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仏法雑談(第一部)

作者: 更新時間:2025-07-13 09:13:28

第十章 法義篇

一、法とは何か

法とは軌持の意義であり、世間に顕現しうるものであれば、いかに虚妄であれ、自他が認識できようとできまいと、体得できようとできまいと、影像さえあれば、すなわち法である。

例えば、人・事・物・理。いかなる人、いかなる衆生であれ、存在するならば法である。事とは、いかなる事であれ、飲食・着衣・歩行、行住坐臥、言談笑語、花開花落、人事の和合と紛争、偉大な事業と微小な事業、世間に存在する限り、いかなる時に存在しようと、現に発生中であろうと、内心で想像したものであろうと、すべて法である。内心中に想像され、幻想されたものもすべて法であり、心の相である限りすべて法であり、心そのものも法である。

物とは、眼前であれ背後であれ、過去であれ現在であれ、想像されたものであれ追憶されたものであれ、接触できようとできまいと、影像さえあればすべて法である。

理とは、世間の一切の法則・規律・制度・章程、善悪是非、正誤、一切の思想観念、一切の念頭、一切の仏法における真理の観点、心中に顕現しうるものはすべて法である。

これらの法はすべて心中の影像であり、心中の幻相であり、衆生の五蘊身が運作したものであり、十二処の和合運作によって生じたものであり、十八界の中で輾転して出生したものであり、無窮無尽である。最後の最も究竟した一つの法こそが如来蔵であり、衆生がそれを認めようと認めまいと、知ろうと知るまいと、識別しようとしまいと、それは究極の真理として存在している。

二、法とは何か

法とは事実の真相であり、真理である。ゆえに菩薩が法を説くとは、事実の真相を説き、真理を説くことである。各事物の事実の真相はただ一つであり、各人が自身の角度から観察するとき、もし誤りなく正確に観察すれば、観察された事実の真相は皆同じであり、ただ一つの事実の真相しかない。もし各人が観察して得た結論が異なるならば、多くの人々の観察に誤りがあることを示し、如実に観察していないのである。正しく観察できない原因は様々で、各人の原因は必ずしも同じではないが、共通点は観察力の不足である。

法を説くとは事実の真相を説くことであるから、この事実の真相は、自らが実際に証明したものであることが最も良く、そうして説くことが最も説得力があり親切である。もし法を説くに際して他人の言説を引用するだけならば、相当の弁別力を持ち、他人の言説が確かに事実の真相であると弁別・証明できなければならない。我々は現時点では、仏の説かれたことがすべて事実の真相であるとしか確定できないが、自らも実際に証明する能力はなく、ただ仏陀の聖言に対する仰信と崇信に過ぎず、正信や真信にはまだ達しておらず、真信には証量が必要である。では仏陀以外の人については、仰信や崇信には一定のリスクが伴い、正信・証信・真信のみが信頼できる。しかし証信は非常に困難であるため、末法の衆生の大多数は仰信・盲信・崇信であり、正信や証信・真信ではない。

三、法界とは何か

法界は出世間法界と世間法界に分けられ、世間法界は十八界・十法界・三界世間に分かれる。十八界とは衆生の六根・六塵・六識の界であり、十法界とは四聖六凡の法界である。界とは機能・境界・種子の差別、すなわち分界線である。異なる界は機能作用が異なり、六根の機能は六塵の機能とは異なり、六識の機能とも異なる。六道の衆生にはそれぞれの境界があり、四種の聖人にはそれぞれの境界がある。十法界にはそれぞれの境界があり、三界すなわち欲界・色界・無色界にも境界があり、法界とも言え、三界もまたそれぞれに境界の差別がある。

出世間法界は一真法界と呼ばれ、真如如来蔵である。それは三界世間に属さず、三界の中にはなく、三界世間の相を持たないが、かといって三界世間に全くないわけでもない。すべての三界世間法および十方諸仏国土、華蔵世界および世界海はすべて一真法界の中にあり、真如の心の外に出ることはない。衆生が妙覚位に修して仏となる前に、兜率内院で候補し、因縁が成熟するのを待ち、下生して人間界で八相成道する。人間界の衆生の根性が成熟し、妙覚菩薩の成道の時節が到来すれば、人間界に下って八相成道する。ゆえに諸仏はすべて人間界に来て仏果を成就するのである。

四、功徳とは何か

功徳とは智慧の受用であり、智慧があれば業を消す。我見を断ち心を明らかにすれば三悪道の業が消え、智慧的な懺悔にも功徳があり、業を消すことができる。修行過程における智慧の増長は、いずれも不同程度の業を消し、悪業が尽きれば即ち仏となる。

五、乾慧とは何か

乾慧(けんえ)とは、乾は乾いたという意味で、水を含まないという意味である。乾慧とは定水に潤されない智慧、乾からびた智慧である。このような智慧には実際の指導作用がなく、ちょうど土に水がなくて泥土となれず、泥土の粘性がなくて壁を塗れず、床を敷けず、建築もできないようなものである。乾慧も同様で、口が乾くほど説く智慧は、実際には自らの胸中から引き出されたものではなく、実証されたものでもなく、意識で学び推論し分析したものであり、これはただ言葉を学ぶ者に過ぎず、真の智慧ではない。これは修行の最初の段階であり、もしこの段階に留まって究竟と思い込めば、そこで歩みが止まり、真の宝山に入ることができなくなる。

六、いわゆる正法とは、衆生を無明破りに向かわせ、解脱へと趣向させる法である。真の正法とは、真如自性の法を指す。真如は世間出世間において最も正しく、一切法の根であり、一切法はこれより出る。自性はまた衆生に依って解脱を得させ、依って涅槃を証し、依って仏道を成就し、一切の苦厄を遠離させる。ゆえに真如自性は正法であり、真如自性に関する法もすべて正法である。

仏の説かれた法および仏の説く解脱と般若の法に符合するものは正法であるが、その他の外道法や世間の善法は、衆生に解脱と明心見性・無明破りを得させることができないため、正法ではない。世間の善法は衆生に悪を伏せ善を修させ、善人および合格の人となることができるが、せいぜい一時的に人身を保ったり天に生まれて福を享けるだけで、解脱へと趣向することはできない。ゆえにこれも正法には属さない。衆生が世間の善法を修行しても、必ずしも衆生に出離心を生じさせ、解脱を求める心を生じさせるとは限らず、かえって生死の繋縛を増すかもしれない。

仏法と世俗の善法は矛盾せず、互いに抵触せず、むしろ二者は相補相成の関係にある。仏は最初に法を説く際に人天善法も説き、五乗の法も説いたが、最後には一仏乗に帰着し、すべて成仏の法である。世間の善法は非常に必要であり、大いに提唱すべきである。これは仏法を修学する基礎である。しかし世俗の善法は所詮仏法ではなく、仏法に代わることはできない。もし仏門内の善法が多くなり、これらの善法を真の仏法と見なせば、真の仏法が充満し、ついには真の仏法が希薄化され代替され、仏法は急速に滅亡し、その後世俗の善法も存在しなくなる。

七、問:内六塵は色声香味触、法処所摂色であるが、法処所摂色はすなわち法塵か?その具体的定義は何か?五塵とこの法塵の関係は、平等・平行、あるいは摂属の関係か?

答:法処所摂色とは法塵であり、内五塵に依ってさらに再び変現された法塵である。これも四大の微粒子から成り、物質の色法に摂属し、五塵と和合して完全な色声香味触を構成する。五塵は色声香味触のごく一部の内容に過ぎず、完全な五塵色法ではない。法塵は色声香味触の大部分の内容であり、合わせて初めて完全な色法となる。例えば、色塵と色塵上の法塵が合わさって初めて完全な内色塵となり、声塵と声塵上の法塵が合わさって初めて完全な声塵となる。五塵と法塵は平行並列の関係、相互依存の関係にあり、法塵は五塵に依って出生し存在する。内五塵は五識によって了別され、法塵は意識によって了別される。ここから、単独の五識では色声香味触を了別できず、単独の意識でも色声香味触を了別できず、五識と意識が和合して初めて完全な色声香味触を了別できることが分かる。

八、外五塵は、共業衆生の如来蔵が共同で変現した生存環境であり、これは必ず存在しなければならない。如来蔵は外五塵に依って初めて六識が了別する内六塵を変現できる。外五塵は単独の衆生が独自に所有できるものではなく、単独の如来蔵が独自に変現できるものでもない。外五塵があるため、我々自身の如来蔵は外五塵に依拠し、自身の後脳の勝義根の中で外五塵と全く同じ内五塵を変現し、内法塵も内五塵と同時に変現される。その後六根と六塵が接触し、如来蔵が六識を出生して内六塵を了別する。しかし衆生は了別したものが実有の六塵の境界であると思い込み、自ら六識の見聞覚知した六塵の境界を真実と見なし、執着してやまず、様々な業行を造作し、すべて幻化されたものであると知らない。そのため生死輪廻が絶えず、苦恼が尽きない。

九、如何にして外五塵の存在を証明するか

例えば、外の山河大地は外色塵であり、これは多くの衆生が共同で所有するもので、一人のものではない。ゆえにあなたが山河大地を見ることができるなら、他の衆生も山河大地を見ることができる。自分が眠り昏倒し死亡した時、自分は山河大地を見ることはできないが、他の衆生は依然として見ることができる。これにより山河大地は一人の所有物ではなく、すべての衆生が共同で所有するものであることが説明される。

また例えば、あなたの家の家屋は、あなた一人のものではなく、家族も家屋を享受でき、家屋に住むことができる。あなたが家を離れて家屋に接触できない時も、家屋は依然として存在し、家族は依然として家屋に住み、家屋は彼らのものでもある。あなたの家族全員が家屋を離れた時も、他の人々は依然として家屋を見ることができ、引っ越して住むこともでき、彼らも家屋の主人となることができる。

外五塵がなければ内五塵もなく、内五塵は外五塵に依って存在する。まるで鏡の中の影像のようである。我々は皆鏡の中の影像の中に生きており、影像の外には実体がある。他の衆生の如来蔵はその実体に依って影像を幻化し、他の衆生に了別させる。実体がなければ影像もなく、鏡は理由なく影像を現じない。外五塵は天上の月の如く、内五塵は水中の月の如し。千江に水あれば千江に月あり、すべて月の影像である。しかし天上の月はただ一つ、すなわち外五塵の一つである色塵の境である。

外五塵もまた唯心所現であり、如来蔵が変造したもので、虚妄不実であり、生滅変異し、やがて消失滅亡し、久しく住することはない。我々が地球上に生まれる以前から、地球は既に存在していた。では地球はあなたの心が単独で変造したものか?明らかにそうではない。それは共業衆生の如来蔵が共同で変現したものであり、外五塵の一つである。我々が死んでも地球は依然として存在し、他の衆生に利用される。すべての衆生と地球の縁が尽き、衆生がすべて死亡した後、地球は滅亡する。

十、虚空と色相

虚空とは色の辺縁であり、色相なき色の一種である。これが虚空の定義である。この言葉は理解しにくいかもしれない。虚空は色に依って顕発されるが、色に依って存在するのではない。虚空の源は如来蔵であり、如来蔵に依って存在する。如来蔵があるゆえに虚空が顕現する。色相も如来蔵があるゆえに顕現でき、これが一切法の根本の来処である。それら表面上の虚偽の現象は、色相が虚空に依って顕発され、虚空が色相に依って顕発され、二者が互いに引き立て合うことである。色相がない時も、虚空は依然として存在する。宇宙が形成される以前は、ただ一片の空無の虚空であり、一点の色相もなかった。これにより虚空は色に依らずに存在することが説明される。

十一、空間と虚空の区別

空間は時に虚空と等同し、時に等同せず、ある座標物に依って区分される。例えば、部屋は家屋があって初めて部屋の空間があり、家屋がなければ虚空である。例えば中国の領空は中国の空間とも呼ばれ、中国があって初めて中国の領空があり、中国がなければ中国の空間もない。空間もまた衆生が争奪する目標の一つであり、皆自らの生存活動空間を拡大しようとするため、争奪が生じる。

人類は地球の空間が足りないと感じ、他の星球の空間を占領しようとさえ考える。地球とすべての星球がなければ星球空間はなく、他に依ってある法は依他起性であり、虚幻不実である。外宇宙星空は第一次変現であり、実ならざること幻の如し。外星空に依って変現した内星空は第二次変現であり、さらに虚妄不実である。星空色法に依って引き立てられた内外の空間は、とりわけ虚妄不実である。

十二、凡夫衆生の六七識にはいずれも無明があり、一念無明と無始無明、そして無量無辺の塵沙惑を含む。一念無明とは、自我の五陰に対する貪愛と執着、三界世間の一切法に対する貪愛執着である。一念無明があるゆえに三界の生死輪廻苦があり、生死輪廻苦を断除しようとするならば、まず五陰を我とする我見を断除し、次に初禅を修し、順次に貪瞋痴慢などの諸煩悩結縛を断除し、自我の五陰に対する貪愛と執着を断尽し、三界世間法に対する執着を断尽すれば、一念無明が断尽し生死輪廻苦から解脱できる。

七識の中の無始無明とは、無始劫以来、衆生が法界の実相が何であるかを全く知らず、諸法の実相心である如来蔵が存在し、それが三界世間万法を出生したことを知らないため、世間万法を真実と執着することである。これが無始無明である。法界実相心を証得し明心見性した時、無始無明が打破される。七識が諸法実相を認識し、般若大智慧を得た後、無始無明がすべて断尽した時、七識の無明が滅尽し、徹底的に識が智に転じ、究竟して仏となり、如来蔵は無垢識に改められる。

十三、衆生の共通部分とは、共通の業力、共通の外界の山河大地・宇宙器世間、共通の生活環境であり、その他は共通せず、すべて各自が各自の五陰十八界と第八識を受用する。各衆生はそれぞれ自身の八つの識を持ち、共有しない。ゆえに衆生は千差万別であり、心心相同からず、一人一つの考え、一人一つの作為、一人一つの果報である。

第八識は不生不滅であり、本来から存在し、誰もそれを変現することはできない。第八識は縁があれば万法を変現し、縁がなければ変現せず、縁に随って変現する際も、自らは決して変わらない。

十四、いわゆる妄念とは、意根が攀縁作意し、意識が生じる念頭や考えであり、時に七つの識が和合して念を起こす。七つの識は存在する限り作用を起こし、七つの識が作用すれば必然的に念頭が出現する。八つの識にはいずれも五遍行心所法、すなわち作意・触・受・想・思がある。思とは思考・思量・抉択・決定・造作である。想とは心上に相を取着し、相を認め、相を識別することである。受とは領受・領納・受納である。作意とは心を境に引きつけ、境に専注することである。触とは識心が境界に接触することである。第八識が取る相は前七識とは異なり、思量の内容が異なり、領納の対象内容が異なり、作意の対象が異なり、触の対象が異なり、至る所で前七識とは異なる。

識とは分別である。分別をなくそうとするならば、識を滅しなければならない。すなわち眼識を滅して見ず、耳識を滅して聞かず、鼻識を滅して嗅がず、舌識を滅して味わわず、身識を滅して触を覚えず、意識を滅して覚知せず、意根を滅して主宰せず、そうすれば万法もまたそれに従って滅する。しかし四果阿羅漢の境界に修していなければ、意根を滅することもできない。もし第八識まで滅すれば、万事ことごとく廃され、一了万了する。仏でさえ第八識を滅することはできず、ましてや他の者においておやである。

十五、問:『円覚経』には一切の衆生が枉(まげ)って四大を自身の像と認め、六塵の縁影を自心の像と認めるとある。この謎を解けば仏法も説き終わるが、多生多劫の愛恨の種子はどう除去するのか?

答:身心の問題が解決しても、仏法はまだ説き終わっていない。唯識種智の問題は極めて多く広範であり、修学が必要である。我見を断ち、さらに明心見性し、唯識種智を具えて初地に入れば、染汚の種子は徐々に清除され、愛恨の種子が断尽すれば仏となる。因縁が現前した時に、内心の煩悩習気を清除すれば、染汚の種子を断除できる。

しかし身心の問題が完全徹底究竟に解決されれば、すなわち仏となる。仏法は身心の問題を解決するために用いられる。身とは内身の色身を含み、また外身の宇宙器世間の生存環境も含む。心とは七つの識である。七つの識がすべて識から智に転じれば、身心世界は徹底的に脱落転変し、報身仏と化身仏が成就し、世界は清浄な仏国土となる。

十六、『円覚経』はすべて仏性の妙用を説き、如来蔵の性を説く。見聞覚知性の七識妄心も仏性の如くあるようにせよと説くのではない。もし『円覚経』の経義を七識の作為を闡明するものと理解すれば、それは大きな誤解である。ちょうど六祖が『壇経』でことごとく真如自性を説いたが、無数の人々がそれを見聞覚知性の七識妄心を説くものと誤解したように、誤解は実に甚だしい。

一切法は如来蔵であり、如来蔵性である。もしこの理を証得していなければ、経典を引いて自らの見解を印証してはならない。経典を引いて自らの不正確な観点を正しいと印証することは、仏と法を誹謗するものであり、罪過少なくない。もし現前に貪瞋痴性が如何にして仏性であるか、如何にして究竟覚性・覚相であるかを観察できてこそ、一切の淫怒痴すなわち究竟覚、智慧愚痴ことごとく般若であると言える。そうでなければ沈黙を保たれたい。

証量がない時は、経義が深く難しい仏経や甚深な法義について論じるべきではない。特に自らとかけ離れた仏地の境界については、我々は沈黙を選ぶ。私自身も仏地が如何なるものか論じない。他の人々はなおさら論じてはならない。何の根拠があって論じられよう?何を高談闊論と言うか?自らの証量や理解の範囲を超えた内容を、もし語ろうとするならば、それは高談闊論である。

十七、心不相応行法とは何か?

心不相応行法は、総じて二十四ある:得・命根・衆同分・異生性・無想定・滅尽定・無想報・名身・句身・文身・生・住・老・無常・流転・定異・相応・勢速・次第・時・方・数・和合性・不和合性。

心不相応行法とは、八識心王・五十一心所法・十一色法が共同で顕現したものである。例えば、無常という心不相応行法は、第八識・第七識・第六識・五識が共同で和合運作して顕現し、八つの識が万法に対する作意・触・受・想・思の心所法によって顕現し、十一個の色法の上に顕現する。心法の上にも無常が顕現し、これもすべて八つの識と心所法が共同で運作して顕現する。これらの無常法は七識妄心によって決定されず、七識の認知に従ってその無常性を変えない。ゆえに心不相応行法と呼ばれる。

五陰の無常は、八識が共同で和合運作して顕現する。八識と心所が共同で五陰を出生し、感受を生じ、了別を生じ、様々な造作を生じ、眼耳鼻舌身・色声香味触・法処所摂色の和合する所に顕現し、六識および心所の処に顕現する。その他の心不相応行法もすべて同様に顕現する。我々の覚知心によって決定されず、我々の心が如何であろうと、如何に認知しようと、無常は無常であり、我々の貪愛によって五陰世間が常に変わることはない。これは心によって決定されるものではない。同様に、時・方・数・老など二十四の心不相応行法はすべて、八識・心所・十一色法が共同で顕現したものであり、七識妄心によってその存否が決定されるものではない。

十八、時間は物質色法に依って顕現する。物質色法の生滅変異が顕現し、時間を引き立てる。物質色法は心法と心所有法に依って顕現し、心所有法は心法に依って運行し、心法は第八識に帰する。物質色法の次第遷流が幻化して心不相応の行法である時間を生じる。時間は心不相応行法である。

物質色法が出現し、識心が出現すれば、識心は物質色法に依って時間と空間を識別判断できる。物質色法がなければ時間も顕現せず、空間も顕現しない。識心がなければ、なおさら時間空間を識別・認知・判断できず、あっても無きに等しい。考えてみよ、太陽がなければ、樹木・家屋・山林がなければ、どうして時間を了別できようか?もし虚空さえなければ、なおさら山林河池・大海高山はなく、空間を如何に区分・界定できようか?ではある法に依って初めて顕現する法は、心不相応の行法であり、物質色法よりも虚妄であり、七識心よりも虚妄である。

虚空は物質色法に依って引き立てられる必要はなく、指標のある空間とは少し異なる。虚空は心不相応行法ではなく、如来蔵が空大種子を用いて生成した物質色法とは異なる色法であり、色相なき色法である。

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