禅定の修めと参禅による悟りの道(第二部)
仏法を学んで修行をより速く進めたいなら、修行の理路をはっきり理解し、修定の方法と参禅の観行 (vipaśyanā-caryā) 方法の区別を見分け、それから現在の修行の重点を見定めて、時間を無駄にしないようにしなければならない。例えば、前五識と意識を調伏し、六識を清浄 (viśuddha/pariśuddha) にして、五塵の境界を了別し感受しないようにすることは、修定の方法である。この方法で修定し、定力が向上した後も、やはり五識と意識を用いて塵境を観察し、塵境を参究し、塵境と五蘊の世間の生滅変異性と、そこに含蔵されている真実の相を認識して、証悟の智慧を獲得しなければならない。このような智慧があってこそ、生死の苦から解脱でき、修行も思いどおりに成就する。
また例えば、ある人々は修行において一心に境界を要らないこと、境界を消し去ることばかり考えているが、これは単なる修定の方法である。しかし定力が具足した後、仏法を実証する必要があるときには、五蘊の境界の上で観行 (vipaśyanā-caryā) してはじめて我見 (satkāya-dṛṣṭi) を断じ明心でき、智慧の獲得は境界から離れることはできない。修行はまず修定し、それから修慧し、仏法を観行し仏法を参究すべきであり、定慧等持して修行してはじめて仏法を証得できる。定力がないうちに無理に観行すれば、観たものはすべて成就せず、最善の結果でも「解」にすぎないが、解というものは、まるで靴を履いたまま痒い所を掻くようなもので、遠い水は近い渇きを癒さない。解というものは自分の所得に属さず、意根が無明を破除していなければ、実証の智慧は得られないので、解には実際的な用がないのである。
禅定を修得した後は、如理如法に観行 (vipaśyanā-caryā) しなければならない。小乗は五蘊十八界の苦・空・無常・無我を観行し、大乗は小乗の観行の基礎の上に、見色聞声するのは誰か、参禅参究するのは誰か、死屍を引きずっているのは誰かを参究する。観行と参禅は必ず塵境の上で観察し注意を向けるものであり、注意力を必要のない法に散らさなければ、定中における観行参禅である。
修行は外道のようにひたすら修定するだけではならず、周囲の一切の法に対して見ず聞かず、覚らず知らずというのでは、智慧を開くことはできない。修行では心が定であるだけでなく、知がなければならず、智慧のある知がなければならず、一つの法でも知らなければ愚痴であり、成仏は望めない。外道はひたすら修定し、心は清浄 (viśuddha/pariśuddha) で、一切の境界に出会っても心を動かさず、八万大劫入定でき、一事も知らず、痴々呆々としているが、出定後に悪業が現前すれば、直ちに地獄に趣き、釈迦仏の師はまさにそうであった。世界中の人間が合わさっても、このような外道の心の静けさには及ばないが、解脱の智慧がなく、最後にはやはり六道の中で輪廻している。五陰 (pañca-skandha) 無我を明らかにできなければ、世間の真相を明らかにできなければ、解脱の智慧を獲得できず、生死輪廻の中で足掻き続けることは免れない。だから仏法を学んで修行するには定慧を兼ね備え、戒定慧を斉修してはじめて、偏った道を歩まず、直ちに涅槃城に趣くことができる。
<h3 style="text-indent: 2em;">二、戒定慧三無漏学の功用</h3>漏とは貪瞋痴の煩悩と種々の無明を指す。煩悩と無明が漏らすのは善法、善願、善心、善根であり、心が善であれば輪廻の苦から脱離でき、心が善であれば仏道を成就できる。善法を漏らしてしまえば、悪不善法が盛んになり、生死輪廻の苦は断絶できなくなる。それゆえ修行を通じて無明煩悩を除去し、心地を無漏に達せしめ、善法を増勝させ、苦を滅して輪廻を息ませなければならない。
心地の無漏を実現するには主に三つの渠道がある。すなわち戒定慧三無漏学であり、持戒を通じて心を無漏にし、修定を通じて心を無漏にし、修慧を通じて心を無漏にする。持戒はなぜ心を無漏にできるのか。戒を持てるなら、心は戒律に違越せず、もはや悪を作らず、貪瞋痴の有漏煩悩業を造作しなくなり、善法に慣れた後は、自然に悪業を造作しようとは思わなくなり、煩悩は降伏され、善法は増長し、四正勤が修められる。長期にわたり持戒すれば、心は効果的に収摂され、あちこちに攀縁しなくなり、禅定が現れる。
禅定はなぜ心を無漏にできるのか。心が定中では無所作為で、攀縁せず散乱せず、貪瞋痴の染汚業を造作しないので、煩悩が降伏される。出定後は慣性の作用により、定力もある程度保たれ、攀縁を好まず、心は安んじて妄りに造作せず、なお煩悩漏を降伏できる。未到地定 (anāgamya-samādhi) が具足すれば、欲界五品の煩悩を断除でき、初果向となり、現世(げんせ)に初果に入る因縁条件が備わる。
外道たちの四禅八定は定力がさらに強く、欲界九品の煩悩惑を降伏できるだけでなく、色界九品の煩悩惑も降伏でき、さらには無色界九品の煩悩惑さえも降伏できる。しかしこの降伏は断除や断尽と等しくない。なぜなら五蘊無我の智慧がまだ欠けているからである。もし四聖諦の理に出会えば、甚深な禅定力に依り、念を斂めて少し思惟するだけで道を証でき、煩悩はたちまち断尽され、身心脱落し、我相なく四相なしとなる。四果阿羅漢を証得したときには、鬚髪は自然に脱落し、袈裟は自然に身に着き、これは煩悩断尽を表し、自然に出家人となるのである。
三果以前は煩悩の残留があるため、鬚髪自落、袈裟著身とはならず、自然に出家人となることもできない。だから在家身の人が、比丘戒と比丘尼戒を受けることを通さずに出家人になりたいなら、煩悩を断尽し、鬚髪自落、袈裟著身となり、人に剃度してもらう必要がなければならない。在家身にはたとえ一丝の煩悩があっても在家人であり、無理に出家人だと言うなら、それは強いて出家僧宝の身分を盗み取り、僧俗を混同するもので、極重罪に属する。
智慧はなぜ心を無漏にできるのか。無我の四聖諦の理と大乗の真理を証得した智慧は無明を破除でき、心中に無我なら、もはや我のために煩悩業行を造作しない。我のためでなければ私心がなく、私心がなければ善であり、善は煩悩を破し、心は無漏となる。我があれば善法を漏らし、我があれば罪があり、我があれば煩悩がある。この無漏慧は戒と定を基礎とする真の慧であり、戒定のない慧は乾慧であり、実用価値がない。戒定慧の三者が統一されて、ともに一切の煩悩を断尽し、善法は永く漏失せず、善法が円満具足した後、成仏するのである。
<h3 style="text-indent: 2em;">三、観行と禅定の関係</h3>禅定は止であり定であり、観行は観であり慧であり、両者を合わせて止観と呼び、定慧とも呼ぶ。禅定と智慧の観行は相輔相成の関係であり、任意の一法を証得したいなら、必ず定慧等持、止観双運でなければならず、一つでも欠けてはならない。仏法の修証の過程において、禅定は先行の方便方法であり、その果たす役割は非常に重要で、欠くことができない。さもなければ乱観や盲観となり、主線がなく、一心に深く観ることもできず、法の表面の情思意解にとどまり、実質の法を観行できず、如実の結論が得られず、多くは意解であって、如実の観察と現量によって証得されたものではない。
世尊が最初に弟子たちに小乗の果を証させたとき、いずれも一方で理論を教え、一方で禅定を教え、弟子たちを定慧等持、不偏不倚とさせた。弟子たちは一方で禅定し一方で思惟観行し、このように功夫をすると非常に得力で、煩悩は効果的に降伏され、思惟も緻密となり、まもなく小乗の果を証得した。その中で世尊が教えた修定と観行の同步の法には、四念処経と坐禅三昧経、および禅法秘要経などがある。禅定を通じて煩悩と雑念を降伏した後でなければ、観行は正軌に乗ることができず、如理如実の観行ができず、心地は転変できず、三十七道品を具足できず、それによって証果できない。禅定を修めなければ、禅定の功徳がなく、三十七道品と八正道はいずれも満足できず、煩悩は依然として重く、心地は依然として清浄 (viśuddha/pariśuddha) でなく、身心世界はいずれも転変できず、証道の因縁は具足せず、道を証できない。
外道たちが仏陀に出会ってなぜ証果があんなに速く、瞬時に四果を証得できたのか。原因は、外道たちにはみな禅定の証量があり、煩悩はみな降伏され、心地も清浄になり、出離心も非常に強く、ただ正しい法義が欠けているだけであった。仏陀が法を一たび説けば心に入り、たちまち心開意解して法眼浄を得、たちまち解脱したのである。これほど速いのである。だから誰であれ禅定を修めない理由はなく、幸運を期待して、力を費やさずに果を得ようと考えるのは、仏教界に本当にそんな安い話はなく、安いところを得る所は往々にして安いところを失う。大乗の菩薩たちが法を証するにも相当の禅定が必要であり、修められた禅定は、いずれもこの世と前世に小乗を修めたときに打ち立てた禅定の基礎であり、大小乗は禅定の面で大きな区別はなく、基礎禅定の修行はいずれも同じである。
禅定は煩悩を降伏する前行方便であり、煩悩の降伏は煩悩の圧伏に類似しており、煩悩の断尽ではない。初禅定に断我見 (satkāya-dṛṣṭi-prahāṇa) の智慧が加わって、はじめて煩悩を断除でき、さらには煩悩を断尽できる。まず煩悩を降伏し圧伏し、悪を起こさず善を生じてはじめて我見 (satkāya-dṛṣṭi) を断じることができ、さらに深く修定し、初禅があってはじめて煩悩を断除でき、心解脱の三果人となり、煩悩を断除した後の三四果人だけが聖人と呼ばれる。仏教では昔から定慧等持の証果、定慧等持の断煩悩、定慧等持の得解脱である。もし煩悩が重すぎ、雑念が多すぎて禅定を修められず、観行もいっそう雑然として秩序がないときは、まず世間の苦を思考し、心が平稳になってから修定し、それから観行すれば、観行のとき定力も絶えず増長し、定力が増長すれば観行はさらに深くなる。それゆえ禅定と智慧は相輔相成であると言うのである。
<h3 style="text-indent: 2em;">四、禅定が増強された後は参究観行に着手すべき</h3>問:坐禅時に念頭がますます少なくなり、意識がますます清明になるが、このように内守して悠々としていることに何の用があるのでしょうか。このとき、法義を思考すると意識の解悟になりやすく、将来証悟できなくなるのでしょうか。内守悠々に坐り着いた後、私はどのように功夫すべきでしょうか。
答:禅定が養生内守悠々に達したとき、心念が専一できるようになったら、仏法を思惟しなければならない。四聖諦の理と大乗の般若 (prajñā) を含めて、大小乗の理がすでに明らかになっているなら、五蘊を観行して我見 (satkāya-dṛṣṭi) を断じなければならず、このときはもはや意識の思惟を用いてはならず、意根の思量 (manasikāra/manana) を用いなければならない。五蘊無我に関する疑情を意根の心中に懸け、時時処処に意根に思量 (manasikāra/manana) させること、これが仏法を参究する功夫である。
禅定の功徳受用は多く、例えば智慧を増長し、煩悩を降伏し、心を清浄 (viśuddha/pariśuddha) にし、福徳を増やし、業障を軽減するなどがある。禅定中に観行参究すれば我見 (satkāya-dṛṣṭi) を断じ明心見性できるが、これは凡夫位の大多数の衆生にとって、一時期内の最終かつ最高の功徳受用である。しかし他の功徳受用もあり、例えば内心の祥和、身心の舒适安泰、体質の変化、色身の健康長寿、善心の増加、悪心の減少、作った善業と不善不悪業の増加、悪業の減少があり、後世には善道に趣くことになる。
初めて禅定に入ったとき、多くの人は思惟力がなく、仏法を思惟できず、心は念頭のない空定の中にあり、内守悠々の定と名づけられる。思惟がなければ当然悟道できない。しかし禅定から出た後は慣性があり、定の状態が延续し、身心もやはり修定しないときより舒适で愉悦であり、その心は平時より深沉で、浮躁性は低下し、思考力は深まり、身心が愉悦で満ちているため、その心は和善、祥和、安寧、無煩無悩となり、人に接する物事に寛厚仁慈となり、事に出会えば思惟は深く透徹し、物事の処理は柔和、中道、偏激でなく、人事物理を見透かしやすく、こうして自然に福徳を増長し、智慧を増長する。この功徳受用は禅定のない人には比べものにならない。
禅定中に絶えず自分の思惟力を訓練し、思惟の習慣を培養すれば、次第に如理に思惟し、如法に思惟観行でき、智慧を向上させられる。しかしこの思惟は必ずしも仏法を解悟できるとは限らない。解悟を心配するなら、最終の観行と参究のときには、意識の思惟を避け、意根で思量 (manasikāra/manana) することを学ばなければならない。仏法の脉络がまだはっきりしないとき、学んだ法義がまだ通順でないときには、まず意識の思惟が必要であり、仏法の脉络と綱領を整理し、これによって意根を熏修し、意根に仏法がどのように修行すべきか、どのように功夫してはじめて仏法を証得できるかを明達させる。
この基礎が固まれば、最後に実証する必要があるときには、禅定を深め、未到地定 (anāgamya-samādhi) を満足させなければならない。このときは意根の思量 (manasikāra/manana) を主とし、意識は意根に配合し、思惟分析推理などの情思意解の活動を少なくし、できるだけ意根自身に参究と考量させなければならない。こうしてはじめて最後の証悟に達し、意識の解悟を避けられる。これが定慧等持の修行の歩骤と方法であり、習得すれば熟して巧を生じ、功夫が固まれば、後世にも意識解悟の偽修証の模式を避け、仏法の真実の受用を得ることができる。