禅定の修めと参禅による悟りの道(第二部)
禅宗は宗門とも呼ばれ、仏法の宗とは真心如来蔵 (tathāgatagarbha) であり、禅宗とは参禅して真心如来蔵を証悟する法門である。不立文字には二つの理由がある。一つは、参禅の全過程において言語文字と音声を用いないことである。なぜなら、このときは甚深な禅定 (samādhi) の中で参禅し、意根と意識が同時に参究するのであり、言語文字のない状態にある。言語文字や音声があれば思惟は浅く、意識が単独で意解する状態にあり、意根には力が及ばないからである。二つ目は、宗門の如来蔵そのものには言語文字も音声もなく、言語文字と相応しないのであり、言語文字で伝えられるものはどれも神様ではない。
それゆえ参禅のときには、法を伝える者と法を受ける者の言語文字や音声は役に立たなくなり、あらゆる書物や理論も役に立たなくなり、参禅する者は心の中でぶつぶつ呟いたり、くどくど述べたり、うんうん唸ったりする必要もなくなり、比較可能な外縁の参照物を剥ぎ取られる。こうなると、海闊天空に情思意解し、比量や非量で思うままに発揮することはできず、意識には発揮の余地がなくなり、正直にすべてを意根の現量の思と究に委ねることになる。苦しくて徹夜で眠れないとしても、成果は豊かであり、意根の潜在能力と智慧が十分に発揮され、ひとたび証悟して自家の宝蔵を掘り出せば、それからは自由で豊かな日々を送ることができ、もう流離いの乞食で苦しい日々を過ごすことはなくなる。
このとき、外の文字も心の中の音声も役に立たなくなり、力が及ばなくなる。ただ自身の智慧に依拠するしかなく、こうしてこそ自分自身の大智慧を開発できる。いかなる推理も、いかなる分析も、いかなる整理も、いかなる帰納も、いかなる分解も、いかなる統合も、いかなる憶測も、いかなる想像も、いかなる比較も、いかなる教量も、いかなる理論も、いかなる知識も、いかなる学問も、まったく役に立たなくなり、意識は休んで、忙しく立ち回る必要がなくなる。このとき、責任感のある禅師は、仏経を片付け、経を読み書物を読むことを禁じ、違反者には戒尺を用いる、と告げるだろう。ひとたび参禅が肝心な時点に達すれば、殴られることは絶対に良いことであり、言語文字は役に立たなくなっていても、殴られることはまだできる。殴られたときも同様に言語文字や思惟はないが、意根の霊感を触発することができる。
師父が棒を与えるとき、もし意識が活発であれば、すぐに思惟分析して「これがおそらくそうだ」と言うが、結果は「誤り!」である。意識はまた分析推理して「真妄和合、これは間違いない」と言うが、結果はやはり「誤り!」である。さらに排除法で推論憶測して「これは眼識ではなく、耳識・鼻識・身識でもなく、意識と意根でもなく、必ず第八識だ」と言うが、最後の結果はやはり「誤り!」である。意識を動かしたなら、どうであれ一つの字、「誤り!」である。三度の「誤り」の後、それでも悟らないなら、禅師は禅堂から追い出し、さらには禅院や禅寺から追い出して、もう相手にしないだろう。なぜなら、あなたはまだ道器ではなく、参禅する資格がないからである。もちろん、資格を備えた禅師がむやみに棒を振るうことはなく、必ず参禅者の心理状態を見極め、最も適切な時機に棒を与える。これを当機の一棒と呼ぶ。一切の塵境と情懐を抛り捨て、現量で塵境でも情懐でもないあれを識り得れば、それがそうである。
過去の祖師大徳は常に、偷心不死ならば道を悟れず、賊心不死ならば道を悟れず、と言った。偷心と賊心はそれぞれ何の心を指すのか。いずれも意識心を指す。何を偷んでも道を悟れないのか。答えを偷んでは道を悟れない。参禅のとき、どうすれば偷心を除けるのか。未到地定 (anāgamya-samādhi) を修得し、定の中で意根によって深く究め、意識の解を斥けることである。参禅のときの偷心は、言い換えれば抜け駆けの心、近道しようとする心であり、他所の知識や理論をそのまま持ってきて実証・親証とする心である。意根自身が親証したものではないので、意識が抜け駆けで持ち込んだものを偷と名づける。過去には、真実の証量を有する祖師たちの説法を形容するのに、こうした法はみな自分の心の窩から掻き出したものだ、という言い方がよく用いられた。つまり、祖師たちの説く法はみな自分で実証したものであり、自分の智慧の結晶であって、意識が他所から持ち込んだ既成の理論知識ではなく、あるいは学んだ理論を整理・帰納・加工して、見かけを変えて自分のものとするようなものではない。いずれも道を悟ったとは数えられず、悟道を誤らせることにもなる。
自心現量(じしんげんりょう;意根よりの直観)とは何か。自分の胸襟から掻き出したものこそ自心現量と呼ばれ、胸襟や心の窩とは、深いところの意根という主人のところを指す。これと反対に、意識が労せず解き出したもの、戒定慧と三十七道品を修めずして解き出したもの、学んだ理論知識や他人の見解と比較・参照・推測して導き出したものは、ほとんどただで手に入れたものに等しい。意識のこのようなやり方はほとんど偷に等しく、偷心不死ならば、意根は思量 (manasikāra/manana) 参究できず、道を証することはできない。意識が大量の法を学ぶことは、実質的にはすべて偷に属する。なぜなら、胸襟の中のものではなく、自家のものではなく、いずれも他所の法であり、耳に入り口から出る法、その場で学んでその場で売る法であり、いずれも自家の宝蔵ではないからである。
<h3 style="text-indent: 2em;">二、教外別伝の正法眼蔵涅槃妙心</h3>世尊は霊山の会において、天人が捧げた一枝の花を手にして大衆の弟子たちに向かってほほえまれた。人天の一同は懵懂としていたが、大迦葉だけが笑って世尊に応えた。世尊は肉眼・天眼・慧眼・法眼・仏眼をもって大迦葉が禅宗の心を頓悟したのを見て、遂に言われた:我有正法眼藏涅槃妙心,实相无相,付与摩诃迦叶。これによって大迦葉の頓悟が印可され、こうして大迦葉は娑婆世界の第一代禅宗祖師となった。
涅槃妙心とは、すべての衆生それぞれの真心自性を指し、常に涅槃に在り、微妙に現法する、最も真実の法相である。しかしこの法相にはいかなる世間相もなく、色声香味触法の相もない。衆生の七識は無明に遮蔽されているため、この涅槃妙心を識らない。この公案の中では、世尊の涅槃妙心が時時顕彰しているだけでなく、大迦葉の涅槃妙心も時時顕彰しており、さらには無数の人天大衆の涅槃妙心も時時顕彰している。なのに衆生はどうしても識らないのである。心が無明に障されて、霊性の智慧が開き出されず、慧眼が現前しない。どうしようもない。
ただ大迦葉だけは、仏陀の第一大弟子の名に恥じず、仏の心意に黙契し、仏陀が花を手にして示したとき、慧眼をもって仏陀の妙精明心を見破り、そこで微笑んだ。自分が玄機を見破った微妙な智慧もまた仏陀に見透かされ、師弟の間に心の交流が生じ、心心相印した。文字言語を用いずに。禅宗の妙法は衆目の澄んだ中で伝授し終えた。その後にもう一段の文字による補足がある。すなわち世尊の言われた那段:我有涅槃妙心,实相无相,传予摩诃迦叶……。
禅宗の法はなぜ教外別伝が可能なのか。伝える妙心妙法は意会することができ、言語文字に拘らないからである。もし文字言語に局限されるだけなら、それは妙ではない。妙心の妙は、一切の法の中を行じることができ、いかなる法も選り好みしないところにある。妙心妙法は言語文字に関係なく、いかなる法の上にも行き渡り、処処に神様がいる。どこに神様がいないのか。清浄 (viśuddha/pariśuddha) のも汚穢のも、有声のも無声のも、文字のあるのも文字のないのも、一切の法の上に生き生きと躍動している。
世尊は四十九年間、言語文字を用いて三蔵十二部の経典を説き、処処に涅槃妙心を顕彰した。これが教門理門である。しかしまだ少し遠回しである。そこで今度、世尊は大衆に最も直接的で、最も簡潔で、最も爽快な、直に人心を指すものを示現された。一言も語らず、ただ大衆の前に一枝の花を揺らしただけである。ああ、大衆はもどかしい。これは何をしているのか、世尊の壺にはどんな薬があるのかと考え込む。分からない。大迦葉は考える必要がなく、一瞬にして頓悟した。これは意根の頓悟である。意識は漸悟である。意識は考えなければならないからだ。考えるものはすべて真ではない。祖師が見れば一棒で打ち殺すところだ。情思意解の漢に、何の見込みがあるのか。
教外別伝の法は、痛快であり、手早い。あなたに考える余裕を与えない。あなたが考えようとしたときには、雁はすでに飛び去り、胡瓜の料理はすでに冷めている。このときにまだ髪をかき身をくねらせたり、耳を掻き頬を掻いたりする者があれば、直ちに一棒である。ここは何処の地で、あなたにあれこれ考えさせ、あれこれ思い巡らせてよいというのか。道器でなければ、打ち殺されても冤罪ではない。
正法眼蔵とはどういう意味か。この眼だけが最も正しく、その他の眼はいずれも正しくない。生滅生滅するもの、無明煩悩のもの、自ら独立できず、どうしても倚り所を必要とするものは、必ず正しくない。蔵とは含蔵するという意味であり、涅槃妙心は一切法の種子を含蔵し、一切法を生じさせることができ、万法がその中に含まれている。これは実に妙である。無から有を生じ、世間を幻化し、大衆をして依拠せしめ、さらに万法を執取 (upādāna) させる。
<h3 style="text-indent: 2em;">三、尋と伺の定の中こそ参禅に適する</h3>問:浅い定の下で、意識と意根を非常に鋭敏な伺の状態に置くと、この状態の中で自分の身体がかすかに見えるような感覚があり、周囲数十メートルで起こる微細な出来事を鋭敏に覚知できる。識心が伺の状態にあるとは、意識と意根がともに専注し、受動的に周囲で起こる出来事を感知するが、識心は起こった出来事に対して意図的に着意したり了別したりせず、ただその出来事が起こっていることを知っているだけであり、冷ややかに傍観して心念を動かさないような状態に似ている。このような状態は如法でしょうか。
答:伺の状態はもちろん禅定に属し、しかも定の程度が比較的深く専一であり、心には尋のときのような粗雑さと分散がない。尋の状態も禅定であり、定は比較的浅い。心が分散し、動きが多いため、定が浅くなるのである。伺の状態の下では、心は動かないが知があり、時間が長くなれば、所知に対して智慧的な認知が生じ、所知の法を見破ることができ、法が空であると知れば、心も空にすることができ、それによって捨の状態に到達する。
尋と伺はいずれも目標があり、しかも目標が専一であってこそ禅定が現れる。禅定の中に慧のないものもあれば、禅定の中に慧のあるものもある。禅定の中に所縁があってこそ慧があり、空であって所縁がなければ観察慧はなく、純粋な空定である。尋と伺はいずれも清明定であり、正定に属するが、尋の段階では定が浅く動きが多く、静かさが足りない。伺の状態は参禅の後期の状態であり、最も智慧が生じやすい。このときは意根を主とする思量 (manasikāra/manana) の段階であり、意識は動かないか、動いても少なく軽微である。
問:非常に静かな環境でこの伺の状態を保つと、次第に周囲の時空が凝固したように感じられ、身体も若有若无のようになり、識心はまるで身体の外に遊離して、静かに一切を感知しているようである。この状態から出た後、自分の思惟力と感知力が普段よりかなり強くなっているのに気づく。これは識心が専注を保ったことによる効果でしょうか。この伺の状態で時間を徐々に長くしていくと、意識と意根の専注力がますます大きくなり、覚知力もますます鋭敏になるのに気づき、さらに呼吸と心拍がますます緩慢になり、ますます細く長くなるのに気づく。本当に、いつ呼吸と心拍がなくなって人が死んでしまうのではないかと心配になります。
答:伺の状態では、意識はただ一つの知を保つだけで余計な心念がなく、意根が干渉を受けなければ、深く細く専一に思量し、慧が生じやすい。意根の慧がひとたび生じれば、所縁境を見破り、所縁境を空と見ることができ、道を証しやすい。伺の状態に到達しなければ、意識の思惟が活発で、意根の思が阻害され、真の智慧が生じない。意識が思惟・推理・分析・判断して導き出した結果は、意根のところに落ち着かず、意根が受け入れない。そうすると、この人の意識がいかなる見解を持っていても、最終的にはやはり見解は見解、心行は心行で、互いに交渉せず、修行は依然として道に乗らない。
多くの人が自分は証果した、明心したなどと言うが、身心世界には毫も変化がなく、逆に煩悩はますます重くなり、慢心はかえって盛んになる。それは、意識が分析・思惟して一つの理を導き出したが、意根が認めず、思うところ、考えるところ、行うところが依然としてそのままであり、昔の人の昔の行履のままである。名は聖人の名、心は凡夫の心であり、その後また次々と退転して道を退く。実に哀れなことである。
<h3 style="text-indent: 2em;">四、如何に心意識を離れて参禅するか</h3>禅定がない、あるいは禅定に欠けた観行 (vipaśyanā-caryā) と参禅は、根本的に意識を離れられず、まして意識の分析・推理・想像・推測を離れられない。これは過去の禅宗の祖師たちが最も忌み嫌い、反対した参禅方式であり、祖師たちがしばしば反感的に嫌った情思意解である。それゆえ、心意識を離れて参禅し、参禅の結果をより究竟に、より現量にしたいなら、努力して禅定を修め、未到地定 (anāgamya-samādhi) を具足させ、それから仏法を参究・観行しなければならない。こうすれば意根が多く力を用い、実証が保証され、意識の解ではなくなる。
観行と参禅の中では、意識を多く用いるほど、作用が大きくなるほど、その効果は割り引かれ、思い通りにならず、役に立たなくなる。意根を多く用いるほど、作用が大きく、爆発力が大きく、後劲が大きく、遠くまで走り、深く悟り、三昧 (samādhi) 力が大きく、智慧が鋭くなり、煩悩は軽くなり、心はますます解脱する。
<h3 style="text-indent: 2em;">五、二禅以上の禅定の中で如何に思量参究するか</h3>諸仏はみな四禅定の中で成道した。一般の人は二禅の中では参禅できなくなる。なぜなら、このとき意識があまりに微弱になり、意根の思惟・考量を助けることができず、意根自身の単独の思量作用に頼るしかないからである。では、諸仏が四禅定の中で悟道し、しかも極めて深い極めて深い大悟・徹悟・究竟悟、徹法底源の悟を成したのであれば、意識の助けなしに、意根はどのような智慧を持っていたのだろうか。二禅以上では法義を参究できない、というのは一般人に対して言うのであり、実際には二禅およびそれより高い禅定の中でも思考・参究することができ、道に入ることができる。
では、二禅以上の定の中で如何に思量参究するのか。それは入定の前に、意根が極めて深い疑情を持っていなければならない。心心念念ともに疑情であって、その他の思想や念頭はなく、その他の法はすべて遮蔽され、こうして一意専心一法に縁じ、深く疑い、深く参究し、一心に法義を明らかにしようとする。そうすれば、上座して足を組み終えたばかりのとき、意識は明らかな心念を滅し、心は清浄 (viśuddha/pariśuddha) に落ち着き、意根の思量を干渉せず、五識はなすところがないため滅し、二禅定が現れ、そこで意根は一心に参究する。因縁が現起するとき、意根に雑念が生じ、意識に念頭を生じさせると、五識が現れ、二禅定から出る。
意根が二禅から四禅の定の中で思量参究するには、五遍行心所法が具足しているだけでなく、五別境心所法も具足していなければならず、その勝解力と慧力 (prajñā-bala) は並みの強さではなく、非常に強大でなければ、道を悟ることはできず、法義を参究して通達し、三昧力を生じ、三昧の中に在ることはできない。定慧・勝解力・念力が少しでも劣っていれば、道を悟ることはできない。意根の五別境心所法が強大な人は、みな普通の人ではなく、聖人でなければ為し得ない。普通の凡夫と賢人は精進して修持し、意根の五別境心所法を強化するよう努め、道力をより強大にし、修道を迅速にすべきである。
<h3 style="text-indent: 2em;">六、未到地定と初禅定の中でこそ話頭を参じられる</h3>問:もし見道に未到地定・初禅・二禅・三禅・四禅が必要であるなら、禅宗の話頭を参じて開悟見道することは、仏理に合致しているのでしょうか。
答:話頭を参じるには未到地定と初禅定がなければ参じられず、心の中でぶつぶつと話頭を念じるだけであるが、実は話尾を念じているのであって、話頭は見つからない。それでは開悟見道などどうして言えようか。未到地定と初禅定の中でこそ参禅でき、道を悟ることができる。二禅以上では五識が滅し、意識が微弱で参禅できず、意根が話頭に非常に深く深く熏習されていれば、単独で参じられるかもしれない。過去の禅宗の祖師たちは、道を悟るのはみな初禅以前の定の中であり、彼らは座禅して静定を修めると同時に、日常の活動の中でも参禅し、二種の定が相得益彰して、はじめて道を悟るのが速かった。そのうちの一つだけでは、道を悟るのはいくらか難しくなる。
<h3 style="text-indent: 2em;"> 七、事修と理修の関係</h3>一切の法は事と理の二つの部分に分けられる。事とは相であり、理とは如来蔵の理体である。事を論じるときには、相の上から相の真実有性を破らなければならず、このときには理――如来蔵の角度から言ってはならない。そうすると、相が真実であると考える人が現れ、執著を生じ、心に束縛が生じ、解脱できなくなる。
小乗法はみな相の上から有を破る。大乗法は理と事の両面から修行し、理の上から相を破る。理を認めればやりやすくなるが、相も廃さず、理に執して事を廃することはなく、理事が円融して一体であることを要求し、いずれか一方に偏ってはならない。さもなければ仏法は成就しない。究竟に理事円融の境地まで修めば、それが仏であり、理事円融といってもまだ究竟でないのが地上菩薩と等覚・妙覚の二覚である。明心以後の菩薩は、わずかに円融できるかもしれないが、観察力が備わっていなければ、少しも円融できない。
もし証果も明心もしていない人に、五陰 (pañca-skandha) 十八界の法、世間一切の法は不生不滅であると告げれば、その人は五陰十八界が真実であると考え、これらの法に執著することに誤りはなく、何の悪いこともないと考え、それゆえ自分の貪愛と執著を滅する方法を考えなくなり、こうなると、衆生の生死の問題は解決できなくなる。一切の法は皆真如である、これは地上菩薩および仏の現量観行の結果であり、凡夫は一歩一歩基礎の五陰十八界の生滅相 (utpāda-nirodha-lakṣaṇa) の上から修行するしかなく、直接に五陰十八界を不生不滅の真如として扱うことはできず、この理を現量で観察できる人はいない。
四禅八定は事修であり、相を修めるものである。相は必ず生滅があり、生滅のない相はなく、第八識の空相を除く。空相は無相であるから、生滅しない。四禅八定の中の六識は相の上から見れば生滅変異であり、第七識も相の上から見れば生滅変異である。生滅変異の法を論じ、相を修めるときには、生滅変異の相がなければならない。このとき七識と四禅八定がいずれも不生滅であると言えば、不倫不類に見える。いずれも不生不滅で固定不変なら、私たちにはもう修行すべきものは何もなく、すでに完璧であるということになる。しかし事実はそうではない。それゆえ修学には次第があり、理事円融でなければならない。
<h3 style="text-indent: 2em;">八、我見を断ぜずして直接参禅できるか</h3>問:必ず先に我見 (satkāya-dṛṣṭi) を断じてから参禅して真心を証悟しなければならないのでしょうか。我見を断ずることについて何の認識も持たず、直接参禅したいと考える人がいます。もし参究が成功して真心を証悟すれば、世間の一切が自然に無常であると見えるようになるのではないでしょうか。一つの真を知れば、その他は自然にすべて偽であると分かるからです。
答:もし我見を断ずることについて何の認識もなく、依然として偽我を真と認めるなら、このような場合、どうしてその真実の真を取証し、明心証悟することができようか。ごく一部の人は前世の基礎が非常に良く、空と無我に対して一定の認識と体悟があり、直接参禅することができ、参禅の過程で先に我見を断じ、それから明心できる。しかし大多数の人は基礎が薄弱で、内心の着有と着我があまりに重く、参禅のときの遮障もあまりに重く、真に明心開悟することができない。大多数の人はおそらく先に我見を断じ、それから参禅しなければならない。我見を断ぜずに直接参禅すれば、最良の結果は解悟であり、見かけの果はなかなか良く香しいが、実用価値は大きくなく、悪い結果は徒労に終わり、時間の浪費である。
解悟のときには、二つの我が平行して並存し、衝突しないため、かえって我見と煩悩を増加させる。解悟の解は推理に相当し、実証ではない。それゆえ我見を断ずることはできず、しかも真心はもう一つの我であると感じるため、修行への阻害は非常に大きい。それゆえ我見が比較的重い人は、やはり先に我見を断ずることに目を向け、我見を断じて遮障がなくなってこそ、真心を証しやすい。
大多数の人は解悟ではない。解悟も容易ではない。もし真に解悟したなら、ただ禅定を加修し、禅定の中で意根によって改めて参禅するか、あるいは自分の解いたところを検証すれば、因縁時節が到来するとき、証悟に変わることもある。前提条件は、戒定慧をすべて円満に修めることであり、三十七道品と菩薩六度を含む。真に解悟したときには、大方向はすでに明確であり、修行は速くなる。恐ろしいのは、真に解悟できる人はほとんどおらず、みな解するだけで悟らないことである。
理論的知見の構築は、実際の用功に比べて、はるかに容易である。もし知見が他所から学んだものであれば、両者の難易度は一対十以上である。もし知見が自分で修めながら模索して導き出したものであれば、両者の難易度は一対十以下である。修行は主に自分の定慧に依拠して行い、模索しているときこそ実際に用功しているときであり、やり方を見出せば、功夫も熟し、見道も速くなる。
<h3 style="text-indent: 2em;">九、五陰不死ならば法身は活かず</h3>禅宗の祖師は言う:打得五阴死,许汝法身活。これは何の意味か。死ななければ活かず、とはどういう意味か。誰の法身も時時刻刻運行しており、五陰身の活動を維持し、十八界を執持している。しかし衆生は法身を識らず、あっても無いに等しい。このように法身は死んでいるかのようである。衆生はなぜ法身を識らないのか。心が五陰身の烏雲に遮られているからである。目の前の五陰身のみを見て、五陰身の後ろの法身を見ない。法身を見、法身を活かしたいなら、般若 (prajñā) の智慧をもって五陰の烏雲を払い開けなければならない。そうすれば、後ろの法身が生き生きと顕現する。これも修行の次第である。
<h3 style="text-indent: 2em;">十、禅定の中では疑情をもって呪語に代えて参究できる</h3>問:普段から楞厳呪を黙念する習慣が深く身についた後、内心の深いところで法に対して疑情が生じたなら、疑情をもって呪語に代えることができ、そうすれば行住坐臥とも参究していることになるのでしょうか。
答:楞厳経を黙念する功夫が非常に深くなると、禅定が生じ、意根は意識に随って一心専一に呪を念じることができる。禅定が非常に深くなるまで修めると、意根は法に専一し、智慧が生じ、疑情が生じやすくなる。そこで、心の中の楞厳呪を念ずる念を参禅の話頭に代え、あるいは疑情に代え、定の中で専注して参究し、毫も分心してはならない。こうしてこそ効果的に疑情を解決し、智慧を生じさせることができる。智慧を生じさせることより重要なことは何もない。呪を念じることもこの最終目標のためであり、呪を念じることは単に道に入る最初の方法にすぎず、呪を念じることを修行の目標とすべきではなく、道具として用いるべきである。
<h3 style="text-indent: 2em;">十一、好雨滴滴として別処に落ちず</h3>窓の外に大雨が降り注いでいる。この雨は心内の雨か、それとも心外の雨か。雨滴はどこに落ちたのか。大雨の滴が心霊を打ち叩くのは、如来蔵という心霊に打ち当たっているのか、それとも七識のどの心霊に打ち当たっているのか。心霊の窓を打ち壊すことができるだろうか。もちろん、色声香味触法は根本的に如来蔵に触れることはできず、如来蔵は塵境を受けない。塵境を受けるのは七識心であり、七識心が雨の打ち叩きを感知できるのであり、大暴雨が降るとき、心は驚かされることがある。
この雨はどうやって来たのか、人の意志によって移し変えられるのか。できると言うなら、なぜあれほど多くの人が水害を受けるのか。できないと言うなら、なぜ一滴の雨も身に沾れず、しかも風を呼び雨を呼び、陰雨を止めて風和日麗とすることができる人がいるのか。誰が雨相を見て即ち雨相を離れ、雨相に着かないことができるのか。誰が雨相を見て即ち心相とし、念念相に住しないことができるのか。雨が心内にあるなら、あなたの心の中でなぜあれほど大きな雨が降るのか。雨が心外にあるなら、心と関係なく、心はどうやって雨を感知できるのか。
七識が了別するのは虚偽の幻影であるが、この幻影もあまりに真実に見える。色声香味触はすべて立体であり、生き生きとしている。どうして真実だと感じないでいられようか。しかし身心を解脱させるには、どうすればよいのか。
<h3 style="text-indent: 2em;">十二、開悟に対する種々の誤解</h3>多くの人が修定の境界を開悟と見なしている。また、開悟とはすべての識心を滅し、意根さえも滅して作用しなくすることでなければならず、そうしてこそ真の開悟の境界であると考える人もいる。これにどのような過失があるか考えてみよう。このような開悟は、誰が開悟したのか。何を悟ったのか。この境界の中には人がおらず、五陰七識がなく、如来蔵だけが残っている。明らかに阿羅漢の無余涅槃 (Anupadhiśeṣa-nirvāṇa) の境界であり、開悟とは関係がない。まして、一凡夫が修定によって倶解脱大阿羅漢を証得し、直接に意根を滅して、すぐに無余涅槃に入ることは不可能である。凡夫は五識を滅することさえ極めて困難であり、意識はなおさら滅しにくく、まして意根を滅するなど言うまでもない。
ある人は常に、根塵脱落こそ開悟の境界であると執著している。しかし根塵脱落のときには、根もなく、塵もなく、根塵は一緒にならないから、当然六識心もない。もしこれが開悟なら、何を悟ったのか。虚空を砕き、大地を平沈させる境界を開悟と見なすのは、一体何を悟ったのか。この境界が如来蔵とどんな関係があるのかさえ分からなければ、これが開悟の境界であると証明することはできない。一部の人々が仏法を誤解するのは、その原因を究めれば、根本的な問題はやはり虚妄法と真実法をはっきり分けておらず、明らかにしておらず、福徳と智慧がまだ不足しており、さらに煩悩業障が重く遮止して、福徳と智慧の増長を障害しているからである。それゆえ真妄の法を真に領会して貫通することがまだできない。
真心と妄心はそれぞれ異なる体性を持つ。例えば、覚には真心の覚と妄心の覚があり、平等には真心の平等と妄心の平等があり、清浄 (viśuddha/pariśuddha) には真心の清浄と妄心の清浄があり、離相には真心の離相と妄心の離相があり、有為には真心の有為と妄心の有為があり、無為には真心の無為と妄心の無為がある、など枚挙にいとまがない。要するに、人々が法を学ぶとき、真と妄を分けるのは非常に難しく、しばしば混同し、誤解が多い。これは菩薩六度の条件がまだ具足していないからであり、具足すれば真妄二者の体性を分別する智慧が生じ、悟道の境界を誤解することはなくなる。