禅定の修めと参禅による悟りの道(第二部)
煩悩を降伏させ、心性を変え、心の縁ずる法を少なくして、はじめて定を修する際の障害が減り、心に定が生まれる。禅定の成就は、必ずしも長時間座禅を組む功夫によるものではなく、最も重要なのは心性を改善し、貪瞋癡を減らすことにある。心が清浄 (viśuddha/pariśuddha) になれば世間に対して過度の思いがなくなり、定力は自然に高まる。戒律が厳明なときには心の攀縁が減り、煩悩も減るので、禅定は自然に速く向上し、長時間の座禅だけに頼って禅定を得る必要はない。心性が非常に重要であり、持戒と煩悩の軽さこそが、禅定の生起に決定的な役割を果たすのである。
貪瞋癡慢疑と正しくない知見は、いずれも煩悩である。人それぞれ煩悩の重点が異なるため、道を障る因縁も異なる。非常に貪い人もいれば、非常に瞋る人、非常に愚癡な人、非常に慢の人、疑心の非常に重い人、知見の非常に不正な人もいる。しかし総じて言えば、いずれも愚癡と無明から生じた煩悩であり、愚癡は総煩悩であり大煩悩である。愚癡がなければ、貪瞋の煩悩も我慢の煩悩も存在せず、疑と不正見の煩悩も存在しない。学仏の人は普段から注意深く観察し、自分の最大かつ最主要な煩悩を見つけ、最主要な煩悩の降伏を主とし、主要な矛盾を解決すれば、その他のあらゆる矛盾もすべて解消できる。煩悩の降伏も同様であり、主要な煩悩を降伏すれば、遮障をほぼ消し去ることができ、その他の煩悩もそれに伴って消えていく。大きく主要な煩悩は、その他の煩悩の起因であり、起因を見つけ、起因を解決すれば、縁は存在しなくなり、修定の遮障は消滅するのである。
<h3 style="text-indent: 2em;">二、座禅の際、いかにすれば速やかに入定できるか</h3>速やかに入定したいなら、できるだけ身心をリラックスさせなければならない。上座するとき、身体を脱力させ、心も空にする。必ず身心を空っぽに放り出し、腕、手、肩をリラックスさせ、脚と足をリラックスさせる。肩をそばだてたり、腕や手に力を入れたりしてはならず、全身をゆるめなければならない。頭もリラックスさせ、自然にまっすぐ保ち、少し低く垂らす。背中は自然にまっすぐにし、曲げたり反らしたりせず、肩は軽くだらりと下ろし、少し後ろに引く。力を入れずにくつろぎ、全身に力を入れてはならない。力を入れることは身体を反らせることを意味し、身体を反らせば身体は硬直し、気機は動かなくなり、気脈は動きにくく、身体は通じにくくなる。
身体をすっかりリラックスさせたあと、心もリラックスさせ、空にする。くつろいで、観ずる法以外は、心に何も考えず、思いをかけず、何もかも構わず、たとえ天が崩れ落ちても構わず、一切を放捨する。身体がどうなろうと、すべて放っておく。放っておけばおくほど執着は減り、気機は動きやすくなる。構えば構うほど気血は通りにくくなり、禅定は生まれにくくなる。逆に、身心が空であるほど、リラックスしているほど、禅定はよくなる。座禅の練習のとき、自分の身心をすっかり空にし、捨て、空っぽにすることで、はじめて速やかに入定できるのである。
<h3 style="text-indent: 2em;">三、いかにすれば速く入定できるか</h3>座禅のとき、法義を思惟考察すれば、般若心経を黙念するよりも速く、しかも深く入定でき、呼吸を調えるよりも速く、その他の方法よりも速く入定できる。これは煩悩が軽く妄念の少ない利根の人にとってはそうである。すでに修定の基礎があるので、前行方便は省略できる。しかし攀縁が重く、思いが多い初学者にとっては、考察すればするほど心は乱れ、禅定がなければ雑思であり、雑思は心を乱すので、禅定の基礎ができてから考察すればよい。私は上座すると脚を組み、いかなる前行の方法も用いず、直接深い思惟考察の中に入る。意識の思惟ではなく、すべて意根の思量 (manasikāra/manana) である。脚を組んだあと、まず考察すべき法に注意を向け、やがてその法の上に定着して動かなくなり、一点の妄念もない。これが意根の参禅・参究の状態である。
意根の思量は深くて遅いが徹底しており、意識の思惟は速くて浅く、徹底せず透徹しない。意識の思惟は前行方便であり、その目的は意根の考察を引き起こすことであり、最初は必ず経過すべき過程である。意根の思量・参究の中には、ほとんど得るところの知識はなく、知識量は増えないが、非常に趣があり、探究する面白さがあり、何かを発見しようとする朦朧とした楽しみがある。開発されるのはすべて自分の心田の中の智慧であり、智慧は外から得るものではなく、外から得るものはすべて知識である。この境地に達すると、疲れを感じなくなり、私は午前中座っていられるし、一日座っていられることもある。ただ心に気がかりがあると、下座せざるを得ない。
<h3 style="text-indent: 2em;">四、いかにして定を修するか</h3>最初の修定の方法は数多くあり、『修定と参禅証道』という本の中でいくつか述べた。たとえば呼吸を調え、呼吸を調えてから拝垫の上で拝仏の動作をし、身体を整えてから座禅を組むなど、これらの小さな方法は比較的取り組みやすく、実用的である。また、座禅のとき心をいかに観想するか、心が特に散乱するとき、いかにして咒を念じ、経を読んでこの心を調整するか、そして心が定まったあといかにして功夫を用いて参禅するか、その方法はいずれも本の中にある。それを見て一歩一歩練習するとよい。音声ファイルもあり、音声ファイルのほうがやや詳しい。
心が少し定まってきて、本当に断我見 (satkāya-dṛṣṭi-prahāṇa) を断じたいと思うときには、『坐禅三昧経』と『四念処経』に従って修行する。経中に説かれる修行方法には定も慧もあり、非常に優れている。四念処をよく修めれば、将来、大乗のいかなる関門の見道においても、あの方法に従って功夫を用いることができる。あの功夫の方法は定慧等持であり、功夫が所定のところに達すれば、見道を保証し、仏法を証得できる。
中には長い間修定していて、修定の方法もおそらくうまく使い、禅定も比較的深いのに、その定の中が死水一潭で智慧が生まれない人がいる。定力がよくなると何もしたくなくなり、一日中座禅ばかり組み、あの色身の快適な覚受を貪り求める。それでは参禅する智慧がなく、観行 (vipaśyanā-caryā) の智慧がなく、仏法の知見は非常に浅い。
中にはただ一心に修定だけで、覚照を生起させず、智慧がよくない人もいる。臨終のときには業に従って転じることになる。なぜなら結局断我見 (satkāya-dṛṣṭi-prahāṇa) を断じておらず、生死を出離する智慧がなく、明心見性した大乗菩薩のような智慧もないので、後世は生死輪回を免れない。定力で観行 (vipaśyanā-caryā) し参究してはじめて、断我見 (satkāya-dṛṣṭi-prahāṇa) し明心見性でき、生死の問題を解決できる。これが最も重要である。今の学仏の人の修行には二つの極端がある。一つの極端は専ら修定だけで智慧を備えず、観行 (vipaśyanā-caryā) しようとしないこと。もう一つの極端は禅定をまったく修めず、意識心だけで広く学び多く聞くか、あるいは意識の散乱した思惟を用いて、解の上で用心し、証の上で用心しないことである。この二つの極端を融合させてはじめて、仏法を証得できるのである。
<h3 style="text-indent: 2em;">五、菜食は修定に役立つ</h3>仏は『楞厳経』の中で、衆生が葷腥の食物を食べることには種々の害があり、修道に対して大きな阻害作用があると説かれた。だから禅定をよく修めたいなら、葷腥を断除しなければならない。葷とは、身体に食べ入れると好ましくない匂いを生じさせる食物、たとえばニラ、ネギ、ニンニク、ニンニクの茎、ニンニクの芽、玉ネギなどを指す。腥とは衆生の肉体の食物を指す。
これらの葷腥を身体に食べ入れると、心が清浄 (viśuddha/pariśuddha) でなくなり、欲念と瞋恚が生じやすく、鬼神を引き寄せやすくもなる。鬼神は葷腥を好み、あなたの口の匂いを舐め嗅ぎするので、修行に不利であるうえ、災難に遭いやすく、また変相の殺生にも属し、将来千百倍の借金返済をしなければならない。『楞厳経』の中の佛陀の開示に依れば、できるだけ早く葷腥の飲食を断除し、できるだけ早く道に入るべきである。
<h3 style="text-indent: 2em;">六、いかにすれば未到地定 (anāgamya-samādhi) を得られるか</h3>未到地定 (anāgamya-samādhi) を得て、しかもそれを保ちたいなら、日常生活の中で、心を自分が現にしている事柄、しかも主要な事柄に集中させなければならない。些細なことや雑事にはあまり心を用いない。重要でないことをするときには、自分の内心に集中し、外の事は少し知っていればよく、構わず気にかけない。失うものがあってこそ得るものがある。何事にも気をかければ、何事も精にならず、最後には一事も成さない。いつでもどこでも雑事の束縛から脱して、専心主要なことをするよう自分を訓練しなければならない。心に余念がなければこそ禅定が現れるのである。
人が一生で成功したいなら、必ず専心することを学び、主要な事柄を選んで行い、役に立たないことにはあまり心を用いないことである。禅定が修められたあとは、事を行う智慧が増し、それからはどんなことをしてもよくできるようになる。もし何にでも興味を持ち何にでも心を用いるなら、何でもそこそこできるかもしれないが、精にはなれない。精は通よりはるかに重要で意義がある。精は智慧を表し、智慧があれば事を成さないものはない。成仏という事をも含めてである。
現代人は皆比較的貪く、何にでも興味を持ち、何でも知りたがり、何にでも参加したがる。求めるものが多すぎ、関心の点も多すぎて、結果は往々にして一事も成さず、何も得られない。取捨をわきまえない人はまさにこうである。得たいなら、専心して求め、多くの不必要な人や事を捨てなければ、満心満願にはならない。人は全部で二本の手しかないのに、何でも掴もうとする。結果は熊がトウモロコシを折るように、一本折っては一本捨て、最後に一本のトウモロコシでも得られれば御の字である。
自分の携帯電話の中の各種アプリをチェックして、関心を持っている内容がどれだけあるかを見れば、自分が果たして禅定を修められるかどうか、心に定があるかどうかを判断できる。それらのものを一生関心持ち続けて、どうなるというのか。世の中の五花八門の新しい事をすべて知って、どうなるというのか。何を得られるのか。あなたはこの一生で一体何が欲しいのか。仏法を十年、二十年学びながら、まだ自分に相応する仏法を一つも見つけられず、どんな法にも接触し、どんな法も学び、博学な様子をしているが、実は何一つ身につけておらず、どんな法もわかっておらず、目的もなくあちらこちらと乱れ撞き、どうしても帰宿を見つけられない人もいる。
<h3 style="text-indent: 2em;">七、いかにすれば初禅定を得られるか</h3>毎日数時間座禅を続ければ初禅定を証得できると言う人がいる。これは一概には言えない。初禅定に入ることは、座禅の時間の長さにあるのではなく、心が欲界の貪欲を捨てられるかどうかにある。多くの人は、たとえ一年半年、飲まず食わずで入定できても、初禅定には入れない。なぜなら欲界の貪心が重く、欲界の法を捨離できないからである。欲界の法は、捨離できるだけ捨離し、捨てるほど禅定は深くなる。
初禅定は色界の初禅天に相応し、心が初禅天の人の心性と相似になったとき、はじめて初禅定がある。色界天の人の心性が必要である以上、心の中に欲界の種々の法があってはならない。毎日努力して欲界の法を捨離し、欲界の法から遠離すれば、心は色界天の境界と相応するようになり、このとき必ず初禅定があり、しかも初禅定は請わずして自らやって来る。欲界の法を捨離したいなら、どの法が欲界に属するのか、欲界にはどんな法があるのか、いかに捨離するのかを思惟考察しなければならない。
<h3 style="text-indent: 2em;">八、落日の写真を観ずるという修定の方法はよいか?</h3>二年前、私はいかに落日を観ずるかを講じたことがある。あの落日を観ずる方法は、主として自分自身で西方の空に懸かる落日を観じ、虚空の中に懸鼓のように懸かる金紅色の太陽を観て、観終わったあと目を閉じて、自分のこの目で見たあの落日を回想する。こうすれば記憶に新しく、観想の効果が最もよく、観想を修めるのも比較的容易である。何しろこの目で見たものであり、根拠があり、空想するほどの困難はない。実はこれらすべての観行 (vipaśyanā-caryā) の方法は大同小異であり、どれがより取り組みやすいか、どの方法がより自分に適しているかというだけのことである。
どんな方法を用いるにせよ、一つの方法であなたを成功させて定力を修めさせ、はっきりと現量で観行 (vipaśyanā-caryā) できさえすればよい。観行 (vipaśyanā-caryā) を意根に落とし込み、意根が専心して思量 (manasikāra/manana) できるようになれば、あなたは修定に成功したのである。意根で専心思量 (manasikāra/manana) できるようになれば、どんな法に出会っても、意根で思量 (manasikāra/manana) し、意根に法を証させることができ、いずれも大智慧三昧 (samādhi) を得て、修める法すべてにおいて円融無碍となれる。
『華厳経』の中の善財童子五十三参では、一人の善知識を参訪するごとに、善知識の教導を得たあと、三昧定の中で参究した。いずれも意根が専心して思量 (manasikāra/manana) したのであって、意識の意解はなく、定慧等持の三昧 (samādhi) を証得し、最後に等覚菩薩の位まで修めた。善財童子は多くの理論を学ぶ時間を費やさず、理論を専らやって豊富な理論知識を得たのではなく、一つの法を求めれば、禅定三昧の中でそれを求証し参究し、最後に定慧等持の甚深三昧 (samādhi) を得た。定にも偏らず、慧にも偏らず、これこそ実証であり、最も究竟の実証である。だから我々の修行も、できるだけ定慧等持の修行状態を保ち、狂慧であってはならず、愚定であってもならない。一つの方法を会得したら、定の中で参究しなければならない。一途に理論ばかり学べば、禅定も修めにくく、すべての理論が消化吸収されず、心中に詰まって慢心を増長させることになる。
理論の多い人は、早く心を沈めて実証に向かうべきである。どれだけ理論を語っても、それは自分の経験ではなく、語っても役に立たない。実証したものだけが自分の智慧であり、未来世に持ち越され、生生世世にわたって利益を受ける。修行の道筋がまだわからない人は、修定しながら道筋を探る。両手ともに抓み、両手ともに硬く、一方を廃してはならない。
『観無量寿経』の第一観が完成できれば、禅定はすでに未到地定 (anāgamya-samādhi) を超え、初禅にまで至ることもできる。これは真実の修であり、容易か? 非常に容易ではない。未到地定 (anāgamya-samādhi) を完成できる人はごくわずかであり、多くの世俗の法を失わなければできない。初禅まで修めるには、極めて多くの貪欲煩悩を降伏し、世間への求めを甚だ少なくしなければならない。誰にそれができるのか。まして在家の人は、世俗の習気がそれほど重い。だから、あの人が四禅を得た、この人が四禅を得たなどと信じてはならない。未到地定 (anāgamya-samādhi) こそ大きな試練なのである。
人間の世俗の欲望を降伏してはじめて、未到地定 (anāgamya-samādhi) がある。欲界天の人の欲望を降伏してはじめて、初禅定がある。最低の欲望すら降伏できないなら、未到地定 (anāgamya-samādhi) を期待してはならない。人は何でも得たがり、権力も金銭も勢力も名誉も得たがり、さらに目立ちたがり、自分をひけらかす。どうして禅定があろうか。美食、美酒、美服、快楽を貪って、どうして禅定があろうか。世間の何事にも気を配って、どうして禅定があろうか。修行を自分の身心と結びつけ、自分の一切の身口意と結びつけ、絶えず照らし合わせて省察し、絶えず自分を修証してはじめて、自我を降伏でき、禅定を修め出し、道業は絶えず進歩できるのである。
<h3 style="text-indent: 2em;">九、定中の妄念にいかに対処するか</h3>「念の起こるを怖れず、ただ覚の遅いことを怖れる」と言う人が絶えない。しかし、どんなに覚ろうと、念はすでに現れており、定はなく、その一瞬は結局覚っていない。後知後覚、亡羊補牢、羊はすでに逃げたのである。座禅のとき、調子よく、清明清明としているとき、突然一つの念が起きたら、構わず、過ぎ去らせてしまえばそれでよく、引き続き定まる。もし構えば、また一つの念が起こり、二つの妄念が現れる。念を覚る妄念は往々にして引き伸ばされ、さらにこの念が起きたことを後悔すれば、定は保ちにくくなる。
一切の法を構わなければ、自然に過ぎ去る。遅かれ早かれ過ぎ去るのであり、一つの法、一つの現象で永遠に存在し続けられるものはなく、生生滅滅し、生まれれば自然に滅するときがある。滅するとき、その法はもはや何ものでもなく、生まれるときも本来何ものでもない。構わなければ心は自ずから清浄 (viśuddha/pariśuddha) である。万法は来ればその来るのを見、去ればその去るのを見、自生自滅させ、ひとりで遊ばせ、あなたはただ芝居を観るだけとすれば、禅定が現れないことを憂えることはなくなる。
<h3 style="text-indent: 2em;">十、呼吸念仏 (buddhānusmṛti) の正しい方法</h3>念仏 (buddhānusmṛti) のとき、声が胸腔・口腔の外に流出するのは、気が丹田から身体の外へ運行するのであり、気体を放出する過程である。ならば吸気のときには念仏 (buddhānusmṛti) できない。念仏 (buddhānusmṛti) の音流と衝突するため、念仏 (buddhānusmṛti) できず、呼気のときにしか念仏 (buddhānusmṛti) できない。吸気のときには一心に吸気し、注意力を吸気の過程の上に置く。気がどこまで行けば、注意力もそこまで行く。こうすれば気血が通暢し、身心が快適で、心は非常に速く定まる。
吸気は鼻腔から入り、丹田まで達する。心力が足りていれば、四肢、全身の各毛孔にまで到達させ、同時に身体の覚受を体会し感受するよう注意する。さらに呼気のとき、呼き出す息は少なくて軽い。全身の細胞はみな新陳代謝を行い、みな廃気を排出する。これらの廃気は全身の毛孔を通って排出され、毛孔も呼吸できる。呼吸念仏 (buddhānusmṛti) の方法は心気を合一させ、身心を協調させ、気血を通暢させ、得定が速く、定まりが深く、入定時間が長いので、修定を初めて学ぶ人はここから入るべきである。具体的な念仏 (buddhānusmṛti) の方法は『修定と参禅証道』という本を詳しく参照されたい。
<h3 style="text-indent: 2em;">十一、禅定は不良な習気を降伏できる</h3>学仏の人は皆努力して禅定を修習し、旧来の世俗の習気を克服し、心をことごとく修道の上へ転じさせるべきである。世俗の法に過度に関心を寄せるな。累生累世にわたって経験してきたものは、関心を持っても生死の大事は解決できない。大事をしっかり押さえれば、世俗の一切の事は何でもなくなる。皆、智慧を持ってこの理を認識すべきである。
一つの習気を降伏し変えることは非常に困難であり、自分に某方面の習気があると反観することさえ容易ではない。習気が習気と呼ばれるのは、長久の熏習により、積習が深すぎ、根深蒂固だからである。我々のほとんどすべての思想観念は習気に沿ったものであり、相当によい定力で反観し覚らないかぎり、自分の考えや観念が存在すべきでない習気であるとはわからない。だから大多数の人は自分にどんな習気があるかを知らず、自分の思うところ、考えるところがすべて誤りであり、無明業障であり煩悩であることを知らず、それに従うことはすなわち生死に趣向することである。
たとえ無明の習気を認識しても、転じさせ変えるのはなお困難である。だからこそ、我々は時時警覚して自分を鞭撻し一心に道に向かい、猛烈な修道心を発起し、絶えず自分の生死業障を省察し、人生の真諦を思惟考察し、真の価値体系を認識し、世俗の法の虚偽と不実を認識し、早く生死の火坑から飛び出し、さらに振り返ってより多くの同胞道友を救い出すべきである。