仏法雑談(第一部)
第六章 因果の章
一、昔、歯の抜けた老僧がおり、食事の様子があまり上品ではなかった。一人の小沙弥がそれを見て言った。「あなたの食事は牛が草を噛むようだ」と。この一言のために、沙弥は死後、五百世にわたり牛の身に堕ち、草を食べ続けた。釈迦仏が在世の時、彼は人間の身を得て仏に従い出家修道した。出家して沙門となったが、前世の業が浄化されずに残っていたため、食事の際には依然として牛が草を噛むような様子だった。仏に従い修行を重ねた後、彼は阿羅漢果を証得したが、それでも食事の様子は変わらなかった。
仏は彼に言われた。「お前のその様子は多くの衆生の嘲笑を招き、彼らはお前のせいで悪業を造ることになる。その果報はお前の以前の果報よりもさらに重い。お前はすでに阿羅漢であるから、天上に住むがよい。人間の僧団に用事がある時だけ降りて来なさい」。彼は仏の言葉に従い天上に住み、用事がなければ人間界に降りず、衆生がそれを見て悪業を造ることを避けた。そのため仏が涅槃に入り娑婆世界を離れられた時も、彼はそれを知らなかった。この阿羅漢は誰かというと、嬌梵波提(きょうぼんぱだい)である。因果は明らかで誤りがない。身・口・意で造作するその瞬間、善悪を問わず全てが記録され、業種として収蔵される。因縁が集まれば必ず果報を受ける。皆、身・口・意を慎み守り、悪果を免れるべきである。
二、出家した沙弥が出家した老僧を嘲笑しただけで、五百世も牛となるという重い悪報を受ける。では、在家の者が出家者を嘲笑すれば、どのような悪報を受けるのか? 在家の者が出家者の説法を嘲笑すれば、どのような悪報を受けるのか? 在家の者が出家者の説法を誹謗すれば、どのような悪報を受けるのか? 在家の者が悟りを得た出家者を嘲笑すれば、どのような悪報を受けるのか? 在家の者が悟りを得た出家者の説法を嘲笑すれば、どのような悪報を受けるのか? 在家の者が悟りを得た出家者の説法を誹謗すれば、どのような悪報を受けるのか?
因果は一般の者が思議できるものではない。もし慢心を持ち、他人を嘲笑することを好む者がいれば、相手が誰であれ悪報がある。もし嘘をついて他人を騙すことを好み、あれこれと妄言綺語を弄し、常に正しく語らない者がいれば、相手が誰であれ悪報がある。もし他人を叱責することを好む者(父母や師匠を除く)がいて、尊卑長幼の別もなく、自分の聪明さを見せびらかせば、それも悪報がある。
要するに、身・口・意の行いである十不善業には、いずれも悪報がある。だから仏法を学ぶ者は因果を理解し、戒律を守り、身・口・意の行いを守護し、善悪の区別を識別し、努力して悪を断ち善を修めるべきである。心性が転じ、聖賢の心性に近づいて初めて、聖賢となる機縁が得られる。聖賢となるための前提条件は、聖賢に近い心性を持つことであり、そうして初めて聖賢となる資格が得られる。
三、仏のような徳を持ってすれば、阿羅漢の聖者を「焦げた芽、腐った種」と言い切ることができる。しかし、修証のレベルが阿羅漢に及ばない者は、たとえ誰であれ、そのようなことを言ってはならない。言えば悪報がある。凡夫の善根は阿羅漢の一本の毛にも及ばず、阿羅漢を「焦げた芽、腐った種」と誹謗する資格など全くない。証拠があろうが事実であろうが、必ず悪報がある。在家の者が普通の出家者について言うこともならず、やはり悪報がある。徳の高い者は徳の低い者について言うことができる。戒律を持つ者は戒律を持たない者について言うことができる。先に戒を受けた者は後に戒を受けた者について言うことができる。戒こそが徳である。出家戒を持つことそれ自体が徳であり、菩薩戒を持つことそれ自体が徳である。敢えて出家することは徳であり、世俗を捨てて出家できることは徳である。修証があれば、なおさら徳である。修証が高ければ徳も高い。徳の低い者が徳の高い者について言ってはならない。徳のない者が徳の高い者について言うなどもってのほかである。そうすれば悪報は軽くない。
四、因果は三世に通じる。三世とは前世、今世、未来世である。今行っていることや遭遇する善悪は、果であるかもしれないし、因であるかもしれない。いわゆる果とは、前世に因があり今世に果を受けることである。いわゆる因とは、今世に行ったことが因となり、未来世に果が現れることである。他人があなたに対して善法であれ悪法であれ何かを造作した場合、それは果であるかもしれないし、因であるかもしれない。もしそれが果であるなら、前世にあなたが因を造り、今世あなたがその果を受けるべきである。もし果ではなく因であるなら、相手はあなたに対して因を造っており、未来にその者が果を受けることになる。これが三世に通じる因果の法則である。だから今の遭遇は必ずしも果ではなく、必ずしも因でもない。神通を持つ者か大智慧を持つ者だけが、その出来事が果なのか因なのかを判断できる。
遭遇したことが果であるなら、私たちは必ず縁に随って受け入れ、気にすべきではない。もし因であるなら、私たちは細心の注意を払って造作し、可能な限り人に対しても自分に対しても良き因、善き因を種とし、将来善果を得られるようにすべきである。最善を尽くしても何も変えられないなら、縁に任せる。しかし最も基本的に、私たちは自分が種を蒔くものが全て善因であることを保証し、悪因を蒔かず、未来世に悪果に遭遇しないようにすべきである。
五、問:万法は皆空であるが、因果は空ではない。なぜ師父は「因果もまた空である」と言われるのですか?
答:空とは、実体がなく幻化であるという意味であり、生滅の意味である。因果もまた生滅し、幻化して実体がない。もし因果が空でなければ、業因を造作すれば永遠に果報が現れ続け、果報が終わることはなく、衆生は永遠に業を消すことができず、永遠に解脱を得られない。これは理にかなわない。例えば地獄の業種が現行し、地獄の業の報いが終われば、その後も報い続けることはない。もし報い続けるなら、衆生は人間の身を得ることができない。衆生の生死が終われば果報も終わり、その後仏となる。もし因果が際限なく続くなら、どの衆生も仏となることができず、六道輪廻から離脱できない。
人を殺した業の報いが終われば、その後永遠に人を殺した業の報いを受けることはない。そういう因果が理にかなっている。あなたが私に百円借りたなら、返せばそれで終わりである。その出来事は終わる。永遠に返し続けることなどありえない。そんな因果はない。因果は結局空なのか空でないのか? もし空でなければ、私は至る所で金を撒き散らし、金を得た者は無量劫をかけても返しきれず、私は永遠に布施や福を修める必要もなく、何もしないで享受すればよいことになる。これは理にかなわない。だから因果もまた空であると言うのである。来るところなく、去るところなく、報いが終われば因果はなくなる。
六、因果がなぜ幻化して実体がないのか
果報は正報と依報に分かれる。正報とは五陰身(ごおんしん)であり、依報とは宇宙器世間の生存環境である。因果の実現は、主に五陰身を通して行われる。果報は五陰身に報いられるため、五陰身が正報である。一方、生存環境は依報であり、衆生の因縁果報を体現している。五陰は幻化であり、十八界は幻化であり、私たちが生きる宇宙や器世界は幻化であり、生存環境は幻化である。ゆえに果報である因果は幻化して実体がない。
私たちの一切の果報がこれらの虚妄の法から現れている以上、果報は虚妄である。例えばあなたが受ける善報や悪報は、財を成すにせよ、病気になるにせよ、災難に遭うにせよ、これらの虚妄の法の上で報いを受けているのではないか? これらの虚妄の法は虚妄である。果報は虚妄ではないのか? もちろん全て虚妄である。全ての果報は、結局のところ五陰身に現れる。五陰身が虚妄であるなら、果報も虚妄である。しかもこれらの果報は生滅変異し、無常である。無常であるものは虚妄である。だから一切の因果もまた幻化であり、一切法は幻化である。如来蔵を除いて、全ては幻化によって現れた法である。
例えば貧困の果報、六根不具足の果報、そして全ての楽報と苦報、これらの果報は幻化ではないのか? 全て幻化であり、如来蔵が業種や様々な因縁に従って幻化したものであり、実法はない。また例えばあなたが善報を得て、昇進したり財を成したり、あるいは親族が再会したり、財・色・名・食・睡など様々な善報、これらの報いはどこに報いられるのか? 全て五陰身に報いられ、五陰身から現れる。五陰身は幻化であり、実体がなく虚妄である。ならばこれらの果報はなおさら幻の如く、幻化して実体がなく、真実の法ではない!
また例えば善報として、今世で世間の国王となったり、天上で天主となったりする。国王や天主の玉座は幻化ではないのか? 生活する宇宙・器世間・宮殿は幻化ではないのか? 錦衣玉食(きんいぎょくしょく)は幻化ではないのか? 全ての使用人・大臣・役人・側近の侍従たち、これらは皆幻化ではないのか? 接する一切のもの、これらは皆善の果報に属する。これらの果報はどこから来るのか? 如来蔵が業種や因縁に従って幻化したものである。ゆえに国王や天主となる善報は幻化であり実体がない。
また例えば殺されること、交通事故で死ぬことなどの悪果報、これらの果報は全て五陰身が受ける。なぜ五陰身が殺されるのか? なぜ牢獄に入れられるのか? なぜ多くの財産や親族を失うのか? これらは全て悪報に属する。これらの悪報はどこから来るのか? 皆、如来蔵が業種や様々な因縁に従って幻化した仮の相であり、五陰身に現れ出たものである。悪報を受ければ、その感覚は苦受である。この苦受は識心の受ではないのか? 識心の感覚はどこから来るのか? 如来蔵が幻化したものである。一切法は善報であれ悪報であれ、全て如来蔵が幻化したものである。如来蔵がなければ一切法はない。
幻化したものは生滅し、実体がなく変異し、空である。ゆえにそれは我ではなく、真実ではなく、私の所有するものでもない。これを無我という。如来蔵に基づけば、全ては真実でない法である。ゆえに全ては空幻の法である。
七、衆生が貪食のために払う代償は最も大きく、果報が最も速く最も顕著なものは何か?
地球が形成されたばかりの頃、まだ衆生はおらず、人類もいなかった。二禅天の光音天の天人たちが地球表面に飛来し、地に着くと、地球表面に厚く堆積した地肥(ちひ)を見て、とても美味しそうに思った。好奇心から、天人はそれぞれ一口二口味わった。その結果、その美味のせいで天人の身体は重くなり、飛べなくなる者や高く遠くまで飛べなくなる者が現れた。食べれば食べるほど身体は重くなり、飛べなくなる。そこで彼ら天人は地球に留まり、天上に戻れなくなった。彼らは人数が少なく、寂しさを恐れ、他の天人仲間を呼び寄せた。仲間が地球に来て地肥を味わうと、皆飛べなくなり、戻れなくなった。こうして地球上の人類はますます集まり、彼らは地球最初の人類となった。
誰に借りがあって良いのか? 何を貪って良いのか? 縁を結べば業縁が繋がり、縁は分かち難くなる。ある者は生きる上での考えとして、食べられるなら食べ、食べたいものを食べ、食べなければ損だ、とする。このような貪りの結果は何か? 貪食のため、飲食に縛られ、解脱できず、欲界の中で苦悩は計り知れない。ゆえに貪食は得るものより失うものが大きい。
八、意根が無始劫以来持つ煩悩が六識を染め、六識が無意識のうちに業行を造作する(意根が指図するため)。業種は再び第八識に収蔵され、また意根を染める。このように繰り返し染め続けるため、衆生に解脱の日は本当にない。衆生は業を造り出すと、一切構わず、天も恐れず地も恐れない。それを見ると心が震える。菩薩は直接、様々な業行がどのような果報を受けるかを感じ取れる。それらの果報を受けるのは本当に苦しく、地上の菩薩ですら耐えるのは難しい。
九、三悪道を出た衆生は、愛欲によって生まれる。貪愛の後世の果報は、多くは鬼道に行って業果を償い、貪愛が軽微なら人間に生まれ変わったり天に昇ったりできる。貪愛は水性に属し、水は下に流れる。下とは三悪道である。楞厳経で仏が説かれている。仏経を調べられたい。ある者は大々的に仏法を学ぶ者に男女の貪愛を勧め、縁を結ぶためだと言う。縁は確かに結ばれるが、それが善であるかどうかは、仏の意に照らせば良い結果はなく、六道輪廻、生死の苦悩に陥るだけである。
ある者は出家して間もなく、元彼女に絡まれ戻され、再び出家するとまた絡まれ戻され、これを七度繰り返し、非常に苦しんだ。あなたが解脱したいと思えば、彼女はわざと絡み、解脱させまいとする。生死の冤家(あだ)である。一人で清浄になりたいのに、人に絡まれ続けるその味は、あまりにも耐え難い苦しみである。ある者は言うかもしれない。菩薩は衆生に慈悲の心を持つべきであり、妻子も衆生であるから当然より慈悲を持つべきだと。しかし慈悲は適切で、適度でなければならない。もし自分の家の親族や縁ある者だけに特別に慈悲を示し、全ての時間と精力を極めて少数の者に費やし、その者たちの素質が十分でなく、それによって自分の道業が遅れるなら、それは価値がない。このような慈悲は貪愛であり、解脱できず、仏が推奨するものではない。
菩薩の慈悲は、大多数の人々への慈悲を主とすべきである。精力を集中して修持すれば、無量数の家の親族や縁ある者を利益し、生生世世無量劫の父母妻子を利益する。現在の一妻一子一父一母に主要な精力を注ぐべきではない。小愛は大愛と比べれば取るに足らず、小愛に捉われれば道業に影響する。菩薩の目は長遠で広大であるべきである。自らの智慧の光で天下の全ての衆生を照らすことを願い、大慈大悲の心こそ真の菩薩の心である。小慈小愛は道を妨げるだけであり、速やかに捨てるべきである。
十、誹謗とは何か
雑阿含経に、外道またはある居士が世尊の弟子に仏法を請い、弟子が答えた後、思ったと記されている。「私のこの答えは世尊の法教に合致しているだろうか? 世尊に背いたり誹謗したりしていないだろうか?」そこでその弟子は世尊に請いに行き言った。「世尊よ、外道が私に仏法を尋ねました。私はこのように答えましたが、あなたを誹謗したでしょうか?」世尊は言われた。「お前の答えは正しく、私を誹謗していない」。ここから私たちは知るべきである。話すことや言葉の表現が事実に合致しないなら、それが誹謗であると。弟子が伝える仏法が仏の意に合致せず、仏と一致しないなら、それは仏を誹謗することである。もし仏がある法はこうであると言われたのに、弟子がそうではないと言えば、それは仏を誹謗し、法を誹謗することである。仏の説かれた法教に対して「不」の一字を言うだけで、すでに仏を誹謗し法を誹謗しているのである。
では僧を誹謗するのも容易である。僧の誹謗は凡夫僧を誹謗することと、悟りを得た比丘僧や菩薩僧を誹謗することに分かれる。前者の罪業はまだ軽いが、後者の罪業は非常に大きく、果報は計り知れない。比丘僧や菩薩僧を否定し、「不」の一字や「そうではない」「間違っている」と言い、事実がそうでないなら、誹謗の罪が成立する。衆生は往々にしてこれらを気にせず、他人を否定することに過ちはないと考え、軽々しく「間違っている」や「そうではない」と口にする。しかしこれは単なる過ちの問題ではなく、罪業の問題であり、根本的な問題に関わるものは往々にして地獄の罪である。後世には自らが勝義僧を誹謗したことによる極大の悪報を受けることになる。後世に本当に悪報を受けた時、往々にしてなぜこのような悪報を受けたのか分からず、訳も分からず報いを受け、再び訳も分からず業を造る。衆生はこのように愚痴で無知なのである。
十一、破戒の前提はすでに戒を受け、戒法を持っていることである。戒を受けていないなら、破戒ということはない。破とは破壊の意味である。戒を受けていないなら、破るということはなく、ただ悪業が重ければ遮障(しゃしょう)がある。重戒を犯したなら殷重に懺悔し、好相(こうそう)を見る必要があり、悪業を消滅させるには再び戒を受ける必要があるかもしれない。
重戒を犯しても極楽世界に往生できる。臨終に遮障がなければよい。臨終の一念に悪業の境界が心に現れれば、直ちに悪業に随って悪報を受ける。臨終前に心の念を清浄にし、雑念が現れないようにしなければ、三悪道に行くことはない。初果向や初果を得れば、罪を滅することもできる。ただ、業障に遮られて初果向を得られないことを恐れる。
仏は自ら重戒を犯したり重罪を犯した弟子に、実相を説き、五陰の空相を説かれた。弟子は罪を滅しただけでなく、実相を証得した。例えば勇施菩薩が開悟する前に邪淫戒を犯し、人を唆して殺させたが、仏が大乗の無生の理を説くと開悟し実相を証得した。阿闍世王(あじゃせおう)が父を殺したが、仏が五陰が虚妄で実体がないことを説くと、阿闍世王の極めて重い罪が滅し、無根信(むこんしん)を得た。初果向は証得しなかった。罪が大きすぎたためである。もし仏が彼に法を説かれなければ、無根信さえ得られなかったかもしれない。しかしもし阿闍世王が母を殺したなら、おそらく罪を滅することもできず、無根信を得ることもできなかっただろう。
戒を受けた後に破戒すると、性罪(しょうざい)がある。これは心性の罪である。もう一つは戒罪(かいざい)で、戒律に背く罪である。戒を受けていない者は、性罪による遮障だけがあり、戒罪による遮障はない。しかし戒を受けなければ戒律は円満でなく、道業は進まず、証果や明心見性を妨げる。
十二、明心見性した菩薩が悪業を造作すれば、果位は失われるか
菩薩瓔珞本業経で、仏は菩薩が菩薩に背く業行を造作すれば、三賢十地は全て失われると説かれた。地前の菩薩は煩悩が断じ尽くされていないため、たまに煩悩によって悪業行を造作することがある。地後の菩薩にもまだ断じ尽くされていない煩悩の習気が残っており、煩悩の習気によって微細な悪業行を造作する可能性がある。それらの煩悩の余習は深く細かく、断じ尽くすのは容易ではない。一度断じ尽くせば、八地に入り八地菩薩となる。しかし八地以上の菩薩にも微細な無明、つまり非常に微細な愚痴が残っており、極めて深く細かい仏法に対していまだ無知である。仏地になって初めて全て断じ尽くされる。
普通の衆生は我見を断たず、あるいは我見を断じ尽くさない者は、まだ我見のために三悪道に入る。衆生が業を造るのは「我」のためである。無数の煩悩は「我」から来る。ゆえに修行によって我見を断じ尽くし、かつ我執を降伏する必要がある。しかし人我執を断じ尽くしても、さらに微細な法我執が私たちの前に待ち構えている。煩悩の習気も軽視できない。地上の菩薩に煩悩の習気が現行するが、これも断ち難い。ゆえに地上の菩薩にも過失は免れず、微細な悪業行があり、もし仏戒に背けば、その菩薩の果位も失われる。
だから私たちが仏法を学び修行するには、毎日自らの主な煩悩の結縛(けつばく)がどこにあるかを反観し、それを重点的に観行して解決し、深重な煩悩が自らの修行を妨げないようにすべきである。煩悩を断じたかどうかと智慧の程度によって、賢人と聖人に分かれる。我見を断った初果・二果の者はまだ賢人であり聖人ではない。三果・四果の者と初地以上の菩薩が聖人である。地前の菩薩は賢人である。貪・瞋・痴がまだ断たれていないため、その徳行は聖人となるには足りない。真の聖人、聖人の全ての徳行を具えた者は、仏ただ一人である。
十三、問:地獄で罰を受けるのは第何識か? その中でいくつの識が一緒に地獄に行くのか?
答:意根と第八識が一緒に地獄に堕ちる。すると直ちに六識が生じ、意識は気づく。「あれ? なぜ私は地獄に堕ちたのだろう?」。次に、身識は刑具による激しい痛みを感じ、意識は比類ない苦痛を感じる。六識は全て苦痛を感じ、意識は非常に無念に様々な苦痛の責めに耐える。業報が尽きるまで続き、ようやく地獄を出られるが、何劫もの時が過ぎている。無間地獄には広大な鉄の床がある。地獄がどれほど広大であろうと鉄の床もそれだけ広大である。地獄は辺際なく広大であり、鉄の床も辺際なく広大である。鉄の床がどれほど大きかろうと、色身もそれだけ大きい。全ての刑具が同時に色身に加わり隙間なく、全身のあらゆる部位が刑具の残酷な責め苦を感じる。苦痛に耐えかね、気絶しても直ちにまた正気に戻り、再び責め苦を受ける。三宝を誹謗すれば、このような末路を辿る。
三宝の誹謗には、有根誹謗と無根誹謗がある。有根誹謗とは、その人の言うことが事実である場合を指すが、それでも罪はある。ゆえに仏陀が僧のために定めた戒律は在家の者には見せない。在家の者が戒律を知って出家者が戒律を犯したと責めること、つまり三宝を誹謗することを恐れるためである。無根誹謗とは、全くそのような事がないのに事実であるかのように言い、事実を捏造することである。罪過はさらに大きい。どちらも罪過がある。だから皆、三宝の過ちを言ってはならない。事実があろうがなかろうが、口を閉ざすことを知るべきである。果報は恐ろしく、悲惨で見るに忍びない。昔、阿羅漢を誹謗した者がいた。阿羅漢は人々を集め、誹謗の業を造った者に公の場で懺悔させ、その者の罪過を消そうとした。その者は公の場で阿羅漢に懺悔し、自らの罪過を消そうとした。しかし命終にはやはり地獄に堕ちて悪報を受けた。ただ悪報を受ける時間が短かっただけである。もし懺悔しなければ、地獄から出るのは難しく、地獄で受ける苦しみも非常に重い。
もし三宝の中に、大小乗の果位を証得した聖賢人がいるなら、その聖賢人に対して誹謗の業を造作したその罪業は言い表せないほど重い。仏法上の誹謗であれ、世俗の日常生活における個人の行為の誹謗であれ、事実であろうがなかろうが、一律に罪過は際限がない。出家者の身・口・意の行いは、いかなるものであれ、責めてはならない。そうすれば罪業は深重で、必ず悪報を受ける。特に悟りを得た出家者は、その身・口・意の行いのわずかな過ちすら責めてはならない。煩悩が極めて重い者は、三宝の近くに住むことは必ずしも良いことではない。なぜなら煩悩が極めて重い者は、相手が誰であれ悪業を造ることができ、相手が誰であれ一切構わず、自らを制御できないからである。ゆえにそのような者は、むしろ三宝から遠ざかる方が良い。
十四、聖人の為すことは、悟りを得ていない者が盲目的に追随してはならない。智慧が異なれば、心の用い方も異なり、結果も異なる。心地を明らかにしていない者は、無相の相を見ず、無生の理を知らず、法を実有と見て、究竟を知らない。心を明らかにした者は、法が無生であることを知り、相が本来存在しないことを知り、虚妄で実体がなく、人の目を惑わすことを知る。相を実有と見れば、業行がある。相を相でないと見れば、業行もまた妄である。心と智慧が異なれば、業果も異なる。昔、ある道人が諸仏菩薩の名号を下着にびっしり書き、身に着けていた。一人の愚者がそれを見て真似し、数日後に血を吐いて死んだ。
聖人の心を学ばず、ただその外相だけを学び、独特の心の用い方があることを知らない。衆生は愚かなため、自らを害し続ける。昔、丹霞禅師(たんぜぜんじ)が相に執着する者を度すために独特の手段を用い、木仏を焼いた。道人の心中には、実証として無生があり、四相もなく、一切の相もない。木仏は仏ではなく、舎利はない。舎利があろうがなかろうが、真の仏ではない。真の仏は無相であり、火に焼かれず、水に溺れず、風に吹かれず、石に打たれず、山に押し潰されず、唾を吐きかけられ罵られ、侮辱され誹謗されても、それすらもつかない。たとえ神ですら、どうすることもできない。衆生は愚かである。丹霞を学んではならない。木仏や石仏は像で人に示し、心に恭敬の念を持てば福は即ち増長する。もし礼拝できれば、その福は際限なく、慢心の柱を折り、自心を摧伏(さいぶく)する。精進修行し、早く無生を悟り、己の心が即ち仏心であることを識り、見性成仏する。それは他によるものではない。
十五、末法の世の衆生は心が浮ついている。ある者はちょうど衆生の浮ついた心理に順応し、衆生に気に入られようとする。もし少しも衆生の悪習に逆らわないなら、どうやって衆生の悪習を捻じ曲げ、どうやって衆生に解脱を得させるのか? 衆生は貪るだけでなく愚かでもあり、どうしても刀の先端の蜜を舐めようとする。結局得るものは何か? 誰も考えない。大多数の者は目の前のわずかな所謂利益だけを顧み、三悪道に行くリスクを冒す。大胆に見えるが、実は愚かなためで、目先しか見えず、未来の遠大な利益を考えられない。
大多数の者は実は個人の利益のために考え打算している。しかし行ったことは、自ら利益を得られないだけでなく、往々にして既にある利益さえ失う。しかし誰もそのことに気づかず、それを見ることもできない。なぜか? 無明と愚痴のためであり、煩悩が自らの目を覆い、自らを見ず、真の損得や利害を見られないためである。
因果に関して、多くの人は本当に信じておらず、常に僥倖(ぎょうこう)を心に持ち、因果は皆他人の頭上に落ち、自分には落ちないと思っている。だから自らの利益のために、他人が自分の言うことを聞かなければ、必ずある種の悪果報があると言うが、自らの悪果報がまさに到来しようとしていること、自らがまさに悪果報の因を造っていることに気づかない。私が初めて仏法を学び経典を読んだ時、因果に関する実話をいくつか読み、因果が真実で虚妄でないことを信じ、身・口・意を細心に造作した。しかし今の仏法を学ぶ者は、全く経典を読まず、経典が何を説いているかを知らない。ゆえに心が盲目で因果を理解しない。
今はネットが発達し、悪業を造るのは昔よりはるかに容易である。指をちょっと動かせば、悪業は全国に広がる。本当に嘆かわしい。指を動かした後の悪果が何か、自覚している者はいない。無知だからこそ恐れない。心が塞がれ、他人に盲従し、善悪を知らず、大悪業を造り、悔いることもない。ある者は悪業を造るのは人に唆され教唆されたためで、自らは知らない。例えば人に言われ、「こうしなさい、問題ない。因果は私が担う。お前には善果だけがあり、悪果はない」と。するとある心の盲目な者はその者の言うことを信じ、その者が本当に代わって因果を担ってくれると思う。因果が到来すれば、それぞれがそれぞれの果報を受け、互いに代わることは全くできないことを知らない。たとえ実の親でもどうすることもできない。
十六、生死流転の業縁は貪愛である
因果は命終に現れる。まるで秋の収穫後の決算のようである。もちろん夏に決算することもある。業果が非常に大きい時は、果報が早く熟し、秋を待たずに決算する。各人が臨終の時、もし心が貪りの念であれば、家の親族を貪ろうと、人間の生活を貪ろうと、財を貪ろうと情を貪ろうと、皆鬼道に生を受ける。もし臨終の一念が瞋りの念であれば、何を瞋ろうと、比較的重ければ、地獄に生を受ける可能性がある。
だからもし希望を全て臨終に託し、自らが臨終に念仏し、心を清浄に保てると考えれば、それは非常に頼りにならない。臨終に何が起こるか分からず、自らがどんな心念かも分からない。もし普段の心念さえ把握できないなら、臨終に四大が分解し、業障が再び現前し、冤親債主(怨み親しみ債権者)が借金の取り立てに来る。ほとんどの者は業縁に随って心を動かし念を起こし、三悪道に行く。三悪道に入らないと保証できない。福報が非常に大きい業行は例外で、天に昇って福を享受できる。
三悪道に入らないと保証できるのは、一つは我見を断つこと、二つは明心見性すること、三つは観無量寿経の地観が成就することである。念仏して臨終を予知しても保証にはならない。臨終に念仏する心が専一でなく、誠心が足りなければ、仏は迎えに来られない。90%以上の仏法を学ぶ者は、臨終に三悪道に生を受ける。その大多数は鬼道に行く。100%の者に貪心があり、貪欲を断ち切っていないからである。貪欲を断ち切った状態とは、我見を断った後、初禅定を得て、定の中で貪欲と瞋恚を断つことである。それ以外は皆貪欲心がある。しかし初果や二果の者はたとえ微細な貪欲心があっても、三縛結を断っているため、鬼道に生を受けることはなく、欲界天か人間界に生を受けて再び貪り、あるいは再び徐々に貪りを断つだけである。
六道輪廻はこのように無情で、情け容赦がない。真に修証がなければ、命終に突然業縁に随って去り、貪りの念に随って行く。選択の余地はない。普段訓練しておらず、訓練に成功していないからである。我見を断った後の者だけが、訓練に成功した者である。
しかし真に我見を断ち心を明らかにしていない者は、依然として訓練に成功しておらず、依然として三縛結を断っておらず、依然として貪りの念に随って鬼道に生を受け、避けられない。特に五戒や菩薩戒を犯した者はなおさらである。無数の仏法を学ぶ者は自覚せず、毎日食べ物や衣服や住まいを貪り、享受を好み、所謂自由を好み、目立つことを好み、快適を好み、琴棋書画など様々な芸術を好む。これらの好みは煩悩の結縛であり、自らを六道に縛り付ける。つまり心病である。各人が享受すべきものは享受した。一生を生きて自分を損なうことはなかった。しかし後世はどうするのか? 今享受することが重要か、それとも後世に三悪道の苦しみを免れることがより重要か?
またある高尚な修行方法は、肉を食べる時に肉を食べると思わないと言う。肉を食べる時に本当に肉を食べると思わない、すでに心が転じた者で言えば、済公和尚が一人いる。他に何人ができるというのか? すでに肉に興味がないなら、なぜわざわざ肉を食べなければならないのか? 畜生を一匹でも死なせない方が良くないか? 臨終の時、肉の主が借金の取り立てに来るが、借金を返さずに済ませる能力があるのか?
十七、因果というものは、来る時は誰にも止められない。どれほど強大な勢力があろうと、因果に対抗できる者はいない。他人を攻撃することを好む者、三宝を誹謗することを敢えてする者は、因果が非常に速く来る。洪水のように勢いが止められない。因果を明らかにすれば、私たちの心は太平である。
十八、凡夫も菩薩のように因を畏れるべきである
因果は、因は細かいが、果は無限に大きい。菩薩は因果を知るゆえに因を畏れ、凡夫は因果を知らないゆえにただ果を畏れる。菩薩は良くない因を蒔くことを恐れ、大いなる悪果を得ないようにする。一方凡夫は大いなる悪果報が到来して初めて、この運命は恐ろしいと感じる。恐ろしいと感じても、依然として悟らず、恐ろしい果報は自らの細かい心の行いが原因だと知らない。
十九、仏法を学び修行する者は、自ら心を責めることを善くし、常に心を反観すべきである。法に合わない点を見つければ、自ら心を責め、心を正しく導き、正しい道に向け、貪・瞋・痴の煩悩から離れ、無明から離れるべきである。常に思惟すべきである。結局、自分の道業が重要なのか、それとも自らの理に合わない覚観が重要なのか、それとも世俗法の貪・瞋・痴の業行が重要なのか。常に思惟すべきである。自分が世俗法で得ている所謂利益は、長続きするのか、本当にあるのか、消えるのか、本当に何か利益があるのか。修行者は常に自問すべきである。自問して初めて悟り、定力を生じ、智慧を生じ、世俗法から解脱できる。
無量劫にわたり世俗法をやってきて、各人が無量劫の間世俗法で結局何を得たのか? 無量劫の貪愛が換えたものは何か? 生死の苦しみ以外に何があるのか? 智慧ある者は、真に常に反省すべきである。その後で初めて生死の本質を見抜き、生死の惑業を貪り恋わず、生死苦輪から抜け出す力が生まれる。
二十、なぜ仏法を学ぶ者は学べば学ぶほど苦難が増えるのか
仏門に入り仏法を学ぶ者は、皆善根のある者である。一生一世や数生数世で仏法を学び修行し始めたのではなく、修行時間は劫で計算される。三宝に対する信心が具足し、自らに対する信心が具足している者は、おそらく十万劫もの間修行してきた。もし十住位に入り菩薩の六度を修行しているなら、すでに十万劫の修行時間をはるかに超えている。
大多数の者は何らかの因縁があって仏門に入る。あるいは身体に病苦があり、あるいは諸事が順調でない。仏法を学んでしばらくすると、病苦が軽減し、事が順調になり、仏法を学ぶのは良いと感じる。仏法を学ぶ信心が具足した時、様々な障縁が現れ、様々な事が順調でなくなり、身体に病気などが現れる。衆生は無始劫以来ずっと業を造っており、業障は非常に深重である。仏法を学び始めたばかりの時は、護法や菩薩たちが護持し、重い業障が仏法を学ぶのを妨げないようにする。この時はまだこれらの業に耐えられず、業報が現れると衆生は信心を退失させるからである。しばらく修行し、ある程度業障に耐えられるようになると、護法はもはや業障の現行を遮らない。耐えられない業障はまだ少し遮るかもしれない。そうすると、しばらく学ぶと自らの業障が現前したことに気づく。
順調でないもう一つの重要な理由は、修行が非常に力強い時、後世に受けるべき果報が今世に前倒しで受けるためである。前倒しで受けるとは重罪軽報であり、悪の果報は前倒しすればするほど報いは軽くなり、善の果報は後ろ倒しすればするほど報いは大きくなる。これは銀行に預金する道理と同じである。預金には利息がつく。仏法ではこれを孽息(げっそく)という。預金を前倒しで引き出せば利息は少なくなる。悪業は軽くなり、善業も軽くなる。だから悪業は前倒しで受けるべきであり、できるだけ前倒しするほど良い。善業は後ろ倒しで受けるべきであり、できるだけ後ろ倒しするほど良い。もしやりくりがつくなら、善業は可能な限り後ろ倒しで受けるべきである。そうすれば果報は非常に大きくなり、銀行預金はますます増える。利子が利子を生むようなものである。
衆生が造業する業種は如来蔵に収蔵される。如来蔵は銀行のようなものである。この銀行の預金金利は非常に高く、最低で百倍、最高で無量倍である。だから少しの善法を蒔くだけで天に昇って福を享受でき、少しの悪業を蒔くだけで地獄に堕ちて苦しむ。しかも如来蔵という銀行は永遠に倒産せず、業種は失われない。つまり善業や悪業の果報は誰にも盗まれず奪われず、自らが受けるだけであり、他人が代わることはできない。金剛経第十六品で仏は、一人の者が金剛経を受持した後、前世に造った罪業が本来彼を悪道に堕とすはずだったが、もし誰かが彼を軽んじれば、彼の前世の罪業は消滅し、ただ人に軽んじられる果報だけを受けて報いは終わると説かれている。これが重罪軽報である。
だから菩薩は明心見性した後、三悪道の業は消滅するが、それでも様々な苦難がある。全て重罪軽報であり、人間界で苦しみ、永遠に三悪道で報いを受けることはない。では修行がある程度進むと、耐えられる様々な業障が徐々に現れる。これは良いことである。後世にさらに大きな業報を受けるよりはるかに良い。これらの業報を受けた後、障縁が減り、その後の修行は速くなる。
これらの業障は一部、護法が管理制御している。彼らは修行者を世話し、時には業障を遮り、時には遮らず、あるいは一部を遮り、別の一部は遮らない。だから私たちが仏法を学び修行するには、毎日私たちの護法神に回向すべきである。彼らが皆明心見性し、道業が絶えず増進し、護法の功徳が円満殊勝であることを願うべきである。私たち自身が障縁に遭っても文句を言わず、できるだけ福を享受せず、如来蔵銀行から引き出しを少なくすべきである。それらの善の預金は失われない。引き出して享受すれば無くなる。しかも如来蔵銀行の預金が多ければ多いほど、私たちはより富貴になり、菩薩道を修める資糧(しりょう)が多くなる。仏となる道のりで歩みは速くなる。私たちが仏法を修学する資糧がますます多くなり、道業の増進がますます速くなるように!
二十一、どのような者が三悪道の業を免れるか
真に我見を断ち真に明心して三縛結を断った者だけが、三悪道に行かないと保証できる。もし真に我見を断っておらず、ただ心の中で五陰は我がないと思っているだけなら、三縛結は断たず、三悪道は免れない。法を弘め衆生を度す心は貴いが、自らが修持していなければ、衆生を生死から離れさせることもできず、自らの道業も遅れる。一度煩悩愚痴の業種が現行すれば、直接三悪道である。因果は一つは発心にあり、もう一つは事実にある。
自らが得度していないのに先に人を度す者は、発するのは菩薩心であるが、真の道行がなければ、後果も恐ろしい。自らが三悪道を免れられるようになってから、法を弘め衆生を度すために出て、個人の道業を犠牲にするなら、それは構わない。ある者は言うかもしれない。「私は我見を断った。私は明心した。三悪道を免れられる」と。しかし真に我見を断ったか、真に明心したかは、自分で言って決まることでも、誰かが証明したから決まることでもない。因果に道理がある。
ある者は五戒を持ち犯さなければ人間の身を得られると言う。しかし無色界天の天人は八万大劫の間心が清浄で、ほんのわずかな悪業も造らない。命終の時、無始劫以前の悪業が熟し、直接地獄に堕ちる。欲界天の天人や色界天の天人も同様である。今世悪業を造らなくても、無始劫以前に皆大悪業を造り、非常に多くの悪業がまだ報いを受けていない。命終に一度それらの悪業の縁が熟せば、即ち業に随って流転し、全く自主能力はない。真に我見を断ち三縛結を断って初めて、三悪道の業を消滅できる。しかしもし再び大悪業を造れば、依然として三悪道で報いを受ける。