禅定の修めと参禅による悟りの道(第二部)
人が修定する方式・方法は人それぞれ異なる。一つには人の根器 (indriya) が異なるためであり、もう一つには禅定は多方面から来るもので、どんな方法でも入定できるからである。ある人は法義を思惟すると禅定が消えてしまい、心が散乱するが、別のある人は法義を思惟すると定力が素早く生起し、禅定も深い。後者は智慧によって禅定を導き、禅定の生起と深入を促すのであって、坐禅のみに頼って禅定を引き生じさせるのではない。智慧は雲霧を払って光明を見る手であり、智慧を用いて心を思惟すべき法義のところへ引き向け、専一に思惟すれば、禅定は生起し、定慧が結合する。そして定慧等持こそ最も三昧 (samādhi) を生み出しやすく、解脱の果証を得やすいのである。
修行の過程においては、自分の特長と優位を善于発見し、長所を生かして短所を避けるべきであり、そうすれば修行は速やかである。智慧の優れた人は、他人と同じように皆四念処から観を起こしたり、白骨観から修めたりする必要はなく、修行の道筋をあれこれ模索し続けるのではなく、自分に適した独自の修行方法を一式定めることができる。この道筋で修行すれば進歩が速いと自分で気づいたなら、それを堅持すればよい。修行の道筋には無量のものがあり、根器 (indriya) にも多くの差別があるのだから、すべての人が千篇一律に同じ修行方法を用いることはあり得ないのである。
<h3 style="text-indent: 2em;">十三、どうすれば念頭をどんどん減らせるか</h3>問:座に着いてまもなく、まず身体がゆっくりと定まっていくのを感じ、呼吸が非常に微弱になる。同時に、念頭が次々と飛び出してくるのが見えるが、意識は念頭についていかない。時には夢を見ているような感じで、一つ一つの念頭にはぼんやりしたイメージが伴っているように思え、イメージと言うよりむしろ影に近く、念頭の起滅とともに一瞬で過ぎ去り、覚めている眠りをしているような感じである。このような状態は入定と言えるのか。さらに注意を一点に集中させて念頭を減らす必要があるのか。
答:このような状態は定のある状態である。心が定まって初めて自分の念頭を発見でき、定力に支えられて初めて念頭についていかないようにできる。定力に支えられてこそ、念頭を細やかに観察でき、夢のように実のないものと感じ、念頭が影のように虚幻であると感じられる。このような状態がしばらく続くと、念頭は次第に減っていく。念頭をコントロールできるかどうかにかかわらず、禅定を引き続き深入させていけば、念頭は次第に減り、ついには消えて見えなくなることさえある。禅定が比較的安定してきたなら、深く細やかに法義を思惟し、法義を参究し、学んだ道理と仏法の脈絡をきちんと整理したうえで、心思を集中させて重点的に突破すればよい。
禅定の中で念頭を発見できるが、誰が発見するのか。誰が誰の念頭を発見するのか。この発見は意識の発見であり、意根の起こす念頭が一つ一つ現れ、ぼんやりしたものからはっきりしたものになっていくのを発見したのであって、禅定によって意識が従前発見できなかった念頭を発見できるようになり、しかも観察がますます明晰になっている、これこそ定力が生み出した作用である。意識が意根の念頭についていくとき、意識がこの点を発見すれば、それを意識の反観 (pratyavekṣā) と呼び、証自証分 (svasaṃvedana) である。意根の念頭を発見することは、自証分 (svasaṃvitti) の作用である。
意識がもう念頭についていかないということは、意識と意根は分離でき、しかも互いに牽制し合い、互いに薫習し合い、互いに影響し合うものであることを示している。程度が深まったとき、心がより細やかでより智慧のあるときには、どの識心が煩悩に染汚されているか、どの識心がやや清浄 (viśuddha) か、あるいはすべての識心が染汚しているのか、あるいはすべてやや清浄なのかが見えてくる。さらに、結局誰が誰を牽制できるのか、誰が誰に影響できるのか、誰が誰を薫染できるのかも見えてくる。もともとは意根の染汚が重く、意識を引っ張って走らせていたが、今は禅定があり定力が増強され、意識が覚れば意根の妄念についていかなくなる。その後はどうなるのか。修定を続ければ、意根の念頭はますます減り、心はますます清浄 (viśuddha) になり、染汚はますます軽微になる。このとき問題を考えると非常に深く細やかになり、条理と脈絡が明晰なものとなり、智慧が向上する。
意根の攀縁は意識を引っ張って走らせ、意識の念頭を絶えさせず、攀縁を止まらせない。意根の攀縁の現れこそ、念頭が絶えず、心思が煩乱することである。意根に攀縁性があると言えば、多くの人が認めるが、意根に念頭があると言うと、反対する人が現れる。多くの人が攀縁の意味がそもそも何であるかを知らず、書物を暗誦するだけで法に依ることができないために、意根には念心所がないと言うのである。しかし実際には、意根に念心所がなければ、心は乱れなくなり、善悪いずれのことも現れず、世俗界では愚者のような存在であり、修行の上では心がすでに非常に清浄 (viśuddha) になり、禅定が深まったことを意味する。実際に自分の身心世界を観行 (vipaśyanā-caryā) してこそ智慧が生まれ、事実がどのようなものであるかを知り、如実智があり、如真を知る。書物を暗誦することは人に依るのであって法に依るのではない。法は自分で如実に観察する必要があり、観察から智慧が出れば、法を証得するのである。
<h3 style="text-indent: 2em;">十四、行住坐臥のいずれにおいても修定できる</h3>修定の目的は修心であり、心を止息させることである。身が止まっているときには心の動きを減らすことができ、心を止まらせることもできる。しかし、身が止まっている定の中で心がすでに清浄 (viśuddha) になり、功夫が円熟したときには、身体が規則正しく動いている中でも同様に心の止と定を保つことができる。身体の活動の中で心の止を保つのはやや困難ではあるが、それでも身動して心動かずということはできる。身動して心動かずのときには、縁に遇うことが多く、心の定力をより試されるし、同時に証道の因縁もずっと多くなる。これは参禅にとって比較的有利である。断我見 (satkāya-dṛṣṭi-prahāṇa) も、身が動いている状態で縁に触れ境に遇って霊感を引き出し、身空・我空を証得することができる。
同等の程度の禅定であれば、身動の定は身止の定よりも修定の功夫をよりよく示すことができ、定力もより堅固である。これには身止の静中の定によって保養し維持する必要があり、両者を兼修すれば相乗効果を発揮し、互いに促進し合う。一般に、完全な身止もまた一種の障害であり、定力の増強に不利である。それゆえ、しばらく坐禅したら身を起こして経行し、体を動かすと、気血がより通暢し、心はより静まり、頭脳の思惟はより深透になる。
<h3 style="text-indent: 2em;">十五、修定の小さな秘訣</h3>定力が良くないのは、心の攀縁の習気が重いことが一つの面であるが、もう一つの面は、身体の筋脈が詰まって通らなくなっていることによるものである。それゆえ、身体の筋脈を疏通することから着手するのも、禅定を増強する良い方法である。どうすれば筋脈を疏通して詰まらせないようにできるのか。それは食事を調節することであり、少食にするか、あるいはいっそのこと三、五日間食べず、水を多く飲み、それから徐々に少食へと移行する。少食の基準は個人の身体的素質と心理的な耐受力によって定めるが、一般に一二分の腹いっぱい程度に達すると効果が比較的はっきり現れ、期間をさらに長くすれば効果はさらに良い。
どんな効果か。食事を徐々に回復していく過程で、内面が非常に清明になり、妄念が少なくなり、身体の中に自然に一股の気脈が規則正しく運行し、力が強く、身心をともに快適で安らかにさせることができる。この気脈が全身を凝集させ、座っていると動きたくなくなり、一日中座を降りたくなくなり、心に雑念が生ぜず、比較的専注する。このとき頭脳の中の思路は自分の思いのままにコントロールでき、他の雑事を排除して、専ら参究すべき法義について考えることができる。リモコンで自在にチャンネルを切り替えるように、このリモコンは自分が握り、自分の指揮を聞くのであり、こうすれば仏法の参究、仏法の観行 (vipaśyanā-caryā) はすぐに軌道に乗る。
身体の中のこの気脈は、さらに身体の臓器の中のさまざまな病気、湿気や寒気のような病の気を駆逐し、脾胃などの器官の機能を調整することができる。それゆえ、少食と不食もまた除病の良い方法であり、身体的素質が良くない人や禅定がうまく修められない人は試してみるとよい。具体的な方法は辟穀の規則を参照すること。
<h3 style="text-indent: 2em;">十六、どうすれば楞厳咒で修定と法義の参究ができるか</h3>楞厳咒をすでにかなり慣熟して暗誦でき、しかも暗誦するうちに次第に佳境に入り、禅定がひそかに生起して、さらに暗誦を続けるのがやや無理になってきたら、このときには単に「南無」の「南」の字だけを提起し、後の字を出さず、心を「南」の字の上に定めて動かず、専注に専注を重ね、雑念も妄想もないようにする。心が安定したのち、疑情を起こす。この「南」の字はどこから来たのか、どこから生起したのか、今このときどこにあるのかと疑うのである。言語文字も声音もなく、ただひたすらに疑い続け、意識の思惟や推理による推敲を用いず、疑情を深く意根の心の中に懸ける。この功夫が円熟したら、別の、自分が探究したい法義に替える。あるいは色蘊の我を疑い、あるいは受想行識の我を疑い、あるいは死屍を曳く者は誰かを疑う。これが話頭を参ずることである。
どんな疑情を選ぶかは、自分の根基と、現在の修学の状況によって定めるべきである。大多数の人は大乗の根基が十分に深厚でなく、福徳などもまだ修め尽くされておらず、菩提の大願もまだ発起していない。もし大乗法の参話頭を選んで明心見性を望むなら、効果は上がらない恐れがあり、時間の無駄になる可能性がある。むしろ正直に小乗の基礎をしっかり固め、小乗法の上で多く観行 (vipaśyanā-caryā) し思惟し、当面は大乗を考えず、まして甚深な唯識に多くの精力を費やしてはならない。人生は無常であり、トウモロコシ畑で空腹のままうろつき回っているのではなく、早く一本のトウモロコシを折って家に持ち帰って食べ、腹をいっぱいにしてから続けてうろついても遅くはないのである。
ある人々は断我見 (satkāya-dṛṣṭi-prahāṇa) こそしていないが、小乗の根基が比較的安定しており、すでに五蘊無我を十分に認識し、大乗の菩提心と清浄 (viśuddha) な大願を発起し、衆生を利楽する菩薩心が比較的重い。このような場合には参禅を選ぶことができ、参禅の過程で、次第に五蘊の繋縛から遠ざかり、次第に五蘊を我とする邪見 (mithyā-dṛṣṭi) を断除し、明心見道の前に先に証果できるか、あるいは明心見道の刹那に証果し、大小乗が同時にクリアできる。しかし同時にクリアできる可能性は非常に小さく、多くの場合は先に証果し、しばらく経ってから明心見道できるのである。当生で見道できる人は、大乗であれ小乗であれ、前世の根基が比較的深厚な人であり、善根も福徳も比較的大きく、見道までの距離が近い。しかしこのような人は極めて少なく、だから皆、安易に自分は証果した、開悟したなどと誤解してはならない。そんなに簡単なことではないのである。
要するに、楞厳咒を契機と門を叩くレンガとすれば、正道に速やかに乗ることができ、禅定と智慧であれ、戒律の面であれ、あるいは業障の消除の面であれ、修行はいずれも非常に速やかである。その原因は加持力が非常に大きいからである。われわれの修行は、一方では自力に頼り、他方では仏菩薩と護法神の力を借りる。二つの力を合わせて用いてこそ、修行は順調に進むのである。力があれば借りるべきであり、光があればそれも借りるべきである。借りたものは必ず返すことを忘れてはならず、自分が衆生に助力と光明を与えられるようになったときには、決してけちってはならない。もしけちな心があって、自分のことだけを顧みて衆生を顧みないなら、仏菩薩の力は必ず加持できず、自分も何も得られないのである。
<h3 style="text-indent: 2em;">十七、修行は静寂な環境の中で成就しやすい(一)</h3>煩悩は静寂の中で比較的断除しやすいのか、それとも騒がしい人混みの中で断除しやすいのか。この問題は自分の想像に頼って判断してはならず、世俗の人々の言うことを見てもならず、すでに成道した真の修行者たちの成功経験を参考にしなければならない。彼らはすでに成功しているのだから、彼らの歩んできた道は、われわれが参考にするに値する。一方、成功していない世俗の人々は、何を言おうと、その言葉は経験談ではなく、その見解や看法は必ずしも正しいとは限らない。静寂の中には人・事・物がなく、他の人と向き合わず、煩悩も現れない。もし自分の心境を観察できなければ、それは観察しなくてもよく、ただ禅定を向上させさえすれば、煩悩は定を得て降伏でき、断除もできる。断除したのちに改めて一切の人・事・物・物理に向き合えば、心はずっと安穏になる。
これらの成功の経験はどこから参考にできるのか。仏経の中で紹介されている諸仏菩薩・大徳たちの歴劫の修行の経歴から参考にすることができる。諸大徳たちの修行の経歴はいずれも、静寂の中で修行してこそ成就があり、静寂の中で見道し、静寂の中で煩悩を断じたことを示しており、十方の諸仏はいずれも静寂の中で修行して成仏したのである。しかも彼らの大多数は出家して修道しており、在家よりも修行環境がさらに静寂である。
在家の修行で成就した人もいるが、記録されているのは非常に少ない。しかしこの部分の成就した在家の人々も、前世の根基が比較的深厚であり、自分専用の修行空間を持ち、時間にも十分な余裕があった。彼らの福徳が非常に大きく、毎日親族を養い衣食住のために奔走する必要がなく、修行条件が裕福であったため、修行は速やかに成就できたのである。三世の因果から見ると、この部分の成就した在家の人々も前世では出家して修道しており、すでに一定の成就を修めていて、今世さらに仕上げて再び成道したのである。自分専用の独立した修行空間があってこそ、修行の功夫の連続性と中断のなさが保証されるのであり、在家ではそれが保証できない。福徳が非常に大きく、さらに前世の善根があって初めて成就できるのであって、さもなければ非常に困難である。
連続的な修行があってこそ、禅定の功夫と観行 (vipaśyanā-caryā) の功夫が修められ、観行 (vipaśyanā-caryā) が絶えず深入していけるのである。湯を沸かすように、火力が連続的に絶えなければ、水はますます熱くなり、最後にようやく沸点に達する。功夫を積むことも同様であり、連続性が必要であり、功夫が一定程度に円熟して初めて見道できるのである。
どうすれば功夫に連続性を持たせられるのか。まず十分な時間を保証し、適切な修行場所を確保することであり、この二つの条件がともに備わって初めて、ずっと精進し続けることができる。さもなければ功夫は向上できない。世間の煩悩と干渉の因縁があまりに多すぎて、修行が向上できないからである。毎日、独立した空間を保証して修定と観行 (vipaśyanā-caryā) 思惟を行い、毎日決まった修行時間と静かな環境があって、初めて功夫は連続させることができる。しかしこれでも、出家して静寂な環境の中にある連続性とは差がある。出家者は自分専用の修行環境を持ち、時間も自分で掌握でき、何を修めるかも自分で掌握でき、功夫は連続的に絶えない。こうしてこそ観行 (vipaśyanā-caryā) が成功しやすく、禅定が持続的に増長し、断我見 (satkāya-dṛṣṭi-prahāṇa) の希望も大きくなるのである。
<h3 style="text-indent: 2em;">十八、修行は静寂の中で成就しやすい(二)</h3>諸仏はなぜ娑婆世界に似たような場所に出家の僧団を建立したのか。出家と在家はやはり区別がある。出家すればすべての時間が自分の支配するところとなり、すべての時間を修行に用いる。食事、托鉢、乞食、宴坐を問わず、身を置く環境はすべて修行環境である。すべての人が一緒に暮らしてはいても、目標はいずれも修行であり、互いに干渉することがない。たとえ少しの小さな矛盾があっても、多くを処理しなくても、これらの小さな矛盾は自然に解決され、大きな問題はない。世俗的な利益に関わらず、それほど重い煩悩がないからである。人の多い僧団もあるが、やはり清静 (praśama) であり、場の雰囲気も修行の空気も非常に良い。それゆえ仏は出家修行の僧団を設立したのである。
すべての経論の記載から見ると、出家修行の成就は在家修行の人をはるかに上回っており、在家修行で成就した人の数は非常に少なく、仏経の記載も非常に少ない。釈迦牟尼仏の本生譚には、すべて仏が菩薩であったときにいかに修行したかが語られている。仏は绝大多数の修行の時間において、出家であれ在家であれ、静寂な深山の中で一人で修行しており、今世すでに成仏していても、娑婆世界に八千回来ても、なお出家相を示現している。
佛陀が成仏を示現したその世もいずれも出家相を現した。皇宮に生まれはしたが、時間は自分で自由に支配でき、自分専用の生活環境と修行空間があったにもかかわらず、佛陀は必ず出家し、雪山に行って苦行を修め、最後に菩提樹の下で成道した。仏でさえ出家して修道することを選んだのだから、等覚菩薩、妙覚菩薩、およびその他の菩薩は、すべて一人で静寂に修行しており、衆を集めて修行する者はいない。しかし每一位の仏菩薩は、修行成就ののち、いずれも人中に戻って衆生のために経を講じ法を説き、衆生の成道を助けている。
私自身の修行の過程と経験から見ると、私のすべての功夫の成就は、一人で静寂な環境の中で成就したものであり、人混みの中に戻ると功夫が阻害され、これ以上深入できなかった。そこで私はあちこち静寂な環境を選んで修行し、ようやく各段階の修行目標を完成したのである。人混みの中での修行は非常に困難である。それゆえ皆さんに、修定と観行 (vipaśyanā-caryā) の功夫が一定程度に達し、飛躍的な進歩のためにさらに一把の猛火を加えたいときには、できる限り身の回りの一切の事務を放下し、静寂なところへ行って火力を強め、功夫をより深くより徹底したものにすることを勧める。そうしてこそ、断我見 (satkāya-dṛṣṭi-prahāṇa) や明心が可能になる。環境と時間がともに適って初めて、修行は連続的に絶えず、火力が持続し、初めて各所の溝や坂を越えることができるのである。
もし修行がずっとぬるま湯のような状態であれば、必要な時間は非常に長くなり、断我見 (satkāya-dṛṣṭi-prahāṇa) も非常に困難になる。静寂な環境を選んで修行すれば、道業は速く増長する。古の外道たちもみな出家を選び、静寂な山林に住み、あるいは一人で修行し、あるいは衆を集めて修行した。彼らは禅定のみを修め、修行の目標が一致しており、互いに督促し助け合ったので、禅定は速く深く修められ、人混みから遠ざかり干渉がないため、煩悩の降伏も速かった。仏教であれ、他の宗教であれ、あるいは外道の修行であれ、成就のあるものはいずれも静寂の中で修錬されたものである。
<h3 style="text-indent: 2em;">十九、学員の定中観行体験(一)</h3>今日の早課、師尊の教示「定中で法義を思惟できるよう訓練し、意根の中に懸けること」に従って行った。まず深呼吸を数回行い、身体の濁った気を排気するとともに、新鮮な空気を全身に満たし、鼻腔・喉腔・胸腔から気海(丹田)まで至らせ、さらに一息置いて、足首・足裏の湧泉のところまで圧し下ろすと、心は空霊で、柔らかく、和やかになる。それから静坐して念仏 (buddhānusmṛti) し、音声をもって仏事を行じ、胸腹、とりわけ頭脳の各種の細胞を震動させ、経絡を疏通し、汚れを排出して染汚を清める作用を達成する。念仏 (buddhānusmṛti) によって頭部の気脈を貫通させ、足裏の気脈を頭部へ引き上げ、「南水北調送水工事」システムを形成し、かつ阻害なく通暢させ、南北の大動脈を貫通させる目標を達成する。
さらに、静坐して拝仏し、任督二脈を緩めると、心はすでに空澄で安寧している。そこで『楞厳経』の中で最も理解しにくい第四巻の法義、富楼那の提起した「一切根尘阴处界等。皆如来藏。清净本然。云何忽生山河大地」という問題について、第四巻を簡単に読むと、定力があるため、読むにつれて理解が入り、心が経文に専注でき、文に随って観に入り、理解を得ることができた。関連の法義を整理したのち、意根に渡して反芻させると、時々意根が一つの念頭を投げ出し、意識がそれを受け取ると、ああ、これは『大般若波羅蜜多経』の法義だ、すぐに『楞厳経』の法義と連結し、理解できないところは、湯が氷を消すがごとくに解けた。
もともと、意識が法義を思惟しているとき、意根もその中で忙しく、絶えず黙って意識と契合している。これは定境の専注した状態の下での双方のシームレスな連結である。もし普段からこれらの法義に疑情があれば、意根はその中で働いており、静坐して法義を思惟するとき、意根は一気に準備しておいた法義を送り出し、意識は受け取りながら喜んで言う。「相棒、相棒、まさにその通りだ」。まだ意根の中に懸け始めてもいないのに、意根は堤防が決壊したように流れ出た。――兄弟よ、長いこと待っていたぞ。
だから、普段の念茲在茲(常に心に念じて忘れないこと)こそ、意識と意根の「夫婦のように離れられない、秤と分銅のように離れない」協力である。実は、これこそ動中の定力であり、『大勢至菩薩念仏円通章』の憶仏念仏と、われわれの普段の念茲在茲はまったく同じである。最後には、もちろん必ず仏を見、あるいは必ず心開意解し、豁然と開朗する。今朝の早課は意根が法義を思惟し、すぐに問題を解決し、しかも一時間余りの定を得た。まさに定中の一日は、世上すでに千年である。
<h3 style="text-indent: 2em;">二十、学員の修定体験(二)</h3>ここ数日、朝晩の課誦を行い、坐禅の方法として六妙門、一点への専注、呼吸の観察などをすべて試してみたが、師父が教えてくださった坐禅拝仏、坐禅念仏 (buddhānusmṛti)、深呼吸が最も操作しやすく、一番早く習得でき、効果もなかなか良いと感じた。とりわけ静坐拝仏は、下肢の血脈を貫通できるうえ、背中の督脈を引き伸ばすことができ、任督二脈の貫通に非常に役立ち、しかも得定が早く、その定境を守っても、あるいは方向転換して法義を思惟しても、どちらもとても素晴らしい。
その他の静坐の方法では、比較的適しているのは、意を鼻端に繋ぎ、出入息を観じることであり、門番のようにすれば、呼吸の影響を受けにくく、得定しやすい。また、民国期に蒋喬維が修成した『因是子静坐法』は、意を丹田(気海)に繋ぎ、思慮なくして、やはり入定しやすい。この二つの方法は、一方は玄牝を守り、一方は気海を守るもので、いずれも修定の鍵となる環節を捉えている。
師父はかつて、自分に適した方法こそ最良の方法であると教えてくださった。修定は自分で模索して、自分と相応し、実際に効果のある一連の方法を見出してこそ、速やかに成功できる。それから、法義を意根の中に懸け、意根に牛が反芻するように法義をゆっくりと融解させ、自性に帰一させる。修行は、鍵は思路(見地)にあり、思路が出路を決め、思路が明晰であるほど、行動は力強く、効果も良いのである。