禅定の修めと参禅による悟りの道(第二部)
覚観は禅定や三昧 (samādhi) とも呼ばれます。覚とは、境界を了知し、覚知し、覚察するという意味で、覚しているときは五遍行心所法と五別境心所法がともに運行し、思惟活動があります。観は照するということに相当し、意識心は動かず、思想や思惟はありませんが、直観的に諸法を照見することができ、五遍行心所法と五別境心所法はいずれも軽微になるか減少します。二禅以上では五識は滅しますが、意識は滅しておらず、非常に微細な知はありますが、反観能力はなく、自分に知があることを知らず、すべて滅しているかのようです。
三昧 (samādhi) は全部で三種に分けられます。有覚有観、無覚有観、無覚無観です。初禅定以前の禅定では、意識心は有覚有観、あるいは有尋有伺の状態にあります。初禅から二禅定までの間の禅定では、意識心は無覚有観、あるいは無尋唯伺の状態にあります。二禅定以上の禅定では、意識心は無覚無観、あるいは無尋無伺の状態にあります。
<h3 style="text-indent: 2em;">二、参禅と観行 (vipaśyanā-caryā) の区別</h3>参禅と観行 (vipaśyanā-caryā) は、その含意にいくらかの差があります。観行 (vipaśyanā-caryā) は修行の終始を貫き、深いものも浅いものもあります。一方、参禅は精力を集中して全力で自性清浄心を参究し、心の機能作用、体性と運作を明らかにするものです。参禅の中には禅という字があり、真心自性を表しています。真心自性を参究することは修道にとって極めて重要であり、これを起点として、証悟の後に次第に涅槃へ趨り成仏していきます。一方、観行 (vipaśyanā-caryā) が関わる範囲は比較的広く、その階層には深浅さまざまあります。いかなる時期、いかなる境界でも観行 (vipaśyanā-caryā) の対象とすることができ、一切法はすべて観行 (vipaśyanā-caryā) を行うことができます。得られる成果は大きくも小さくもあり、観行 (vipaśyanā-caryā) の時間は長くも短くもあり、満足のいく結論が一つ得られれば、観行 (vipaśyanā-caryā) は一段落し、再び明らかでない問題に出会えば、また観行 (vipaśyanā-caryā) を続けます。
<h3 style="text-indent: 2em;">三、念仏 (buddhānusmṛti) 三昧 (samādhi) の境界</h3>問:師父は、上座するときにはまず三遍「南無本師釈迦牟尼仏」と念じるようにとおっしゃいました。私が念じた後、上座しても下座しても、自動的にこの仏号を念じるようになりました。多くの遍数を念じる必要はなく、心の中で自動的に念仏 (buddhānusmṛti) するのですが、これはどういうことでしょうか。
答:これは最も初步的な念仏 (buddhānusmṛti) 三昧 (samādhi) の境界であり、すなわち禅定の境界です。念仏 (buddhānusmṛti) が一片に打成し、念ぜずして念じ、意根が自動的に念じており、意識が促す必要もなく、意識で念じなくてもかまいません。意根は単独で自動的に念仏 (buddhānusmṛti) することもでき、意識とともに念じることもできます。意根が単独で念仏 (buddhānusmṛti) するときは禅定の境界が深く、意識とともに念仏 (buddhānusmṛti) するときは禅定の境界が浅いのです。これは仏力の加持による結果である可能性もあります。一般の人は心が散乱し、信力が強くないため、このような念仏 (buddhānusmṛti) 三昧 (samādhi) の境界は現れにくいのです。
独頭意識 (mano-vijñāna-eka-citta) が種々の仏の境界を見ることを念仏 (buddhānusmṛti) 三昧 (samādhi) と呼ぶ人もいますが、実はこれは感応であって、念仏 (buddhānusmṛti) 三昧 (samādhi) ではありません。感応も善根の顕現ではありますが、念仏 (buddhānusmṛti) 三昧 (samādhi) とは区別があります。念仏 (buddhānusmṛti) 三昧 (samādhi) の時間はやや長く、二三十分、あるいは数日数夜に及ぶこともあり、仏号の声が心の中で自動的に生じ、余音が嫋嫋として、耳に絶えず、梁をめぐって三日に及び、身心は軽やかで愉悦に満ち、身体が空中に漂っているように感じ、高く大きく軽やかで、障礙がなく、身体の重苦しい感覚がないこともあります。
<h3 style="text-indent: 2em;">四、念仏 (buddhānusmṛti) 三昧 (samādhi) は四禅八定のどの定 (samādhi) に対応するか</h3>念仏 (buddhānusmṛti) 三昧 (samādhi) は、定境の念仏 (buddhānusmṛti) 三昧 (samādhi) と、定慧等持の明心の境界の念仏 (buddhānusmṛti) 三昧 (samādhi) に分けられます。いずれの念仏 (buddhānusmṛti) 三昧 (samādhi) であっても、具足した未到地定 (anāgamya-samādhi)、あるいは初禅定があります。禅定は三昧 (samādhi) の基礎であり、禅定がなければ、いかなる種類の三昧 (samādhi) も現れず、いかなる法も成就せず、後世には生死の苦の中を流転し続けることになります。ですから、皆さんは広学多聞に満足してはならず、知識の広博さに満足してはならず、口耳相传の知見に頼ってはなりません。必ず禅定に深入して参究し、真の智慧を修出することに努めなければなりません。禅定がなくても証果と解脱ができるという、智慧のない戯言を信じてはならず、仏経の中の仏の智慧の言葉を信じるべきです。
<h3 style="text-indent: 2em;">五、滅尽定、無想定、非想非非想定の区別</h3>無想定の中には六識がなく、意根の五遍行心所法はすべて運行しています。滅尽定の中には六識がなく、意根の心所法は受と想の二つが滅しています。滅尽定は倶解脱の大阿羅漢の境界であり、四禅八定を具え、一切の煩悩を断尽した大阿羅漢でなければ、滅尽定に入ることはできません。無想定は外道の定 (samādhi) であり、定 (samādhi) の中の人はまだ色身を我とみなしており、我見 (satkāya-dṛṣṭi) が断たれていません。
非想非非想天の衆生は、意識心の五遍行心所法が一部分滅除されているため、意識は半ば有って半ば無い状態にあり、無想天の衆生が色身はあるが意識が全く無い状態とは、やはり差別があります。無想定と深い睡眠のときは、いずれも六識の存在がありません。再び六識の念が生じるときは、意根が六塵の境界に対して作意と思心所を生じ、六塵を了別しようとするときに、第八識がはじめて六識を出生させて六塵を了別し、そこで出定するか、あるいは目を覚ますのです。
<h3 style="text-indent: 2em;">六、未到地定 (anāgamya-samādhi) の過暗とはどのような状態か</h3>未到地定 (anāgamya-samādhi) の過暗の境界とは、未到地定 (anāgamya-samādhi) まで修めたとき、心中に念も想いもなく、空の定 (samādhi) を修出し、そこで未到地定 (anāgamya-samādhi) の中で念頭なく長時間入定し、数日、十数日入定できることもあります。これは純粋な定 (samadhi) であり、思惟も観行 (vipaśyanā-caryā) もなく、疑情もなく、智慧とは無関係です。
<h3 style="text-indent: 2em;">七、増上心学とは何か</h3>問:増上心学とは何でしょうか。三摩地には欲界定は含まれるのでしょうか。勝三摩地には欲界定は含まれるのでしょうか。未到地定 (anāgamya-samādhi) も殊勝なのでしょうか。しかし明らかに、未到地定 (anāgamya-samādhi) では貪欲と瞋恚の煩悩を断除できず、心は貪欲の煩悩と相応しています。
答:雑阿含経第三十巻に、世尊告诉诸比丘:何等为增上意学?若比丘离诸恶不善法,有觉有观,离生喜乐,初禅具足住,乃至第四禅具足住,是名增上意学。この増上意学がすなわち増上心学であり、四禅八定を指し、色界の初禅から始まって無色界の四空定に至ります。初禅の特徴は、内に覚知と観察があり、心が欲界の生を離れたことにより喜楽が生じ、貪瞋痴などの悪しき不善法を棄捨することです。増上とは、禅定が心に善法を増加させることを意味し、心学とは、禅定を通じて心性を変え、欲界の貪瞋痴の煩悩を離れることができることを指します。禅定は修心の一つの課題である以上、学仏は修定から離れられず、禅定を離れれば心は悪を断することができず、善法を増加させることもできず、禅定を離れた慧にはいかなる功徳の受用もありません。
三摩地は非常に殊勝であり、欲界定を超越しています。欲界定は比較的粗雑で低浅く、内心の煩悩が比較的顕著であるため、欲界定は三摩地の境界には属しません。勝三摩地はさらに殊勝であり、さらに欲界定を超越しています。未到地定 (anāgamya-samādhi) は定 (samādhi) のない人よりは殊勝ですが、色界定よりは低浅で劣っています。未到地定 (anāgamya-samādhi) は欲界の五品の煩悩惑を断除できるだけで、欲界の貪欲の煩悩を断尽することはできず、まして瞋恚の煩悩を断除することはできません。色界の初禅定にはいくつかの階層の差別があり、具足したものと具足しないものがあり、具足しないものは、瞋恚を断つことも困難です。