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仏法雑談(第一部)

作者: 更新時間:2025-07-14 00:12:19

第三章 阿羅漢の章

一、衆生界は増えも減りもせず、阿羅漢が涅槃に入っても断滅しない

仏は、阿羅漢は煩悩の現行(げんぎょう)を断つだけで、習気(じっけ)は断たないと説かれた。習気は初地の菩薩から断ち始め、七地の満心(まんじん)になってようやく断じ尽くす。八地の菩薩にはもはや煩悩の習気はないが、塵沙(じんじゃ)の無明はまだ断じ尽くされておらず、断じ尽くせば仏となる。大迦葉(だいかしょう)は俱解脱(ぐげだつ)の大阿羅漢(だいあらかん)であるが、音楽を聞いて舞を舞うのは習気であって、煩悩の現行ではない。難陀比丘(なんだびく)は大阿羅漢であるが、説法の際にまず女性を見てから男性を見るのは習気であって、煩悩の現行ではない。またある阿羅漢は、ガンジス河の女神を「小婢(しょうひ)」(小間使い)と呼ぶが、これは慢(まん)の習気であって、我慢(がまん)の現行ではない。これらの習気は阿羅漢たちにはまだ断つ能力がなく、それでも涅槃に入ることはできるが、仏になることはできない。

彼らは無始(むし)の無明も塵沙の無明も破られておらず、法界(ほっかい)の実相(じっそう)を証得(しょうとく)していない。つまり、まだ無明(愚痴)が残っており、法界の理(ことわり)で理解していないことが非常に多い。世尊(せそん)は慈悲深く、彼らが涅槃に入る前に、特に彼らの心の中に大乗(だいじょう)の種子(しゅじ)を植え付けられた。この種子があるため、因縁が熟した時、種子が発芽し、阿頼耶識(あらやしき)が再び六根(ろっこん)を生じ、いくつかの識心(しきしん)が生まれ出て、五蘊(ごうん)十八界(じゅうはっかい)が具足(ぐそく)する。生まれた後、大乗種子の作用により、彼らは明心見性(みょうしんけんしょう)を求め、続いて開悟(かいご)して実相を証得する。したがって、阿羅漢は仏に等しくなく、はるかに仏世尊(ぶっせそん)に及ばない。一つの法を知らなければ仏ではない。仏の名称は一切種智(いっさいしゅち)であり、阿羅漢は一切智(いっさいち)である。「種」の字がないのは、まだ阿頼耶識の種子の機能作用が分かっていないことであり、仏道を成就するにはまだはるかにはるかに長い時間がかかる。もし涅槃に入らず、大乗道に回心(えしん)すれば、もっと早くなる。

涅槃とは五蘊十八界の一切の法を滅尽(めつじん)することである。それなのに仏はなぜ彼らに種子を植え付けられるのか。この種子がもし七つの識心に植え付けられるならば、七つの識心はすべて滅びるものである。それでは種子を植えても何の役に立つのか。涅槃の中に滅びないものがあるに違いないからこそ、仏はこのように苦心なさるのである。もちろん、阿羅漢の第八識(だいはっしき)は滅びない。種子がそこに植え付けられ、いつの日か発芽して実を結ぶ。阿羅漢は涅槃から出て、色身(しきしん)を得て修行を続けるのである。

仏は衆生界は増えも減りもしないと言われた。もし阿羅漢が涅槃に入った後、何もかも無くなり、第八識の心も存在しなくなれば、この衆生は永遠に消滅し、衆生界は減少する。そうすると、一人が涅槃に入れば法界は一人の衆生を失い、無数の人々が涅槃に入れば法界は無数の人々を失う。もし皆が阿羅漢の法を学んで涅槃に入れば、法界に衆生は存在せず、世界は空無(くうむ)となる。そういうことがあり得ようか。これは仏の説かれたことに背く。法界は永遠に増えも減りもせず、衆生の数は減ることも増えることもない。阿羅漢が涅槃に入った後は、何もかも無くなるのではなく、断滅の法ではない。

仏の声聞(しょうもん)の弟子たちが仏に随って修行した時は、皆まず法住(ほうじゅう)を知り、後に涅槃を証した。つまり、常住不滅の法があることを知り、それから涅槃とは五蘊十八界の自己を滅することであり、すべてを滅した後も断滅空(だんめつくう)ではないことを知った。それ故に四果の阿羅漢は自己を滅することも恐れず、敢えて自己を滅するのである。これには一定の道理がある。誰も死んでしまえばすべて終わり、何もかも無くなることを望まない。衆生は皆、永遠に法界から消え去ることを望まないのである。

二、三明六通(さんみょうろくつう)の俱解脱大阿羅漢。三明とは、漏尽明(ろじんみょう)、天眼明(てんげんみょう)、宿命明(しゅくみょうみょう)である。漏尽明とは、貪(とん)・瞋(じん)・痴(ち)・慢(まん)・疑(ぎ)・悪見(あっけん)の煩悩の現行がすべて断じ尽くされ、見惑(けんわく)も思惑(しわく)もなくなったことである。天眼明とは、天眼通(てんげんつう)を発し、天上地下の大千世界(だいせんせかい)をすべて観察できることである。宿命明とは、自他の前後各八万大劫(だいこう)のことを知ることができることである。六通とは、神足通(じんそくつう)、天眼通、天耳通(てんにつう)、他心通(たしんつう)、宿命通(しゅくみょうつう)、漏尽通(ろじんつう)である。外道(げどう)は前の五通しか得られず、漏尽通は得られない。俱解脱は慧解脱(えげだつ)と定解脱(じょうげだつ)の両方を兼ね備えている。慧解脱とは、禅定(ぜんじょう)が初禅定(しょぜんじょう)に達し、生死を解脱する智慧があり、智慧によって三界(さんがい)を出離(しゅつり)することである。定解脱とは、四禅八定(しぜんはちじょう)と神通(じんつう)があり、解脱の智慧はないが、寿命が尽きた時に禅定に依って三界を出離し、解脱を得ることである。慧解脱と定解脱の二つの功徳を具えているのが、三明六通の俱解脱大阿羅漢である。

三、阿羅漢の修行の結果は、我見(がけん)を断ち、我執(がしゅう)を断ち、阿羅漢果を証得することである。四聖諦(ししょうたい)の法を修行し、五陰(ごおん)十八界の虚妄(こもう)を観行(かんぎょう)し、五陰十八界が確かに我(が)ではないと証得すれば、五陰を我とする誤った知見を断ち、初果(しょか)を証得する。貪瞋痴が非常に薄くなると二果(にか)となる。続いて初禅定を修め出し、貪愛(とんあい)を断ち、瞋恚(しんに)を断てば三果(さんか)となる。我慢を断ち除き、色界(しきかい)・無色界(むしきかい)への貪愛を断ち、五陰への執着を断じ尽くせば、慧解脱の阿羅漢となる。

菩薩たちの修行の結果は、明心見性(みょうしんけんしょう)であり、真心自性(しんしんじしょう)を証得することである。それにより、一方で五陰十八界の虚妄を証得し、他方で第八識が五陰身(ごおんしん)の中でどのように運作しているかを知る。こうして智慧が開け、根本無分別智(こんぽんむふんべつち)を得る。開悟したばかりの果位(かい)は一般に住位(じゅうい)の菩薩である。その後、如幻観(にょげんかん)、陽炎観(ようえんかん)、如梦観(にょむかん)を証得し、十住位(じゅうじゅうい)、十行位(じゅうぎょうい)、十回向位(じゅうえこうい)となり、さらに一分(いちぶん)の無生法忍(むしょうほうにん)の智慧を証得すれば初地(しょじ)に入り、如来家(にょらいけ)に入って聖人(しょうにん)となる。それまでは皆賢人(けんにん)である。もし前世の多くの世で既に悟っていたならば、今世で再び開悟した場合、必ずしも第七住位(だいななじゅうい)とは限らず、もっと高いかもしれない。したがって開悟の時、各人が悟る深さは一様ではなく、悟りが深ければ深いほど果位は高くなる。

明心開悟し、大乗菩薩となるためには、菩薩の六度(ろくど)を修行しなければならない。六度は一度ずつ修行してもよいし、同時に修行してもよい。各時期における修行の重点は異なるべきであり、最も基礎的でかつ比較的弱い部分を重点的に修めるべきである。もし布施(ふせ)と持戒(じかい)の両面が弱いならば、この二度を重点的に修め、後の度も同時に修めるべきである。もし定力(じょうりき)が弱いならば、禅定を練習し、定力を強化すべきである。持戒の面では、五戒(ごかい)と菩薩戒(ぼさつかい)をできる限り受持(じゅじ)すべきである。まず三帰依(さんきえ)して五戒を受け、守り持つことができてから、菩薩戒を受ける。最後の般若(はんにゃ)の度は、般若の熏習(くんじゅう)が修行の全過程に貫かれるべきである。

四、仏になろうとするならば、ただ出離(しゅつり)だけを考えてはならない。そうすると将来、阿羅漢のように三界を離れるだけで、仏になることはできず、衆生を救う者もいなくなる。決心を固め、自らに一切を捨てよと命ずるのは、阿羅漢の自利(じり)だけを知る考え方である。一切を捨ててしまえば、五蘊が世間に留まって修行を続けることもなく、仏道を成就することもできない。仏になるためには、少しの出離心で十分である。もし強い出離心が生じれば、それは小乗の道を行くことであり、将来必ず涅槃に入り、一切の法を滅し、何もかも不要とする。そうなれば仏になることはできない。世界も不要、思想も不要となれば、五蘊の世間もなく、修行の道具も環境もなくなる。自らのこの心と外物(げもつ)のすべてを捨てることは、修道の道具を捨てることであり、それでは仏になることはできない。

五、仏教における果位は、証得した智慧の境地によって区分される。智慧によって解脱し、智慧によって仏となるからである。例えば、小乗の四聖諦の法を修習し、我見を断ち、人無我(じんむが)の智慧を得るのが初果であり、解脱の一切智の智慧を得るのが四果の阿羅漢である。中乗の縁覚(えんがく)は十二因縁(じゅうにいんねん)の法を修習し、同様に人無我の智慧を証得するが、この無我の智慧は阿羅漢たちよりも優れている。縁覚の辟支仏(びゃくしぶつ)は因縁法を修習し、衆生の生老病死の根源と由来を思惟推算(しゆいすいさん)できる。根源は無明であり、由来は第八識である。この智慧は四聖諦の法を修める阿羅漢たちよりはるかに優れており、また独覚仏(どくがくぶつ)は仏や法が世に住んでいない状況下でも、独りで覚ることができ、智慧はさらに深遠である。

彼らは皆解脱を得て生死を出離するが、智慧の境地には非常に大きな差異がある。したがって、中乗の辟支仏の果位は小乗の阿羅漢の果位より高い。さらに高い大乗菩薩の果位もある。大乗菩薩たちが明心する時、彼らもまた人無我の智慧を証得する。縁覚たちのように衆生の由来が第八識であることを知るだけでなく、第八識という自性清浄涅槃(じしょうしょうじょうねはん)を証得する。この智慧はさらに深遠であり、声聞・縁覚たちの及ぶところではない。

大乗菩薩たちは、声聞・縁覚たちのように人無我を証得するだけでなく、法無我(ほうむが)も証得できる。声聞・縁覚たちのように煩悩を断除できるだけでなく、煩悩の習気も断除できる。同様に解脱を得るが、その智慧の境地は比べものにならない。大乗菩薩たちは、声聞・縁覚たちのように分段生死(ぶんだんしょうじ)を断除し、有余涅槃(うよねはん)と無余涅槃(むよねはん)を得るだけでなく、変易生死(へんにきしょうじ)も断除し、最終的に生死のない大涅槃――仏地(ぶつじ)の無住処涅槃(むじゅうしょねはん)に至る。つまり菩薩たちは四種の涅槃を得ることができ、声聞・縁覚は二種の涅槃しか得られない。菩薩の智慧は深く広く際限がないため、大菩提果(だいぼだいか)を得る。声聞・縁覚の智慧は限られており、得るのは中菩提果(ちゅうぼだいか)と小菩提果(しょうぼだいか)である。智慧は一切の力の源泉である。

六、阿羅漢が涅槃に入った後、いかなる世俗法(せぞくほう)も残らない。意根(いこん)が一たび滅びれば、万法(まんぽう)を持ち去り、すべて存在しなくなる。残る第八識には何の相(そう)もなく、仏眼(ぶつげん)も覗き見ることはできない。第八識如来蔵(にょらいぞう)以外はすべて不牢固(ふろうぐ)で、永く住するものではなく、遅かれ早かれ滅び去るものであるならば、我々はなぜそれほど貪著(とんじゃく)するのか。縁(えん)に随って日々を過ごすことがどれほど良いことか。

七、四果の阿羅漢が世俗界に戻ると、四果から三果に退き、再び出家して世俗を遠離(おんり)した後、再び四果の阿羅漢となる。四果の阿羅漢が退転(たいてん)するならば、三果ももちろん退転する。禅定も消失し、心行(しんぎょう)も退く。二果でさえ初果に退くことができる。四果の阿羅漢でさえ執着を断じても退転し、執着を生じる。ましてや三果においてはなおさらである。

仏典には具体的な事例が証拠としてある。その果位を証得していなければ、理解できない。低位に身を置く者は高位を見抜けず、論評もできない。事実の真相を掌握するには、自ら体験するしかない。ちょうど今、多くの人々が明らかに凡夫(ぼんぷ)の段階にありながら、終日仏地の境地を論じ合い、顔を赤らめて争っているが、すべて机上の空論で、全く意味がない。

八、供養(くよう)の意味は広い。奉持(ぶじ)することは供養であり、必要なものを与えることは供養であり、教えに依って行うことは供養であり、尊重することは供養であり、信受(しんじゅ)することは供養であり、礼拝(らいはい)することは供養であり、読誦(どくじゅ)することは供養であり、憶念(おくねん)することは供養であり、讃嘆(さんだん)することは供養である。

阿羅漢は煩悩と我執を断じ尽くし、その心は欲界・色界・無色界を超越しており、世間第一(せけんだいいち)である。当然、世間の人天(にんでん)大衆の供養に値する。菩薩は煩悩を断除し、惑(わく)を留めて生を潤(うるお)し(衆生を救うため)、自利利他(じりりた)し、己を捨てて衆生のために尽くす。さらに人天大衆の供養に値する。すべての衆生は仏・菩薩・阿羅漢を供養すべきである。供養する能力があり、かつ供養を理解している限りにおいて。一匹の犬も仏・菩薩・阿羅漢を供養できる。獅子や虎も供養できる。仏・菩薩・阿羅漢の護衛や従者となり、尊重し礼拝し、教えに従うことが供養であり、無量の福を得る。はては細菌が仏・菩薩の飲食を発酵させることも一種の供養である。ただ細菌には知も心もなく、得る福は甚だ微少である。鬼神(きじん)はなおさら三宝(さんぼう)を供養でき、三宝の田地(でんじ)に福を種(う)え、三宝の加持力(かじりき)に乗じて悪道(あくどう)を脱し、解脱果を得ることができる。

九、境界(きょうがい)に対して貪(とん)が無くなった時、それが三果の人であり、すでに貪と瞋(じん)の煩悩の現行を断除している。境界に対して執着が無くなった時、それが四果の阿羅漢であり、意根の我執と三界への貪愛を断除している。三果以前は、心がどれほど清浄でも、煩悩を抑え伏せているに過ぎず、煩悩を断じているのではない。煩悩は内心に蔵(ぞう)されており、表にはあまり現れないが、重大な事が起これば、必ず隠しきれず、必ず煩悩を現行させてしまう。自らの煩悩を真に全面的に検出できる者は非常に少ない。それ故に、往々にして自分には煩悩が無いと思い込んだり、あるいは自分は二果だと思い込んだりするが、実際には二果には程遠い。

十、阿羅漢は三界世間の生死の業種(ごうしゅ)を滅除したため、もはや三界を未練がましく思わず、命終(みょうじゅう)の時には五陰身を滅するだけでなく、意根の思心所(ししんじょ)も必ずしも存続するとは決まっていない。如来蔵はもはや意根の識(しき)の種子を出生しない。そこで意根は滅び去り、ただ一つの如来蔵だけが残り、無余涅槃の状態となる。

もし阿羅漢が涅槃に入る前に大乗仏法を熏習し、仏陀の説かれた大乗経を聞いていたならば、一たび耳の根(こん)に歴(へ)れば永遠に道種(どうしゅ)となり、大乗の法の種子が植え付けられ、如来蔵の中に存在する。阿羅漢の如来蔵は異熟識(いじゅくしき)と呼ばれる。異熟識の中の大乗種子は遅かれ早かれ成熟し、根を生やし芽を出す。無余涅槃の中で、異熟識が大乗種子の縁が熟したことを了別(りょうべつ)すれば、異熟識は縁に依って意根の識の種子を出生し、意根が出生する。そこで意根はやはり色身を依り所とする必要があるため、異熟識は意根のために中陰身(ちゅういんしん)を出生する。中陰身の中で、意根はやはり本当の色身を依り所にしようと望むため、業種と縁に依って胎に投じ、三界の中に出生する。成長した後、大乗の法縁が熟せば、大乗の法の修学に身を投じ、生々世々(しょうじょうせせ)菩薩として過ごし、最後に遂に仏道を成就する。

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