仏法雑談(第一部)
私たちの眼界は限られていて、地球を見ることはできない。地球が見えなくても、自分自身が地球の上に足を踏みしめ、地球の上で生活し、地球の支えと養いに依っていることを知っている。この知は現量の直接的認知なのか、それとも理上の認知なのか。間違いなく理上の認知である。この理が明らかであれば、私たちがまさに地球の上にいると判断できるからである。仏が説かれた多くの道理も同様で、当下では証得し難いが、累世の善根によって、択法眼を備えるまで修めたなら、如理の思惟判断を通して、仏法が正しいこと、それに依れば解脱を得られ、仏道を成就できることを知ることができる。
たとえば阿羅漢たちはまだ涅槃に入っていないが、学法と思惟を通して、我執を断じ、三界の貪愛を断じ尽くせば解脱を得られることを了知でき、心の中でもこの方法が解脱して涅槃に入れると確信している。まだ入ってはいないが、涅槃に入った時に初めてこの修行方法が涅槃に入れることを知る必要はない。これは仏の説かれた理から思惟判断し、正しい結論を導き出すのである。多くのことは、自分で身をもって経験しなくても、有と無、正と誤を知ることができ、智慧による認知をもってすれば、多くの道理が明らかになる。智慧がなければ、身をもって経験してもその所以を知ることができない。諸道友に勧めるが、自分の知らない事理について、軽々に「違う、正しくない、ない、誤りだ」と言ってはならない。常に自分の智慧がどの程度に達しているかを量り、正しい思惟・推理・判断ができるかどうかを考えなければならない。あなたが導き出した結論は必ずしも正しいとは限らず、特に仏の説かれた法について判断を誤れば、それは誹謗であり、仏と法を誹謗すれば、その後果は非常に深刻である。
<h3 style="text-indent: 2em;">二、法を説く者の着眼点は重要である</h3>法を説くことは衆生の根機に応じるだけでなく、衆生の根機を超えて、衆生の根機を導き高めるべきである。衆生の根機は千差万別であり、低く浅い次元の法だけを説くことはできず、深い法、さらに深い法もすべて説き出すべきである。説き出すことは必ずしも現前の衆生のためだけではなく、後世の衆生のため、大根器者のためにも説くのである。根器が足りない者は、聞いて終わり、理解できなければ疑いとして保留するが、軽々に結論を下してはならない。
私が法を説くとき、まず布石を打たなければならない。三六九等の衆生すべてに配慮し、今世と後世にも配慮し、さらに全体としての仏教の発展を主に考慮するため、すべての衆生の具体的な状況に完全に配慮することはできず、当然、一部の人、あるいは多くの人が相応しないこともあるが、これは正常な現象である。仏が在世していた時でさえ、説かれたすべての法がすべての衆生の根機に適応していたわけではない。すべてのことは仏が自ずと手配される。釈迦仏は娑婆世界の仏法に対して全体的・総合的な手配をなし、背後で督励しておられる。私たちは知らないが、ただ安住していればよい。当面は自分に相応する法を吸収し、深い法は当面は脇に置いて構わない。
世尊が娑婆世界で成道されたばかりの頃、大心菩薩の衆生のために華厳経を説かれた。無量の諸天の大衆および人中の弟子たち、特に声聞の弟子たちは、聾の如く唖の如くであった。世尊はすべてご存知であったが、それでも華厳経を説かれ、娑婆世界の仏法全体の布石を打ち、成仏への道を明確に説かれた。それによって弟子たちは初めて仏法修行全体の次第を明確にし、心中に数を得ることができた。華厳経を説き終えてから、世尊は初めて弟子たちに最も粗浅な仏法を教え、大衆を率いて四阿含経を修行し、断我見して初果を証することから始められた。
<h3 style="text-indent: 2em;">三、自分に目盛りがない、あるいは物差しが短すぎる場合、他人や他の物を測定できるか</h3>世間法において裁判官を務めるには、その裁判する内容を通達し了知していなければならない。つまりその道に通じていなければならない。たとえばある大学教授の教学の水準を評価するには、自分の学識の程度がその大学教授より高いか、少なくとも同等でなければならず、ある大学生の論文の水準を評価するには、大学教師でなければならない。仏法の修証において、ある人が悟っているかどうか、見性しているかどうかを判断するには、自分がまず明心見性の人でなければならない。その道を歩み、その道に精通してこそ、他人の歩む道が正しいかどうかを知ることができ、他人がどの位置まで来ているかも知ることができる。
仏法に対する判断には、最低限の要求として択法眼が必要であり、望ましいのは主要な仏法に対してあまり多くの疑惑がなくなっていることであり、さらに望ましいのはその法を証得していることであり、そうして初めて比較的正確な判断ができる。この程度まで修めた人は非常に少ない。他人が証果したかどうかを判断するには、まず自分が証果していなければならない。初果を証して初めて疑いを断つことができる。自分が証果したかどうかを疑わず、師が証果したかどうかを疑わず、法が衆生に我見と我執を断たせられるかどうかを疑わない。さもなければ他人を判断することはできず、自分にまだ目盛りがないときは、他の物を測定することはできないのである。
<h3 style="text-indent: 2em;">四、いつまで修めば不分别ができるようになるのか</h3>衆生の七つの識の存在は、まさに分别の働きをするものである。もし不分别になろうとすれば、識心を滅したときには分别できなくなる。じょうに入った後は分别が軽微になるが、知性があり、知る対象と結果がある限り、分别は完成している。一般の人が言う不分别とは、善悪好悪、あなた・私・彼・彼女に対して分别して扱わず、一視同仁にすることである。しかし一視同仁もまた分别であり、さもなければ一視同仁にはならない。心の中で皆が平等だと感じてこそ一視同仁にできるのであり、覚があり視があることこそまさに分别であり、一視同仁は分别の結果であり、また過程でもある。
仏の平等性智は、一切の衆生を平等に扱い、善悪を分けず、因縁が成熟しさえすれば、教導し度化しに行く。仏陀は「私は善人だけを度し、悪人は度さない」と言うことはなく、善人だけを憐れみ、悪人を憐れまないということもない。むしろ逆かもしれない。仏陀は悪人をさらに憐れむかもしれない。彼らがより多くの苦受を受けることを恐れるため、悪人を度化することにいっそう心を砕き、彼らが度化される因縁がいつ成熟するかを観察される。これは仏陀の大悲心・平等性智のなせる業である。仏陀は私たちのように、善人善者だけを関心し同情し憐れみ、悪人悪者を憎むということはない。仏陀にはこの分别心がなく、仏陀は衆生に対してすべて一視同仁である。しかも往々にして衆生の仏性だけを見られる。衆生の仏性は平等であるため、仏陀は衆生を一律に平等に見られるのである。
<h3 style="text-indent: 2em;">五、仏が在世していた時、人が仏法を問うたのに、仏はなぜ答えなかったのか</h3>ある種の問題は、衆生の智慧が足りないとき、世尊がどのように説かれても衆生には理解できず、世尊は宣説されない。説いても意味がなく、かえって衆生の迷いを増やすからである。そこで世尊は宣説されない。たとえば外道が世尊に問題を問うたとき、世尊はその根機がこの問題の答えを理解できないと観じて、「あなたのこの問いは無記 (avyākṛta) である」と言い、回答しなかった。また、弟子が世間の最初の興起、第一尊の仏がどのように修成したのか、最後の仏には度すべき衆生がいないのにどうやって成仏するのかなどを問うたが、これらの問題には世尊はいずれも回答されなかった。
仏法は浩瀚無辺であり、世尊は娑婆世界でほんの少ししか説かれなかった。その他のものはこの世界の衆生の修学に適しておらず、衆生の受け入れる能力は実に限られていて、理解できないものは誹謗する。それゆえ、無量無数の仏法を、世尊が説きたくないのではなく、衆生自身の業障があまりに重く、福徳があまりに薄く、智慧があまりに浅いのである。私たちは自分の業障をよく懺悔すべきであり、当面理解できない道理について評論したり断言したりせず、誹謗の業行を造作して未来世に悪い果報を受けるのを避けるべきである。
<h3 style="text-indent: 2em;">六、衆生の心が邪であれば仏法は毒薬に変わる</h3>甘露を毒のある杯に注げば、たちまち毒薬に変わる。器が清浄 (viśuddha/pariśuddha) でないからである。仏法の甘露が衆生の心に入っても、衆生は邪解を生じる。智が清浄でないからである。邪見 (mithyā-dṛṣṭi) の種子は衆生の八識田の中にあり、縁に出会えばたちまち邪解を生じる。甘露の法相は衆生の識心に歪められ、変じて現れる内相分はもはや甘露ではなく、識心が歪められた内相分に触れると邪見が生じ、邪見の種子が再び八識田に植え込まれ、将来開くのはやはり邪見の花であり、結ぶのは邪見の実である。哀しまざるを得ない!意根の染汚性を剔除することは、学仏人の急務である。このためには、意識心が常に正しく正しい法理を思惟し、常に意根を薫染し、いつの日か意根の邪見が転変した後、修行は正しい道を歩むことができるようになる。
<h3 style="text-indent: 2em;">七、心が境に随って転じる原因</h3>外の境界は内心に影響を与え、波瀾を生じさせることができる。一つの原因は定力が足りないことであり、もう一つの原因は智慧が不足し、直面している境界を正しく如理に認知・分析できないことである。人が最も好むのは自分の心に随順することであり、この心が善であれ悪であれ、我に順えば喜び、我に逆らえば苦を覚える。人があまりに内心の感受を重視するため、往々にして人や物事への判断が正確でなくなる。同じ人でも、ある時はとても良いと感じ、ある時はとても悪いと感じる。これは完全に自心の感受から出発しており、客観的で公正な角度から出発したものではない。これは私たちの心識の虚妄性、境界の虚妄性を物語っている。それらは常に絶えず変化する状態にあり、永遠不変ではない。それは真実の法ではなく、頼りにならない法であり、私たちはこれらのものに完全に依存してはならない。さもなければ、これらのものが滅去したとき、どうしてよいかわからなくなるであろう。
<h3 style="text-indent: 2em;">八、四大不調にはどのような症状があるのか</h3>四大が不調であれば百病皆生じ、色身の病気はすべて四大不調によって引き起こされる。四大不調の原因は、一つには業障 (kleśāvaraṇa) によるものであり、一つには後天的な環境によるものである。四大が不調和であるとは、四大の種子の成分が変わったことであり、身体はそれに伴って変化し、さまざまな病気が現れる。単一の大の不調でも、それに相応する病気を引き起こす。たとえば水大の不調では、身体の中の水は多すぎるか少なすぎるかであり、水の成分は多かれ少なかれ、病気を引き起こす。浮腫、皮膚の乾燥、腎臓病、湿疹、皮膚炎、血液の粘稠、心脳血管病など、これらの水に関係する病気である。
風大の不調は、風に関係する病気を引き起こす。呼吸器系の病気、風疹、リウマチなどである。火大の不調は、火に関係する病気を引き起こす。身体の冷熱の病、寒涼の病、高熱、微熱などである。地大の不調は、地の堅硬性と支持性に関係する病気を引き起こす。カルシウム不足、四肢の無力、体の虚弱、身体の屈曲・猫背、全身の痛みなどである。一大の不調でも百病が叢生するのに、まして四大がすべて不調であれば、なおさら病障が幾重にも重なる。総じて言えば、すべて衆生が無始劫に造った業が感召した果報であり、ごく少数の場合は偶然外界の環境が変化して身体が一時的に適応できなくなったことであり、多数は業障の病である。
業障の病であれ、偶然の環境不適応が引き起こしたものであれ、その変化はすべて如来蔵 (tathāgatagarbha) のなせる業である。四大の種子が如来蔵から輸送され、その中の比率・成分が変われば、物質の色身は相応の変化を生じる。四大の種子の成分の変化は、如来蔵が主宰して決定する。如来蔵は何に依って主宰し、四大の種子の出力の変化を決定するのか。一つは業種に依ることである。如来蔵は業種を了別でき、神様の運行は必ず業種に依って行われる。もう一つは色身が触れる環境に依ることである。如来蔵は身根と器世間の環境を了別できるため、如来蔵はこれに依って、絶えず環境と身根に随順して四大の種子の構造を変える。こうして身体は絶えずさまざまな変化の中にある。すべての衆生の色身はこのように刹那刹那に変化しており、変化しないものはなく、すべて自分の如来蔵のなせる業である。
<h3 style="text-indent: 2em;">九、仏法への執著は果たして良いのか悪いのか</h3>執著について言えば、自我の五陰 (pañca-skandha) に対する執著は、四果阿羅漢以前なら誰にでもある。仏法に対する執著は、大乗の無学 (aśaikṣa) まで修めていない菩薩なら誰にでもある。法執を滅して初めて成仏するのであり、八地菩薩は修行が無心無為に達していても、仏法の修証にはまだ多くの法を修行すべきものがあり、法執を断じ尽くしてはいない。
仏法は霊丹妙薬であり、衆生が苦海を脱する指路の明灯であり、摩尼珠であり、大宝聚であり、生死海の中の航船であり、命綱であり、良い言葉はすべて仏法に用いることができる。各々の仏経の中ですでに多く、よく、明確に説かれており、極めて多くの譬喩もある。仏法はまさに河を渡る船であり、岸に着いて初めて船を棄てられる。衆生は生死海の中を漂泊しており、もし船をしっかりと掴んでいなければ、海に落ちて溺れ死んでしまう。得道していない凡夫の衆生はなおさら仏法を掴み、自分の命を救い、離苦得楽を期すべきである。
凡夫人の大多数は仏法を執著しておらず、仏法を執著する人は少なく、非常に少ない。もし仏法を執著できれば、自我を執著し世俗法を執著して生死輪回を絶えなくさせることはなくなる。仏法を執著することは良いことであり、すべてを学んで通達し、貫通してから、法執を断じ尽くせば、彼岸に登ることができる。もしまだ生死の凡夫であるのに仏法を執著しなければ、必ず世俗法を執著することになり、仏法の修行において懈怠となる。身体が懈怠し心も懈怠している人は、必ず仏法を執著しておらず、修めるか否かもどうでもよく、何を修めるかもどうでもよく、どのように修めるかもどうでもよいのであり、疑いなくそうである。
最初に学仏修行する際、仏法を執著できることは多くの益がある。仏法を貪ることは善い貪であり、受益を得ることができ、自我と世俗への執著を仏法の中へと転移させることができる。五陰の自我への貪、世俗の五欲六塵への貪を転じ、仏法を執著し仏法を貪れば、心地は解脱を得ることができる。仏法が通達し貫通した後、さらに一歩一歩仏法への貪と執著を取り去って、初めて仏道を成就できるのである。
<h3 style="text-indent: 2em;">十、自心を征服すれば世界を征服したことになる</h3>世界は虚空中に建立され、虚空は如来蔵の中にある。片雲の太清裏を点ずるが如しである。娑婆と極楽世界は最も近くても、なお十万の仏国土を隔てている。大千沙界はなんと広大であろうか。自心を征服すれば、宇宙を征服し、十方世界を征服し、一真法界を征服したことになる。心を掏り出し、その中の法をすべて明らかにすれば、無量の世界はあなたのものとなる。実際には世界を征服することは自心を征服することであり、心外に本来法はないのである。
私たちは毎日まだ小さな世俗法を執著し、些細なことで起心動念しており、あまりにも渺小に見える。宇宙虚空の中に立って観察すれば、世間のどんなことが事と言えるだろうか。いつの日か自分の心量を如来蔵と同じように拡大したとき、そのとき十方世界海を所有することになる。仏は説かれた:「譬如澄清百千大海棄之。唯認一浮沤体。目為全潮。窮盡瀛渤。汝等即是迷中倍人。」仏の説かれたこの言葉を聞いて、私たちは本当に早く目を覚ますべきであり、これ以上迷執してはならない。
<h3 style="text-indent: 2em;">十一、小乗の論著には円満でないところがある</h3>小乗の修行はやはり仏の説かれた阿含経、特に雑阿含経を基準とすべきであり、その他の人の論著には多かれ少なかれ正しくないところがあり、その細部は仏の説と一致しない。四果阿羅漢が著した論著でさえ仏の説と出入りがあり、すべてを信受してはならない。
小乗のそれら論著の中の誤りと論争は、古代の唯識の論争より多い。それほど簡単な法でも、争い合い、意見が一致しない。仏法の修行が決して容易でないことがわかる。小乗の解脱道の修行の次元が比較的低いため、書を著し論を著す人が多く、内容も比較的雑然としており、各説各説のものも少なくない。これはすべて娑婆世界の衆生の業が感召したものであり、他の世界にはこのような状況はない。
仏経の中で、初果の後、初禅定を修め出して初めて、次第に貪瞋痴などの煩悩を断除でき、その後になって初めて慧解脱の阿羅漢となれると説かれている。しかし小乗のそれら論著には、慧解脱の阿羅漢は初禅を必要とせず、未到地定 (anāgamya-samādhi) も必要としないとある。少しも禅定を修めずに煩悩を断除し、四果となれるというのは、天方夜譚である。
私たちが今世精進して修行し、基礎を固め、何らかの成就を得なければ、後世の仏法はさらに乱れ、孰是孰非を判別することがほとんどできなくなり、容易に魔王の設けた坑に落ちて出られなくなる。魔王の手は非常に多く、防ぎきれない。だから私たちはやはり三宝に帰依することを発願し、仏力の救護に依り、解脱の正しい道を歩むべきである。この世間は至る所が魔障であり、福徳が少しでも劣れば障害され、自分では知らず、知っても解脱する力がない。多く福徳を修め、定力を増強し、業障を降伏することが最も肝要である。そのとき、業障が現前しても、突破して抜け出る能力がある。
<h3 style="text-indent: 2em;">十二、定力が劣れば心は粗い</h3>中国の漢字の含意について、私たちは多く思惟・分析・研究を加えてこそ、その中の真実義を明らかにすることができる。文字に障害のない人は、容易に仏法を正しく理解でき、智慧が絶えず生じることができる。文字障のある人は、一段の文字を見ても、その実質的意義を真に理解できず、往々にして誤解し、智慧が高められない。衆生同士の交わりの中で、言語文字に障害があれば、互いに理解し意思疎通できず、交わりが苦悩と無力感に満ちる。人の意をよく解する人は、いずれも言語文字の障害が少なく、他人の心理を見抜くことに長け、人と意思疎通しやすく、人との交わりの障害が少ない。
人それぞれの文字の理解の程度には大きな差がある。ある人がなぜ文字の理解の程度が低いのか。心が粗く細緻でなく、定力が欠け、智慧がなく、福徳が不足している。これが最も主要な問題の所在である。文字の中に明らかにその意味がないのに、ある人が理解するとその意味があるとし、立ち止まって自分を省みることを肯んじず、回光返照することを肯んじない。多くの人は他人だけを照らし、自分を照らさない。それは我が重いことの表れである。そして自分の理解が正しいと思い込み、躊躇なく他人を否定し、他人と弁論する。この衝動性こそまさに禅定を欠いていることの表れであり、智慧がなく、自分を反観できず、自分と他人を正しく評価できないことの結果である。聡明な人は、心が非常に細緻な人であり、他人を如実に観察できるだけでなく、自分を真実に反観することもできる。観察力と反観力 (pratyavekṣā-bala) がないことは、定力が劣り、智慧が足りないことを示している。
<h3 style="text-indent: 2em;">十三、各仏国土の中の時間は等しくない</h3>阿含経の中の起世因縁経に、一大劫には四つの中劫があり、一つの中劫には二十の小劫があり、一つの小劫は1680万年であると説かれている。地球の成住壊空の一周期は80×1680万年であり、これが極楽世界の一日である。極楽世界の一大劫は他の世界の一日に等しく、他の世界の一大劫はまた別の世界の一日に等しく、このように絶えず続いていく。各仏国土の時間はいずれも同じではない。
顕無辺浄土功徳経の中で、十方世界の諸仏国土の中で、娑婆世界の劫が最も短く、この国土での修行が最も速やかであると説かれている。娑婆世界の成住壊空の一周期、すなわち一大劫は、極楽世界ではわずか一日である。一日の時間と一劫の時間を比べれば、後者が修める内容は極めて多く、道業の進歩は他の世界と比べて非常に速い。各世界での修行には利と弊がある。苦しい世界は劫が短く、修めるのが速い。楽しい世界は非常に享受に満ちているが、劫が長く、修行は相対的に遅い。
<h3 style="text-indent: 2em;">十四、修行の中の磨難は避けられない</h3>学仏修行する人は誰もがさまざまな磨難を経験する。これは必然である。無始劫以来の業力と抗衡することは相当容易でなく、菩薩の再來であっても同様であり、逆縁が多すぎる。修行は逆水行舟の如く、大風大浪の中で闘う勇気と強靭な毅力が必要であり、菩薩の大願があってこそ、風浪に打ち倒されずに済む。
道高一尺、魔高一丈。向上の心さえあれば、必ず磨難を受け、修行に明らかな進功があれば、必ず業障 (kleśāvaraṇa) が現前する。自分の道心と勇猛精進心は不可思議であり、仏力も同じく不可思議である。長遠の精進心を発しさえすれば、必ず仏力の護佑があり、魔障は私たちにどうすることもできない。この点を信じれば、万難を克服できる。人は遠慮なければ必ず近憂あり。私たちはただ眼光を長くし、未来に着眼すれば、足元の道は歩み出しやすく、目の前の難関も克服しやすい。
<h3 style="text-indent: 2em;">十五、智慧のない判断はすべて誤判である</h3>真の正信には、現量観察の智慧がなければならない。さもなければ信は难免ず偏信と盲信に流れる。たとえ仏経であっても、真に智慧のある人は疑いを抱き、実際に証験する方法を考えるべきであり、まして仏の説かれたものでなければなおさらである。
ネット上には多くの人がいて、六祖は仏の再來であり、説かれた法には仏の証量があり、六祖はすでに仏に修成したと言っている。私はこれらの人が何を根拠に六祖をこのように断定しているのか、本当に知らない。ある人を大学教授のレベルと認定するには、その大学教授より水準が高くなければならず、少なくとも水準が同等であってこそ、相手に認証を与えられる。今や末法の衆生は皆すでに仏に修成したかのように見え、それから仏の智慧で六祖がすでに成仏し、仏の智慧証量を備えていると認証している。六祖壇経は薄い一冊の小冊子であり、これらの人の中で一人として読み解ける者はいないと推測される。さもなければ、誰がこのような断定を下す勇気を持てようか。
<h3 style="text-indent: 2em;">十六、心を了してこそ業を了することができる</h3>衆生の業はやはり衆生自身が了しなければならず、主に心を了することである。心が業を了してこそ業は了する。心を了することは、仏力の加持だけでは足りず、自分が能動的に配合し、自心を変え、無明を破除してこそ、業を了することができる。もし殺人の業があって、仏菩薩が代わって了してくれても、殺心がまだあれば、将来また悪業を造り、それで何の業を了したことになるのか。貧窮の業、誰が代わって了してくれるのか。福徳は個人が修めるものであり、他人は代わりに修められない。禅定は自分で修めるものであり、他人は代わりに修められない。戒律は自分が守るものであり、他人は代わりに守ってくれない。明心は自分で明らかにするものであり、他人は代わりに明心見性させてくれない。仏は自分で修めて成るものであり、他人は代わりに成仏させてくれない。
<h3 style="text-indent: 2em;">十七、どんな人が随縁できるのか</h3>凡夫がもし随縁すれば、毎日毎年毎生毎世、どんな縁が多いかで、随縁はどこまで随えるのか。随縁不変、不変随縁は、第八識だけが完全にできることである。地前の菩薩はできず、不変であることは不可能である。地後の菩薩も八地菩薩の前では完全にはできない。六七識心がまだ薫染を受けている限り、不変で随縁することは不可能である。仏はどんな縁に随っても心が変わらない。六七識がもう薫染を受けないからである。
外道の禅定はあれほど優れており、八万大劫じょうに入り、煩悩はすべて降伏された。しかし煩悩を断除していないため、後世に欲界に生まれ、やはり随縁して貪瞋痴の煩悩業を造作し、再び悪業の苦悩の中に流転する。阿羅漢はまさに三界世俗の縁に薫染されることを恐れ、三界を避けて無余涅槃 (Anupadhiśeṣa-nirvāṇa) に入ったのである。凡夫の心は、随縁すれば必ず変わり、非常に頼りにならない。誰かがすべての希望を凡夫に依止すれば、必ず後悔する。
<h3 style="text-indent: 2em;">十八、諸仏の解脱身</h3>阿羅漢は解脱を得て三界を出離した後、五陰身は滅して再び現れず、解脱したが身はない。仏はすでに究竟の大解脱を得ておられるが、なお色身五蘊を保ち、これによって無量の衆生を利楽される。それゆえ仏の五蘊身は解脱色と呼ばれる。仏が証得されたのは無住処涅槃であり、永遠に灰身泯智することなく、衆生を捨て顧みず自ら楽しむことはない。仏は無量の世界で随縁して普く度し、心中に一法も住せず、この世界の縁が尽きれば、他の仏国土でまた一つの色身を現し、再び広く衆生を利する。それゆえ無住処涅槃と呼ばれる。
仏はどの世界でも応化の色身を現される。その色身は利他のために現されるものであり、他受用身と呼ばれる。仏の五蘊身はすでに大解脱・大自在を得ており、いかなる執著と束縛もない。それゆえ解脱身とも呼ばれる。衆生は成仏の後、すべて無量の分身と化身を有し、随意に無量の諸仏国土を建立できる。釈迦仏の分身仏は無量無辺の多さがあり、名前もいずれも異なる。仏の報身は一つだけであり、応身仏・化身仏 (nirmāṇa-kāya-buddha) は無量無辺の多さがある。応身仏は必ず人間に降誕して八相成道し、母胎から出生し、世間の人と同じように示現する。化身仏は形式に拘らず、随意に化現し、八相成道を用いず、凡人のように示現することもできる。仏経の記載によれば、釈迦仏には百の分身があり、百の仏国土で応身仏となっており、阿彌陀仏はその中の一体の仏である。実際にはこれほど多くないかもしれず、釈迦仏の化身は無数の多さがあり、十方世界に散在して無量の衆生を広く度されている。
<h3 style="text-indent: 2em;">十九、成仏の後にすること</h3>諸仏がすべて涅槃に入った後、まだ世界はあるのか。世界はなく、何もなく、空さえもない。世界は人によってあり、人の業によってあり、人の縁によってあり、人の願力によってある。人がいなくなれば、業もなく、縁もなく、願力もなく、世界はどうして単独で存在できようか。衆生の五陰十八界、五陰がなければ十八界もない。世界のないときは空空寂寂であり、空空寂寂さえもない。空は世間を表し、寂は状態を表すからである。世界がなければ、空間も状態もない。
衆生は成仏の後、度すべき衆生がなく、諸仏は国土世界で何をするのか。なすべきことはなく、用いるべき心もなく、ただじょうに入るのみであり、長期のじソ入は涅槃に入るに如かず、結果はどちらも同じで、区別がない。阿羅漢たちはもう世俗の事業などしないのに、仏はまだ何ができるのか。終日じょうの中であり、じょうに入って何の用があるのか。諸仏は何をしても用がなく、何もしなければなおさら用がなく、じょうと涅槃に区別はない。衆生は一緒にいればまだ互いに争うこともできるが、成仏の後は心の中は絶対に太平であり、なすべきことはない。
成仏の後は、衆生を度することだけができることである。度すべき衆生がなければ、何のこともなく、成仏の後はすべてが余計である。それなら私たちは今そんなに多くのことをして何になるのか。同じく無聊であり、今集まって互いに争うことにまだ何の意味があるのか、争うこと闘うことが何だというのか。何も用がない。私たちは今から自分を拘束し、悪法はできるだけ一つも作らず、善法を作ることができるが、最後には善法を作ることさえ余計であり、善法も作らない。こうしてこそ心はますます無為になり、成仏が速くなる。
<h3 style="text-indent: 2em;">二十、仏は娑婆世界の衆生の苦難を見ながら、なぜ手を下さないのか</h3>私は母が亡くなったとき、ちょうど陽炎関を過ぎており、その何年も前から準備を整え、母の死にどう向き合うかを考えていた。心の中では常に、母は何から構成されているのか、本当に母という人がいるのかと考えていた。母の葬儀を執り行う過程で、一人一人の六七識心を観察し、すべての人の心理状態を観察した。そこで陽炎観を証得し、すべての人が私の心の中ではあれほど空幻であり、私はまるで行屍走肉のようにすべてに対応していた。心の中はまだとても悲しかったが。
では、仏の無量の智慧をもって衆生を観れば、衆生は何であろうか。宇宙世界、人事物理は、すべて何であろうか。衆生の色身は四大の微粒子であり、識心は識の種子である。仏が衆生を見れば、衆生はなく、その事とその理もない。これがその一である。その二として、衆生は自ら苦を受ける業縁と業力を有しており、因縁が到らなければ、救っても無用であり、衆生が生死海の中を漂流し、頭を出したり没したりするのを見ているしかない。因縁が成熟したとき、初めて手を差し伸べて救うことができるのである。
<h3 style="text-indent: 2em;">二十一、衆生は度し尽くせるのか</h3>一つの如来蔵 (tathāgatagarbha) が一つの衆生に対応し、一つの衆生を出生する。それゆえ如来蔵は衆生界とも呼ばれる。心経の中で、如来蔵は不生不滅であり、衆生界は不増不減であると説かれている。不増不減とは変異しないことであり、不生不滅とは永遠に生ずることなく滅することもできないことである。それゆえ如来蔵の数は永遠に固定不変であり、しかも無窮無尽の多さである。衆生が多すぎ、如来蔵が多すぎて、数えきれないため、無量数と言われるのである。
これほど多くの数の如来蔵がこれほど多くの衆生に対応しているが、衆生は度し尽くせるのか。衆生界がこれ以上増えなければ、仏菩薩はますます多くなり、衆生は遅かれ早かれ度し尽くされる。どれほど多くても度し尽くすその日があり、ただ時間が定まらず、無限に長く、不可説不可説の無限の長さである。衆生がすべて成仏したとき、度すべき衆生がなく、諸仏が住世する必要も意味もなくなり、みな涅槃へ行くであろう。諸仏は無事に事を探す必要はなく、十方世界も存在する必要がなくなる。最後に成仏するそれらの衆生は、修行が非常に省力であり、一体の仏が一つの衆生を護持し、修行はまるでロケットに乗るようである。最後の一批の衆生はもう悪業を造る機会がなく、無明の業種は非常に速く消除され、衆生を度さずして成仏できる。無明がなくなったときにはすでに成仏しているからである。
<h3 style="text-indent: 2em;">二十二、衆生を度すにはどんな結果に達すべきか</h3>いわゆる衆生を度するとは、煩悩業障の深重な衆生を必ず一挙に聖人に度さなければならないということではない。衆生の修為を相応に一定程度まで高め、以前と比べて大幅に向上すればよいのであり、一足飛びに聖人になることは不可能である。苗を引き抜いて助長する結果は、衆生を死にまで度し、三悪道に度し、仏教を滅ぼすことになる。聖人になる因縁が熟していないときは、長期の薫習によって聖人の品格に近づいてこそ、その人を凡夫から超越させて度すことができる。急功近利に人を度せば、人の頭だけ度し下ろし、心は依然として凡夫であり、頭と手が分家することになる。
<h3 style="text-indent: 2em;">二十三、菩薩性はどのように現れるのか</h3>衆生が七八識のみで五蘊身を持っていないとき、どの衆生に菩薩性があるのか。もし菩薩性がなければ成仏できず、十方世界のそれらの仏と菩薩はどこから来たのか。意根には無始劫以前、先天的な菩薩性はないが、五蘊身を得てから後天的な環境の薫染を経て、自分と衆生の苦を見れば、菩薩性が生じ、最終的に成仏できる。菩薩性を発起するこの行為こそ最も貴重であり、衆生の苦を見て憐憫心を生じることが最も貴重である。これが菩薩の種性である。
<h3 style="text-indent: 2em;">二十四、仏の悲心もまた虚妄なのか</h3>仏の悲心には二種ある。一つは先天的に具している大悲心であり、無始劫以来ずっと慈悲をもって物を利し、なおさら人を利している。この心は能動的に慈悲の感情を生じることはなく、衆生が悲憫と憐れみに値することも知らないが、その行為は無我にして衆生に随順しており、その結果は衆生を饒益し、衆生を関愛している。これは仏の如来蔵 (tathāgatagarbha) である無垢識 (amala-vijñāna) が具している悲心である。
仏のもう一つの悲心は後天的に修行を通じて修め出されたものであり、仏の意識心、すなわち妙観察智が表現する衆生に対する悲憫心である。この心は仏の意識心である妙観察智の現れるのに随って現れ、妙観察智の暫時に滅するのに随って現れず、生滅変化のものであり、永遠に存在し得るものではない。長存する心ではない以上、仏の無垢識が出生して幻化させたものであり、それゆえ虚妄である。
仏の二種の悲心はいずれも動転しない。菩薩の意識心の悲心にはまだ動転があり、凡夫の意識心の偶発的な悲心はすべて境に随って転じ、常にあるとは限らず、恒常に存在することもできず、究竟でもなく、まして智慧性を具えていない。仏が悲心を生じても、境界に随って流転せず、境界を真と認めず、対象を分けない。真に無縁大慈、同体大悲であり、あなた・私・彼・それという分别して扱うことがなく、衆生を一律に平等に見られる。
衆生が人に対する扱いは往々にして平等でなく、自我を中心点とし、少しずつ外へ拡張していく。外側にいる人ほど、生じる慈悲心が少なく、あるいは慈悲心が全くない。ある人は自分の最も親しい人でさえ、一絲の慈悲心も生じない。それゆえ衆生は私心が比較的重く、我心が比較的重く、他人を考えることが少なく、あるいは全く考えず、他人の立場に立って問題を考えることができず、仏の無縁大慈とはほど遠い。
<h3 style="text-indent: 2em;">二十五、即身成仏の問題について</h3>即身成仏であれ、即生成仏であれ、いずれも最後身菩薩である妙覚菩薩のことであり、凡夫には分がない。即身成仏とは、彌勒菩薩のような妙覚菩薩であってこそ即身成仏できるのであり、しかも時節因縁を選ばなければならない。これ以外に即身成仏するものはもうない。
衆生の修行にはすべて次第があり、高い次元を跳び越えることは不可能であり、凡夫から一躍して仏になることは、すでに成仏した者が表法示現する場合を除いてあり得ない。しかし仏の住世する仏国土で示現することもない。一国土に二仏なしの故である。凡夫の衆生はまず阿含解脱の理を修め、解脱果を証し、それから大乗の般若 (prajñā) と唯識の理を修学し、順を追って進むべきである。一生で明心見性できれば、すでに相当良い根器 (indriya) である。一般の衆生は我見 (satkāya-dṛṣṭi) を断じ、初果を証することさえ難上加難であり、手がかりさえつかめない。即身成仏のことは考えるなかれ。一般の衆生は如来蔵の法を学んでも学び解くことができず、一生で如来蔵の中のすべての種子の功能作用を証して一切種智 (sarvākārajñatā) になることは不可能である。一般の衆生は四禅八定の前の未到地定 (anāgamya-samādhi) さえ修め出すことができず、まして四禅八定と滅尽定を修め出し、無量の神通道力、無量無数の分身を得ることは、根本的に不可能である。
一般の衆生は自分自身を度することさえ難しいのに、まして無量無辺の多くの衆生を度し、自分の仏国土の中の弟子とすることなど、なおのこと不可能である。衆生を度せなければ、無量数の弟子を持つことができず、弟子がなければ、一人で一つの仏国土を成就することはできない。国王でさえ輔佐する大臣と千軍万馬があって、国家を建設し維持するのであり、仏となればさらに多くの大菩薩が輔助して弘法度衆する必要がある。衆生を度したことがなければ、左膀右臂として自分の弘法を輔助する大菩薩の弟子を持つことはできない。それゆえ娑婆世界の衆生はやはり地に足をつけて一歩一歩足跡を刻んで修行し、好高騖遠で自分の道業を誤ってはならない。
<h3 style="text-indent: 2em;">二十六、当下はない</h3>修行は当下だけに生きることではなく、当下だけを顧みることではなく、最も重要なのは未来を考慮することである。未来が再び輪回の苦を受けず、再び迷茫無知でなく、再び無明を持たないようにすることである。もし当下だけに生き、心の中に未来がなければ、前方がはっきり見えず、道を誤りやすい。しかもこの当下は念念生滅しており、一つの当下を言ったとき、すでに過去になっている。どこに当下があるのか。過去の無数の当下はすでに消滅し、この当下はまさに滅亡しつつあり、以後の当下はまだ来ていない。あなたはどの当下が欲しいのか。過去の識心はすでに滅し、現在の識心は念念滅しており、未来の識心はまだ来ていない。あなたはどの心を得たいのか。三心は得べからず。得られないのは識心であり、無常虚妄の心である。生滅できるものをどうして得られようか。どうして掴めようか。
しかし一つの心があり、後から得たものではなく、先天的にすでにある。あなたが神様を要らなくても、神様はあなたを見捨てない。あなたが天に昇れば天に随い、地獄に堕ちても地獄に随う。あなたがどこへ行っても、神様は随従する。あなたが苦を受け悪報を受けても、神様は嫌わない。無始劫以来、一度もあなたを離れたことがない。この心はなんと良い心であろうか。修行とはまさにこの心を証し、この心を明らかにし、その中の奥義を探究することであり、こそ大智慧を開発でき、大智慧があってこそ成仏作祖できるのである。
<h3 style="text-indent: 2em;">二十七、感覚は幻化である</h3>いわゆる世界とは、一種の感覚にすぎない。異なる心境には異なる感覚があり、異なる人には異なる感覚がある。では、これらの感覚はいったい何であるのか。何でもなく、幻化にすぎない。ではどうすればよいのか。如実でなく如理でない感覚を、如実で如理な感覚に変えれば、真実に回帰し、覚性に回帰し、一真に回帰し、涅槃に回帰し、寂静に回帰する。
<h3 style="text-indent: 2em;">二十八、浮躁な衆生には必ず意根を説かなければならない</h3>実修する人に対しては、わざわざ意根を説かなくても、彼らは実証できる。実修しない人に対しては、必ず解悟と証悟の区別を告げ、皆が解に満足せず、必ず実証するようにしなければならない。これは末法時期の浮躁な衆生に対する特殊な扱いである。衆生の心は極めて浮躁で、苦功を下すことを肯んじず、持戒を肯んじず、修定を肯んじない。持戒しよう、修定しようと思っても、環境の要因により、どうしてもできず、それゆえ観行 (vipaśyanā-caryā) ができず、実証できない。ただ毎日本を見て、意識で理解するだけで、解がある程度まで達すると、外に対して自分は証悟したと言う。それゆえ、この特殊な時期にいくつかの特殊な法を説く必要がある。特殊な衆生には特殊な説法をしなければならない。これこそ衆生の根機に応じ、衆生の実際的かつ根本的な問題を解決することである。
<h3 style="text-indent: 2em;">二十九、最も根本的で最も肝要な法は必ず誤ってはならない</h3>誰もが仏経・仏意を誤解する可能性があるが、自分の見解を肯定的に表現しさえしなければ、大きな過失はなく、他人を誤導することも必ずしもない。学仏の過程では、必ず一誤再誤であり、誰もが免れ得ない。肝要なのは、自分の観点に対してどんな態度を抱くかであり、どの程度まで自分の観点が正しいと自信できるか、この分寸を必ずしっかり把握しなければならない。誤りのないのは仏一人だけであり、彌勒菩薩が法を説いても、仏は百パーセント肯定されない。
開悟した菩薩の説法にも誤りがあり、開悟していないときの説法の誤りはさらに多くなる。一般の誤りは構わないが、肝要なのは最も肝要なところに誤りがあってはならないことである。肝要なところは、随学する衆生が証悟できるかどうかという大問題に関わるからであり、これは衆生の生命の転換点である。この転換点において、必ず誤りがあってはならない。目標と方向に問題さえなければ、その他はすべて小問題であり、是正し転じることができる。私たちの学仏とは、努力して勤かに証悟を求めることであり、証悟の後は、随って学ぶ法に随って学び随って得て、往々にして事半功倍となる。
<h3 style="text-indent: 2em;">三十、常に反観し自責してこそ絶えず進歩できる</h3>学仏修行する人は、自分の心を自責することに長け、常に内心を反観し、如法でないところを発見すれば、自分の心を自責し、心を正しい方向に導き、正しい道に向かわせ、貪瞋痴の煩悩を遠ざけ、無明を遠ざけるべきである。常に思惟すべきである。自分の道業が重要なのか、自分の如理でない覚観 (vitarka-vicāra) が重要なのか、それとも世俗法の貪瞋痴の業行が重要なのか。常に思惟すべきである。自分が世俗法においていわゆる利益を得ていることは、長久的なのか、真実に有るのか、消滅しようとしているのか、本当に何かの利益があるのか。修行人は常に自問すべきであり、自問してこそ覚り、定力を持ち、智慧を出生し、世俗法から解脱することができる。
無量劫も世俗法をやってきて、人は無量劫の間、世俗法の中で果たして何を得たのか。無量劫の貪愛は、果たして何と引き換えたのか。生死の苦のほかに、何があるのか。智慧のある者は、真に常に反思・反省すべきであり、その後にこそ生死の本質を見透かし、生死の惑業を貪恋せず、生死の苦輪から走出する力を持つことができる。