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仏法雑談(第一部)

作者: 更新時間:2025-07-13 05:26:54

はじめに

徹底的な無我の境地

もし心を静めて自らの内面にあるいわゆる「我」を検証すれば、どれほど修行を積んだと自覚していても、心の至る所に「我」が存在し、何事を行うにも習慣的にまず自分の利益得失を考え、私的な利益を出発点として初めて他人の利益に思い至ること、そしてあらゆる存在(法)を実体あるものと見なすがゆえに、あらゆる存在と対立してしまうことに気づくでしょう。真に無我を実践することは極めて困難です。無始劫以来の慣性的な習気(煩悩の癖)を、自ら検出することすら容易ではなく、ましてやそれを制圧し断ち切ることなどなおさらです。

無量劫にわたって仏法を学び修行するのは、いったい何のためでしょうか。それは徹底的な無我に到達するためです。ただ一つとして、いかなる存在(法)をも「我」として、実体あるものとして捉えず、いかなる存在とも対立しなければ、私たちはもはや仏法を学ぶ必要も、修行する必要もなくなり、大乗・小乗の区別なくすでに「無学」(学ぶべきことがない究極の境地)に至るのです。

では、心の中にある様々な「我」をいかにして対治(治療・克服)すればよいのでしょうか。まず第一に、いわゆる「我」とはいったい何を指すのか、その範囲がどれほど広いのかを知らねばなりません。最も狭量な「我」に関する知見を断ち切り、次に我性(自我の性質)を調伏(制御・克服)し、我執(自我への執着)を断除します。その後には、より広範な我見(自我についての誤った見解)が残っています。三界(欲界・色界・無色界)の世における一切の存在(法)を「我」として、実在として捉えるこの我見は、その後の修行の道程で徐々に調伏し断除していくもので、これをすべて断ち尽くした時、初めてこの世に真の太平が訪れ、もはや何事も起こらなくなります。究極の常楽我浄(永遠・安楽・真我・清浄)の境地を得るのです。なんと素晴らしいことでしょうか。

ただ一つの存在(法)でも実体あるものとして捉え、それに対立しようとするならば、それがすなわち我性です。真に対立することがなくなった時、内面は非常に平穏で、非常に柔軟で、非常に従順で、非常に慈悲深く、非常に明るくなります。心は透き通り、豁達大度(度量が広く小さなことにこだわらない)で、比類なき光明に満ちています。いつか完全にこのような境地に至ることができるのでしょうか。一つの存在(法)にも心を捉われることがない(無一法可当情)――口で言うのは容易いですが、実行するのはあまりにも困難です。それは習気があまりにも深く染みついており、除き尽くすことが難しいからです。

一人とも対立せず、一事とも争わず、一つの存在(法)とも敵対せず、心は坦々として広く(坦坦荡荡)、平穏で和やか(平平和和)、公明正大で(磊磊落落)、明るく輝き(光光明明)、朗らかで(亮亮堂堂)、静寂で落ち着き(寂寂静静)、虚ろで無心(空空落落)、融和して調和している(融融洽洽)――これこそが徹底的な無我の心境かもしれません。このような生命こそが真の価値と真の意義を持ち、大切に守るに値するのです。しかし、もはや「大切に守ろう」という心の念いさえもなくなります。心は一つの存在(法)も重んじず、また軽んじることもなく、ほとんど如来蔵(一切の衆生が本来具える仏性)の境地と等しくなるのです。

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