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禅定の修めと参禅による悟りの道(第二部)

作者: 更新時間:2025-07-12 07:17:36

第七章 禅の参究方法(2)

十三、真の聞性を如何にして証得するか

十八界の中から一つの門に深く入って修行するとは、十八界の一界を観じ、この一界から法界の実相に悟入し、三昧を証得して大智慧を開くことである。例えば耳根の門から修行を始め、禅定が具足した時には、聞性の上で観行を行い、耳根の聞性の生滅する源に何があるかを反観し、それによって生滅しない真の聞性を証得するのである。参究し反観する中で、心の念いを音声の中に落としてはならない。音声の内包する意味を思惟してはならず、虚妄の法に落ち込んではならない。そうでなければ聞性の根本と実質を証得できなくなる。音声の外で参究し、音声の源と起こる処を究明し、根底を追い求めなければ、聞性の本源を見出すことはできない。

十四、靈感は如何にして現れるか

研究によれば、突発的な生命の脅威に直面すると、恐怖の感覚が瞬時に脳を支配するため、多くの哺乳類(人類を含む)はその場で動かなくなる――これがフリーズ現象である。フリーズ時には体内のエネルギーが集中し、場のあらゆる情報を全面的に受け入れ始める(瞳孔の拡大、目を見開くなど)。そのため、後で描写する際、当事者は恐怖感が襲ったこの瞬間の記憶が異常に鮮明で詳細である。しかしこの瞬間に続く記憶は曖昧になり、全く覚えていないことさえある。では次の問題がある:(一)身体のこれらの現象は誰が掌握しているのか?(二)フリーズと定住、禅定は同じか?(三)なぜフリーズ時に起きたことは記憶が非常に鮮明なのか? その後は記憶が曖昧で思い出せなくなるのか?

答:(一)意根は如来蔵に随って、色身が遭遇するあらゆる状況を常時了別し、常に色身を調節できる。意根の心が動くと、大脳中枢神経系から全身の神経系に信号が送られ、全身に神経反応が現れ、意根の思想感情が表現される。

(二)フリーズ時は短い瞬間の禅定であり、注意力が高度に集中している。これは定住とも呼ばれる。身体は動かず、意識の思想も動かないが、意根は非常に集中して思量し、対策を探り、危険を脱する機会を求め、しばしば窮地で知恵が湧く。これこそが定の特徴と結果であり、定は慧を生む。定の中では意根が非常に鋭敏で思考が敏捷であり、しばしば危機を転じて安泰となる。

(三)フリーズ時には意根が高度に注意力を集中でき、心の念いが散らばらず、六識が乱れ動かないため、意根の思量に影響を与えない。この時、塵境に対する観察はより微細になり、観察力が向上するため、記憶力もより良くより強固になる。故にフリーズ時の情景は記憶に深く刻まれる。フリーズ段階を過ぎて禅定が消えると、心は散乱するため記憶力は低下し、その後は状況をはっきり覚えていられなくなる。

かつての禅師たちが悟道した際も、自らの疑情が正に濃厚な時に、突発的な事件に遭遇してストレス反応により霊感が現れ、悟道した例が少なくない。学人が参禅中に疑情が非常に濃い時、師匠が突然大喝一声したり突然他の方法を用いたりすると、学人の霊感を触発して開悟する可能性がある。かつて禅堂で坐禅の合間に行者たちが下座して禅堂を歩いたり小走りしたりしている時、師匠が突然「停まれ」と叫ぶと、突然止まった瞬間にも開悟することがある。不意を突かれる時は霊感が現れやすい。このような開悟は真実の努力の結果であり、全て意根が直接に悟り、直接体験するもので、親証と呼ばれる。単なる意識の悟りではない。この時は思考する暇はなく、悟るなら悟るのであって、思考して念いを動かしてはならず、あれこれ考えず、直接に悟る。これが意根の悟りである。

十五、第二の月を尋ねて第一の月を求めることこそ参禅である

もし誰かが私に悟りを示せば、私はその者に一撃を加える。この一撃が第二の月であり、空谷の反響である。聡明な者はこれに依ってこの第二の月の根源――本真の第一の月を探し求められる。これは何と痛快で、胸のすく思いではないか。どうして盲猫が死んだ鼠に偶然出会うように、終日そこに静坐して、妄想念が無くなり、一瞬清浄になっただけで、第八識の清浄な体性と照らし合わせ、このような清浄な境界は何の念いもなく、何の妄想念もなく、第八識によく似ていると思い、「これこそ私の本心である第八識ではないか? これこそ私の法身如来仏ではないか?」と言う必要があろうか。

誰があなたにこのように如来仏を認めよと教えたのか? もしそうなら、あなたに妄想念や念いがある時、あなたの如来仏は死んでいて、まだ生まれていないのか? あなたが後に定力が消え、念いが生じ、妄想念が現れた時、あなたの如来仏は消失して滅びるのか? もしそうなら、なぜあなたの如来仏には生滅があるのか? どうして増減があるのか? なぜ変化するのか? どうして一時的に存在し一時的に存在せず、絶えず見守る必要があるのか? 事実は、あなたのこの念いや妄想念のない清浄な境界は単なる第二の月であり、第一の月から転じたものである。あなたはこの第二の月に留まってはならず、急いでその経路を追って第一の月を求めなければならない。あの第一の月は本来清浄であり、いつでも清浄で念いがなく、坐禅をしなくとも本然として存在している。それがあなたの真心であり、法身如来仏である。

また、「ぱっ」と前念が断たれ後念がまだ生じていない中間の空白を誤って認める者もいる。この空白が歴歴として孤明であり、了々として分明で、はっきりと明らかであることを感じ、これこそが自らのあの念いも思惑もなく本自清浄で不生不滅の本心如来仏主であるとする。しかしもしそうなら、あなたが「ぱっ」と妄念を断ち切る前、仏主はどこにいたのか? まだ生まれていなかったのか? しばらくして妄想念が現れたら、あなたの仏主はまたどこへ行ったのか? 滅したのか? 妄想念がない時にはっきりしているものは何か? 明らかなものは何か? 何がはっきりと明らかなのか?

事実は、あなたのこの前念が断たれ後念がまだ生じていない中間の空白も、ただ第二の月に過ぎず、第一の月が幻化したものである。あなたは歴歴として孤明な境界に沿って背後にある本尊第一の月を求めなければならない。これが参禅である。本心自性如来は、あなたの現在の清浄で妄想念のない境界を決してはっきりと明らかにはせず、またいかなる世間の五陰の境界も決してはっきりと明らかにはしない。それは何も知らず、見ず聞かず覚えず知らず、孤でもなく歴でもなく、中間にも両端にも存在しない。生滅増減する虚妄の法である意識こそが、一時は妄想念があり、一時は妄想念がなく、一時ははっきりと明らかであり、一時はぼんやりと明らかでなく、一時は孤歴であり一時は喧騒である。真に自心の仏を認めた時には、何をしていようとも、たとえ人を殺し火を放っても、自心の法身仏は依然として存在し、依然として妙用を起こす。それは滅したことがなく、刹那ごとに相応の機能作用があり、空っぽで呆然として何もしない愚かな仏ではない。

それはただあなたの眼前に揺らめくだけでなく、同時にあなたの背後で黙々とあなたに奉仕する。それはただあなたの心が清浄で妄想念や煩悩がない時に現れるだけでなく、あなたが無鉄砲な時にも現れ、あなたが天宮を大騒ぎし山岳を傾倒させる時にも現れる。それはただあなたが天国に上る時に現れるだけでなく、あなたが地獄に堕ちる時にも現れる。もしあなたが真にそれを見出せば、至る所でそれを見出せる。もしあなたが他の場所でそれを見出せなければ、あなたがこの場所で見出したものはそれではない。真に一人の人を認識すれば、その人がどこに行ってもあなたは認識できる。一人の人を誤って認めれば、他のいかなる場所でも、あなたは真人を認識できない。

十六、いつになって末後句を参究できるか

末後句とは、生死の衆流を断ち切る句である。生死の流れとは何か? 生死の流れを如何にして断ち切るか? 末後句を会得するにはまずこの問題を思考しなければならない。初禅定を得た後、二果を証得した後、如幻観と陽炎観を過ぎてから、初めて末後句を参究し始める。末後句を参究し通し、有余依涅槃を証得すれば、生死の牢関を過ぎることができ、三果の人となり、三界の生死の流れを出る能力を持つようになる。

末後句に関する公案や句は、全て暗号のようなもので、生死の問題を解決する鍵を示唆している。これは自ら参究する必要があり、人に明言させてはならない。たとえ明言されても、自らは微塵の利益も得られず、自悟の門を妨げてしまう。初禅定がなければ、前の関門を過ぎず、煩悩を断たなければ、参究して得ることはできない。前段階の基礎がなければ末後句を理解できず、小乗では二果の人でなければならず、大乗では如幻観と陽炎観を過ぎて初めて多少理解できるようになる。その後さらに参究して、初めて少し道筋が見えてくる。

もし禅定を修めなければ、いかなる法も証得することは不可能である。初禅定がなければ、陽炎観は証得しにくく、後の様々な観行はなおさら望むべくもない。多くの法に対して、自らの解がどの程度に至っているか、証得までの距離が果たしてどれほどあるかを明らかにすべきである。ある法を事前に解してしまうと、再び証得するのは難しい。禅定などの因縁条件が不足している時は、全て回避し、解してはならない。そうでなければ証得できなくなる。全てが解だけでは、生死を如何にして断ち切るのか? 解と解悟にはまだ大きな差がある。これらは全て自らが理解し、智慧を持って判断し選択する必要がある。仏法は絶対に曖昧にできず、毫厘の差が千里の誤りを生み、結果は大きく異なる。

十七、啐啄同時(そったくどうじ)

修行者がまだ成道していない時は、皆割れていない卵のようである。この卵をいつ割るか、如何にして割るかは、確かに大学問であり、大いなる文章がある。割る時機を誤ると、割った後は腐った卵となり、食用にもならず、ましてや雛が孵化することは望むべくもない。全く外力に卵を割らせることに頼ると、往々にして割れるのは腐った卵で、何の役にも立たなくなる。

故に修行は主に自らに頼るべきであり、外力は少し温度を与えればよい。内側で自ら変化し、自らを変えるのである。腐った卵の廃材になりたくないなら、他人の引き立てをあまり当てにしてはならない。中には学んで間もなく、卵がまだ非常に固い段階で、師匠に早く導いて開悟させてほしいと求める者もいる。このように悟って何が得られるのか? 何を悟っても無駄であり、廃材に過ぎない。生卵が温まり始めたばかりで、焦って殻を破ろうとしても、せいぜい料理して食べられるだけで、大したものにはならない。

卵殻の中の生命が次第に成熟に近づくと、様々な特徴が現れる。最後には雛が必ず自ら殻を啄み、どうしても啄み破れない時、鶏の嘴がまさに破れんとする所で外力が加わって軽く破れば、生命は成功裡に誕生できる。このような雛は強壮で力強く、生命力が強い。雛の誕生は、その大部分が自らの努力の結果であり、ごく一部が外部の温度環境と母鶏の保護によるものである。

修行もまた同様であり、その大部分が自らの精進努力にあり、ごく一部が師匠の教導と助力による。かつての祖師たちが弟子を接引したのは、皆啐琢同時であり、時機をよく掌握していた。なぜか? 祖師は真の祖師、真の禅師であり、真に道を得ており、道力があるだけでなく道眼もあり、秋毫をも明察し、機根を観て教えを逗すことができたからである。当時の学人は幸運であり、非常に幸運であった。もし学人が三十七道品を修めず、六度を具足せず、因縁も至らなければ、禅師は決して手を下して接引しない。弟子の法身慧命が最も重要であり、皆見せびらかすことをせず、責任感が非常に強かった。もし誰かがでたらめに接引し、数を揃える疑いがあるならば、自らその者に道がないことを知るべきであり、避けるのが最も安全である。卵を守り、簡単に割ってはならない。誰が進んで割ろうとしても、一律に拒絶せよ。

十八、臨済禅宗の四料簡

臨済禅師の四料簡は次の通りである:人を奪って境を奪わず、境を奪って人を奪わず、人境ともに奪い、人境ともに奪わず。奪とは、剥奪、剥離、遣除、消除、消滅を指す。人とは、主観的な我、能く攀縁する識を指す。境とは、攀縁される塵境を指す。この三文字の意味は、参禅の過程でなすべき工夫、根塵境界を降伏させ、能と所を剥離・消除し、次第に身心五陰の我見を断除することに及んでいる。我見があることは遮障であり、障害である。慧眼が開けず、ただ人と境だけを見て、真心を見ない。

凡夫衆生は皆我見を持つが、修学の過程で我見の重点は異なる。ある者は主観的な能に偏り、識に執着し、ある者は客観的な所に偏り、境に執着し、ある者は両方に執着する。我見・我執があるため、心は空でなく、参禅に成果がない。この時には眼ある禅師が機に接して教えを示し、面と向かって空を迫り、学人の執着する能所を奪い去り、眼の障りを取り除き、その法眼を浄らかにする必要がある。これが前三料簡である。

法眼浄を得た禅者は、人境ともに空で、空の処に落ちる。向上の一路で実相を悟るために、禅師は再び機に接して教えを示し、学人に空の処から身を転じさせ、人と境の上で有るものを悟らせる。こうして柳暗花明また一村、境界が転折し、大事は初歩的に解決される。しかし月明簾下で身を転ずるのは難しく、空から有へは非常に容易ではない。これは小乗から大乗への跨ぎであり、大菩提心を発し、広く菩薩道を行じる必要がある。第四料簡は大乗見道を完成させ、向上の路を開く。故に我見を断たなければ、悟りを開くことはできない。

十九、釈究能法師の参禅の要訣

釈究能法師:禅宗の参禅法門は皆、我々に識を用いず根を用いることを求める。禅宗はあなたが妄想念があろうとなかろうと構わない。そんな余計なことには構わない。ただ意根の所まで修行し、意根を用いて話頭を参究し、悟道する能力を持つことを求める。禅宗の参禅は話頭を参ずることであり、これは中上根の者でなければ参究する能力がない。下根の者は参究できない。なぜか? この話頭を参ずるとは、例えば「念仏する者は誰か」と参じたり、「父母未生以前の本来の面目は何か」と参じたりすることである。多くの人は話頭を参ずる――「念仏する者は誰か」と、あちこちでこの「誰」を探す。これは話頭を参ずるのではない。これは話尾を念じているのである。話頭を参ずるとは何か? 話頭を参ずるとは話の前頭を参ずることであり、話の前頭とは何か? あなたは話したいのか? 南無阿弥陀仏と念じたいと思うなら、それは話したことになる。話頭とは、南無阿弥陀仏を念じる前の状態である。

故に話頭を参ずる工夫はこうである:阿弥陀仏を念じたいと思うが、あえてそれを口に出してはならない。口に出せば話尾になる。故にこの話の前頭を参ずるのである。阿弥陀仏を念じたいと思うが、あえてそれを口に出さない。この時はどんな様子か? 念じたい、心の中の阿弥陀仏を表に出してはならない。表に出せば話尾である。これが話頭を参ずることである。話頭を参ずる工夫は非常に綿密に行わなければならない。その綿密さはどの程度か? 話頭を参ずる工夫が純熟すると、熱い団子を飲み込むようになる。熱い団子を口に含み、飲み込むと火傷して死にそうになり、吐き出せば惜しい。喉に引っかかっている状態である。猫が鼠を捕らえる譬えがある。猫が鼠を見ると、追いかけ、鼠が穴に逃げ込むと、猫は四本の爪で地面を掴み、尾を立て、全神経を集中して穴口を見つめ、鼠が出てくるのを待ち、出てきたら捕まえる。話頭を参ずるのもこれと同じで、自らの心の内を見守らなければならない。話頭を表に出さないが、必ずそれを思わなければならない。

話頭を参ずる者はこのように工夫を用い、心に話頭を秘めながら口に出さない。この程度にできる者は、必ず中根か上根の人である。もしできないなら、正直に先に念仏しなさい。念仏の工夫が次第に深まり、心が静まって妄想念がなくなった時、念仏は意根の所に達する。これは話頭を参ずる工夫に類似する。故に話頭を参ずることは実際には意根の上で工夫することである。話頭がまだ出てこない時、心にははっきりとこの話頭がある――これが意根の層面に至ったのである。

評:釈究能法師は参禅の用功の状況を比較的正確に描写し、かつ明確に指摘している。参禅の時はまさに意根がそこで一心不乱に参究しており、その工夫は意根を主とする参禅の工夫である。あなたが意根を用いて思量し話頭を参究できるまで修行すると、話頭を参ずることが確かに非常に味わい深く意味深く、また人を魅了して離さないものであると感じるようになる。故に参禅する者は眠らず休まず日夜精進して工夫し、工夫が途切れず、持続的に加熱する。参禅はまた猫が鼠を待つように、鼠が穴口をうろつくのを目にし、捕まえる確率が非常に高く、成功が目前である。故に猫は警戒し、細心に注意して守り、離れず見捨てず、時機を待って一挙に捕らえる。

なぜ一つの言葉または阿弥陀仏の四文字がまさに出ようとしてまだ出ていない時が話頭であり、意根の参究状態なのか? 意根の念いには言語文字や音声の相がなく、話頭がまさに出ようとしてまだ出ていない時は、まだ言語文字や音声が形成されていない。この時が意根の念いと思惟である。次の段階で言語文字や音声が現れ、意識心に落ちると、もはや話頭を参ずる状態ではなく、話尾を念じることであり、意識の情思意解の状態である。故にあらゆる法の運行の中では、永遠に意根の思念が先で、意識の思念が後である。意識の思念は再び意根の思念に転換できるが、ただ意根の思念は非常に観察し把握しにくい。

覚醒時の様々な状態には意識と意根の知と念いがある。ただ様々な状態の中で、意根と意識のどちらの知と念いの作用がより強くより突出しているかだけである。二つの識の機能作用は区別しにくい。意根を甲とし、意識を乙とするならば、我々の知は乙の知である。我々が意根を弁別するとは、乙が甲を弁別することである。乙がどうやって甲の知と不知を知ることができるのか? どうやって甲にどのような心念があり、どのような覚受や思想があるかを知ることができるのか? ある甲の心境を、ある乙がどうやって理解し了解できるのか? ある乙がある甲に対する判断は、どうやって真実正確に誤りなくありうるのか? ある乙がある甲の心理状態を知らない時は、ある乙がまだある甲を判断する智慧を持っていないことを示す。意識はいつ智慧を持つことができるのか? いつ意根の運作を真実のままに現量観察できるのか? 証悟してから道種智を得た時に初めて可能である。

今はまず意識が意根の心理状態を真実のままに観察できるかどうかを気にせず、先に参禅の知見を確立し、上記に描写された工夫と用功の状態に照らし合わせ、正しい参禅の工夫を修持し出すべきである。これが現在最も急いでなすべきことである。この参禅の工夫を修持し出すだけで、今生たとえ悟らなくとも、後世には如何に工夫すべきかを知り、再び参禅の工夫を修持し出し、邪な道を行かず、証悟は遅かれ早かれ訪れることになる。

二十、如何にして菩提を求めるか

菩提はただ心に求めるのみ、どうして外に向かって玄を求めて苦労せん。聞く、これに依って修行すれば、西方はただ目前に在り。

釈:なぜ菩提は心に求めるのか? 菩提とは心であるから。どのような心か? どのような特徴・特質があるのか? 菩提はどの心に求めるのか? どの心から菩提を見出すことができるのか?

心は身の内、あるいは自心の内にあり、心は虚空中にはなく、外相外塵境にもなく、他人の身にもない。故にこの心を求めるには、外に向かって求索する必要はなく、玄や妙を説く必要もない。ただ振り返って心の内を探せばよい。しかしこの心は時々刻刻あらゆる法と交渉しており、他人を含み、外境を含み、また虚空宇宙器世間も含む。あなたがこれらの外境と交渉する時、回光内斂し、自心を反観すれば、この菩提心を照見できる。菩提は有用であり、時々刻刻に用を起こし、暇な時はない。故に様々な用の中でそれを求めると同時に、外境に目を曇らせてはならない。ただ外境だけを見て、外境を真実とし、そうすると菩提心を照見できなくなる。

これを参禅と呼ぶ。ただこのように修行して初めて自心を証得し、光が大千界に現れる菩提心を証得し、あらゆる法を円満成就する菩提心を証得し、本来仏陀である自心如来を証得できる。如来を証得し、それに依って七識の染汚心を改変し、菩提心のように清浄にし、菩提心のように無我無私にし、菩提心のように清浄無為にし、菩提心のように一切の有情を利楽する。このような修行は仏道を円満にし、内外通透・光明揮発・無辺の三千大千界を徹照する如来となり、自心如来と合一すれば、無数の大千世界が極楽世界のように輝かしく美しく変現し、極楽世界は時々刻刻至る所に眼前にあり、一切の苦しむ衆生を度し尽くして寂滅道場に帰し、常楽我浄となる。

二十一、真心を凝守し、妄念生ぜず、我所の心滅し、涅槃の法顕る。

評議:もし修道の過程で真心を証得したなら、最初は心を静めるために、真心を凝守し、真心を帰依所とすることができる。修道が深まるにつれ、真心を守ることも虚妄の法であり、余計であることを知るようになる。守る心行は妄心の心行であり、妄念を生じたことになる。なぜ真心を守るのか? やはり真心を私と私の所有物と見なしているからこそ守るのであり、そうすると我所の心は滅しておらず、心はまだ空でない。この時心は以前より清浄であり、真心のように他の念いがなく、これは禅定の境界であり、真心の念いのない境界に類似すると言える。涅槃の真心が現れたと言っても通じるが、やや無理がある。涅槃の真心はいつでも現れているものであり、真心を証悟した者は皆それを知っているからである。

もし凝然として心を守ることは可能だと言うなら、この守心とは妄心が虚妄に造作することを許さず、ましてや貪瞋痴の業を造作せず、清浄に回帰する、あるいは真心自性に回帰することを指す。真心を守るという説は議論の余地がある。真心は守る必要がなく、証悟した者が真心を守るのは無駄なことであり、かえって煩悩執着を増やし、牢関を過ぎられない。証悟していない者は守りたいがそれを見出せず、どうやって守れるのか? しかし「守る」という一文字は、念いがあり主観があることを表している。真心を守ろうと妄心を守ろうと、守る限りそれは妄念である。この時はただ意識の妄念が生じないだけで、意根は絶対に念いがある。念いがない時は心が空で、何も守らず、守ることもできず、守る心行もない。念いと心がある時は、涅槃の真心と妄心が共に存在する。どちらが現れた涅槃心なのか? 守る心行がある以上、心行は滅せず、守護するものは我所である。何を守護しようと、全て我所を守護しているのであり、我所の心は根本的に滅していない。

禅宗と唯識の境界は比べものにならない。禅宗を修める段階では、心はまだ空でない。たとえ禅宗第三関を過ぎても、心は唯識段階の者の心空に達していない。ただ一つの心行が空でなければ、禅宗第三関を過ぎられず、第三関に至ることもできない。心が空で初めて有余涅槃を証得し、禅宗第三関の生死牢関を過ぎる能力を持つ。真心を守ることは、真心に縛られてしまうことであり、まだ生死の業があり、涅槃できない。守ることは生死の業であり、守ることは余計なことであり、心は寂静でない。四禅は捨念清浄と呼ばれ、念いを捨てて初めて清浄である。念いを捨てれば守ることはなく、心は空で守ることも住することもない。守っても無想定に入らず、ましてや滅尽定に入らない。なぜ滅尽定に入れないのか? 意根にまだ受と想があるからである。守ることは想に似ている。無想定には意識の守りもなく、意識は作用を起こせない。守ることは制心一処の修定に類似し、制とは置くことであり、対治することであり、動作があり運行がある。

我々が今論じているのは最終的な修行結果であり、修行過程ではない。修行過程はどうすべきかどうするべきであり、様々な方法や手段を採用できる。全ては用功に必要なものであり、避けられない。しかし最終結果に至った時は、必ず心行が寂滅している。例えば戒を守ることが守る必要のない程度に至って初めて、戒に於いて自在であり、戒を越えず、全く意根の習慣習気となり、心行が天然のままにそうであり、思考や監督・規範を必要とせず、自ずから自然に心行が戒律に符合する。

二十二、六根円通

朝起きて静坐す、鼓の声風の声念誦の声鳥の鳴き声、声々耳に入るも、心は塵寰を絶ち、波紋無し。

心の声また起こる、世界家国有情弘法度衆、事々浮かぶも、心は諸相を離れ、微動だにせず。

世間の人事、蛙鳴き蝉騒ぎ、蟻闘い蜂争い、人を博して一笑に過ぎず、死を除いて大事無し。死生の事も大したこと無く、泡の生滅、全て空幻に過ぎず。

出世間の事、衆苦解脱、弘法利生、真剣になるに足らず、皆夢中の事。名聞利養、毀誉称譏、誓願任責、空相に過ぎず。

一切の音声は空谷の跫音の如く、皆取らず。一切の色相は蜃気楼の如く、皆着せず。一切の事理は亀の毛兎の角の如く、皆執せず。世人の威逼利誘は皆罠であり、世事の繁華乱舞は皆刺である。言笑語黙挙手投足、諸々の造作は皆苦業である。六根が境に対し、声色犬馬、一毫でも執すれば、砒霜口に入る。

眼と色と見の三者空なり、耳と声と聞の三者空なり、鼻と香と嗅の三者空なり、舌と味と嘗の三者空なり、身と触と覚の三者空なり、意と法と思の三者空なり。能く空を空じ、所を空じ、心中の空もまた空なり。空空もまた空なり、微塵も無く得る可き無きに至るまで。立つも立たず、得るも得ず。立たず破らず、得ず失わず。ここに至って初めて到着の消息である。家に四壁無く寸草無く、卓錐の地も無し。畢竟微塵無く、微塵無くとも無し、無もまた無し。ここに至る者は、何ぞただ耳根円通のみならん、眼根円通、鼻根円通、舌根円通、身根円通、意根もまた円通、六根皆円通なり。何が通ずるか? 参ぜよ!

二十三、仏と衆生の見るもの異なり

諸仏はなお妄法を見るか? 見ることは見るが、妄法とは解せず、また妄法とは用いない。諸仏の慈悲の大人相、泥に入り水に入りて衆生の為にす。心は蓮華の如く純潔にして妄無し。如来蔵は妄相を見るか? 見ず。如来蔵は組み合わさった相を見ず、和合した相を見ず、一合相を見ず、変異する相を見ず、ただ原相・種子相のみを見る。如来仏祖は原相の中にあり、一切の法を衆生に供養し、泥に入り水に入るも、絲毫も沾わず、熏染を受けず!

衆生はなぜ山河大地の妄法のみを見るのか? 心盲眼瞎、無明の遮障。なぜ心盲眼瞎無明の遮障なのか? 無始劫来より即ちかくの如し。なぜは無く、無明に因無し。無始劫以来、幾つかの眼を瞎したか? 眼耳鼻舌身意末那、合わせて七つの眼、全て瞎している。末那が一たび瞎すれば、六つの眼は皆それに随って瞎し、明眼無し。衆生は如何にして真を見て妄に入らざるを得るか? 大菩提心を発し、一切の無明を破り、一切の衆生を無明より救い出さんと願い、戒定慧と三十七道品を修行し、広く菩薩の六度を行じ、諸悪を作さず、衆善を奉行し、無我を観行し、自性を証悟せん。

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