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仏法雑談(第一部)

作者: 更新時間:2025-07-13 06:37:49

第一章 極楽世界篇

一、仏が観無量寿経に説かれる三輩九品の往生について、世尊は観経において衆生に開示された。極楽世界への往生には上中下の三輩九つの品級がある。そのうち上輩往生は、大乗を修学する心を発し、大菩提の道を歩み、明心見性を願い、無量の衆生を広く利益する者である。中輩往生は小乗の心を発し、ただ個人の生死の苦からの解脱を求める者である。下輩往生は大いなる悪業を造った者で、臨命終時に善根が顕現し、極楽世界への往生が決定する。

上品上生は、極楽世界に生まれて、蓮華の中に住む必要がなく、直接阿弥陀仏に会い、仏の説法を聞く。なぜならこの者は娑婆世界ですでに明心見性し、心の中の無始の無明を断除し、我見を断じたため、蓮華の宮殿の中で大乗を薫修する必要がないからである。仏に会う時、阿弥陀仏の説く甚深な大乗の法を理解でき、かつその場で無生法忍を証得して如来の家に入り、地上の菩薩となり、広大で甚深な智慧を具足する。その後、十方世界に分身し、意のままに十方諸仏を供養し、縁に随って十方世界で衆生を度脱する。

上品中生の者は明心見性していないが、大乗方広の経典を読誦できる。指を弾く間に極楽世界に到着した後、極楽世界の蓮華の中に極楽世界の一宿(一晩)住まねばならない。これは娑婆世界の半大劫の時間に相当する。その後、蓮華から出て、極楽世界の七日後に仏に会い説法を聞き、開悟して不退転の菩薩となる。さらに極楽世界の一小劫の時間を経て、初地の菩薩となり、如来の家に入る。極楽世界の一日は娑婆世界の一大劫、すなわち1680万年に80を乗じた長さの時間に相当する。

上品下生は、蓮華の中に極楽世界の一日一宿、すなわち娑婆世界の一大劫の時間住む。その後、蓮華から出て、極楽世界の七日後に仏に会うが、仏像をはっきり見ることはできない。さらに極楽世界の二十一日を経て、仏の説法を聞き開悟して明心する。さらに極楽世界の三小劫を経て、初地の菩薩となり、如来の家に入る。

中輩往生は、一般的に小乗の根性の者で、大乗の菩提心を発しておらず、大乗経典を読誦する必要がない。中品上生は、極楽世界に到着して直接仏に会い、説法を聞いて即座に三明六通の大阿羅漢となり、舎利弗や目犍連などと同等の位に至る。中品中生は、蓮華の中に極楽世界の七日間住み、蓮華から出た後、初果を証得する。さらに極楽世界の半劫の時間を経て、四果の阿羅漢となる。中品下生は、蓮華の中に極楽世界の二十一日間住み、蓮華から出た後、説法を聞いて初果を証得する。さらに極楽世界の一小劫を経て、四果の阿羅漢を証得し、仏力の加持により永遠に無余涅槃に入らず、心を回向して大乗仏法を修学する。

下輩往生はすべて大いなる悪業を造った者で、極楽世界の蓮華の中に住む時間が極めて長い。

二、世尊は阿弥陀経において、衆生が極楽世界に往生した後、蓮華の中で苦・空・無常・無我の法、苦集滅道の四聖諦の法を聞き、花鳥樹木が同時に苦・空・無常・無我を演暢すると説かれた。極楽世界でもなぜ四聖諦の法を学ぶ必要があるのか? 私たちの娑婆世界で釈迦仏が説かれた四聖諦と同じ内容なのか? もちろん同じである。なぜなら仏仏道同じく、法法不二であるからだ。四聖諦の法は仏法の最も基礎であり、入門の法である。すべての学仏者はこれを修証し、自我を降伏させ、我見と我執を断除しなければならない。

極楽世界の蓮華の中で苦諦を薫習し、衆生に五陰自身の苦を感受させることは、非常に容易ではない。なぜなら極楽世界はすべて楽であり、あまりにも享福しているため、五陰の苦を体会しにくいからだ。娑婆世界では苦楽半ばするが、それでも衆生は苦を体会できず、生死輪廻からの離脱心を生じることができない。ましてや極楽世界で苦諦を薫習し、苦・空・無常・無我の法を薫習するのは、苦を感受することがより難しく、離脱心を生じることがより容易ではない。したがって蓮華の中に非常に長い時間住み、ゆっくり薫習する。いつ薫習が成功し、暖相(修行の進展を示す兆候)が現れ、心の煩悩や性障がいくらか降伏し、もはや悪業を造らなくなって、初めて蓮華から出ることができる。その後、仏あるいは菩薩、あるいは化仏・化菩薩の説法を聞き、その後に開悟と証果を得るのである。

極楽世界の一日は娑婆世界の一大劫に相当する。中品中生は七日間住み、蓮華の外に出ることはできず、自由自在にあちこちに行って法や菩薩に会うことはできない。なぜ自由に動き回れないのか? 娑婆世界の念仏者はまだ性障煩悩を降伏させていないため、もし極楽世界で自由に活動すれば、いたる所で悪業を造り、まもなく極楽世界を娑婆世界のようにしてしまうからである。それは大変なことである。したがって煩悩を降伏させていない者は自由に活動できず、蓮華の宮殿の中に住んで四聖諦を薫習する。煩悩が降伏して初めて、外に出て十方世界に十方諸仏を供養することができる。

煩悩の降伏には、極楽世界の七日から二十一日、さらには十二大劫を要する。極楽世界で一日が過ぎると、娑婆世界ではすでに成住壊空の一周期が終わっている。蓮華を出た後、阿弥陀仏あるいは仏の化身の説法を聞いて、初めて小乗の初果から四果を証得する。では私たちが娑婆世界で四聖諦を学ぶ場合、非常に努力すれば、数年で証果し、煩悩を降伏させるのも速い。もしただ念仏するだけで、何の法も学ばず、極楽世界に行ってから学ぶなら、どれほどの時間をかけて学び終えることができるのか? 娑婆で菩薩の六度を修学し、たとえ三十年修行して条件を満たせば、明心見性できる。その後、極楽世界に行けば、地上の大菩薩となり、それから極楽を離れずに娑婆に戻るのである。

それぞれの世界で仏法を修学するには、利点もあれば弊点もある。楽しい世界は劫が長く、苦しい世界は劫が短い。娑婆では、もし煩悩を降伏させていなければ、うっかりすると業を造り、三悪道に堕ちて苦しむ。しかし私たちが正しい仏法を修学すれば、道理を明らかにするのは速い。道理を明らかにした後は、煩悩を降伏させやすくなる。煩悩が降伏すると、私たちは楽に自在となり、どこへでも自由自在に行ける。因果を信受することは重要である。私たちが毎日、毎時毎刻の身口意の行い、造作するその瞬間に、第八識がそれを保存する。将来、因果律が実現し、果報が現れる。因果を理解し、定力があれば、煩悩を降伏させ修行は速く進む。そして正しい大乗の法、特に明心見性の法を修学すれば、因を識り果に達し、もはや悪行を造ることを敢えてしなくなる。したがって私たちは努力して法を学ぶべきである。明心見性した後、十方世界に意のままに往生できる!

三、極楽世界への往生は、小乗の初果を証得するよりも難しいかもしれない。なぜなら往生には条件があり、深い信・願・行の三資糧を具足し、福徳を具足し、因縁を具足し、三福浄業を成就し、臨終に心が散乱せず、かつ顛倒しないことが必要である。このいくつかの条件を満たすことは実に容易ではない。末法の衆生は福が薄く定が浅く、煩悩・習気・業染がすべて重く、心識が散乱している。現代社会は五欲が熾盛で、衆生の意根が世俗法への攀縁があまりにも重い。どんなに念仏しても、心は染着から離れない。普段の念仏の心さえ散乱しているのに、ましてや臨終時に四大が分解する時は、生き亀の甲羅を剥ぐが如く、あれほど苦しい。たとえ予知時至(往生の時を予知する者)があっても、阿弥陀仏がまさに迎えに来ようとする時、突然一念「娑婆」と思えば、心は娑婆に鎖され、極楽世界には縁がなくなる。

例えば、ある予知時至の女性居士(在家信者)が五十歳代で、仏が「ある日の正午十二時に迎えに行く」と告げた。彼女はそれを知り、寺院の師父に「寺院で往生したい」と伝えた。これにより表法(模範を示す)し、衆生すべてに信受させようとした。往生のその日、多くの居士が寺院に彼女の往生を見に来た。皆が彼女のために念仏し往生を送った。しかし彼女は表法のためにすでに心が分散し雑念が生じ、一心に念仏していなかった。結果、十二時になっても仏は来ず、さらに長い間念仏を続けたが、仏はまだ迎えに来なかった。そこで彼女は荷物をまとめ、家に帰り、引き続き娑婆世界で念仏修行した。これは実話であり、決して虚構ではない。

したがって臨終時に一心不乱となり、世間の事を放下できるのは、三果を証得して貪愛を離れていない者には難しい。では普段ただ念仏するだけで、五陰が虚妄であることを知らず、万法が虚妄であることを知らず、煩悩を降伏させず、心中にまだ貪愛が熾盛で、放下できないことが非常に多いなら、臨終時にはなおさら娑婆世界の縁を放下できず、一心に往生を求めることはできない。現在、多くの念仏者は年を取るほど家の親族や眷属、財物に貪着し、たとえ重病でもそうである。もし「放下して往生を求めなさい」と言えば、「私はまだ修行が足りない。修行ができてから往生を求めます」と言う。あるいは「まだ処理し終えていないことがある。処理が終わってから往生を求めます」と言い、さまざまな言い訳が非常に多い。そうであるなら、臨終時、心中はすべて娑婆であり、どうして極楽世界に往生できようか?

一方、娑婆世界で阿含経を学び四聖諦を修め、我見を断ち小乗の初果となるのは、比較的容易である。なぜなら小乗の阿羅漢果を証得するには多くの福徳を必要とせず、定力は未到地定かそれよりやや浅くてもよく、五戒をよく守ればよく、貪愛を断つ必要もない。ただ五陰に対して厭離の心を生じ、五陰十八界の虚妄性・無常無我性を観行すればよい。数年で十分であり、長くても二十年で十分である。初果を証得した後、極楽世界に往生すれば中品上生となり、極楽世界で直接仏に会い、蓮華の宮殿に包まれることなく、即座に三明六通の四果の大阿羅漢となり、舎利弗や目犍連と同等となる。その後、仏の加持のもとで永遠に涅槃に入らず、大乗を修学し、十方世界に意のままに遊行し、十方諸仏を供養し、十方諸仏に随って仏法を修学する。

したがって私たちが仏を学び修行するには、必ず仏が在世中に何を説かれたか、具体的に私たちにどのように修行するよう求められたかを見るべきである。ただ一人の見解だけを聞かず、ただ一つの経典だけを見ず、総合的に仏が究極的に私たちにどのように修行するよう求められたかを全面的に見るべきである。世尊が私たちに残された三蔵十二部の経典は、娑婆世界の一万二千年の間の衆生の根基に適している。私たちは努力によってよく修めることができ、自分自身に信心を持ち、三宝に信心を持つべきである。戒定慧の三無漏学を修行し、福徳資糧を集聚し、発した四弘誓願に従って精進修行し、誓願に背かず、無量の善法を広く行い、自利利人する。修行の殊勝な功徳と清浄な大願によって、高品位で極楽世界に往生し、その後極楽を離れずに娑婆に戻り、広く衆生を度脱し、一日も早く共に仏道を成就すべきである。

四、末法の時期、もし観無量寿経の観行に従って修行すれば、その成就は速くかつ確実である。もし関連する比較的詳細な極楽世界の宝蔵図があって観想の導きとすれば、私たちは皆、第一観から第十六観まで観じることができる。第三観が成就すれば、必ず極楽世界に往生することが保証され、予知時至よりもはるかに信頼でき確実である。しかも禅定は永遠に失わず、仏力は永遠に加持する。第三観が成就した時、禅定は非常に良く、三悪道の業は消除され、再び業障によって三悪道に堕ちることはなく、禅定も退失しない。したがって必ず往生する。

第七観に至れば必ず明心して証悟する。仏力の加持があるため、解悟(理解による悟り)は不可能で、証悟(体験による悟り)しかない。極楽世界に至れば、その果報は比類なく殊勝である。自分で修行した禅定は、業力と無明のため、縁に遇えば退失する。仏力の加持を受けた禅定は、永遠に退失しない。第三観以後はこのようである。

五、仏国浄土あるいは極楽世界の生活と仕事の方式はどのようなものか

極楽世界に類似した浄土に、もしまだ日常生活があり、まだ仕事があるなら、それは娑婆世界と同じく在家者の世間国土のようであり、もはや浄土ではない。衆生には必ず貪瞋痴の煩悩があり、必ず出家者と在家者の二大部分に分かれ、娑婆世界と何ら変わらない。

なぜなら清浄な仏国土では、すべては変化によって有り、労働する必要がなく、生活や仕事をする必要がない。それによって人心は清浄無染となり、私欲がなく、男女もなく、家もなく、比類なく清浄である。したがって出家と在家の区別もなく、全体が修行者である。ただ娑婆世界に類似し、男女の区別があり、家室の煩わしさがあり、仕事や生活が必要な場合にのみ、出家と在家の区別がある。したがって仏は娑婆世界では出家僧を主とし、大衆を導いて仏法を修行させ、仏教は出家僧によって住持され、仏法は出家僧によって弘伝されるよう制定された。仏が涅槃に入られる時、在家の大菩薩たちが仏法蔵を継承し、仏に代わって弘法するよう求めたが、仏は許されず、出家僧団に仏に代わって弘法し、仏法の三蔵十二部を護持するよう命じられた。

清浄な仏国土および天界では、衆生に男女の区別がなく、家庭もない。したがってすべて出家修行者であり、再び出家する必要がない。家がないのに、どうして出家が言えようか? 浄土の衆生および各大菩薩、等覚菩薩に至るまで、すべて家がなく、現じる相も男女を分かたない。したがって彼らは出家する必要がなく、出家相を現す必要もなく、すべて出家僧であり、しかも菩薩僧である。したがって彼らはすべて頭を剃る必要がなく、すべて僧衣を着る必要がなく、すべて出家戒を受持する必要がない。

六、普段、心が降伏せず、貪念が絶えず、瞋念が絶えない者が、臨終にすべてを放捨し、一絲も染着せず、一片も持たず、清々しく、無牽無掛のまま極楽世界に往生することは、果たして可能か?

実を言うと:極楽世界への往生は、我見を断つよりも難しい。臨終の一念「娑婆」、一念の未練、一念の忍びない思い、一念の瞋り、この一生の修行はただ善根を植えるだけで、極楽世界は望むべくもなく、引き続き娑婆世界で生死流転する。人間の身に流転し続けることさえ難しい。非想非非想処天の天人の心は清浄ではないのか? 臨終に悪業の縁が熟せば、やはり地獄に入る。ましてや欲界の人間界では悪縁がそれほど多い。臨終は多くの場合、業縁・業力が決め、人が普段思っている主観的な考えが決めるのではない。予知時至の者でさえ娑婆に留まる。それも一念が衆生のため、表法のためであって、自分のためではない。ましてや他の状況では、冤親債主(怨みや恩のある霊的存在)が次々とさまざまな方法で絡みつき、もつれ切れず、善悪の縁がすべて現れる。誰が抜け出せようか?

極楽世界への往生が容易ではないと言うと、不服に思う人もいる。今の人がどのように念仏し、どのような心で念仏し、心にどのような願力があり、どのような目的で極楽世界に行こうとしているかを見れば、現在の念仏者が命終して極楽世界に行けるかどうかがわかる。浄土聖賢録を開き、古人がどのように念仏したかを見て、比べれば、現在の念仏者が極楽世界に往生できるかどうかがわかる。極楽に生まれようとする者の根器が良くないと言うなかれ。禅を参じて明心開悟しようとする者でさえ、どのような根器か。五戒を守るのもあれほど困難で、菜食したいが条件がない。他のことは言うまでもない。

すべて阿弥陀仏の接引に頼るなら、事ははるかに簡単になるのではないか? 一仏で天下のすべての衆生を度し尽くせ、十方諸仏は必要ない。そんな都合の良いことがあるのか? 一句の仏号を念じて極楽世界に行き、それから成仏を待つ。命終に片手で極楽世界の阿弥陀仏を引き、片手で娑婆世界の冤親債主を引っ張り、このようにして成仏するのか? これは不可能である。

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