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禅定の修めと参禅による悟りの道(第二部)

作者: 更新時間:2025-07-13 06:00:36

第四章 戒・定・慧の三学

一、定慧を共に修め偏りのない道を歩む

仏法の修行をより早く進めたいならば、修行の理路をはっきりさせ、修定の方法と参禅・観行の方法の区別を明らかにし、その後で現在の修行の重点を見極めるべきであり、そうして時間を無駄にしないようにする必要があります。たとえば、もし前五識と意識を降伏させ、六識を清浄にして、五塵の境界を了別し感受しないようにするならば、これは修定の方法です。この方法で修定を行う場合、定力が向上した後も、やはり五識と意識を用いて塵境を観察し、塵境を参究し、塵境と五蘊世間の生滅変異性とそこに含まれている真実の相を見極め、悟りの智慧を得なければなりません。このような智慧があって初めて、生死の苦から解脱し、修行は願い通りに成就するのです。

また、たとえば修行者がただひたすらに境界を不要とし、境界を消滅させようと考える場合、これは単なる修定の方法です。しかし、定力が具足した後、仏法を実証しようとする時には、五蘊の境界上で観行を行わなければ我見を断ち明心することができず、智慧を得ることは境界を離れては成り立ちません。修行はまず定を修め、その後で慧を修め、仏法を観行し参究すべきであり、定慧を等しく保って修行して初めて仏法を証得できるのです。もし定力がないのに無理に観行を行えば、観るものはことごとく成就せず、最良の結果として得られるのは解(理解)に過ぎません。しかし、解は靴の上から痒いところを掻くようなものであり、遠くの水では近い渇きを癒せないようなものです。なぜなら、解いたものは自ら得たものではなく、意根が無明を破っていないため、実証の智慧を得られず、したがって解は何の実用性もないのです。

禅定を修めた後は、理にかなった正しい方法で観行を行うべきです。小乗では五蘊十八界が苦・空・無常・無我であることを観行し、大乗は小乗の観行の基礎の上に、誰が色を見て声を聞くのか、誰が参禅し参究するのか、誰が死屍を引きずっているのかを参究します。観行・参禅は必ず塵境の上で観察・注視を行い、注意力を必要としない法に分散させず、これが定中の観行・参禅です。

修行は外道のようにひたすらに定を修めるだけではいけません。ひたすらに周囲の一切の法を見ず聞かず、覚えず知らずでは、智慧を開くことはできません。修行は心を定めるだけでなく、知(智慧ある知)を持たねばならず、一つの法を知らなければそれは愚痴であり、成仏の望みはありません。外道はひたすらに定を修め、心は清浄で、あらゆる境界に出会っても心を動かさず、八万大劫もの間入定し、何事も知らずにぼんやりしていますが、出定後もし悪業が現前すれば、まっすぐ地獄へと向かうことになります。釈迦仏の師匠もそうでした。たとえ全世界の人が集まっても、そのような外道の心の静けさには及びませんが、解脱の智慧がなければ、結局は六道の中で輪廻を続けるのです。もし五陰が無我であることを明らかにできず、世間の真相を明らかにできなければ、解脱の智慧を得ることはできず、生死輪廻の中で苦しみ続けることから免れません。したがって、仏法を学び修行するには定慧を兼ね備え、戒定慧を共に修め、偏りのない道を歩み、まっすぐ涅槃の城へと向かうべきです。

二、戒定慧の三無漏学の功用

漏とは貪・瞋・痴の煩悩と種々の無明を指します。煩悩と無明が漏らすのは善法、善願、善心、善根です。心が善であれば輪廻の苦から離れられ、心が善であれば仏道を成就できます。善法を漏らせば、悪不善法が盛んになり、生死輪廻の苦は断ち切れません。したがって、修行によって無明煩悩を取り除き、心の地を無漏にし、善法を増進させ、苦が滅び輪廻が止むようにしなければなりません。

心の地を無漏にする主な道は三つあり、それが戒定慧の三無漏学です。戒を持することによって心を無漏にし、定を修めることによって心を無漏にし、慧を修めることによって心を無漏にします。なぜ戒を持つことが心を無漏にするのでしょうか。戒を持てば、心は戒律に背かず、もはや悪をなさず、貪・瞋・痴という有漏の煩悩業を造作しなくなります。善法に慣れれば、自然に悪業を造りたいとは思わなくなり、煩悩は降伏され、善法は増長し、四正勤が修められます。長く戒を持てば、心は効果的に収摂され、あちこちに攀縁しなくなり、禅定が現れます。

なぜ禅定が心を無漏にするのでしょうか。心が定中にある時は何も作為せず、攀縁せず散乱せず、貪・瞋・痴の染汚業を造作しないため、煩悩を降伏させます。出定後も慣性の作用で、定力はある程度保たれ、攀縁を好まず、心は安らかで妄に造作せず、やはり煩悩の漏を降伏させられます。もし未到地定が具足すれば、欲界の五品の煩悩を断除し、初果向となり、現世で初果に入る因縁条件が整います。

外道たちの四禅八定の定力はさらに強く、欲界の九品の煩悩惑だけでなく、色界の九品の煩悩惑も降伏でき、さらには無色界の九品の煩悩惑までも降伏できます。この降伏は断除や断尽と同じではありません。なぜなら、まだ五蘊無我の智慧が欠けているからです。もし四聖諦の理に出会い、深甚な禅定力に依り、念を収めて少し思惟すれば直ちに道を証得でき、煩悩は即時に断尽し、身心脱落し、我相も四相もなくなります。四果阿羅漢を証得する時には、髪と髭が自然に抜け落ち、袈裟が自然に身にまとわりつきます。これは煩悩が断尽し、自然に出家者となることを表しています。

三果以前はまだ煩悩の残留があるため、髪と髭が自然に抜け落ちず、袈裟が身にまとわりつかず、自然に出家者とはなれません。したがって、もし在家の身でありながら、比丘戒や比丘尼戒を受けずに出家者になろうとするならば、煩悩を断尽し、髪と髭が自然に抜け落ち、袈裟が身にまとわりつき、人の剃度を必要としない状態に至らねばなりません。在家の身にほんの少しでも煩悩があればそれは在家者であり、もし無理に自分は出家者だと主張するならば、それは強引に出家僧宝の身分を盗み取り、僧と俗を混同する極めて重い罪に属します。

なぜ智慧が心を無漏にするのでしょうか。無我の四聖諦理と大乗真理の智慧を証得すれば無明を破ることができ、心中に我がなければ再び我のために煩悩業行を造作せず、我がなければ私心がなく、私心がなければ善であり、善は煩悩を破り、心は無漏となります。我があれば善法を漏らし、我があれば罪があり、我があれば煩悩があるのです。この無漏慧は戒と定を基礎とする真の慧であり、戒定のない慧は乾慧(乾いた智慧)であり、実用価値がありません。戒定慧の三者が一体となり、共に一切の煩悩を断尽し、善法が永遠に漏れ落ちることがなくなります。善法が円満に具足した後、仏となるのです。

三、観行と禅定の関係

禅定は止であり定であり、観行は観であり慧です。この二つを合わせて止観、あるいは定慧と呼びます。禅定と智慧観行は相互に補い合う関係にあり、いずれの法を証得するにも、必ず定慧を等しく保ち(等持)、止観を双運し、どちらも欠かすことはできません。仏法の修証の過程において、禅定は先行する方便の方法であり、その役割は非常に重要で欠くことができません。そうでなければ、乱観や盲観となり、主軸がなく、一心に深く観ることもなく、法の表面的な情思意解に留まり、実質的な法を観行し出すことができず、如実の結論を導き出せず、多くは意解に過ぎず、如実の観察や現量で証出されたものではありません。

世尊が最初に弟子たちに小乗果を証得させるよう教え導かれた時は、常に理論を教えながら禅定も教え、弟子たちに定慧を等しく保たせ、偏らないようにされました。弟子たちは禅定を行いながら思惟観行を行い、このように工夫を進めることは非常に力強く、煩悩は効果的に降伏され、思惟も慎重かつ綿密となり、まもなく小乗果を証得しました。その中で世尊が教えられた修定と観行を同時に行う法には、四念処経や坐禅三昧経、そして禅法秘要経などがあります。禅定によって煩悩や雑念を降伏させた後で初めて、観行は正軌に乗り、理にかなった如実の観行が可能となり、心の地が転変し、三十七道品を具足して果を証得できるのです。もし禅定を修めず、禅定の功徳がなければ、三十七道品も八正道も満たすことができず、煩悩は依然として重く、心の地は依然として清浄でなく、身心世界も転変できず、則ち証道の因縁が具足せず、道を証得することはできません。

なぜ外道たちが仏陀に出会うとあれほど速く証果し、瞬時に四果を証得できたのでしょうか。その理由は、外道たちは皆禅定の証量があり、煩悩は降伏され、心の地も清浄で、出離心も強く、ただ正しい法義が欠けていただけだからです。仏陀が法を説けば心に入り、たちまち心開き意解して法眼浄を得、即時に解脱したのです。それほど速いのです。したがって、誰にも禅定を修めない言い訳はなく、僥倖を抱き、労せずして一つの果を得ようとするのは、仏教界において本当にそんなに安易なことではなく、得をしたように思えるところで往々にして失うことになるのです。大乗の菩薩たちが法を証するにも相当の禅定が必要であり、修め出した禅定もまた、この世や前世で小乗を修めた時に築いた禅定の基礎によるものです。大小乗の禅定の面では大きな違いはなく、基礎的な禅定の修行は皆同じです。

禅定は煩悩を降伏させる先行の方便であり、煩悩を降伏させることは煩悩を押さえ伏せることに似ており、煩悩を断尽することではありません。初禅定に我見を断つ智慧が加わって初めて煩悩を断除し、さらには断尽できるのです。まず煩悩を降伏・圧伏させ、悪を起こさず善を生じさせて我見を断ち、さらに深く定を修め、初禅を得て初めて煩悩を断除し、心解脱の三果人となります。煩悩を断除した後の三果・四果人を初めて聖人と呼べます。仏教では常に定慧を等しく保って(等持)果を証得し、定慧を等しく保って煩悩を断ち、定慧を等しく保って解脱を得てきました。もし煩悩が重く、雑念が多すぎる時は、禅定を修めることは難しく、観行はさらに無秩序ですが、まず世間の苦を思考し、心が落ち着いた時に再び定を修め、その後観行を行うことができます。観行を行う時、定力も絶えず増長し、定力が増長すれば観行はさらに深まります。したがって、禅定と智慧は相互に補い合うものだと言えるのです。

四、禅定が増強した後は参究観行に着手すべき

問:坐禅中に念頭が次第に少なくなり、意識がますます清明になります。このように内守幽閑(ないしゅゆうかん)しているのは何の役に立つのでしょうか? この時、もし法義を思考すれば容易に意識で解悟してしまい、将来悟りを証得できなくなるのではないでしょうか? 内守幽閑に坐った後、私はどのように工夫すべきでしょうか?

答:禅定が養生内守幽閑に達した時、心念が専一になれば、四聖諦理や大乗の般若を含む仏法を思惟すべきです。もし大小乗の理が既に明らかであれば、五蘊を観行して我見を断つべきであり、この時はもはや意識の思惟を用いず、意根の思量を用い、五蘊無我に関する疑情を意根の心に懸け、時を移さず所を変えず意根に思量させ続けるべきです。これが仏法を参究する工夫です。

禅定の功徳受用は多くあります。たとえば、智慧を増長し、煩悩を降伏させ、心を清浄にし、福德を増し、業障を軽減するなどです。禅定中に観行参究を行うことで我見を断ち明心見性することができ、これは凡夫位の大多数の衆生にとって、ある期間における最終的かつ最高の功徳受用ですが、他にも功徳受用があります。たとえば、内心が穏やかで、身心が快適で安泰となり、体質が変わり、色身が健康長寿となり、善心が増し、悪心が減り、なす善業と不善不悪業が増え、悪業が減り、後世は善道へと向かうようになります。

初めて禅定に入った時、多くの人には思惟力がなく、仏法を思惟できず、心は無念の空定の状態にあり、内守幽閑の定と呼ばれ、思惟がなければもちろん悟ることはできません。しかし、禅定から出た後には慣性が働き、定の状態が継続します。そうすると身心は依然として定を修めない時よりも快適で愉悦し、その心は普段よりも深沈となり、浮ついた性質は減り、思考力は深まります。身心が愉悦で充実しているため、その心は和やかで、穏やかで、安らかで、煩い悩むことがなく、人に接し物事を扱うことに寛厚で仁慈となり、物事に出会えば思惟が深く透徹し、物事を処理するのに柔和で中道的で偏らず、人事や物理を見透かしやすくなります。こうして自然に福德が増長し、智慧が増長します。この功徳受用は、禅定のない者には比べるものではありません。

禅定の中で絶えず自らの思惟力を訓練し、思惟の習慣を養えば、次第に理にかなった思惟、法にかなった思惟観行ができるようになり、智慧を高めることができます。しかし、このような思惟が必ずしも仏法を解悟するとは限りません。もし解悟してしまうことを心配するならば、最終的な観行と参究の時には、意識の思惟を避け、意根の思量を用いることを学ぶべきです。仏法の脈絡がまだ十分に明確でない時、学んだ法義がまだ十分に通じていない時には、まず意識の思惟が必要であり、仏法の脈絡と綱領を整理し、それによって意根を薫修し、意根に仏法を証得するにはどのような修行が必要か、どのような工夫が必要かを明らかにさせねばなりません。

この基礎ができあがり、最後の実証が必要な時には、禅定を深め、未到地定を満たすべきです。この時は意根の思量を主とし、意識は意根に協力し、思惟・分析・推理などの情思意解活動は少なくし、できるだけ意根自身に参究と考量をさせなければなりません。そうして初めて最終的な悟りに達し、意識による解悟を避けることができるのです。これは定慧等持の修行の段階と方法であり、これを身につければ熟練して巧みになり、工夫が固まれば、後世も意識解悟の偽りの修証パターンを避け、仏法の真実の受用を得ることができるでしょう。

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