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仏法雑談(第一部)

作者: 更新時間:2025-07-14 04:02:52

第二章 菩薩篇

一、菩薩とは何でしょうか。菩薩とは、自らすでに悟りを得ているだけでなく、他者をも悟らせ、自らも利し、他も利する者を指します。このような者を菩薩と呼びます。もしただ自分だけが利益を得ようとし、他人の利益を顧みず、心の中に自分しかいなければ、基本的な菩薩の品格すら備わっておらず、菩薩とは呼べません。このような者は、大乗菩薩道の道を歩むのが非常に困難であり、菩薩道の修行には大きな欠陥と障害があります。菩薩は、広く有情を利するという大誓願を発することによって初めて、諸仏菩薩や護法龍天の加護を得ることができ、未来に仏道を成就することができるのです。そうでなければ、修行の途中で障縁が重なり、小乗に堕してしまいます。仏もまた無数の清浄なる大願を発し、一切衆生を救済し、一切衆生が救われて涅槃の彼岸に解脱することを望まれました。菩薩たちは仏の慈悲喜捨の四無量心を学ぶべきであり、そうしてこそ道業が絶えず増進し、最終的に仏となり、無上正等覚となることができるのです。

仏法を学ぶ者が凡夫の境界から脱却したいと思うならば、絶えず心性を降伏させ、大いなる心願を発し、菩薩道を修行し、自らの心性を徐々に聖賢の心性へと近づけ、最終的に凡を超えて聖に入り、聖賢となるべきです。仏法を修行するには、理論上にのみ心を用いるのではなく、最も重要なのは自らの心の地(こころのじ)に工夫を凝らし、心性を降伏させることに力を注ぐことであり、将来、菩薩の慈悲喜捨という大いなる心量を備え、真実の義の菩薩摩訶薩(ぼさつまかさつ)となることができるのです。これが正しい修行です。

二、菩薩は悟りを開いた有情であり、自利利他を行います。もし衆生を度さなければ、それは阿羅漢の心構えであり、菩薩ではありません。菩薩が衆生を度すことには、一つには自らの福徳を培い、もう一つは智慧を増長させる目的があります。最も重要なのは、菩薩が仏道を成就する過程で、絶えずますます多くの衆生と縁を結ぶことによってのみ、無量無辺のあらゆるレベルの弟子たちを得ることができ、未来に仏国土を建立できるということです。菩薩が仏となるためには、仏国土を建立するためには、無数のあらゆるレベルの弟子たちの擁護と協力が必要であり、そうしてこそ無量の衆生を広く度すことができます。弟子がいなければ孤立無援であり、仏国土を建立することもできません。しかも、自らの道業の増進も弟子たちに依存しています。まるでピラミッドのようで、自分が頂点であっても、土台がなければどうして頂点がありえましょうか。これはつまり、衆生を度すことがすなわち自分を度すことであり、菩薩は無条件に衆生を度すことによってのみ仏となることができる、ということです。逆に言えば、自らの道業の増進は善知識や諸仏菩薩たちの引き立てと助けなしには成し得ないため、真の善知識と縁を結ぶことも非常に重要です。

三、菩薩と阿羅漢の違いは、菩薩は発心を貴ぶ点にあります。衆生を苦海から救い出そうとする発心があるからこそ、将来、無上菩提を成就し、正等正覚となることができるのです。一方、阿羅漢はただ個人の解脱を得て、生死輪廻から離脱することを望み、衆生の生死の苦しみを考慮しないため、無余涅槃に入り、灰身泯智(かいしんみんち:身体を灰とし、智慧を滅する)を選択します。

菩薩は修行と証得のレベルに応じて五十二の階位に分けられます。明心(みょうしん:真実の心を悟ること)後の菩薩は、大乗と小乗の果位を同時に得るため、初果の菩薩、二果の菩薩、三果の菩薩、四果の菩薩が存在します。したがって、菩薩は明心後も見惑(けんわく:誤った見解による煩悩)と思惑(しわく:思惟による煩悩)を断じますが、思惑を全て断ち切らず、ほんの少し残します。これは、未来世に五陰(ごおん:色・受・想・行・識)が生じることを保証し、自利利他を続け、仏道を成就するためです。阿羅漢は見惑と思惑を断じ尽くすことができますが、明心見性を求めず、仏になることを望まないため、無始無明(むしむみょう:根源的な無知)を断つこともできず、塵沙惑(じんじゃわく:微細な無知)を断つこともありません。これらの無明惑は、菩薩のみが断つ能力を持ち、断じ尽くせば仏となります。

阿羅漢は四禅八定を修め、神通三昧(じんづうざんまい)を得ることができますが、彼らの神通は非常に限られています。一方、菩薩も四禅八定を修めて神通三昧を得ますが、さらに無数の意生身(いしょうしん:自由自在の化身)を持ち、それによって無数の衆生を利楽します。菩薩の神通は無量無辺に広大であり、これは阿羅漢の及ぶところではありません。

四、留惑潤生(るわくじゅんしょう)とは、ほんの少しの思惑煩悩を残して断たず、未来世に生を受ける潤いとするという意味です。もし煩悩を全て断ち切ってしまえば、意根が三界の法にまったく未練がなくなり、命終すれば四果阿羅漢のように五陰を滅し、無余涅槃に入ってしまいます。菩薩は明心後、八地菩薩に至るまでは、ほんの少しの思惑を断ち切らずに残します。このほんの少しの思惑があるからこそ、世々に生を受け、五蘊身(ごうんしん)を持ち、仏法を修学し続け、自利利他を行うことができるのです。もし菩薩が明心後に全ての思惑煩悩を断ち切ってしまえば、阿羅漢のように、寿命が尽きれば五陰を滅し、無余涅槃に入ってしまい、そうなればもはや菩薩は存在せず、仏法を修学し続けることはできません。

七地菩薩に修到した時、菩薩は思惑煩悩を全て断じ尽くし、禅定の功夫が非常に優れ、いつでもどこでも滅尽定(めつじんじょう:一切の心の作用を滅した深い禅定)に入ることができるため、うっかりすると涅槃に入ってしまいます。そこで仏は常に菩薩を見守り、菩薩が涅槃に入らないように保証し、無事に八地の修行に入れるようにします。もし清浄なる大願によって繋ぎ止められなければ、地上菩薩(初地以上の菩薩)は容易に無余涅槃に入ってしまいます。これは禅定の功夫がますます良くなり、三界の世間法に対する執着がますます薄れ、七地に至ると、念々に涅槃に入りたくなるためです。したがって、仏は菩薩たちが初地に入る際に、華厳経にある十の無尽願を発するよう教えられます。この願いは成仏するまで尽きることがありません。この願力の故に、世々に生を受け涅槃に入らず、五蘊が生じることで、無量の衆生を広く度し、ついに仏果を成就するのです。

五、義菩薩(ぎぼさつ)とは、すでに了義法(りょうぎほう:究極の教え)を証得し、明心見性した真実の義の菩薩であり、見道位(けんどうい:真理を見る位)に入り、七住位以上の菩薩を指します。名菩薩(みょうぼさつ)とは、名ばかりで実質の伴わない菩薩であり、まだ悟りを開いておらず、真実の法を悟っていない菩薩で、名目上の菩薩に過ぎません。義菩薩は久しく修行を積んだ菩薩であり、その心の働きは名菩薩とは大きく異なり、善根福徳が非常に深く厚く、智慧が深く鋭いのです。

名菩薩は多くが新学の菩薩であり、逆境に遭うと容易に道心を退失し、布施の習慣が少なく、菩薩の六度(ろくど:六波羅蜜)はまだ修習成就していません。久修の菩薩は広く菩薩六度を修め、往々にして強い布施の習慣があり、心の中は常に人を利することを考え、利己的な心性は減少しています。したがって、久修菩薩は福徳が大きく、仏法を学び修行すれば正法に遇い、まもなく悟道し、しかも自ら悟ることができ、他人の助けを借りる必要がありません。久修菩薩も過去世には名菩薩であったことがあり、名菩薩も将来は久修菩薩となるでしょう。

六、私たちがこの世で真に明心見性を求めたいと思うならば、厳密に菩薩六度に従って修学しなければなりません。慧学(えがく:智慧の学び)の面では、六百巻の大般若経に目を通し読誦し、その理を少しばかり理解すべきです。特に心経と金剛経は重要です。阿含経も読誦できればなお良いでしょう。五陰が虚妄で実体がないという理を明らかにし、五陰に我も実体もないことを証得すれば、禅を参ずる(公案などで究明する)助けとなり、諸法実相(しょほうじっそう:一切の存在の真実の姿)に速やかに悟入することができます。もしこの時点で小乗の果位を証得すれば、それは菩薩五十二階位の第六住位に相当し、明心まであと一階位の差です。この時点で禅を参ずれば、悟道は非常に速く、阿含を理解せず、果位を証得していない者よりもはるかに速く、しかも悟りを誤ることはなく、意識心の様々な境界を第八識として悟ることもなく、無一物の空を悟ってそれを究竟(くっきょう:究極)だと思うこともありません。

さらに、阿含経を理解することは、将来の菩薩道修行の堅固な基礎を築くことにもなります。大乗と小乗の理が共に通じて初めて初地に入ることができ、その後、三地・四地の菩薩位において、再び小乗の四聖諦と十二因縁法を観行(かんぎょう:観察修行)するのです。現在の修学は、理解しているか否か、証得しているか否かに関わらず、全て種子として如来蔵に蓄えられ、将来、縁に遇えば必ず花開き実を結びます。しかし、理解していることと理解していないことでは、如来蔵に蓄えられる種子は異なります。したがって、仏法を学んで無駄になることはありません。たとえ畜生が仏法を理解できなくても、仏法を聞けば、その如来蔵に種が蒔かれ、将来仏法に遇えば、喜んで受け入れるようになるでしょう。

定学(じょうがく:禅定の学び)の面では、未到地定(みとうじじょう:初禅に至る前の定)まで修め、欲界の最高の定を得て、歩く・座る・臥すのすべてにおいて禅を参じ、仏法を思惟する心が散乱せず、心が細やかで密であることが必要です。そうして初めて道に入ることができます。戒律の面では、必ず菩薩戒を受けなければなりません。菩薩戒があって初めて菩提の大願を発起し、仏となって衆生を利楽しようとする心を起こすことができます。菩薩戒を守持すれば、諸仏菩薩や護法神の加護があり、道業の進歩は非常に速いでしょう。

忍辱(にんにく:耐え忍ぶこと)の面では、主に如来蔵の法を認め謗らないこと、如来蔵の不生不滅など中道の理に耐え忍ぶことにあります。そうして初めて徐々に如来蔵と相応し、最終的に如来蔵を悟ることができます。布施の面では、主に大乗の法の布施にあります。大乗の法を宣揚する道場や出家の師父がいれば、必ずその宣揚を助け、その利益を守るべきです。こうすれば福を集めるのは非常に速く、福徳も最大です。まるで田を耕すように、何を収穫したいかによって、その田に相応する種を蒔くのです。田や種を間違えれば、相応する果実は収穫できません。精進の面では、以上の修学すべてに対して精進を怠らず、努力して行うことです。修学の全過程がすなわち菩薩六度の修行であり、相対的に具足して初めて明心悟道できるのです。

七、いかに良き菩薩となるか

修行を速やかに進め、良き菩薩となるためには、人と話す時は柔和にし、言葉を鋭くしたり、人を威圧したりしてはいけません。善く争いを和らげ、できる限り衆生を凝集し摂受(せつじゅ:受け入れ導くこと)すべきです。菩薩の四摂法(ししょうほう:衆生を救済する四つの方法)はできる限り実践すべきであり、衆生を摂受することが第一であり、敵を作ることは菩薩としての大いなる禁忌です。菩薩の目には敵対するものは何もなく、全ての衆生は自らが摂受すべき対象です。したがって、道場を戦場と見なしてはならず、舌戦を止めず、勝ち負けや、私が上でお前が下、私が強くて彼が弱いなどと争ってはいけません。

各人の心の中にある「我」は、厳重に見張り、常に鋭さを露わにし、強い我の心で他人を怒らせたり悩ませたりしてはいけません。善く自我を降伏させ、自我を隠すことを学ぶべきです。煩悩を調伏(ちょうぶく:制御し従わせること)することが真の修行であり、常に他人を降伏させ、抑圧しようとすることではありません。菩薩の心性は柔和でなければならず、他人に対しては情に訴え、理をもって諭すべきです。理があるからといって人を許さず、時には一歩譲ることで、かえって人を折伏(しゃくぶく:理で屈服させる)し摂受することができるのです。

人を度すことも修行も、剛と柔を相俟(あいま)たせる必要があります。自分に対しては剛、悪しき境遇に対しては剛、しかし人に対してはできる限り柔であるべきです。そうしてこそ、全ての衆生を自らの周囲に摂受し、衆生と打ち解けることができるのです。もし言葉で人を千里の外に拒むならば、ただ衆生を遠ざけ、衆生と疎遠になり、衆生と善縁を結ぶことができず、これは合格した菩薩ではなく、衆生を摂受することもできません。

心性が剛であれば、折れやすく突然暴れやすくなります。心性が柔であれば、たとえ曲がっても折れることはありません。菩薩となるには弾力性を持つべきで、曲がるべき時には曲がり、また元の位置に戻って変わることのない状態を保つことができるのです。菩薩は本来、様々な争いを善く調和すべきであり、常に紛争を引き起こしてはなりません。良き菩薩となることを学び、柔順で調和し、衆生を摂受することを学ぶことは、全ての菩薩が必修とする課程です。理があるからといって人を許さないことは、菩薩の大いなる禁忌です。言葉が鋭く、人を威圧することは菩薩の大いなる禁忌であり、これに違反すれば衆生から遠ざかり、衆生と悪縁を結び、菩薩の四摂法に違反することになります。

八、菩薩と衆生の関係

弥勒仏が下生された時、第一会の説法では九十六億の人天が道を得、説法を聞いた者は数えきれません。第二会の説法では九十四億の人天が度され、第三会の説法では九十二億の人天が度されました。その説法を聞いた者は、いずれも数えきれないほどでした。

仏菩薩は決して仏法を学ぶ衆生が多いことを嫌いません。全て、度す衆生は多ければ多いほど良いと願っています。なぜなら、衆生の苦難を慈しみ、衆生の生死流転の苦しみを悲しむからです。したがって、菩薩は大悲心をもって広く仏法を伝え、できる限り多くの衆生を度脱(どだつ:救い解脱させる)しようとします。菩薩は「春蚕死すとも糸は尽きず、蝋炬灰となるとも涙始めて乾く」(春蚕は死ぬまで糸を吐き続け、蝋燭は灰になるまで涙を流し続ける)という自己犠牲の精神を抱き、自らを燃やして衆生を照らします。私たちがどうして菩薩に感謝せず、菩薩を見習い敬意を表さずにいられましょうか。もし菩薩が世に住して法を伝えることがなければ、世界に永遠に仏法はなく、衆生は永遠に仏法に遇い、解脱を求める機会を得ることはないでしょう。

菩薩は敬うべきであり、讃えるべきです。阿羅漢は完全にそうとは言えません。仏は決して阿羅漢を自らの真の仏子とは認められませんでした。なぜなら、彼らは仏の恩に報いることを知らず、衆生の恩に報いず、ただ個人の解脱、苦しみからの離脱と安楽だけを考え、慈悲心に欠けているからです。したがって、仏はしばしば彼らを「焦げた芽、腐った種」(焦芽敗種)と叱責されました。この点から見て、大乗の法は永遠に小乗の法よりも勝れており、心量がより大きく、真実に衆生を利益し、衆生を慈しむからです。

衆生が七地・八地の菩薩に修到した時、初めてあの「我」の性質が完全に消融します。その時には派閥や争いを起こさず、自我を突出させることもありません。私たちが見る諸仏は互いに讃嘆し合い、互いに推薦し合い、さらには仏が菩薩の身分で、慈航(じこう:慈悲の船)を倒駕(とうが:方向を変えること)して他の諸仏の弘法を護持し、身分を下げることを恐れません。ただ衆生を度脱できれば、仏仏は互いに協力し、互いに讃嘆し助け合うのです。文殊菩薩は本来とっくに仏となっていてもおかしくありませんが、仏位を取らず、専ら諸仏の弘法を補助し、仏の助手となり、何らかの仏の栄光を争うことはありません。まったく自我がなく、諸仏菩薩は皆、私たちが学ぶべき模範です。

全ての争いは、心の中に「我」があるからです。我の心が滅除されなければ、この我は当然いつも騒ぎを起こし、天下を平穏にさせません。したがって、仏法を学ぶ究極の目標は、徹底的に自分を打ち倒すこと、あのいわゆる「我」を打ち倒すこと、自分を消滅させ余すところなくすることであり、そうして初めて最終的に仏となることができるのです。仏法を学ぶことは実は自分自身と戦うことであり、外に向かって戦うことではありません。他人と戦うより自分と戦うべきで、自分を打ち負かし、打ち消してしまえば、生死も大いなる自在を得るのです。こう言うのは簡単ですが、実行するのは実にあまりにも難しすぎます。この時代、仏法はまだ少なすぎ、仏法を学ぶ衆生は多すぎ、法を伝える力は実は非常に不足しています。衆生はより多くの菩薩の救済を必要としており、菩薩の衆生との縁はそれぞれ異なり、衆生の菩薩との縁もそれぞれ異なります。したがって、菩薩たちは互いに代わることはできません。

菩薩に悪縁がなければ、煩悩を取り除くことはできません。悪縁がなければ、業障を滅除することもできません。菩薩に衆生がいなければ、もちろん菩薩となることはできず、菩薩に度すべき弟子がいなければ、自らの道業を増長することはできません。衆生を度さなければ、確かに自らの道業を成就することはできず、菩薩が得る智慧は全て、衆生を度す中で生まれ増長するのです。衆生の研鑽がなければ、菩薩の智慧は進歩できません。まるで真実と虚妄が和合し互いに依存し合うように、菩薩と衆生は確かに互いに依存し合う関係であり、これがなければあれもありません。多くの人々は仏法を学びながら大いなる心を発せず、利己的で、衆生の苦しみを考えないため、結果として自らの道業は進みにくく、長い間、その場で足踏みしています。衆生を度さなければ仏になることはできず、衆生が一尊一尊の仏を成就させ、仏はまたそれぞれの衆生が生死の深淵から出るのを助けるのです。実は全てが互いに利益を与え合うことであり、単独で得られる良いことなどありません。

常に自らの苦しみを観察すると同時に、衆生の苦しみも観察すべきです。自分と衆生の苦しみを見て、衆生を慈しむ心を発起し、衆生と共に解脱を得ようとする心を発起すべきです。これが菩提心を発(おこ)すことです。この心があれば、諸仏菩薩の加護があり、自らの道業が増進し、仏道を勇往邁進することができるのです。

九、地上菩薩に苦受はないのか

身があれば皆苦しみがあります。四果阿羅漢が世間に生存している時、これを有余依涅槃(うよえねはん)と言います。これは、なお色身に依って現行する余苦があるという意味であり、阿羅漢はこれらの余苦を受けることになります。阿羅漢の身体は依然として痛みや寒さ暑さ、風雨や日差し、蚊や虫に刺されることを感じることができ、依然として飢えや満腹、渇きや疲労、そして色身の様々な病気の苦しみを感じることができます。阿羅漢が涅槃した後は無余依涅槃(むよえねはん)と呼ばれ、すなわちもはや色身もなく、識心もなく、いかなる苦受も彼を捉えることはできません。

初地以上の菩薩から七地菩薩までは、小乗の果位で言えば四果の慧解脱(えげだつ)の阿羅漢に相当します。色身が存在する限り、苦しみを感じることになります。しかし、菩薩の心の感じ方は普通人よりもはるかに軽微で、気にしないことが非常に多く、世俗法にはもはや何の追求もないため、感じる苦しみは軽く、そのほとんどは仏法上の追求にあります。しかし、衆生を教え導く上ではまだ多くの苦受があり、特に五濁悪世(ごじょくあくせ:五つの濁りに満ちた悪い世)では、衆生が頑なで手に負えず、煩悩が深く重く、根性が劣り、正邪善悪を区別しないため、菩薩たちは心を尽くさざるを得ず、したがっていくらかの苦受は避けられません。釈迦仏が在世の時、雪山での苦行のため背中に風寒(ふうかん:風邪)を受け、衆生のために背痛を示現し、微かな苦しみを示されました。

十、菩薩の心の働きは、衆生が推し量ることはできず、特に密行(みつぎょう:密かな修行)を行う菩薩は、その心の働きを衆生は理解できません。例えば、釈迦仏が菩薩であった時、かつて一人の人を殺したことがあります。この人は船に乗っている時、船中の五百人の菩薩を殺そうとしました。仏はこれを知り、この人が無間地獄に堕ちないように保護するため、極めて重い慈悲心をもって彼を殺し、地獄の業を造らせないようにし、自らはそのために地獄に堕ち苦報を受けることを選ばれました。この他にも、仏菩薩が衆生を度す慈悲の善巧方便(ぜんぎょうほうべん:巧みな手段)を示す事例はありますが、一つ一つ全てを語ることはできません。そうでなければ、煩悩心の重い衆生がこれを口実に悪業を造る恐れがあるからです。

ある人が善であるか悪であるかを見るには、その人のその時の外見上の行為だけを見てはならず、主にその人の心の働きと心の地(こころのじ:心の本質)を見るべきです。その人が事を行う目的は何か、どのような結果に達するかを見るべきです。このような智慧は、普通の人々は通常備えておらず、大菩薩たちは分寸(ぶんすん:程合い)と火加減を掌握し、善く取捨と方便を知ることができます。衆生は表面の現象しか見えず、その実質を見ることができず、その真実の目的を知りません。したがって、多くの事柄について、菩薩は明白に衆生に告げることはできません。なぜなら、衆生は理解できず、智慧が浅く劣っているからです。

菩薩は衆生を度すために、衆生の中に潜伏し、屠夫(とふ:屠殺者)の身、妓女(ぎじょ:遊女)の身、嫖客(ひょうかく:客)の身、賭徒(とと:博徒)の身に化けて衆生と入り混じり、目的はただ衆生を生死の火坑(火の穴)から救い出すことです。ただ衆生を救済するためならば、菩薩は自らを汚すことを惜しまず、衆生の誤解や勘違いを惜しまず、あらゆる代償を払うことを惜しみません。菩薩の慈悲や、辱めを忍び重荷を負う心の働きを見ることができる者が果たして何人いるでしょうか。

十一、生死の流れに順(したが)う者は凡夫であり、生死の流れに逆(さか)らう者は阿羅漢であり、順(したが)わず逆(さか)らわない者は菩薩であり、彼岸に到る者は仏です。生死の流れに対して、菩薩の態度は、順わず逆らわないことです。なぜなら、生死の流れに順えば、菩薩は流転して苦しみ、自ら度されることもできず、どうして他を度せましょうか。生死の流れに逆らうならば、生死を捨て去らねばならず、阿羅漢のように無余涅槃に入らねばなりません。そうすれば色身五陰がなくなり、自らは修行を続けるどころか仏道を成就することもできず、広く衆生を度すこともできず、こうなれば自らの誓願に背くことになります。したがって、菩薩は生死に対して、逆らわず順わないのです。

十二、菩薩修行の三観(さんかん:三つの観法)の順序は、空・仮・中です。空観とは、一切の法は全て生滅し空幻であると観じ、一切法空を証得することです。この空観を基礎として修行を続け、第八識を証得した後は、一切の法は全て第八識が顕現したものであると観じます。したがって、一切の法は全て仮であり、全て第八識が幻化したものです。再びこれを基礎として修行を続け、一切の法は全て第八識の有為(うい:原因によって生じた)の功用(くよう:作用)であり、一切の法は存在せず、全てが第八識であり、一切の法の全体が即ち真如であり、十方世界が即ち一真法界(いっしんほうかい:唯一絶対の真理の世界)であると観じます。ここに至れば、仏果はすでに円満し、仏道はすでに成じ、仏道は全て歩み終え、仏法は全て修し尽くし、大乗の無学(むがく:学ぶべきものがない究極の境地)となるのです。

十三、波旬(はじゅん:魔王)のような悪い子に対しても、師父(しぶ:師匠)は一方で叱りながら、一方で手をその頭に置き肩を叩き、「おとなしくしていなさい、お前も将来は仏となるのだから、もう騒ぎを起こすな」と言います。衆生が皆仏となれること、衆生の苦しみを見るがゆえに、菩薩は一方では凶悍(きょうかん:荒々しい)な相を現しながら、一方では慈心に満ち、柔らかな心は千回も巡るのです。

慈悲心を修めた菩薩は、衆生の乱れた様子を見て、一方では溜息をつき衆生の愚痴を憐れみながら、一方では心が虚空のように全てを包容します。心の中は広大無辺であるだけでなく、非常に柔らかいのです。今、私の心はこの上なく柔らかく、またいたずら好きな悪いやつらをとても好きです。なぜなら、子供の頃からそういういたずらっ子たちと付き合ってきたので、彼らを嫌いではありません。

さらに言えば、一菩薩は覚るべきであり、一切の法は如来蔵が化したものであり、実際には一切の法は存在せず、全て如来蔵の空相と空性であることを知るべきです。如来蔵の中に隠れて清涼を享受すれば、どれほど自在で、どれほど心地よいでしょうか。ここ二、三日で弟子が言いました、「早く如来蔵を見つけて、それから如来蔵の中に隠れて清涼寂静を享受し、心の中に一切の是非や紛擾(ふんじょう:もめごと)の相をなくすのです」と。

諸法無行経(しょほうむぎょうきょう)に、行(ぎょう)とは運行・運転・出現の意味であり、諸法は実際にはその実体がなく、運行もないとあります。なぜそうなのでしょうか。一切の法は皆涅槃の相であり、寂静で作為がなく、生滅せず、繋がれることも縛られることもなく、解脱もなく、常に自ら寂静で虚空のようです。

一切の法は皆如来蔵の相であり、如来蔵を見れば、則ち一切の法を見ず、これが即ち如来蔵の中に隠れることです。どの法が如来蔵ではないでしょうか。全てが如来蔵の空性です。したがって、三界の世俗法相はなく、善悪の相はなく、乱れた相はなく、対立の相はありません。菩薩は常に畢竟空(ひっきょうくう:究極の空)に遊び、心は常に定(じょう:禅定)にあって何ものにも執着しません。もし何かに執着すれば、則ち菩薩ではなく、もし一切の善悪の相を見れば、則ち菩薩ではありません。したがって、私の心は柔らかく、柔軟極まりなく、言葉で言い表せません。

十四、明心以後、初めて真の大乗菩薩となります。もし心性が明心以前に真に捻じ曲げられておらず、まだ合格した大乗菩薩の心性を備えていないならば、真の大乗菩薩となることは難しい、あるいはできないと言えます。菩薩には菩薩としての品格がなければならず、人には人格がなければならず、仏には仏格がなければなりません。その心性は皆その果位に相応すべきであり、これが正常です。そうでなければ、それは偽の菩薩、偽の仏です。人格を備えていない者は、完全な人ではなく、真の意味での人ではありません。

十五、菩薩は無量劫(むりょうこう:無限の時間)にわたり十方の諸仏菩薩に学び、説法で正しい部分は十方諸仏の法に属し、誤った部分は自らの修証がまだ完全でない法に属します。仏法は一尊の仏に帰属させることはできず、ましてやある菩薩に帰属させることはできず、凡夫が仏法を持つことはさらにできません。仏法を持つ者は仏であり、菩薩法を持つ者は菩薩であり、凡夫法を持つ者は凡夫です。各レベルの人々には各レベルの法があるため、各人は大いなる心を発し、早く仏法を具足して初めて早く仏となることができるのです。

十六、法に対する観察は、最も究竟(くっきょう:究極)なのは仏です。菩薩の悟り後の観察でさえ徹底的で究竟ではなく、程度が足りません。したがって、菩薩の証悟は無数のレベルに分かれ、全ての法を頓(とん:突然)に悟ることは不可能で、全てを最も徹底的に悟ることも不可能です。菩薩の福徳は異なり、禅定は異なり、智慧は異なるため、悟るレベルも異なります。ある時点で、もし菩薩が四禅八定を修めなければ、以後の法は悟ることができず、制限されます。極めて大多数の仏法は、極めて深い禅定を通じて悟られるのです。

禅定の作用を否定しようとする人々もいますが、菩薩が禅定を修めなければ、道業は根本的に増進できず、ある階位、あるレベルで行き詰まり、越えられません。細法(さいほう:微細な法)や極細法(ごくさいほう:極めて微細な法)は必ず禅定と神通の配合がなければ証得できず、完全に証得することはできません。甚深の智慧もまた、極めて深い禅定と神通の配合の下で証得されるのです。

十七、菩薩は同時に阿羅漢でもあり、阿羅漢の行持(ぎょうじ:行いと保持)も持ち、禅定も持ち、心も清浄で煩悩がなく、解脱の智慧も持たなければなりません。菩薩の行持は阿羅漢を上回るだけで、阿羅漢を下回ることはなく、阿羅漢の品德は菩薩が全て備えるべきであり、ただ無余涅槃に入ろうとしないこと、これが真の大菩薩です。もしある菩薩の煩悩が非常に重ければ、もちろん阿羅漢にも及ばず、初果の須陀洹(しゅだおん)にも及ばず、それは真の菩薩ではありません。

十八、菩薩はいかにして性障(しょうしょう:根本的な障害)煩悩を阿羅漢のように降伏させるか

菩薩が性障煩悩を阿羅漢のように永く降伏させたいと思うならば、必ず初禅の定力を備えなければなりません。そうして初めて貪瞋痴(とんじんち:貪り・怒り・痴)の煩悩を断除する能力を持ち、その後、三界における四住地無明(しじゅうじむみょう:四つの根本的な無明)の煩悩を断じ尽くすことができながらも断ち切らず、ほんのわずかな思惑煩悩だけを残して断たず、これを性障煩悩を阿羅漢のように永く降伏させる、と言います。ここまで修到した時には、すでに初地満心の菩薩です。もし初禅の定がなければ、一点の煩悩も断つことができず、せいぜい一時的に伏せる(ふくする:抑える)だけであり、初地菩薩の性障を伏せることとは非常に大きな差があります。初地菩薩が性障煩悩を阿羅漢のように伏せるとは、初禅以上の定力を備えた条件下で、貪瞋痴慢疑邪見(とんじんちまんぎじゃけん:貪り・怒り・痴・慢心・疑い・邪な見解)を全て断除し、四住地無明をほんの少しだけ残し、全て断ち切らないことを指します。もし全て断ち切ってしまえば、無余涅槃に入ってしまうため、菩薩は断つことができるのに断たず、故意に残すのです。これを留惑潤生(るわくじゅんしょう)と言います。

もし菩薩の道をさらに上へ進んで修行するならば、悟後は必ず初禅定を修めなければなりません。初禅定があって初めて貪瞋痴の煩悩を断ち、三果人(さんかにん:小乗の第三果)となることができます。三果・四果人になって初めて初地に入る能力を持ち、初地に入れば、性障を阿羅漢のように永く伏せることができます。これは菩薩が必ず通るべき道であり、避けて通ることはできません。今世にこのように歩まなければ、来世いずれかで歩まねばならず、そうでなければ三果を証得することはできず、ましてや初地に入ることはできません。禅定はハードな指標であり、どれほど難しくても修めなければなりません。禅定がなければ、何の果位も語ることはできません。様々な果位の設定には全て相応の基準があり、相応の定がなければ相応の慧(え:智慧)を語ることはできません。定と慧は一体であり、定慧等持(じょうえとうじ:定と慧が等しく保たれること)なのです。

仏が説かれた戒定慧の三無漏学(さんむろがく:煩悩を漏らさない三つの学び)は、修行の総持(そうじ:要約・根本)です。私たちは戒を不要とすることはできず、戒を受けず持たずに直接慧を修めることもできず、定を不要とし修めずに直接慧を修めることもできません。戒がなければ定力の発起はなく、定力がなければ真の智慧の生起はありません。定水(じょうすい:禅定の水)が潤わなければ、たとえ慧があっても浅い慧や乾いた慧(乾慧:けんえ)であり、心の内の真実の受用(じゅよう:味わい・利益)がなく、貪瞋痴の煩悩を降伏させることはできません。そして貪瞋痴の煩悩を断ち切ることができなければ、解脱の功徳受用はありません。特にこの濁った末法時代において、私たちの修行は決して仏陀の教えを廃棄し背いてはならず、仏陀の説かれた三無漏学に厳密に従って修行して初めて、何らかの成就を得ることができるのです。悟前は三無漏学を修行し、悟後も三無漏学を修行し、地上菩薩もなお三無漏学を修行しなければなりません。そうして初めて速やかに一切の法を円満成就し、早く仏となることができるのです。

十九、菩薩は阿羅漢のように思惑煩悩を断じ尽くすことはできない

一念無明(いちねんむみょう)は、見一処住地煩悩(けんいっしょじゅうじぼんのう:一つの誤った見解に住する根本煩悩)、欲界愛(よくかいあい:欲界への愛着)、色界愛(しきかいあい:色界への愛着)、無色界愛(むしきかいあい:無色界への愛着)を含みます。菩薩は一念無明を全て断じ尽くさず、留惑潤生(るわくじゅんしょう)をします。惑(わく)とは、迷い、痴業(ちごう:痴による業)、無明であり、小乗では主に貪瞋痴慢疑などの思想観念上の迷いや倒錯を指します。見(けん)とは、見惑(けんわく:誤った見解)、我見(がけん:自我への執着)、知見上の迷いや倒錯です。一念無明を全て断じ尽くした者が四果人であり、大乗では八地菩薩に相当します。菩薩が初地に入る時、小乗の果位は四果人に近く、初地満心に至れば、完全に一念無明を滅し、我執を断じ尽くし、真の四果人となることができます。しかし菩薩は八地以前は、我執を断じ尽くすことはできず、一念無明を断じ尽くすことはできません。そうしなければ三界を出て無余涅槃に入り、そうなれば五蘊身を持って自利利他を行うことができず、仏となることもできません。したがって菩薩は十の無尽大願を発し、永遠に衆生を利楽して尽きることがなく、三界を出て苦難から逃避しないことを誓います。それ故に菩薩は我執を断じ尽くさないうちから法執(ほうしゅう:法への執着)を断ち始めるのです。

菩薩が広く衆生を度すため、無余涅槃に入らないようにするには、見惑は全て断じ尽くし、ほんのわずかな思惑煩悩だけを断ち切らずに残します。どのような思惑煩悩を残すのが適切でしょうか。最も軽微な思惑煩悩、すなわち無色界愛を残すべきです。無色界の禅定の境界にわずかに貪着(とんじゃく:執着)することで、自らが涅槃に入らないことを保証し、世々に色身を保ち、自利利他を続けることができます。あるいは仏法への貪愛を保ち、この種の貪りに依って三界に留まり、仏法を修行し続けることができます。もし欲界の貪愛煩悩を残せば、道を著しく妨げ、初禅定を失うだけでなく、三果の証量(しょうりょう:証得のレベル)を退失し、初地の功徳も退失してしまいます。したがって地上菩薩は必ず欲界愛を非常に徹底的に断じ、ほんのわずかも残してはならず、欲界の貪りと瞋恚(しんに:怒り)は徹底的に断除し、慢心も断除し、ただ無色界の禅定への貪り、あるいは仏法への貪愛だけを残して断たず、他の惑業煩悩は全て断じ尽くさなければなりません。六・七地菩薩に至れば、無色界の禅定への貪愛も断除しなければ道業は増進せず、ただ成仏の法への精進追求だけが無余涅槃に入らないことを保証できるのです。

初地菩薩は一分の無生法忍慧(むしょうほうにんえ:一切の生滅を離れた法を忍び認める智慧)を証得し始め、妙観察智(みょうかんざつち:一切を正しく観察する智慧)を用いて、蘊処界(うんじょかい:五蘊・十二処・十八界)の和合によって生じる法の中に我も我の所有もないことを観察できます。衆生はまだ妙観察智を修めるに至っていないため、法無我(ほうむが:法に実体の我はないこと)を観察し証得する能力がなく、したがって法我執を断つ能力もありません。初地菩薩は留惑潤生のため、世々に五蘊身を保って世間で自利利他を行うため、完全に我執を断じ尽くすことはできません。そうしなければ三界を出てしまいます。しかしこの時、法執を断ち始めるのです。初地菩薩は百法明門(ひゃっぽうみょうもん:百の法を明らかにする門)を修学した後、蘊処界の和合によって生じる百法の中に我も我の所有もないことを証得し、その後、二地に入って倶生法執(ぐしょうほうしゅう:生まれながらの法への執着)を破り、法執を断じ尽くせば、十地・等覚菩薩となるのです。

二十、菩薩は覚有情(かくうじょう:悟った有情)であり、自らがすでに悟った有情です。そして、他の有情を悟らせ、自利だけでなく利他も行います。菩薩はまた大心の衆生であり、個人の安楽を得ようとせず、ただ衆生が苦しみから離れることを願い、心量が広く大度で、全てを包容します。まるで弥勒菩薩のように、大きな腹で天下の難容(なんよう:容れ難い)の事を容れることができるのです。真の菩薩の目には、是非がなく、対立がなく、心の中は通達し、一切の人事物と怨み敵対しません。菩薩は見るもの全てが自分自身であり、自心の影像であり、心の外に物はありません。菩薩の目には悪人はおらず、ただ縁が熟していない、一時的にはまだ教化できない衆生がいるだけです。

菩薩が衆生を観る時、表面の善悪を見ず、実質に重きを置き、善根、潜在能力、福徳、因縁、智慧を見ます。観音菩薩は常に様々な形に変化して、衆生を度化します。しかし彼が度化する衆生は、表面的な善人とは限らず、縁が熟した人です。縁が熟した人は、たとえ表面的に悪くても、善根は無比に深く厚いのです。度されてからは、善を造る力は小善人よりも百千万倍、無量倍も強いのです。『楞厳経(りょうごんきょう)』では一人の淫女(いんにょ:遊女)が世尊に度されて四果阿羅漢となり、あの善人たちは依然として凡夫のままでした。勇施比丘(ゆうせびく)は重い戒を犯しましたが、世尊に度されて悟りを開いた大菩薩となり、あの戒を守る比丘たちは依然として凡夫でした。唐代に一人の猟師がおり、よく鹿を殺していましたが、出家の因縁が熟した時、禅師に遇い、禅師の数句の問答で比丘に度され、まもなく明心悟道しました。

したがって、善悪ということはなかなか言い難く、衆生の根性もなかなか言い難いものです。多くの場合、悪人と見なされた人は、善根が深く厚く、智慧が高いため、縁に遇って修行すると非常に速いのです。一方、心性が通達していない小善人たちは、後ろで必死に追いかけても追いつくことができません。仏は智慧による解脱、智慧による成仏を説かれました。心性が通達し、一切を包容すること、それが即ち智慧なのです。

私たちの如来蔵を見てください。決して一つの法と敵対せず、常に一切の人事物を包容し、善悪是非の良し悪しに関わらず、衆生が何をしても全てに順って過ぎ去ります。衆生が天に上れば、天に上ることに順い、衆生が地に入れば、地に入ることに順います。こうして、如来蔵は円満に一切の法を成就するのです。どの法にも、滞りなく現れることができます。直(すぐ)なものに遇えば直になり、曲がったものに遇えば曲がり、四角なものに遇えば四角に、丸いものに遇えば丸くなります。心性は剛直であっても、曲がるべき時には曲がることを妨げません。こうして初めて、永遠に卒暴(そつぼう:突然暴れること)せず、永遠に砕かれることなく、永遠に生滅しないのです。心性が通達すれば、無量の福徳と智慧の徳能(とくのう:能力)を持つことになります。

二十一、世俗人の愛は、皆、小我の個人の何らかの利益を前提としたものです。もし個人にこの利益の保証がなければ、そのいわゆる愛は消え失せるか、あるいは憎しみに変わります。一方、仏菩薩の大いなる愛は、無我無私であり、衆生が利益を得るためのものです。それ故に、仏教のため、衆生のためにあらゆる代償を払うことを厭わず、衆生の誹謗や理不尽な言動を気にしないのです。

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