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禅定の修めと参禅による悟りの道(第二部)

作者: 更新時間:2025-07-13 18:45:31

第六章 禅定と見道の関係

一、見道に必要な禅定とはどのようなものか

見道による悟りに必要な定力は、常に持続して保たれるべきものなのか、それとも必要に応じて定を起こし、必要がなければ定がない状態なのか。修行による禅定が堅固であれば、心は常に定中にあるが、時には強く時には弱く、世俗の用事が多いと心が散乱し、定力は弱まる。修行による禅定が堅固でなければ、座禅中は定があるが、座を離れると散乱して禅定は失われる。

聖果を得て心を明らかにするために必要な禅定は比較的堅固なものであり、このような深い禅定によってこそ、思惟観行は深く微細で連続したものとなり、功夫(修行の成果)は持続し、観行の智慧はますます良く深まっていく。これはちょうど湯を沸かすことに似ており、火が絶えず燃え続けてこそ鍋の水は次第に熱くなり、ついに沸騰する。火が途切れ途切れであれば、鍋の水は熱くなったり冷めたりし、いつ沸騰するか分からなくなる。

修行における最低限の禅定とは、観行思惟の際には必ず連続した禅定があることであり、禅定の中で観行思惟を行い、思惟観行の連続性と持続性、そして絶え間ない深化を保証し、長時間にわたる観行思惟を可能にするだけの定力が十分にある状態を指す。そうでなければ功夫は途切れやすく持続せず、思惟も連続せず、観行を十分に行って我見を断つことができない。また、禅定は主に意根が思量を起こせることを保証するためにあり、一心に思量参究し、途切れないようにする。禅定が浅ければ意根の攀縁(心が対象に捉われること)が多くなり、仏法に専心して思量できず、見道はできない。禅定が十分に深く、他の見道の因縁が具足し、戒・定・慧が備わっていれば、いつでも悟りを証することが可能である。

二、禅定が具足して初めて仏法を参究する能力が生まれる

仏を学ぶことは知識を学び研究することではなく、参究する能力を持ち、単に理解を求めるだけでなく、実証を求めなければならない。もし禅定が不足し、様々な見道の因縁が具足していなければ、聡明であるがゆえに如来蔵を推測してしまい、その結果が如来蔵の状態と大体似通ったものになってしまうかもしれず、そうなるとそれ以上に功夫を重ねて禅を参じることが難しくなる。もし自分は悟ったと思い込めば、それは大変なことになる。戒定慧と見道の因縁が具足していない時期には、如来蔵というものはまず覆い隠しておき、禅を参じる因縁が具足した時に参究証悟できるようにすべきである。だから私は皆さんに研究をすることを望まない。法(教え)はすでにかなり明らかになっており、聡明な人が研究すれば、似たような結果を出してしまい、本当に厄介なことになる。菩薩の条件が具足する時を待ち、禅定の中で参究するべきである。禅定を多く修めてこそ、参究と観行の能力が生まれ、仏法を実証できるのである。

世間の学堂で優秀な成績を収めた人のうち、社会に出て棟梁の材となった者がどれほどいるだろうか。知識は人をうまく生きさせるだけで、創造力を持つとは限らない。仏を学んで実証を望むならば、世間で学問をするのとは区別すべきであり、そうでなければ仏を学ぶことは単なる知識の習得となり、知識は人を解脱させず、実証のみが人を解脱させるのである。仏の大弟子である周利槃特(しゅりはんどっか)は四果の大阿羅漢であるが、彼が聖果を証する前は非常に愚かであり、証果後も仏法を説くことはできなかった。しかし彼はまさに俱解脱(くげだつ)の大阿羅漢であった。私たちはそれほど愚かではないので、知識の理解と学習はほどほどにし、主な精力を仏法を参悟すること、実証することに用いるべきである。

三、心を明らかにし聖果を証さなくても初禅定は修得できる

初禅と心を明らかにすること(明心)との間には必然的な関係はない。心を明らかにせず聖果を証さなくても、初禅定は修得できる。外道はまさにそうであり、彼らは色界の無想定(むそうじょう)どころか、無色界の非想非非想処定(ひそうひひそうしょじょう)さえも修得しており、初禅定をはるかに超えている。過去の時代の外道たちは心が清浄で、世俗界から離れて深山で修道することができ、世間法に貪る心がなく、禅定を起こしやすかった。加えて当時は社会全体の人心が純朴で、物質や情報も発達しておらず、環境の影響(熏染)もそれほど深刻でなかったため、人の心の中の想念が非常に少なく、定を得るのは自然と早かった。

現代社会のように物質や情報が発達した環境条件下では、定を修めるのは容易ではなく、初禅定はさらに修めにくい。したがって、我見を断った後で初めて、初禅定を修めやすくなる。聖果を得て心を明らかにする前に初禅定を修めるのは難しいが、例外や特例がないわけではない。ちょうど聖果を証得して得た三昧(さんまい)の中では、鉄は熱いうちに打て(好機を逃さず)と言うように、引き続き火を加えれば、初禅定はまもなく現れるかもしれない。この三昧の段階を過ぎると、心はやや懈怠(怠る)し、禅定は修めにくくなり、初禅は現れにくくなる。したがって、初禅定を修める好機を捉えることが非常に重要である。

四、どのような禅定の中で聖果を証得できるか

禅定はまた三三昧(さんさんまい)とも呼ばれる。第一は有覚有観三昧(うかくうかんさんまい)、第二は無覚有観三昧(むかくうかんさんまい)、第三は無覚無観三昧(むかくむかんさんまい)である。第三の無覚無観三昧はまた無尋無伺(むじんむし)とも呼ばれ、二禅の定境(じょうきょう)である。この時、五識(ごしき:眼・耳・鼻・舌・身)は滅し、意識は微弱で、覚知(かくち:はっきりとした知覚)がなく、観(かん:観察)や反観(はんかん:内省)の力もなく、境界(きょうがい:対象)も知らず、自分が定に入っていることも知らない。二禅定の中で慧(え:智慧)が弱く観(かん)を起こせないのであれば、無我などの智慧を発起することはできず、したがって二禅の中では聖果を証得できない。一般的にはそうであるが、特殊な人は除かれるかもしれない。

第二の無覚有観三昧は、初禅から二禅の中間定(ちゅうかんじょう)であり、意識による粗い覚知はないが、微細な観(かん)はある。この定の中では意識は微弱である。もし意根(いこん:末那識、深層心)が熏習(くんじゅう:影響を受けること)を受けず、心に疑情(ぎじょう:疑いの念)がなければ、我見を断ち聖果を証得するのはやや困難である。一方、初禅の定境では、有覚有観(うかくうかん:覚知と観察がある)であり、一心に専一で、観察力が強いため、我見を断ち聖果を証得しやすい。三三昧に至る前の未到地定(みとうじじょう)の中でも、禅定力は非常に強く、一心に専一であるため、我見を断ち聖果を証得することもできる。

定を修め観行(かんぎょう:観察修行)が伺(し:微細な観察、探求)の状態に達すること、これが参禅の功夫である。この功夫を成就すれば、生々世々(しょうしょうせせ:永遠に)にわたって利益は尽きることがない。なぜなら、いかなる法の証得も、伺の状態の中で証得されるからである。これより浅い定では、解(げ:理解)の要素が含まれており、智慧はあまり真実で信頼できるものではない。

五、一切の菩薩の証悟と修行は禅定から離れられない

昔のすべての菩薩たちの修行には深い禅定があり、禅定を修めずに修行した例は仏典に記録されていない。どの菩薩が禅定を修めずに、深い禅定を通さずに様々な三昧を証得したというのか。そして、あらゆる禅定は坐禅による静中の定(じょうちゅうのじょう:静座中の禅定)から離れられない。多くの菩薩が三昧を証得した過程は様々な仏典に記載されており、坐禅して定を修める過程と経験がないならば、真の意味での菩薩ではない。菩薩たちは皆、心を修めるが、修行する際には、心と身体は分離できない。なぜなら、身心は互いに影響し合い、身体が良くないと心の平静に影響し、煩悩は降伏(ごうぶく:制御)・断除(だんじょ:断つ)できず、心が静かでなければ細やかさがなく、観行や参究を深く行うことができず、悟りを証得できないからである。

『楞厳経(りょうごんきょう)』の第五章と第六章には、諸大菩薩たちが様々な三昧を証悟した過程が紹介されており、それはすべて坐禅による静中の定の中で三昧を証得し深い智慧を得たものである。仏陀の三大阿僧祇劫(だいさんあそうぎこう:途方もなく長い時間)にわたる修行は、仏の本生経(ほんじょうきょう:過去世の物語)にすべて紹介されており、一生として結跏趺坐(けっかふざ:あぐらをかいて坐る)して定を修めずに悟りを証得したものはない。禅を参じ法義(ほうぎ:教えの意味)を思考する時、他の問題を思考する時、よく味わってみよ。坐禅している時に思考が明晰か、それとも歩いたり立ったりしている時に問題を思考する方が明晰か。心はどのような状態で最も安定し、安詳(あんしょう:落ち着いている)で、最も細やかか。それはすべて静坐の中にある。身体が安定して初めて心も安定し、安心でき、静かに落ち着いて深く思索し参究できるのである。

過去の祖師たち、禅師たちで、結跏趺坐せずに修行した者は一人もいない。静中の定は非常に良く、多くの人には四禅定さえあった。四禅定や二禅定を得た人で、立ったり歩いたりしながら修得した者がいるだろうか。初禅定や未到地定でさえ、坐禅を離れて修得した者がいるだろうか。自分は坐禅したことがないように感じる人もいるかもしれず、未到地定があるようにも思えるかもしれない。しかし、その人に仮に未到地定があったとしても、それは一時的なもので長続きせず、堅固な参禅の功夫はほとんどない。いかなる禅も、坐禅の功夫から離れることはできない。坐禅の功底(こんてい:基礎)があって初めて、「行も禅、坐も禅、語黙動静(ごもくどうせい:言葉を発することも黙っていることも、動くことも静かなること)ことごとく安然(あんぜん:安らか)」という境地が可能になるのである。

また、禅定を修めるのは時間の無駄だと言い、禅定を捨てて時間を省き、もっと多く法を聞き思惟すべきだという人もいる。この考えは幼稚で無知である。諺にも「刃を研ぐことは薪割りの仕事を遅らせない」と言う。鋭い刃物を使って初めて素早く薪を割ることができ、短時間で大量の薪を割ることができる。鈍った刃物や、素手で山に入って薪を割ろうとして、何本の枝を折ることができるだろうか。真の修行は、多くの時間を多聞(たもん:多く聞くこと)に費やすことではなく、他人の知識や既成の理論を吸収することだけを考えることではない。自己修証を主とし、自らの心の智慧を開発することを主とすべきである。衆生は智慧と福德によって仏となるのであり、知識や理論によって仏となるのではない。智慧を得て無明の結縛(けっぱく:束縛)を断つことは、理論的知識によってなされるのではなく、自己修証によって得られた禅定と智慧によって断たれるのである。そして、智慧を修証しようとするならば、禅定の中において禅定に依ってこそ、真の智慧が生まれるのである。知識があっても生死輪廻は免れない。

また別の極端な人々は、禅定だけを修めて頭を使わず、ただぼんやりと一日中坐っているだけで、思考の功夫や能力がなく、仏法を思惟せず、座を下りてからも心は法義に留まらず、修めているのは純粋に枯禅(こぜん:智慧のない禅定)であり、智慧の生起がない。仏法を修行するには必ず円融(えんゆう:偏りなく調和がとれていること)でなければならず、偏ってはならない。どちらかに執着しても成就はできない。仏法を宣揚するにも、必ず仏の説かれた正しい修行方法を宣揚し、諸仏菩薩の修行の事実に依拠すべきである。事実から離れれば、それは事実に合わず、真理ではなく、真理でないものを依り所として修行しても得道や証道はできない。

六、仏法を実証するには必ず定を修めなければならない

もし皆が『大念処経(だいねんじょきょう)』の方法に従って修行すれば、禅定は必ず成就し、小乗(上座部)の道は速やかに成就するだろう。仏陀が在世の時、比丘たちは皆このように修行していた。しかし現代では人の心が非常に散乱しており、これらの観行を完成できない。今のところ、私たちの修行に必要な大乗・小乗の理論部分はほぼ十分であり、足りないのは実践操作のみである。実践操作では必ず戒定慧を修習し、菩薩の六波羅蜜(ろくはらみつ)の修行、特に福德と禅定の両面の修行を完成させなければならない。個人の修行が困難であれば、共修(ぐうしゅう:集団修行)が必要になる。仏陀在世中、弟子を率いて共修したことは一度もなく、皆それぞれ結跏趺坐して仏の説かれた法を観行思惟し、それによって聖果を証得したのである。

現代人は生活や仕事が非常に忙しく、坐禅する時間がない。しかし禅定が確かに向上せず、思惟が浅く緻密でなく、実証できないのも事実である。静坐後の定と、ただ歩行坐臥(ほぎょうざが:歩く・立つ・坐る・臥す)だけの定との間の差は非常に大きく、静坐した者でなければその差を理解できない。自分で方法を考え、自分自身に責任を持たなければならない。多くの理論を知っているから悟っているとか、侃々諤々(かんかんがくがく:盛んに議論する様子)と話せるから悟っているというのではない。実証した後は、たとえ雄弁でなくとも、そこに道(悟り)がある。雄弁であっても実証がなければ、道ではない。実証して初めて生死の大問題を解決できる。いかなる法も道業(どうごう:悟りへの修行)よりも重要なものはなく、死んでも道業を成就すべきであり、そうでなければ生きている間に世俗法がどれほど成功しても何の役にも立たない。

七、いかにして自らの修証の功夫を向上させるか

今の世間は非常に煩雑で乱れている。仏を学ぶ者も精進しようとしても、自心と環境の制約により、十分に精進することはできず、多くの人は心に余裕があっても力が足りないと感じている。もし仏法において何らかの突破と成就を得たいのであれば、理論的認知がすでに比較的深く完成されている段階で、実証が必要な時には、一時的に世俗法から離れ、元々慣れ親しんだ身心を束縛する環境を離れ、人里離れた邪魔の入らない場所に行って定を修め禅を参じ、修証の功夫を向上させるべきである。もし聖果を証得したいのであれば、なおさら単独で清浄な場所が必要であり、自らが観行思惟し、参究参修(さんきゅうさんしゅう:深く究め修める)するために用いなければならない。そうでなければ自己を向上させることができず、見道や聖果の証得もできないままである。

八、最も重要な定とは何か

定を修める中で最も重要な定は、修定によって達しようとする目標と一致する定である。修定の目標とは何か。それは理を明らかにし、理を証得して智慧を開くことである。そうであれば、心は明らかにしようとする理法に定められ、心は絶えず法の中にあり、修めようとする法に専一でなければならない。そうして初めて専心して思量でき、ついに思量が明らかになり、法を証得して三昧の智慧を得るのである。したがって、最も重要で第一の定は、意根が法の中に定まり、法を証得しようとする意欲、理を明らかにしようとする意欲、観行しようとする意欲、参究しようとする意欲、解脱しようとする意欲を持つことである。そうして初めて一心に専念して観行参究できる。定を修める方向が明らかになれば、定を修めることと道を修めることの理路(理論的筋道)は外道とは明らかに区別される。

もし意根にまだこれらの意欲がなければ、修めようとする法に定まることはできず、そうなれば禅定は修められない。なぜなら内在する動力が不足しており、外在する定力は修得できないからである。善根・福德・因縁のすべてが不足し、大菩提心を発していなければ、動力は生まれず、置かれた環境の熏染(くんぜん:影響)や制限を突破できず、まるで蚕(かいこ)が繭(まゆ)に縛られるようである。もし意根の動力が不足し、法に定まらなければ、禅定はうまく修められず、観行は力強くならない。禅定がうまく修められない人は、自らが菩提心を発したかどうか、発心が純粋かどうか、心の中に動力があるかどうかを点検すべきである。

意根の定はまず法に定まることである。そうして初めて意識が法に定まり散乱せず、専心して観行できる。なぜなら意識は意根に従って転ずる(変化する)からである。意根の指揮棒は刹那刹那に意識を指揮している。もし意根が定まらなければ、指揮棒をあちこちに振り回し、意識は全く定まらない。したがって禅定で最も重要なのは、やはり意根を定めることである。意根が定まれば、絶えず法を念じ、精進して修行し、動力が強く、禅定修行は速やかである。意根が小乗の四聖諦(ししょうたい)に定まれば、三十七道品(さんじゅうしちどうほん)を精進して修学する。大乗の般若智慧に定まれば、精進して菩薩の六波羅蜜を修行する。意根が仏法を精進して修行して初めて、意識は精進できる。意根が懈怠すれば意識は精進できず、意根が三十七道品を具足すれば、意識は必ず具足する。

九、禅定と見道の関係

禅定は未到地定から煩悩を対治(たいじ:克服)し、煩悩を降伏(ごうぶく:制御)することができる。煩悩を降伏し、遮障(しゃしょう:悟りの障害)を取り除くか軽減して初めて、初果を証得できる。初果の人は見地(けんじ:理解)のみを持ち、見所断(けんしょだん:誤った見解による束縛)の三縛結(さんぱっけつ:三つの束縛)を断っただけであるが、三縛結を断つには必ず未到地定が必要である。未到地定は定を修めた後に発起する必要があるが、修所断(しゅうしょだん:修行によって断つべき煩悩)の煩悩とイコールではなく、両者は同じものではない。

初果の見地は見道の時に断つ見惑(けんわく:誤った見解による煩悩)であり、思惑(しわく:思惟や感情による煩悩)はまだ断っていない。思惑煩悩は見道の後、さらに修道を進めることで漸次に断つが、これも見地に属する。見地が透徹し、適切であればあるほど、我(が)と我所(がしょ:我の所有)が断たれる程度は深まり、心は空(くう)に近づき、煩悩は微細になる。初果の見惑は初めて見道した時に断つが、初めての見道もまた漸次に修道した結果であり、修めなければ見惑は断たれない。修道の内容は三十七道品であり、三十七道品の一つが禅定である。三十七道品を修めないか、三十七道品の修習が満足でなければ見道できず、ましてや見惑を断つことはできない。したがって未到地定は、初果の人が見道するために具足すべき必要条件である。

初果の見道以前に、以前の貪・瞋・痴(とん・じん・ち:貪り・怒り・無知)の煩悩をある程度まで降伏させ、貪瞋痴の煩悩が自らの見道に影響や遮障を及ぼさないようにしなければならない。三十七道品の修行過程において、極めて重い貪瞋痴の煩悩を次第に降伏させ、煩悩を徐々に微薄にし、心を徐々に柔軟にし、智慧を徐々に明朗にし、すべての遮障が密雲のように次第に薄れ、智慧の陽光が雲を通して現れて初めて見道するのである。見道以前の煩悩の淡薄微薄は、以前の深刻な煩悩と比較しての相対的なものであり、二果の時の貪瞋痴が淡薄である程度とは異なる。両者には差があり、いずれも相対的な観点から言われている。言葉は同じでも、内包は絶対に異なるため、両者を混同してはならない。

四聖諦の内包は苦聖諦(くしょうたい)、苦集聖諦(くじゅうしょうたい)、苦滅聖諦(くめつしょうたい)、苦滅道聖諦(くめつどうしょうたい)を含む。このうち苦滅道聖諦は修道の真理であり、依拠すべき理論である。この理論の修学は初果以前から始まり、四果阿羅漢を証得するまで続く。したがって修道は見道の後に始まるのではなく、四聖諦に接した時から始まり、最初に四念処観(しねんじょかん)を修行した時から始まる。修めなければどうして見道できようか。三十七道品の中の四正勤(ししょうごん):一、已生悪法令断(いしょうあくほうれいだん:すでに生じた悪いことを断つよう努める)、二、未生悪法令不生(みしょうあくほうれいふしょう:まだ生じていない悪いことを生じさせないよう努める)、三、未生善法令生(みしょうぜんほうれいしょう:まだ生じていない善いことを生じさせるよう努める)、四、已生善法令増長(いしょうぜんほうれいぞうちょう:すでに生じた善いことを増長させるよう努める)。これらの善を修め悪を滅するという修道の内容はまさに衆生の煩悩に対治するものであり、対治した後に煩悩を降伏させ微細にして初めて見道できるのである。

十、聖果の証得は定と慧の結合による産物である

外道たちが四禅八定を修め、色界天の無想定(むそうじょう)に至ると、意識心が消滅する。この意識心はないが色身(しきしん:物質的身体)はあるという境界を、彼らは心のない境界が真実であると考え、この境界に執着して捨てず、我見を断ち聖果を証得することはできない。実際、無想定の中には意識心はないが、意根と色身はあり、空無一物(くうむいちもつ:何もない)ではない。したがってこれは四果の涅槃境界ではない。

外道たちが無色界天の非想非非想処定(ひそうひひそうしょじょう)に至ると、定の中では意識心がなくなったように見えるが、実際には非常に微細な意識心が存在する。しかし彼ら自身はそれを感じ取れず、この境界を聖果を証得した涅槃境界だと思い込む。五陰(ごおん:五蘊)十八界(じゅうはちかい:認識作用の十八の領域)のすべてを捨て去らなければ、たとえ三界の中で最も高い定に至っても聖果を証得できない。したがって禅定は聖果証得の条件の一つに過ぎず、我見を断つ法眼浄(ほうげんじょう:真理を見抜く清浄な智慧)の智慧が必要である。単に禅定に頼るだけで涅槃を証得できるのではない。禅定を初禅以上に修めた後は、色身と識心(しきしん:認識作用)の虚妄性(こもうしょう:実体のないこと)を確認できれば聖果を証得できる。そしてそのような確認を持つには、観行の智慧が具足し、定と慧が具足していなければならない。そうして初めて聖果を証得できるのである。

十一、空を証得した後の身心の覚受

禅定のない人は、五蘊皆空(ごうんかいくう:五蘊はすべて空である)で我(が)がないという理を理解した後、ほとんど何ら身心に震撼(しんかん:強い衝撃)的な覚受(かくじゅ:感覚・感受)はなく、ただ空だと感じるだけであり、実際には心は空じることはできない。禅定がないと、行った観行は根本である自我の意根に全く触れることができず、したがって何ら身心上の触動(しょくどう:衝撃)はなく、まして震撼の感は全くない。心の深奥にある意根からの触動があって初めて、身心霊に真に比較的深く巨大な覚受が生じ、それによって自らがまるで別人に変わったように感じるのである。

現状では、大衆の福德および禅定が深刻に不足しており、観行が意根に触れることができない。行った観行は単に意識上に留まり、観行の結果は五蘊皆空を理解しただけであり、自分は空だと感じるが、実際には空ではなく、事に遭遇すると乗り越えられず、理は理、事は事で、両者に接点がなく、円融(えんゆう:調和)しない。これが現在仏を学ぶ者の通態(つうたい:一般的な状態)、すなわち通病(つうびょう:よくある欠点)である。

真に空を証得した後の覚受は、公開の場で議論するのに適さず、経験者に個人的に尋ねるべきである。もし真の感覚を公に言えば、それを知ったある者は、自分にもそのような感覚があるとあちこちでほのめかし、実際には自分が聖果を証得したとほのめかすことになる。それは何らかのもの、名聞利養(みょうもんりよう:名声と利益)などを得るためである。人心は昔のままではなく、自然と純粋ではなく、世俗心が非常に深刻で、あらゆる隙に入り込む。

十二、証得と未証得の区別

問:手が電流に触れて痺れ震えるのは、電流を証得したことに属するか。盲人が手で電球に触れるのは、灯(あかり)を証得したが、灯光(ともしび)は証得できないことに属するか。

答:証得するかしないかは、具体的な状況によって異なり、人によって異なる。例えば科学者が感電すれば、100%電流の原理を了知(りょうち:完全に理解)し、その証得は甚深(じんじん:非常に深い)であり、仏教における唯識の種智(しゅち:一切を理解する智慧)に相当する。一方、子供が感電しても、何が起こったのか必ずしも理解できず、電撃を受けたと知っていても、次は避けようと努めるかもしれないが、電流の原理や作用を必ずしも了知せず、したがって電流を証得したことにはならない。盲人が手で電球に触れても、それが電球だと必ずしも分からない。まず彼は電球に関する概念を持たねばならず、目が見えていた時に電球を見たことがあるか、あるいは他人から電球の形を教えられていなければ、何度触れても何であるか分からない。

同様に、衆生は無始劫(むしごう:無限の過去)以来ずっと如来蔵と付き合い、如来蔵の中で生き、絶えず如来蔵を用いているが、如来蔵があることも、如来蔵がどのような相貌(そうぼう:姿)かも知らない。六祖は一つの言葉を聞いて証悟したが、他の者はその言葉の百の説明を聞いても、証悟にはまだ程遠いかもしれない。証得するかしないかは、当人(とうにん:その人自身)にかかっており、智慧の根器(こんき:素質)が非常に重要である。阿羅漢が凡夫の学仏者が言う一つの言葉を聞いて四果を証得するが、非常に多くの凡夫はたとえ百年阿含経(あごんきょう)を学んでも初果向(しょかこう:初果に至る手前の段階)にすら至らない。人と人との間に比べることはできない。

十三、見聞覚知を超越した境界

問:六入(ろくにゅう:六つの感覚器官)に随わず、刹那(せつな:瞬間)に見聞覚知(けんもんかくち:見・聞・覚・知)を超越するのは、無始無明(むしむみょう:始めのない根本的な無知)を打ち破ったことになるか。

答:大乗の菩薩が証悟した後に初めて、禅定に般若唯識(はんにゃゆいしき)の智慧を加えた三昧を得て、無始無明を打ち破ることができる。大乗菩薩が如来蔵を証得すれば、如来蔵が六入に随わず、七識(しちしき:末那識)の見聞覚知を超越していることを観察できる。無始劫(むしごう)にわたり身の中に常住不滅の真心があることを知らなかった無明は打ち破られ、消滅する。

如来蔵が六入に随わないことの他に、七識が六入に随わないことには二つの境界がある。一つは単純な禅定の境界の中でのみ、禅定のみの三昧境界である。もう一つは、心が六入を真実と認めず、六入に随って動転(どうてん:動揺)しない、禅定に智慧を加えた三昧境界である。第一の三昧は保持しにくく、消えやすい。第二の三昧は一度証得すれば、智慧は永遠に存続する。見聞覚知を超越したと言うならば、必ず深い禅定の境界を離れることはできず、そうでなければ見聞覚知の中にいることになる。

四禅以上には見聞はないが、微細な覚知はある。無想定には六識の見聞覚知がなく、滅尽定(めつじんじょう)には六識の見聞覚知がない。これらの禅定の中で、滅尽定のみが禅定に解脱の智慧を加えた真の三昧境界である。大乗の修証においては、初地以上の菩薩が唯識の種智という甚深な三昧を証得し、深い禅定の中で見聞覚知を超越できる。見聞覚知はあるが、見聞覚知の法に対して心は動かない。

十四、禅定と解脱の関係

証悟する前の心性が如来蔵に類似しており、証悟後に心はより清浄になるというならば、それは真の修行である。捨受(しゃじゅ:苦楽の感受を超越した平静な状態)の段階を経なければ、聖果を証得できず、まして心を明らかにすることはできない。如来蔵を参究する段階でも、心は捨受である。そうでなければ心は専一になれず、参究と実証はできない。未到地定が具足した状態と初禅の中でのみ、捨受の状態にあり、自己を修める段階では必然的にそうなる。衆生を接引(しょうおう:導き入れる)し度化(どけ:救う)する段階では、金剛怒目(こんごうぬもく:厳しい形相)などの悪相を現行(げんぎょう:現に示す)できるが、同時に心は動かない。これは菩薩の機智善巧(きちぜんぎょう:巧みな手段)である。

もし自らまだ修持(しゅじ:修行して身につけること)していなければ、本当に衆生を度すことはできない。泥の菩薩は自身も保ち難いのに、どうして衆生を支えて川を渡らせることができようか。菩薩の心も解脱しているべきである。自ら解脱できなければ、何の徳と能力があって衆生を解脱させることができようか。仏菩薩の心はすべて解脱し、束縛がない。もし自らに束縛があれば、どうして衆生の縄を解くことができるだろうか。煩悩を具足する者は菩薩ではなく凡夫であり、凡夫がどうして衆生を度すことができようか。煩悩と相応する者は、衆生に同様に煩悩を具足させるように熏染(くんぜん:影響)してしまい、どうして衆生を度し、衆生の心を清浄にすることができようか。自ら貪心が非常に重ければ、どうして衆生を貪りから離れさせることができようか。自ら心が清浄でなければ、どうして衆生の心を清浄にできようか。

ある者は、大乗菩薩の修行の目標は解脱ではないので、禅定を修める必要はないと言う。この言葉は誤りである。一切の人々は大乗小乗を問わず、修行の目標は解脱である。ただし、どの程度の解脱か、解脱が究竟(くきょう:究極的)であるかどうかだけである。仏菩薩はすべて解脱者であり、法身(ほっしん:真理の体現)、解脱、般若(はんにゃ:智慧)の三つが具足統一されて初めて聖人と言える。仏道は解脱道であり、究竟の解脱者は仏陀のみである。菩薩の解脱はまだ究竟ではなく、阿羅漢や辟支仏(びゃくしぶつ:縁覚)はさらに究竟ではない。したがって解脱の道と仏道を対立させてはならない。

例えば、ある人が縄で縛られながら、口では人に向かって「待ってろ、俺が助けてやる」と叫ぶ。この言葉を誰が信じるだろうか。立っていられない弱い子供が大人に「私の手を取って、私があなたを支えて歩くよ」と言う。あるいは素手で銃を持った凶悪犯と格闘する。これは幼稚で可笑しくないか。現在の仏教界の悪い現象はまさにこれであり、皆は見ていないのか、感じないのか。その中の原因を究めようとしないのか。将来仏教が滅びるのは、煩悩の衆生の煩悩によって滅ぼされるのである。ある者は自分が一切の煩悩を具足していることをむしろ自慢し、煩悩を断つことをさえ軽んじ、自分は煩悩を断たないからこそ真の菩薩だと思い込んでいる。これはなんと愚痴(ぐち:愚か)なことか。

例えば、目眩がして目の前に見える黒い点、いわゆる眼冒金星(がんぼうきんせい:目がちらちらする)である。これらの黒い点や金星は、自分には見えるが他人には見えない。もしないと言えば、自分には見える。非有非無有(ひうひむう:有でもなく無でもない)、生滅変異(しょうめつへんい:生滅変化)の現象はすべて空である。ただ如来蔵だけは生滅変異せず、空ではない。理解によって出したその空、あるいはこれらの法をすべて如来蔵のあの空と観じることは、これらはすべてただの想像に過ぎない。何も証得していなければ、ただ想像によってそれを如来蔵だと言うのは、すべて仮説と同じで、少しも実際の役には立たない。証得していない時は、本当に理解を適切に行うことができず、心の中ではこれらの法の空性を達観(たっかん:深く理解)できない。だからこそ一歩一歩実修を通じて実証しなければならないのである。

実証しようとするならば、まず必ず禅定を修めなければならない。禅定のない理解は適切でなく正確でもない。たとえ理解が正確で適切であっても、それは実証によって得られた結論ではない。想像によって出した結論は役に立たない。したがって学んだ法について大体を知り理解した後は、必ず禅定を修め、定の中で観行し感知して初めて理解が適切になり、最後に実証が発起するのである。

十五、禅定と論理的思惟力の関係

仏を学び道を修め観行するには、論理的思惟力が必ず強くなければならない。もし論理的思惟力を強くしたいならば、思考の筋道が良くなければならない。思考の筋道を良くしたいならば、頭脳が明晰でなければならない。頭脳を明晰にしたいならば、必ず禅定がなければならない。論理的思惟力を培い、強大な思弁(しべん:深く考える)能力を持つことは、最大の善法財(ぜんぽうざい:善い行いによる功徳の財産)であり、智慧の源泉である。それは生々世々にわたり尽きることなく、仏となるまで続く。

十六、道は静寂の中で成就する

一つの結論:よく話すことや表現することが好きな人は、90%以上禅定がなく、心の念が雑で、妄想や攀縁(はんえん:心が対象に捉われること)が多い。一心に道にある人は、法義と内心の世界に専念し、外界を気にせず、心に雑念がなく、静かに黙っている。この二種類の人は一緒にいることはできない。一緒にいれば互いに嫌い合い、互いに不満を持つ。真に邪魔されるのは後者である。したがって後者は独りを好み、静寂を好み、人の集まりを好まず、無駄話や無駄事を好まない。両者が衝突した場合、後者が間違っているとは言えない。修行に誤りはなく、静寂を好むことに誤りはない。凡そ成就を出す者は、すべて静寂の中で成就する。騒がしい中で成就した者はいない。道を歩む者は結局、世人とは異なり、世人に嫌われ、世人に理解され好かれないのは当然である。世人に好まれず絡まれないのは良いことであり、非常に多くの時間と精力を省いて道を修め、大事を成すために用いることができる。

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