。我々は毎日あのように自分と周囲の一切に執着しているが、本当に必要のないことである。

誰もが遅かれ早かれ消失し滅亡する。生命が存在しているうちに、生死の大事に目を向け、重要でない小事にこだわってはならない。飲食排泄などの事は重要ではなく、名聞利養などの事は重要ではなく、生活が豊かか否か、順心か否かも重要ではない。重要なのは、死んだ後にどうするか、来世にどうするかである。生命が終われば、この世の一切一切の遭遇は、すべて過ぎ去る雲煙となり、意味がなくなる。どんな激しい紛争も、人我是非もすべて煙のように消え散り、取るに足らなくなる。むしろ多くの時間をかけて、自分が未来世に持ち運べるものに心を用い、後世のための資糧を多く自分のために蓄えることである。持ち運べないものは、もう心思を費やす必要はない。

生活が順心自在で、家庭が和楽美満で、事業が成功し、名声権勢が増長し、それによって自分が心満足していると感じる時、それは貪愛が成功した時であり、迷いの時でもある。追求の方向が間違っていれば、重心を失う。いつの日かこれらすべてが消失した時、苦痛を感じ、喪失感に悵然とし、意気消沈し落胆するだろう。むしろ良い年華のうちに道業を追求し、得ずして一切を得、一切を得て得ず、内心は解脱自在でありながら解脱感がなく、自在感がない、これこそが極楽である。

<h3 style="text-indent: 2em;">三十二、世間は空であり貪愛は無用である</h3>

世界の大きさ、仏国土の大きさ、宇宙の大きさは、意識には想像もできない。我々はせいぜい蟻のようなものである。蟻の世界には何があるのか。蟻の生活に何が追求でき、計較でき、自慢できるのか。蟻の国に何が争いに値するのか。それぞれの蟻の五陰 (pañca-skandha) 身に何が執着し貪恋するに値するのか。

しかし仏が見た蟻の群れは、本当にあまりにも自分の五陰 (pañca-skandha) 身に執着している。七尊の仏が出世しても、蟻は依然として蟻の身である。これはまさに蟻の愚痴性の現れであり、執着性の現れである。我々は蟻と何が違うのか。無量の尊仏が出世しても、依然として六道衆生の身であり、あのように愚痴で執着し、あのように深重な無明がある。まだ恥じないのか。まだ自責しないのか。まだ慚愧の二つの善心所法を持たないのか。

智慧は一切に勝り、解脱は何よりも重要である。どれほどの艱辛を払って得るとしても値する。さもなければ、蟻のように永遠に愚痴で哀れなままでいながら、自分がどれほど偉大だと思っているのだろうか。

多くの人が学仏してこれほど長いのに、まだ山や水に興味を持ち、あちこち遊び回り、目の前の風景を貪愛し、貴重な時間を惜しんで修行することを知らない。蟻のような自分がどれほどの距離を歩けるのか知らない。一群の蟻がどれほど歩けても、昼夜休みなくても、一片の砂漠さえ歩き抜けられない。まして一つの国土を歩き出せるはずがない。我々はたとえ飛行機に乗っても、地球上の領空を離れることは難しい。むしろ自心を開き、眼界を広げ、大千世界全体を包容し、無窮の宇宙の奥義を探求し、自分を無所不知、無所不能にし、真の智者となり、仏陀のような能者となり、辺際もない心量と智慧徳能を所有することである。

学仏修行は、最後には一切の法がすべて空であることを証得することであり、空さえも空である。五蘊は空であり、十八界は空であり、我は空であり、万法は空であり、仏法も空であり、成仏も空であり、仏も空である。心中で一切の法、一切の相を空ずり、空という観念も空ずる。観世音菩薩の耳根円通法門で説かれるように、能空と所空の両方を空じ尽くし、空の法も留存しなければ、家に着いたのである。だから今から、自分を見空すること、自分に関係あるなしにかかわらず一切の人事物物理を見空することを訓練すべきであるが、それは非常に容易にはできない。

一般の衆生は順境では貪愛を起こし、逆境の中では容易に反省する。逆境が多すぎると瞋心が起こり、一部の人は自暴自棄になる。正常な修行環境とは、時には順境、時には逆境で、逆境が順境よりやや多いことである。このような環境の利点は、一つには業障を消除でき、もう一つは心地の覚醒を保ち、順境に迷わされにくく、道心が堅固になり、逆境と順境を次第に見空でき、執着性を除去するのが非常に速いことである。

<h3 style="text-indent: 2em;">三十三、貪欲が大きすぎると脱胎換骨できない</h3>

鯉が龍門を跳んで脱胎換骨し龍神となる前には、どれほどの勢いを蓄え、どれほどのエネルギーと大福徳を積み、どれほどの力度を持ってこそ、猛然と一躍し、瞬時に脱胎換骨できるのか。

多くの人はどれほどの力も蓄えておらず、どれほどの代償も払わずに、急いで跳ぶ。結果、跳んだのは龍門ではなく、龍族の一員にもなれず、依然として元のあの鯉である。あるいは鼻や顔を青く腫らしてぶつかり、身を毀ち形を喪っても、一片の龍の鱗さえ得られない。どんな貪欲も捨てようとしないのに、身を翻して聖人になろうと妄想する。これこそ現代人の最大の貪欲である。

多くの人が本当に形を毀って出家することを望まず、世間の貪欲を手放せず、口実を設けて、出家とは煩悩の家を出ることであり、僧衣を着るか否か、頭を剃るか否かにあるのではなく、心の出家こそ真の出家である、と言う。この口実はあまりにも堂々としており、自分が世俗の貪欲を手放せない心理を完全に覆い隠している。しかも出家の身分を持とうとするのは、実に大貪である。

<h3 style="text-indent: 2em;">三十四、修行人は反観自心に慣れるべきである</h3>

念頭そのものは識心の作用であり、心所法である。念頭を発見するとは、識心が心所法を発見することであり、これが反観である。聡明な人は皆反観に慣れているはずであり、それが反観であると自覚していないだけである。反観に慣れている人は自制力があり、自己省察し、自己督励し、自己管理し、自己成長でき、すべてが自動的で自覚的であり、人の監視や督励を必要としない。このような人は指導者に適しており、少なくとも人に率いられる必要はない。

学仏修行の人は、覚悟のある人であるべきであり、なおのこと時時自分を反観し、内心を返照し、日々三たび吾が身を省みるべきである。そうしてはじめて次第に過ちを改めて自ら新たにし、煩悩を降伏できる。もし自分を反観することに慣れていなければ、自分の身口意行の如法でない面を発見できず、自分を修正し、変え、向上させることもできない。そうなると、自分の心の中に仏の念が多いのか雑念が多いのか、はっきりわかるはずである。反観は力を要せず、鍵は習慣にあり、良い習慣を養えば、道理の通り自然の成り行きとなる。

<h3 style="text-indent: 2em;">三十五、なぜ忍辱を修めるのか</h3>

菩薩の六度の中で、その一つが忍辱度である。忍辱を修めるのは何のためか。心念を降伏するためだと言う人もいれば、瞋心を降伏するためだと言う人もいる。相を破るためだと言う人もいれば、福を積み業を消し自我を調伏するためだと言う人もいる。相を離れて心を無所住させるためだと言う人もいれば、恒に衆生に順ずるためだと言う人もいる。慈悲心を長養するためだと言う人もいれば、般若 (prajñā) 智慧を開導引発するためだと言う人もいる。他の我を辱めるを忍び、無我の行を修めるためだと言う人もいれば、四相を破除するためだと言う人もいる。これらの説法はすべて正しい。総合して言えば、全面的になる。

<h3 style="text-indent: 2em;">三十六、広博と専精を結合してはじめて成就がある</h3>

誰もが修行のある重要な時点に達すると、障縁が現れる。これはまさに修行が得力した結果である。さらに修行を続ければ、障縁は褪せていく。修行が得力していない時には、一般に障縁は現れない。だから挫折に出会っても自分を疑ってはならず、勇往邁進すべきである。

修行の次第は、まず広博、後に専精である。ひたすら広博だけなら、意識の知識の蓄積にすぎず、解脱とは無関係である。参禅実証すべき時には、すべての経書を放下し、専心参禅しなければならない。この時に再び経書を読むことを重視すれば、道を障げることになる。過去の禅宗の祖師は、参禅する弟子が経書を読むのを見ると、制止して呵責したものだ。今は弟子に何かを言う人はおらず、人の広学多聞を阻止することもせず、師匠に帽子をかぶせられるのを恐れている。七八十歳まで修めても、まだ心が広学多聞にある人もいるが、私も何も言えない。自分の生死は自分が決めることである。現代人の最大の特徴は、知識学問を好み、解脱を好まないことである。

<h3 style="text-indent: 2em;">三十七、仏法は俗に背く</h3>

仏法を思念する心念を心中の主念にしたいなら、もちろん仏法を重んじ、その他の世俗の人事物を要とせず、すべての心思、あるいは大部分の心思を仏法に置き、できるだけ他に顧みないようにしなければならない。自分を低く低く置き、自我の五陰 (pañca-skandha) 身を何の取り柄もない、一芸もないものと見なし、人の中にいて、自分が少し愚かに見えるようにすれば、その他には何の印象も残らない。外に向かって自分がどれほど有能かを誇示誇耀してはならない。文学芸術の教養があり、琴棋書画ができ、歌と舞が得意で、文章が隽永で、美工編集が上手で、詩詞歌賦に長け、権謀術数に長け、販売企画に長け、某某の権貴であり、一表の人才であり、随一である、などなど、これらをすべて脇に放り出し、自分が誰であるかを忘れ、一日中仏法以外には、ただぼんやりとし、生きた死人となり、生きていさえすればよく、世間には何一つ愛着がない。そうすれば心念はすべて仏法となり、主念が明確になり、道を了することを憂えることは絶対にない。世俗の念頭を打ち殺してこそ、汝に出世の法身の活きたるを許すのである。

一般の人にはできない。仏法とは俗を離れ俗に背くものであり、どうしようもない。一方で世俗を享受しながら、一方で仏法の証量も持ちたい、魚と熊掌を兼ね得るというのは不可能であり、まず出世してからでなければ入世できない。

学仏修行は無相の法を学ぶのであり、心は次第に有相の世俗法から離脱しなければならない。心が俗を離れ相を離れてこそ、次第に清浄 (viśuddha/pariśuddha) 無為となり、出世間の無為法と相応する。もし世俗の最も普通の祝日でさえも気にして流れに随うなら、心は世俗と固く結びついており、いくらか淡く見なければ、どうして解脱を得られようか。修行人は最後にはすべて凡を超え俗を脱しなければならない。だから我々は世俗法とあまりに粘着してはならず、世俗界に深く陥って自ら抜け出すことを知らなければ、道に背いて馳せ、いつ解脱の大道を歩めるのか。

<h3 style="text-indent: 2em;">三十八、大智慧者の心量</h3>

我々が問題を考える時、思路はできるだけ開くべきであり、固定した型にはまってはならない。繰り返し自分の観点を思惟検証し、正方向から検証した後、さらに反方向から検証し、いかなる面においても検証して誤りがなければ、ようやく自分を信じてもよいが、それでも正しいとは限らない。なぜなら大智慧は夙世の善根と連なり、つまり与众不同の大智者になるためには、必ず夙慧を持っていなければならず、ある世に理由なく突然大智慧が出生することはないからである。夙骨夙慧眼のある人は、権威を崇拝せず、名声を崇拝せず、印刷された文字に拘泥せず、必ずこれらの枠組みの限定を飛び越え、頭角を現すことができる。

権威崇拝をやめてこそ、心量を開くことができる。心量が開かれた後、視野もそれに伴って開け、見るところは広阔となり、既知の固有的な理論に限定されず、その思惟智慧はこそ独特で深利広大となり、こうしてこそ実相に触証し、本有の事実を発見できる。智慧は心量に伴って進む。心がどれほど大きければ、智慧もそれだけ広大であり、心が如来蔵 (tathāgatagarbha) のように空であればこそ、智慧はますます如来蔵 (tathāgatagarbha) に近づき、成仏に期がある。

<h3 style="text-indent: 2em;">三十九、修行の課目</h3>

念仏 (buddhānusmṛti) 拝仏は、一つには福を修め、二つには定を修める。身体で仏を拝み、慢心を折り伏せること、これが功があるということである。定を修めるには、数量ではなく質量だけを求める。質量とは心が一境に住し、散せず乱れないことである。それにはゆっくり念じ、心で念じ、心で聞き、心で想い、心で憶う。ゆっくり拝み、身体は徐々に、心念は集中し、あるいは身体の動作に注意し、あるいは仏を想い仏を憶い、身心一如とする。気息は平緩で、あるようでないようであり、心念は一に化し、念念忘れず。日が経つにつれ自然に功成り、話頭を参究し、自心如来を参究する能力が得られる。

毎月、自分の菩薩六度の修行の程度をチェックしなければならない。布施 (dāna) 度はどれほど修めたか。貪心と吝嗇心をどれほど捨てたか。自分の銭財物に執着する心は緩んだか。人に対していくらか大度になったか。戒律の修持はどうか、無理に戒を守っているのか、戒は一種の束縛だと感じるのか、それとも自覚的に戒を守り束縛と感じないのか、あるいは戒を守る必要もなく、犯戒の心が根本にないのか。後者は心がすでに降伏を得ており、外境に着かず、内心世界に回帰したということである。

忍辱度の面では、一切の人事物に対して容忍できるようになったか、争いを起こさず、内心は淡泊で、自分の意に合わない人・事・物に対しても、どうでもよいと思えるようになったか。特に法について、わからない深法を、受け入れ、安忍し、その内包をゆっくり揣摩できるか。

精進の面では、心の中の世俗法が次第に減っているか、仏法への憧れと修持への希求がますます強くなっているか。布施 (dāna)、持戒、修定、修慧の面で、積極的で努力しているか。

修定の面では、自分の心が沈殿したか、攀縁や散乱が減ったか。一つの義理を思惟する時、長時間持続できるか。修めている法に対して、決定性の信心があり、念念忘れないか。

修慧の面では、成仏の道のために修めるべき内容をすべて了解しているか、一つ一つのステップをすべて了解しているか。明心見性の内容を了解しているか。解脱の理を明らかにしているか。真如の理をますます多く了解しているか。如来蔵 (tathāgatagarbha) の体性がますますはっきりしているか、など。

<h3 style="text-indent: 2em;">四十、定を修める方法</h3>

定を修めることも我々が毎日必ずやるべき課目である。定を修めることで、身体は健康になり、精神は愉快になり、身心は統一され、意根の攀縁が減り、エネルギーが外に放出されず、心思が集中し、定力が増強され、智慧が開発される。エネルギーが外に放出されるのは、面積の大きい木板を地面に置いて強く押し下げるようなもので、地面にはごく浅い痕跡しか残らない。エネルギーを集中すれば、錐子が一点だけを突き刺すようなもので、錐の先は深く地に入る。我々の心識も同様であり、集中するほど、甚深の法理を思惟でき、心は散乱せず、しかも思惟の程度は非常に深く徹底し、それによって正しい結論を導き出し、智慧の潜在能力を開発する。

定の修習には二種ある。一つは静定であり、身口意がともに動かず、身心を収摂し、口を閉じて語らず、心は乱に想わず、気は全身を運行通達し、身障を排除し、身は軽く気は爽やかで、神は寧ろ心は定まり、精力は充実し、身体は健壮である。二つ目は動中定であり、身心は毎日大部分の時間が活動・運動の中にあるので、それをよく利用すべきであり、自分を放逸させてはならず、心識の攀縁が絶えず、貴重な時光を浪費してはならない。活動の中で、現在やらなければならないことをうまくやるだけでなく、同時に心念も正念に縁じなければならない。正念とは、念仏 (buddhānusmṛti)、念法、念僧、念戒、念経、念呪、一つの義理を参究する、一つの話頭を参究する、一つの公案を参究するなどである。最初は念仏 (buddhānusmṛti) から始め、心で仏を念じ、心で仏を想い、心で仏を憶う。行住坐臥、念念仏と打成一片し、定力が具足すれば、参究に改める。それなら、毎日自分に課目を定め、座って一時間以上定を修め、坐中で一時間以上思惟する。その他の時間は、すべて念仏 (buddhānusmṛti) あるいは念呪し、心識を変え、外法に縁じないようにする。

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