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禅定の修めと参禅による悟りの道(第二部)

作者: 更新時間:2025-07-13 18:42:28

第七章 禅の参究方法

一、禅宗が文字を立てないとはどういう意味か?

禅宗はまた宗門とも呼ばれ、仏法の宗とは真実心である如来蔵であり、禅宗とは禅を参究して真実心如来蔵を証悟する法門である。文字を立てないことには二つの理由がある。第一に、参究の全過程においては言語文字や音声を用いない。なぜなら、この時は甚深の禅定の中で禅を参究しており、意根と意識が同時に参究するため、言語文字のない状態にあるからである。言語文字や音声があると、思惟が浅くなり、意識だけが意解する状態に陥り、意根が力を発揮できなくなる。第二に、宗門の如来蔵自体に言語文字や音声はなく、言語文字とは相応せず、言語文字で伝えられるものは決して如来蔵そのものではない。

したがって、禅を参究する際には、法を伝える者も受ける者も、その言語文字や音声は役に立たなくなる。すべての書籍や理論は役に立たず、参究者も心の中で念々有詞(ねんねんゆうし)に唱えたり、くどくどと喋ったり、ふんふんと唸ったりする必要がなく、対比可能な外縁の参照物が剥ぎ取られる。こうなると、海闊天空(自由奔放)に情思意解(感情と思いを巡らせて理解)したり、比量や非量(推論や誤った認識)を存分に発揮したりすることはできなくなり、意識は活躍の余地がなくなり、ひたすら意根の現量(直接知覚)による思惟と参究に頼ることになる。苦しいものではあるが、徹夜で眠れないほど努力すれば、豊かな成果が得られ、意根の潜在能力と智慧が十分に発揮される。いったん証悟して自家の宝蔵を掘り当てれば、その後は自由で豊かな日々を送ることができ、二度と流離失所して苦しい日々を乞食しながら過ごす必要はなくなる。

この時、外の文字や心の中の音声は、どちらも役に立たず、力を発揮できなくなる。ただ自らの智慧に頼るのみであり、そうしてこそ自ら本来の大智慧を開発できる。推理であれ、分析であれ、整理であれ、帰納であれ、分解であれ、統合であれ、臆測であれ、想像であれ、比定であれ、教量(経典の教え)であれ、理論であれ、知識であれ、学問であれ、すべては用をなさなくなり、意識は休んで忙しくする必要がなくなる。この時、責任ある禅師は「経典をどけ、経典を読んだり書物を見たりすることを禁ず」と告げ、違反者には戒尺(しつけの棒)で応える。いったん参究が重要な局面に達すると、打たれることは絶対に良いことである。言語文字はどれも使えなくなっているが、それでも打たれることは可能であり、打たれている時もやはり言語文字や思惟はないが、それでも意根の霊感を触発することができる。

師匠が棒を与える時、もし意識が非常に活発であれば、すぐに思惟分析して「これがそうかもしれない」と思うだろうが、結果は「間違い!」である。意識がさらに分析推論して「真妄和合(真実と虚妄の和合)、これは間違いない」と言っても、結果はやはり「間違い!」である。さらに消去法を用いて推論臆測し「これは眼識ではなく、耳識、鼻識、身識でもなく、意識や意根でもない。きっと第八識だ」と言っても、最終結果はやはり「間違い!」である。意識を動かそうものなら、どうあろうとも一字「間違い!」である。三度の「間違い」の後、それでも悟らなければ、禅師はあなたを禅堂から追い出し、さらには禅院や禅寺からも追い出してしまう。なぜなら、あなたはまだ道器(修行の器)ではなく、禅を参究する資格がないからである。もちろん、資格を備えた禅師はむやみに棒で打ったりはせず、必ず参究者の心理状態を見極め、最も適切な機会に棒を与える。これを当機一棒(機に応じて一撃を与える)と言い、一切の塵境(対象世界)や情怀(感情)を投げ捨て、現量で塵境でも情怀でもないそれを識得するのである。

過去の祖師大徳は常に言われた。「偷心(盗む心)が死ななければ悟れない、賊心(盗賊の心)が死ななければ悟れない」。偷心と賊心はどちらも何を指す心か? どちらも意識心を指す。何を盗んでは悟れないのか? 答えを盗んでは悟れない。禅を参究する時、どうすれば偷心を取り除けるのか? 未到地定(初禅に至る前の禅定)を修め、禅定の中で意根を用いて深く参究し、意識の解釈を捨て去る。禅を参究する時の偷心とは、つまり抜け道を探す心、近道をしようとする心であり、他から得た知識や理論を直接持ってきて実証や親証としてしまう心である。意根自らが親証したものではないため、意識が抜け道を探して持ってくることを「盗む」と言うのである。過去によく使われた言葉で、真実の証量(悟りの境地)を持つ祖師方の説法を形容して「これらの法は皆、自らの心の奥底から陶(すく)い出したものである」と言う。これは祖師方が説く法は全て自ら実証したものであり、自らの智慧の結晶であって、意識が他から持ってきた既成の理論的知識や、学んだ理論を整理・帰納・加工して、見た目を変えて自らのものにしたものではないという意味である。こうしたものは悟道とは見なされず、悟道の妨げにもなる。

自心現量(自心の直接知覚)とは何か? 自らの胸襟(心の奥底)からすくい出したものを自心現量と言う。胸襟や心の奥底とは、深く潜む意根の主人(根本心)を指す。これとは反対に、意識が苦労せずに解き明かしたもの、戒定慧や三十七道品を修めることなく解き明かしたもの、学んだ理論的知識や他人の見解と比定・参考・推測して得たものは、ほとんどただただ持ってきただけと言える。意識のこのようなやり方はほとんど盗みに等しく、偷心が死ななければ、意根は思量参究できず、道を証することはできない。意識が大量の法を学んでも、実質的には全て盗みに属する。なぜなら、胸襟からのものではなく、自家のものではなく、全て他からの法であり、耳から入って口から出る法や、その場で学んでその場で売る法であり、自家の宝蔵ではないからである。

二、教外別伝の正法眼蔵涅槃妙心

世尊が霊山会(りょうぜんえ)で、天人から捧げられた一輪の花を手に取り、大衆の弟子たちに向かってほほえまれた。一同の人天はぼんやりしていたが、大迦葉(まかしょう)だけが笑みをもって世尊に応えた。世尊は肉眼・天眼・慧眼・法眼・仏眼をもって大迦葉が禅宗の心を頓悟したのを見て、遂に言われた。「我に正法眼蔵涅槃妙心有り、実相無相、摩訶迦葉に付与す」。これによって大迦葉の頓悟が印可され、大迦葉は娑婆世界の第一代禅宗の祖師となった。

涅槃妙心とは、それぞれの衆生自身の真実心・自性であり、常に涅槃に在って、微妙に現法(現れている法)であり、最も真実の法相である。しかし、この法相にはいかなる世間相もなく、色・声・香・味・触・法の相がない。衆生の七識は無明の覆いによって、この涅槃妙心を認識できない。この公案においては、世尊の涅槃妙心が常に顕現しているだけでなく、大迦葉の涅槃妙心も常に顕現しており、さらに無数の人天大衆の涅槃妙心も常に顕現している。しかしながら、衆生はただただ認識しないのである! 心が無明に覆われてしまい、霊性の智慧が開かれず、慧眼が現前しない。どうしようもない。

ただ大迦葉だけが、仏陀の第一の大弟子として恥じず、黙って仏の心を悟り、仏陀が手に花を持って大衆に示された時、慧眼をもって仏陀の妙精明知(微妙で精妙な智慧の心)を見破り、そこで微笑んだ。自らが玄機(深い機微)を見破った微妙な智慧も仏陀に見透かされ、師弟の間に心の交流が生まれ、心と心が通じ合い、文字言語を用いなかった。禅宗の妙法は、衆目澄々(皆がはっきり見ている)の下で伝授を終え、後に世尊が言われた言葉が付け加えられた。「我に涅槃妙心有り、実相無相、摩訶迦葉に伝う…」。

禅宗の法がなぜ教外別伝(経典の教えの外で別に伝える)できるのか? 伝える妙心妙法は以心伝心で理解できるものであり、言語文字に拘束されないからである。もし言語文字にのみ限定されるなら、それは妙(すぐれている)とは言えない。妙心の妙たる所以は、一切の法の中で行じることができ、いかなる法も選り好みせず、妙心妙法は言語文字に関わらず、どんな法の上でも行じられ、至る所に存在するからである。どこに存在しないというのか? 清らかなものも汚れたものも、音のあるものもないものも、文字のあるものもないものも、全ての法の上に生き生きと現れている。

世尊は四十九年間、言語文字を用いて三蔵十二部の経典を説き、至る所で涅槃妙心を顕現された。これが教門理門(教えの門、理の門)である。しかし、それでもまだ少し回りくどい。今回、世尊は大衆に最も直接的なもの、最もあっさりしたもの、最も痛快なもの、人心を直指(じきし)するものを示現された。一言も言わず、ただ大衆の前で一輪の花を揺らしただけである。ああ! 大衆はただやきもきするばかりだ! 心の中で「これは何をしているのだ? 世尊の葫蘆(ひょうたん)の中にはどんな薬があるのか?」と思うが、理解できない。大迦葉は考えず、一瞬で頓悟した。これは意根の頓悟である。意識は漸悟(次第に悟る)である。なぜなら意識は考えなければならないからだ! 考えることを用いるものはどれも真実ではない。祖師はそれを見れば一撃のもとに打ち殺すであろう。情思意解漢(感情と思いで理解しようとする者)、何の甲斐があるというのか?

教外別伝の法は、痛快であり、手際が良い。考えさせない。考えている間に、雁はとっくに飛び去ってしまい、キュウリの料理はとっくに冷めてしまっている。この時に誰がなおも首をかしげたり、耳をかいたりしているだろうか? 直接一撃だ。ここは何の場所だと左思右想(あれこれ考える)したり、前後を考えたりすることを許すと思っているのか? 道器(修行の器)でなければ、打ち殺されても冤枉(むごい)ではない。

正法眼蔵とはどういう意味か? ただこの眼だけが最も正しく、他の眼は全て正しくない。生滅するもの、無明煩悩のもの、自ら独立できず、必ず何かに依存しなければならないものは、正しくないに決まっている。蔵とは、含蔵の意味である。涅槃妙心は一切法の種子を含蔵し、一切法を生じさせ、万法をその中に蘊(ふく)んでいる。これは非常に妙(すぐれている)である。無から有を生じ、幻のように世間を化現し、大衆に依るべきものを与え、それによって万法を執取させるのである。

三、尋(じん)と伺(し)の禅定の中でこそ禅を参究できる

問:浅い禅定の下で、意識と意根を非常に鋭敏な伺の状態に置く。この状態では、自らの身体をかすかに見ているように感じられ、周囲数十メートルで起こっている微細なことを鋭敏に覚知できる。識心が伺の状態にあるとは:意識と意根がどちらも集中し、受動的に周囲で起こっていることを感知するが、識心は起こっていることに意図的に注意を向けたり了別(認識)したりせず、ただそのことが起こっていることを知っているだけで、冷ややかに傍観して心念を動かさない状態に似ている。この状態は法にかなっているか?

答:伺の状態はもちろん禅定に属し、しかも定の程度は比較的深く専一である。心に尋(粗い探求)がない時は粗雑で散漫である。尋の状態も禅定であるが、定は比較的浅い。なぜなら心が散漫で、動きが多く、定が浅いからである。伺の状態では、心は動かないが知覚があり、時間が経つと知覚したものについて智慧的な認知が生じ、知覚した法を見破り、法が空であると知れば、心も空となり、それによって捨(しゃ)の状態に到達できる。

尋も伺も目標があり、しかも目標が専一でなければ、禅定は出現しない。ある禅定には慧(智慧)がなく、ある禅定には慧がある。禅定に所縁(対象)があってこそ慧があり、空で所縁がなければ観察慧はなく、純粋な空定である。尋も伺も清明定であり、どちらも正定に属する。しかし尋の段階では定が浅く動きが多く、静かではない。伺の状態は参究の後期の状態であり、最も智慧が生じやすい。この時は意根を主とする思量の段階であり、意識は動かず、あるいは動いても少なく軽微である。

問:もし非常に静かな環境でこの伺の状態を保つと、周囲の時空が凝固したように感じられ、身体もあたかも有るか無いかのようになり、識心は身体の外に遊離して、静かに一切を感知しているように感じられる。この状態から出た後、自らの思考力や感知力が普段よりもかなり強くなっていることに気づく。これは識心が集中を保った後に生じた効果であろうか? この伺の状態にあり、時間が次第に長くなると、意識・意根の集中力がますます大きくなり、覚知力もますます鋭敏になり、さらに呼吸や心拍がますます遅く、ますます細く長くなることに気づく。いつか呼吸や心拍が止まってしまい、人が死んでしまうのではないかと本当に心配になる。

答:伺の状態では、意識はただ一つの知覚を保ち、余分な心念がなく、意根が妨げられなければ、深く細かく専一に思量し、慧が生じやすくなる。意根の慧が一旦生じれば、所縁境(対象世界)を見破り、所縁境を空と見ることができ、容易に道を証する。もし伺の状態に達していなければ、意識の思惟が活発になり、意根の思惟は阻害され、真の智慧は生じない。意識が思惟・推論・分析・判断した結果は、意根のところに落ちず、意根はそれを受け入れない。そうなると、この人の意識がどんな見解を持っていようと、最終的には見解は見解のままであり、心の働きは心の働きのまま、互いに交渉せず、修行は依然として道にかなわない。

多くの人が自分は証果したとか明心したなどと言うが、身心世界には微塵も変化がなく、それどころか煩悩はますます重くなり、慢心はかえって盛んになる。それは意識が分析思惟して一つの理を導き出したが、意根が認めず、思うこと考えること行うことは相変わらずで、昔と同じ人同じ行履(行い)のままだ。名は聖人の名であり、心は凡夫の心である。そして次々と退転・退道し、実に哀れである。

四、心意識を離れて如何に禅を参究するか

禅定がないか、あるいは禅定が不足している観行(観察修行)や参禅では、決して意識を離れることはできず、ましてや意識の分析・推論・想像・推測を離れることはできない。これは過去の禅宗祖師たちが最も忌み嫌い反対した参究の方法であり、祖師たちが常に反感を持ち嫌った情思意解(感情と思いで理解すること)である。したがって、心意識を離れて禅を参究し、参究の結果をより究竟(究極的)に、より現量的(直接的)にしたいならば、努力して禅定を修め、未到地定を具足させてから、仏法を参究観行しなければならない。そうすれば意根が多く力を用い、実証を保証し、意識の解釈ではなくなる。

観行や参究の中で、意識を多く使えば使うほど、その効果はますます割引され、ますます期待外れで、ますます役に立たなくなる。意根を多く使えば使うほど、その作用は大きく、爆発力は大きく、持続力は大きく、進む距離は遠く、悟りは深く、三昧力は大きく、智慧は鋭く、煩悩は軽く、心は解脱する。

五、二禅以上の禅定の中で如何に思量参究するか

諸仏は皆、四禅定の中で成道する。一般の人は二禅ではもう禅を参究できなくなる。なぜなら、この時は意識が非常に微弱で、意根の思惟考量を助けることができず、ただ意根自身の単独の思量作用に頼るしかないからである。では、諸仏が四禅定の中で悟道し、それも極めて深い大悟・徹悟・究竟悟、法の底源を徹する悟りを得るには、意識の助けがなく、意根はどのような智慧を持たねばならないのか? 二禅以上では法義を参究できないというのは、一般の人に対して言うのであり、実際には二禅およびそれ以上の禅定の中でも思考参究でき、入道できる。

では、二禅以上の定の中で如何に思量参究するのか? 入定前に、意根が極めて深い疑情(疑いの念)を持たねばならない。心に念々として疑情が満ち、他の思想や念頭はなく、他の法は全て遮断する。そうすれば一意専心に一法に縁(よ)り、深く疑い、深く参究し、一途に法義を明らかにしようとする。そうすれば、座に着いて足を組んだばかりで、意識は明らかな心念を滅し、心は清浄になって、意根の思量を妨げなくなる。五識はやることがないので滅し、二禅定が現れる。そこで意根は一心に参究する。因縁が現起すると、意根に雑念が生じ、意識に念頭を生じさせるよう促す。そこで五識が現れ、二禅定から出てしまう。

意根が二禅から四禅定の中で思量参究するには、五遍行心所法(あらゆる心作用に遍く行われる五つの心の働き:触・作意・受・想・思)が具足しているだけでなく、五別境心所法(特定の対象に向かう五つの心の働き:欲・勝解・念・定・慧)も具足していなければならない。その勝解力(確信する力)と慧力(智慧の力)は普通に強いのではなく、非常に強大でなければ悟道できず、法義を参究して通達し、三昧力を生じて三昧の中に住することができる。定慧・勝解力・念力が少しでも不足すれば、悟道はできない。意根の五別境心所法が強大な人は、普通の人ではなく、聖人でなければできない。普通の凡夫や賢人は精進して修持し、努力して意根の五別境心所法を増強し、道力をより強大にし、修道を迅速に進めるべきである。

六、未到地定と初禅定の中でこそ話頭を参究できる

問:見道(悟りを開くこと)には未到地定、初禅、二禅、三禅、四禅が必要だとすれば、禅宗の話頭を参じて開悟見道するのは、仏理に合致するか?

答:話頭を参ずるには未到地定や初禅定がなければ参じられず、ただ心の中で話頭を念じるだけであり、実は話尾(答え)を念じている。話頭(問題の根源)は見つからない。それではどうして開悟見道が語れようか? 未到地定や初禅定の中でこそ禅を参究でき、悟道できる。二禅以上では五識は滅し、意識は微弱で禅を参究できず、話頭が意根に極めて深く染み込んでいる場合を除き、おそらく単独で参究できるかもしれない。過去の禅宗祖師の悟道は皆、初禅以前の定の中で得られた。彼らは座禅で静定を修める一方、日常活動の中でも禅を参究し、二つの定が相乗効果を発揮して悟道が早かった。そのうちの一つだけでは悟道は難しくなる。

七、事修と理修の関係

一切の法は事と理の二つの部分に分かれる。事とは相(現象)であり、理とは如来蔵の理体(真理の本体)である。事を論じる時は、相の上から相の実有性(実在する性質)を破らねばならない。この時は理——如来蔵の角度からは言ってはならない。そうすると、ある者は相を実在と見なし、執着を生じて心が束縛され、解脱できなくなる。

小乗法は皆、相の上から有を破る。大乗法は理と事の両面から修行し、理の上から相を破る。理を認めれば事は容易であるが、しかし相を廃することはなく、理に執着して事を廃することはない。事と理が円融(調和融合)することを求め、どちらかに偏ってはならない。そうでなければ仏法は成就しない。究竟に事理円融の程度に修まれば、それが仏である。事理円融が究竟でないのは、地上の菩薩と等覚・妙覚の二覚である。明心後の菩薩はおそらく少しは円融できるが、もし観察力が備わっていなければ、全く円融できない。

もし証果も明心もしていない人に、五陰十八界法(身心の構成要素)や世間の一切法は不生不滅だと告げれば、その人は五陰十八界を実在と見なし、これらの法に執着しても間違いではなく何も悪くないと思い、その結果、自らの貪愛や執着を滅する方法を考えようとしなくなる。そうなれば、衆生の生死の問題は解決できなくなる。一切法は皆真如である、これは地上の菩薩および仏の現量的な観行結果である。凡夫は一歩一歩、基礎である五陰十八界の生滅相の上から修行せねばならず、直接五陰十八界を不生不滅の真如として扱うことはできない。この理を現量で観察できる者はいない。

四禅八定は事修であり、相を修めることである。相には必ず生滅があり、不生滅の相はない。第八識の空相を除いては、空相は無相であるため不生滅である。四禅八定の中の六識は相の上から見れば生滅変異であり、第七識も相の上から見れば生滅変異である。生滅変異の法を論じ、相を修める時には、生滅変異の相がなければならない。もしこの時に七つの識や四禅八定は皆不生滅だと言えば、それは場違いに思われる。もし皆不生滅で固定不変なら、私たちに修めるべきものは何もなく、すでに完璧である。しかし事実はそうではない。したがって修学には次第が必要であり、事理円融でなければならない。

八、我見を断たずに直接禅を参究できるか?

問:必ず先に我見を断ってから真実心を参究証悟しなければならないのか? ある人は我見を断つことについてほとんど認識がないようだが、直接禅を参究したいと思っている。もし参究が成功して真実心を証悟すれば、自然に世間の一切が無常だと見えるようになるのか? 一つの真実を知れば、他のものは自然に虚偽になるからである。

答:もし我見を断つことについてさえほとんど認識がなく、依然として偽りの我を真実と認めているなら、どうしてその真実なる真実を証得して明心証悟できようか? ごく一部の人は前世の基礎が非常に良く、空や無我について一定の認知と体悟があるため、直接禅を参究できる。参究の過程で先に我見を断ち、その後明心できる。しかし大多数の人は基礎が脆弱で、内心の我への執着が重く、参究時の遮障(妨げ)も重く、真に明心開悟することはできない。大多数の人はおそらく先に我見を断たねばならず、その後でなければ禅を参究できない。我見を断たずに直接禅を参究すれば、最良の結果は解悟(理解による悟り)であり、見た目は良く香ばしいが、実用的価値はあまりない。良くない結果は無駄骨で、時間の浪費である。

解悟の時は、二つの我が平行して存在し、衝突しない。こうなるとさらに我見と煩悩が増す。解悟の解は、推論に相当し、実証ではない。したがって我見は断たれず、さらに真実心を別の我と感じる。これは修行にとって非常に大きな妨げである。したがって我見が比較的重い人は、まず我見を断つことに重点を置き、我見を断って遮障がなくなってからでなければ、真実心を証得しやすくはならない。

大多数の人は解悟ではない。解悟も容易ではない。もし真に解悟したなら、禅定を修めることに力を加え、禅定の中で意根を用いて再び禅を参究するか、あるいは自らの理解を検証すれば、因縁時節が至った時に、証悟に変わることもある。前提条件は戒定慧を全て修め円満にすることであり、三十七道品や菩薩の六度を含む。真に解悟した時は、大まかな方向性はすでに明確であり、修行はより早くなる。ただ、真に解悟できる者がほとんどいないことを恐れる。皆、ただ解するだけで悟っていない。

理論的知見を構築することは、実際に努力することに比べると、はるかに容易である。もし知見が他から学んだものであれば、両者の難易度は一対十以上である。もし知見が自ら修めながら模索して得たものであれば、両者の難易度は一対十以下である。修行時は主に自らの定慧に頼って修める。模索する時が実際に努力する時であり、道筋を模索し出せば、功夫(修行の成果)も熟達し、見道は早くなる。

九、五陰死せずんば法身活かず

禅宗の祖師は言われた。「五陰を打ち殺すことを得ば、汝に法身の活けることを許す」。これはどういう意味か? 死ななければ、活きないとはどういう意味か? それぞれの人の法身は時々刻々運行し、五陰身の活動を維持し、十八界を執持している。しかし衆生は法身を認識せず、あっても無いのと同じである。こうして法身は死んでいるように見える。衆生はなぜ法身を認識しないのか? 心が五陰身の黒雲に覆われてしまい、目前の五陰身だけを見て、五陰身の背後にある法身を見ないからである。法身を見、法身を活かそうとするなら、般若の智慧で五陰の黒雲を払いのけねばならない。そうすれば背後にある法身が活き活きと顕現する。これも修行の次第である。

十、禅定の中で疑情を呪文と置き換えて参究できる

問:普段、楞厳咒(りょうごんしゅ)を黙念し、深いところで提(ひっさ)げる習慣ができた後、もし心の深奥で法に対して疑情が起きたなら、疑情で呪文を置き換えれば、歩くも座るも臥すも全て参究している状態になるか?

答:楞厳咒を黙念する功夫が深くなると、禅定が得られ、意根は意識に従って一心専念に呪文を念じる。禅定が深く修まった時、意根は法に専一となり、智慧が生じて疑情が起きやすくなる。そこで心の中で楞厳咒を念じる念いを、禅を参ずる話頭、あるいは疑情に置き換え、定の中で専注して参究し、ほんの少しでも気を散らしてはならない。そうしてこそ効果的に疑情を解決し、智慧を生じさせることができる。智慧を生じさせること以上に重要なことは何もない。呪文を念じるのもこの最終目標のためであり、呪文を念じるのは入道の最初の方法に過ぎない。呪文を念じることを修行の目標と見なしてはならず、道具として使うべきである。

十一、好雨滴滴、別処に落ちず

窓の外で大雨が降り注いでいる。この雨は心の中の雨か、それとも心の外の雨か? 雨滴はどこに落ちたのか? 大雨の滴が心を打ち、それは如来蔵という心に打ちつけられたのか、それとも七識のどれかの心に打ちつけられたのか? 心の窓を打ち壊してしまわないか? もちろん、色・声・香・味・触・法は如来蔵には全く触れず、如来蔵は塵境(対象)を受けない。塵境を受けるのは七識心であり、七識心が雨の打ちつけを感知できる。大雨が降ると、心は驚くかもしれない。

この雨はどのようにして来たのか? 人の意志で変えられるのか? もしできると言うなら、なぜ多くの人が水害に遭うのか? もしできないと言うなら、なぜある人は一滴も雨に濡れず、しかも風を呼び雨を降らせ、陰雨を止めて風和日麗(風が和らぎ日が麗しい)にできるのか? 誰が雨の相を見て即座に雨の相を離れ、雨の相に執着しないか? 誰が雨の相を見て即座に心の相と見なし、念念として相に住しないか? 雨が心の中にあるなら、なぜあなたの心はそんなに大雨を降らせるのか? もし雨が心の外にあるなら、心とは無関係であり、心はどうして雨を感知できるのか?

七識が了別するのは虚偽の幻影ではあるが、この幻影はあまりにもリアルに見える。色・声・香・味・触は全て立体的で生き生きとしており、どうして人に真実と思わせないことがあろうか? しかし、身心を解脱させるには、どうすればよいか?

十二、開悟に対する種々の誤解

多くの人が禅定を修めた境地を開悟と思い込んでいる。またある人は、開悟とは必ずすべての識心を滅し、意根さえも滅して作用させないことであり、これが真の開悟の境地だと考えている。私たちは考えてみよう。これにはどんな過失があるのか? このような開悟とは、誰が開悟したのか? 何を悟ったのか? この境地には人はおらず、五陰も七識もなく、ただ如来蔵だけが残っている。明らかに阿羅漢の無余涅槃の境地であり、開悟とは関係ない。ましてや、一介の凡夫が禅定を修めて俱解脱大阿羅漢(禅定と智慧の両方で解脱した阿羅漢)を証得し、直接意根を滅して直ちに無余涅槃に入ることは不可能である。凡夫はたとえ五識を滅するのも極めて困難であり、意識を滅するのはさらに難しく、ましてや意根を滅することはなおさらである。

ある人はいつも根塵脱落(感覚器官と対象の分離)が開悟の境地だと執着する。しかし根塵脱落の時は、根もなく塵もなく、根塵が一緒にならない。それではもちろん六識心もない。もしこれが開悟なら、何を悟るというのか? 虚空を粉砕し、大地を平らに沈める境地を開悟と思うが、いったい何を悟るというのか? このような境地が如来蔵とどんな関係にあるのかさえ分からなければ、これが開悟の境地であると証明することはできない。ある人々が仏法を誤解するのは、根本的な問題は虚妄法と真実法をはっきり区別できず、理解しておらず、福徳智慧がまだ不足し、さらに煩悩業障が深刻に遮止(妨げ)し、福徳と智慧の増長を妨げているため、真妄の法を真に理解し貫通できないからである。

真実心と妄心はそれぞれ異なる体性を持っている。例えば、覚(目覚め)には真実心の覚と妄心の覚がある。平等には真実心の平等と妄心の平等がある。清浄には真実心の清浄と妄心の清浄がある。離相(相を離れること)には真実心の離相と妄心の離相がある。有為(因縁によって生じたもの)には真実心の有為と妄心の有為がある。無為(因縁によって生じないもの)には真実心の無為と妄心の無為がある。など、多くのものがある。要するに、皆が法を学ぶのは、真実と虚妄を区別するのが非常に難しく、常に混同し、往々にして誤解が多い。これは菩薩の六度の条件がまだ具足しておらず、具足すれば真妄両者の体性を智慧で弁別できるようになり、悟道の境地を誤解することはなくなるからである。

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