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仏法雑談(第一部)

作者: 更新時間:2025-07-13 09:13:33

第九章 法に依って人に依らず

一、経典が読めない者が真に法に依れるか

衆生がある段階まで修行せず、智慧が生起していない時は、経典を理解することは不可能である。多くの者が仏経を理解したと思い込んでいるが、実際には文字通りに解釈しているに過ぎず、世尊が表現しようとした思想とはかけ離れている。自分を過信する者は往々にして自らを誤る。

仏は四十二章経でこう説かれた:汝の意は信ずべからず、阿羅漢果を証して初めて汝の意を信ずべし。これは声聞の弟子たちに対する教えである。大乗の菩薩弟子たちに対しては、仏はおそらくこう説かれたであろう:汝の意は信ずべからず、自心の本性を証得して初めて汝の意を信ずべし。あるいは:唯識の種智を具え、如来の家に入りて初めて汝の意を信ずべし。なぜならこの時、すでに諸法の実相を証得し、智慧が開発され深く透徹しているからである。それ以前には、衆生は少なくとも択法眼を得るまで修行し、初めて法の正誤を弁別できる。択法眼があって初めて択師眼があり、この二者は相依っている。

目に見えるところ、大部分の衆生は択法眼を得るまで修行しておらず、判断する法も師も誤って判断している。師の判断は名声に基づき、外相に頼っており、師の智慧に基づくものではない。なぜなら自らまず智慧を持たないため、師の智慧の深浅を見抜けないからである。衆生が過度に自信を持つか、過度に師を信じることは、いずれも自らを誤らせる。善く法を思惟し、善く師を弁別し、自らの智慧のレベルを正しく判断すべきである。最も重要なのは福徳を多く修め、福徳が具足すれば誤りは少なくなり、智慧が生じる。

二、わずか260字余りの短い般若心経であるが、十人が読めば十通りの理解があり、百人が読めば百通りの解釈がある。皆が法に依って人に依らずと言うが、大乗法を学ぶにはまず般若心経に依止しなければならない。般若心経は大乗法の総綱であり、般若心経を理解して初めて菩提を証悟できる。現状のように一人ひとり理解が異なる中で、どうやって般若心経に依止できるのか。皆が自らは法に依っていると思いながら、法に対する理解が誤っているのでは、どうして真に依止できるのか。皆が自らの理解は正しいと思い、正しい法はただ一つであるのに、百人に百通りの理解があるならば、おそらく九十九人の理解は誤っており、それではどうして法に依止していると言えるのか。

仏は至る所で真空妙有を説かれるが、一部の者は真空を否定し、一部の者は妙有を否定している。この二種の者は本来、知見が矛盾対立しているにもかかわらず、互いに融合し合い、互いに肯定し合う。奇妙ではないか。なぜこのような状況が生じるのか。原因は衆生が皆、自らの知見が実際にどのようなものかを理解せず、法に対する弁別力を持たないからである。それゆえ現在、邪見が熾盛となり、邪法が広く流布し、衆生はこれに気づかず知らない。末法の時期、衆生の福徳は薄く、甘んじて誤導される。衆生の福徳が修持されなければ、未来の正法は危ぶまれ、急速に滅亡する恐れがあり、その時衆生はさらに熱悩の中に陥り、自ら抜け出せなくなる。

三、何を以て法に依って人に依らずというのか

いわゆる法に依って人に依らずとは、法とは聖言量、あるいは証量を指し、真理であって世俗の説ではなく、誤りや欠落のある説でもない。仏陀の説かれた解脱の理に合致し、仏陀の説かれた真如の理に合致するもの、仏陀の説かれた三蔵十二部の経教は全て依るべき法であり、この経教に符合する全ての言論も依るべき法である。実修によって現れた経教に符合する論も、依るべき法であり、この法が誰によって説かれたかは問わない。鬼神でさえ経教に合致する法を宣説できれば、それも依るべき法であり、鬼神の身分を見るのではない。たとえば粗末な衣の中に宝があれば、直ちに宝を取って粗末な衣は取らないのである。

人に依る者は、人の身分、地位、財色、名声のみを観察し、自らが好み慕う人を選び取る。その人に何か言説があれば、全てを金口玉言とみなし、その言説が聖言量に合致するか、仏説に合致するかを弁別できない。その害は甚大である。真に人に依れる者は万人に一人であり、これまた甚だ難しく、選び出すのは至難である。

どうすれば法に依れるのか。まず法を理解して初めて法に依れる。法を理解しなければ法に依ることはできない。法に依れない時は、皆人に依る。しかし衆生は福徳を深刻に欠き、相応の択法眼も修めておらず、相当に良い弁別能力もなく、情執が深重であるため、法に依る能力がなく、大多数の者は人に依る。特に自らと縁のある人に依り、名声のある人に依る。

たとえば般若心経は法である。我々が般若心経に依止して自らを修正したいならば、般若心経の真実義を明らかにし、般若心経の主旨が何であるかを明らかにしてから、般若心経に依って修行し、般若の大智慧を修め出し、五蘊皆空を照見しなければならない。そうして初めて真の依止となる。しかし全世界の学仏者の中で、般若心経の般若主旨を明らかにし、般若心経という法に依って修行できる者がどれほどいるだろうか。おそらく極めて少数である。もし般若心経全体に依れなければ、一言に依るか、あるいは不生不滅の四文字に依るのも良い。しかしこの不生不滅の四文字でさえ、その般若の内包を明らかにする者は多くなく、それではどうして般若心経に依止して修学できるのか。それゆえ法に依ることは口で言うのは易しいが、行うのは相当に困難であり、智慧福徳が不足しているためである。般若経典に依ることでさえこのように困難であるならば、唯識経典に依ろうとすれば、どれほどの者が依れるだろうか。おそらく千万人に一人を選ぶのも難しく、ほとんどが名声や権勢に依り、法に依れず、ましてや実際の証量に依ることはできない。

もし皆が明心開悟を望むならば、般若心経の中の不生不滅の四文字を徹底的に明らかにし、不生不滅とは結局どういう意味なのか、この意味を理解すれば、自らと他人が悟った法が生滅の性質か、不生不滅の性質か、般若心経の説くところに合致するかを検査できる。もし悟った法が生滅の性質のものであれば、それは虚妄の法であり、不生不滅の真実の法ではない。それでは悟りを誤っている。ただ不生不滅のものこそ真実の法であり、般若心経の説く通りである。

我々は知らねばならない。悟るとは何を悟るのか、悟りの対象は何か、悟りとはどのような状態か、悟った時の知見はどの程度に達しているか、身心の状態はどうか。そして根・塵・識の三者の運作状況を知り、五陰の活動運作も知り、それらの話頭の内包秘密も知り、如来蔵の体性をさらに知り、如来蔵の運作状況も知らねばならない。そうして初めて般若の大智慧を具え、真の明心開悟となる。これ以後、初めて真に般若経典に依り、如来蔵の法に依り、般若智慧に依ることができる。

我々は普段から着実に修行し、広く学び多く聞くだけでなく、専精して実証しなければならない。ある者は学仏の心は甚だ精進で、至る所で仏法の理論知識を学び、仏法の知識は豊富になったが、自らが学んだ知識が正しいか否か、実証できるかどうか、いつ実証するか、これらの問題を一切考えず、仏法の知識に出会えば吸収し、特に誰かが有名になれば、専ら有名な者、名声ある者の説く法を吸収し、弁別しようとは決して思わない。弁別する能力がないからである。仏経の中で仏は決して、名声ある者が大善知識であると言い、依止すべきだとは説かれていない。ただ繰り返し法に依って人に依らずと叮嚀されている。

普段福徳を修めなければ、仏法に出会っても、正しいか正しくないかを弁別する能力がなく、ただ名声に依り、公認されたものに依るだけである。公認とは何か。公とは大衆であり、公認とは大衆が皆そう思うことである。しかし真理は永遠に極少数の者の手にあり、大衆の智慧は仏法のレベルを弁別するにはまだ足りない。大衆は無明深重の者が多く、大衆の知見に依ることは絶対に頼りにならない。いかなる団体でも、世俗のものであれ仏教のものであれ、智慧ある者を探してみれば、何人見つかるだろうか。万人に一人、おそらく一人選び出せるか、あるいは一人も選び出せず、各団体には無知な者が黒山のようにいて、智慧ある者はほとんどいない。もし公認を信じるならば、無明を信じるに等しい。

なぜ仏陀は涅槃に臨んで、弟子たちに法に依って人に依らずと戒められたのか。法に依るということは、難しいことであり、法を理解せず福徳も欠く者は、そもそも法に依れず、ただ人に依るしかないからである。人に依り正しい人に依れば、それは前世で修めた福徳であり、因縁によって成ったものである。大多数の者は正しい人に依っておらず、もし正しい人に依れば修行は速く、一生無駄に終わることはない。

四、誰もが法に依って人に依らずと叫ぶが、法に依れる者は稀で、人に依る者が多い。なぜなら仏法はこのように難しく、前世の自らの善根福徳も足りず、法を理解せず、理にかなって法の正不正を判断できず、正のレベルと不正の程度も判断し難く、法に依ろうとすれば非常に非常に困難であるからである。それゆえただ人に依るしかなく、自らと縁のある人に依り、名声ある人に依り、いわゆる公認された人に依る。衆生はこれしかできず、法に依るのは難しい。これが現在の仏教界に非常に普遍的な現象である。もし人に依り、正しい人に依れるならそれで良い。この人の説法の程度を判断し、正しければそれに依る。これは人にも依り、法にも依るのである。法を理解しない者の依ることは盲目的な依ることであり、大福徳が支えているようなものである。

凡夫は確かに法に依って人に依らずということは難しい。では明心した後の者は完全に法に依って人に依らずができるのか。明心後の菩薩は、自らがさらに多くの法を理解していないことに気づき、以前は自らがこれほど無知であることを全く知らなかったため、慢心が溢れ、よく人と優劣を比べていた。明心後は自らが実は非常に無知であることを知り、その時は急いで修行し、日夜精進し、仏法の中のより多くの奥義を思惟探索する。それゆえ明心後もなお塵沙無明惑が残り、愚痴が甚だしいため、完全に法に依って人に依らずを実践できず、特に情執の重い者はほとんどが人に依り、完全に法に依ることはできない。

それゆえ法に依って人に依らずは、学仏者一人ひとりができる限り実践すべきである。容易ではないが、福徳を多く修めれば、正しい法に依り、正しい人に依れる。そして正しい人に依れば、法に依るに等しい。それゆえ真の善知識であれば、我々はやはり依止すべきであり、このような人に依ることは、その説く真の仏法に依ることであり、法に依止することに等しい。

五、何を以て法に依って人に依らずというのか

個人崇拝をせず、いかなる一人をも尊ぶことなく、理の如く実の如く仏法を観行できれば、それこそ法に依るのである。法に依ることは難しく、ある深い法は、自らの禅定力が足りず観行できない。この時、大多数の者は人に依ることを選び、すでに名声のある人に依り、これは大多数の者がすでに公認した者だから間違いないと思う。しかし我々は大多数の者がどのような人か知らない。いや、大多数の者がどのような人かさえ知らない。娑婆世界に満ち溢れているのは一介の凡夫であり、凡夫の智慧や認識はそれほど信頼できず、禅定智慧の浅い者の智慧や認識も信頼できない。それゆえ聖人や絶対真理は投票で選出されるものではなく、人に依る者が依然として圧倒的に多い。仏陀がどれほど法に依るよう戒めても、智慧福徳禅定が足りなければ、そもそも法に依れず、ただ名声ある人に依るしかない。当然名声ある者は華やかである。

六、どうすれば法に依って人に依らずを実践できるか

法とは事実の真相であり、全ての学人は事実の真相に依拠しなければならない。もし自ら事実の真相が何かを知らなければ、一つは口を閉ざし、評論せず、評価せず、是か否かを表明しない。二つは努力して事実の真相を探し発見し、ある法が事実の真相かどうかを証明しようと努め、証拠で証明するまでは沈黙を選ぶ。

そうすれば盲目的に人に依る現象を避けられる。誰でも仏でなければ、説く法には必ず欠陥や不足がある。もし人に依ることを選べば、欠陥や不足までも依ることになり、その結果は楽観できない。たとえ仏の説く法でも、直接拝聴しなければ、中間で転々と伝わるうちに誤って伝わる部分や誤伝の現象があり得る。仏弟子としても、できる限り実証し、転々と伝わった法が実際に真実かどうか、道理があるかどうかを見極め、真実の智慧が生じていない時は、軽々しく評価すべきではない。

七、もし学仏者に理性がなく智慧がなく、名人名声を崇拝する心理があり、有名な者の文字を暗唱することを好み、自ら思惟を起こさなければ、自らの思惟思考は容易に制限され塞がれ、後世から後々の世までこれらの制限を突破するのは難しく、徒らに自身の道業を遅らせる。惜しいことではないか。

八、意識と意根は二人の者に相当する。ある者が他の者の心理を観察できない時、その者にある心理や考え、感情などがないと断じて言うことはできない。そう言うことは過失がある。それゆえ意識は煩悩の制限を受け、識を転じて智となさず、意根の様々な機能作用を観察するのは難しい。観察できない時は、意根に結論を下せない。

ある法の定義の基準が不明な時は、二つの法を比較できず、甲が乙に合致せず、乙と一致しないからと言って、甲は誤りだと言ってはならない。その判断はあまりに唐突で理性を欠く。なぜなら乙が必ずしも基準ではなく正しいとは限らず、甲が乙と一致しないからと言って、甲が誤りだとは言えないからである。

ある者が智慧が高く、甲も理解し乙も理解し、正しい基準が何かを知っていれば、甲が果たして正しいかどうかを判断し結論づけられ、乙が正しいかどうかも判断し結論づけられる。これを法に依って人に依らずという。逆に、法の究極の基準が何かを知らず、甲と乙が基準に合致するかを弁別する智慧がなく、一方的に乙が基準だと断定する。大衆が公認し、甲が乙に合致しないなら、甲は必ず誤りだとする。このような状況は絶対に人に依って法に依らずに属し、情執の心理に属し、無明の心理に属する。

九、法に依って人に依らずはどう実践すべきか

法に依るとは、純粋に仏法本来の真実相に頼って信受し、法の正誤を実の如く判断でき、正しければ依止して修学し、誤っていれば避けて学ばず、かつ同修の学侶に伝え広めることである。もし法の正誤を判断できれば、人の名前が有名かどうかを特に気にせず、人がどうであろうと法義のみに注目すべきである。もし法義が正真であれば、著者が波旬と記載されていても気にせず、法義に邪見が多ければ、釈迦仏の名前が記載されていても興味を持つべきではない。

真に法に依って人に依らずで無上法を修学したい者よ。もし我々が仏経に波旬の名前を付け、波旬の著作とし、波旬の説く法に仏陀の名前を付け、仏経として扱えば、あなた方は中の内容をどう判断するか。この二つの法義をどう扱うか。もし全ての文字文章の著者名を全てかき乱すか、あるいは全て無名氏と記載すれば、あなた方はこれらの文字内容をどう扱うべきか。

十、一切の客観的に存在する事理は、ある衆生や一部の衆生、全ての衆生が理解認識しているかどうか、また衆生が承認するかどうかに関わらず、客観的事実は事実である。盲者が太陽を見ないからといって、太陽がないわけではない。それゆえ例えば花の美しさが存在するかどうか、五塵上の表色無表色が存在するかどうかなどの法は、衆生の見識や認識によって移らない。真理という客観的事実は、無知な衆生が絶えず探索し発掘する必要がある。探索がなければ発見はなく、発見がないからといって客観的真理が存在しないわけではない。客観的と呼ばれる所以は、事実や法則が衆生個人や集団の意志によって移らないからであり、ただ衆生に発見し認識する智慧があるかどうかだけである。

衆生は皆、自らの意識をあまりにも大げさに考えている。それゆえ意識が愚痴の時は愚痴であることを知らず、真理がないと恨む。真理は目の前にある。どのような目で見るかが大きな問題である。娑婆世界では、全ての衆生、大部分の衆生が仏法を認識せず、仏法に賛同しない時、仏や聖者はこの世に来て法を伝え教えを広めることはない。覚醒したくない衆生は光明を感得できず、たとえ光明が頭上で絶えず照らしていても、なお昏睡して目覚めない。

十一、四依四不依の中に、義に依って語に依らずというものがある。義とは何を指し、語とは何を指すのか。仏は法を説く時、衆生に仏の説く法の中の真の義に依り、仏の説く法の表面の言葉に依るなと教えられた。言葉は表面の意味であり、義は暗に含まれた真実の意味である。では仏はなぜ法を説く時、真実の意味を直接説かず、表面の意味に真実の意味を隠されたのか。

言葉は意識と相応し、浅い表面の意味にある。そして文字言語の背後には、深層の意根が表現したい意味がある。特殊な状況下では、ある者は話したり文章を書いたりする際、自らの真の考えを直接表現するのが不便であったり、望まなかったり、難しかったりするため、暗に含めて表現する。聞き手は弦外の音を聞き、文字言語の表面にない背後にある意味を理解しなければならない。衆生が表面の意味を理解するのはやや容易だが、結局真実の意味ではなく、未だ究竟ではない。深層の意味は衆生が理解しにくいが、それがまさに説者が真に表現したい意味であり、我々に伝えたい意味である。

それゆえ仏は涅槃に臨んで、弟子たちに義に依って語に依らずと教え、衆生に究竟義に依るよう命じられた。究竟義は仏が表現したい真の意味である。もし衆生が言葉の表面だけで理解し論じるならば、仏の真の意味を理解しておらず、仏の真実義を曲解している。

普通の人の話にも明示と暗示がある。明示は表面の意味であり、暗示は真の意味である。明示は意識が文字言語で表現したものであり、暗示は文字言語の背後にある真の意図である。なぜ自らの真の考えや意図を直接表現しないのか。ある場面では、ある考えを直接表現できない。一つは相手が受け入れられず理解できず、誤解されることを懸念するため。もう一つは方法と策略の問題であり、人に深く考えさせ、自ら深く細かく思惟して得た答えの方がより受け入れられ、智慧が深まるためである。

言語芸術を重んじる者は、このように善巧方便である。仏でさえ法を説く時、時に比較的間接的で、心中の真実義を直接表現されない。一つは衆生が理解できず、あるいは誤解を生むことを恐れるため。もう一つは衆生を導き、より深く思惟させ、自ら結論を出させ、それによって智慧と信心を増長させるためであり、特に異なる根機の衆生が混在している時は、深い義を直接表現できない。

十二、今の人は皆禅定を修めず、禅定を良く修めず、口先だけであり、二冊本を読み、意識で理解しただけで自ら悟ったと思い込み、解悟ですらないのに自ら証悟だと言う。それゆえ末法の時期の衆生に意根と意識の区別を理解させ、大衆に解悟とは何か、証悟とは何かを知らせ、衆生の大妄語を避ける必要がある。

末法の時期の乱象は非常に深刻で、衆生の情執は深重であり、口では常に法に依って人に依るなと言いながら、実際は逆である。もし衆生が皆理の如く法の如く修行し、真に法に依って人に依らずを実践し、スローガンを少なく叫び、実際のことを多く行い、できる限り完璧にこなせば良い。真に仏の説かれたことに依れば、仏も少しは安心され、仏に背かず教えに従い奉行すれば、仏恩に報いるに等しい。情執を少しでも降伏させれば、事実の真相が少し見えるようになる。道業を重んじ、情執を重んじてはならない。情執は人を救えず、各人の業は各人が受け、誰も誰かを代わることはできない。もし心をもう少し大きくし、精力をもう少し充実させれば、仏教を重んじ、衆生の生死を重んじるべきである。そしてまず仏陀の恩を知り、仏陀の恩に報いる方法を考え、仏陀を悲しませ悩ませるような言葉や行いをしてはならない。如来蔵は刹那刹那に種子を貯蔵していることを知らねばならない。我々が話し行動し、身口意の行いの一瞬一瞬に、如来蔵が監督し記録している。それゆえ我々は必ず如来蔵を畏敬し、因果を畏敬しなければならない。口先で高く叫びながら、実際はそうでないのではいけない。

十三、一切の法を自ら証得し、現量で観察できること、これが何よりも重要である。たとえ仏陀が親しく口にした言葉でも、自ら観察し実証し、最後に初めて疑いなく確認すべきである。自ら親しく検証した理は事実であり、事実は仏陀の言葉よりも信頼できる。そして仏陀が親しく口にした言葉は流布する仏経よりも信頼できる。なぜなら仏経はすでに他人の口と手を借りており、転述に属するからである。仏経は等覚菩薩の論よりも信頼でき、等覚菩薩の論は他の菩薩の論よりも信頼でき、他の大菩薩の論は凡夫の言葉よりも信頼できる。結局、経論がどれほど信頼できても、実証ほど信頼できるものはない。

しかし現在、たとえ仏陀が親しく法を伝えに来られても、全ての衆生は仏経を信受することしかできず、仏陀が親しく口にされたことを信受できない。なぜなら仏陀が世に降臨されたことを知らず、自ら法義の正真を弁別する智慧もないからである。それゆえ信じることは盲信崇信であり、証信ではなく真の信でもなく、仏の名声と威望を信じているに過ぎない。もし衆生が仏陀が親しく娑婆世界に法を伝えに来られたと信じるならば、衆生は現に仏陀の相貌をした仏陀の説くことを信じ、必ずしも仏経を信じる必要はなく、たとえ仏経が非常に正真であってもである。これは衆生が仏陀及びその説く法に対して盲信崇信であり、証信ではないことを示している。もし仏陀の相貌をした者の説く法を信じるならば、波旬が仏陀の像を現して法を伝えに来れば、どう扱うべきか。それも完全に信じ、そして捻じ曲げられ、生死に沈淪し、解脱できない。

それゆえ千言万語、ただ実証が最も信頼できる。ただ事実を信じ、ただ真理を信じる、これが全ての者が従うべき準則である。そして真理を証得することは極めて難しく、多大な福徳と智慧が必要である。それゆえ衆生は他者の口に説かれたことを信じざるを得ず、これもやむを得ないことである。またそれゆえ仏陀は去り際に、弟子たちに何度も何度も言い含め、必ず四依四不依を守るよう命じられた。この四依四不依は確かに極めて実践が難しく、ほとんど99%の者が実践できず、福徳、禅定、智慧の不足のためである。

一方、実証を信じるべきだと言えば、慢心深重な一部の者は自らの推論や理解のみを信じ、これが自らが実証したものだと思い込み、もはや実証者の説くことを信じず、ますます慢心が強くなり、ついには自らを欺き人を欺き、結局は法の利益を得られない。末法の時期の学仏の現象は、仏でさえも難しく、衆生は左か右か、盲従か慢心過信かであり、智慧の足りない者は適切な尺度を測りにくく、比較的適切な度合いを把握しにくい。世医もお手上げと言える。

根本のところが甚だしく誤っており、枝葉の正誤はどうでも良い。悟らずに唯識を講じることは笑い話であり、悟りの智慧でも唯識を良く講じることはできない。唯識を修証していないのにどうして唯識を講じられるのか。現今世界の唯識がもし後世に流布し、この者に名声と権威があれば、後世の人はまた五体投地して崇拝し、どれほど多くの真に修行する広大な仏子を誤らせるか分からない。世の人は往々にして名声ある大徳の著作は全て正しく誤りがないと誤解し、唯識を講じられる者は皆修証のある者だと誤解する。衆生の無知はここにあり、救いようがない。

もしこのような唯識を宣伝し修学すれば、宣伝すればするほど罪責は大きく、学べば学ぶほど解脱できない。修行の道は険しく、様々な落とし穴に遭遇する。福徳を多く修め、智慧を増長することが最も切要である。後世になれば、これらの説法は全て古文となり、人は往々にして古を崇む。もしこの誤った古文を崇拝すれば、人を害するのではないか。世に目を開く者が何人いるだろうか。古文の正誤是非を弁別できる者が。

十四、生公説法頑石點頭

道生和尚はこう言った:一闡提人も仏になれる。仏経の根拠と証明がなかったため、皆この説は誤りだと思ったが、生公和尚は自説を堅持し、改めようとしなかった。それゆえ人々は彼を僧団から追放した。やむなく生公はこの道理を石に説き、その結果石は感動してうなずいた。まもなく大般涅槃経が西インドから中国に伝わり、中で仏は一闡提人は全ての無明業障を消滅した後、仏になれると説き、道生和尚の説が正しいことを証明した。彼は僧団に受け入れられ、再び僧団に戻った。ここに見えるように、真実の法は、たとえ仏経を根拠としなくても、真理であり正見である。真理は人々の意志によって移るものではなく、仏が説いたものでないから真理でないとも限らない。

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