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禅定の修めと参禅による悟りの道(第二部)

作者: 更新時間:2025-07-13 10:59:00

第二章 いかにして禅定を修めるか

一、煩悩を降伏して初めて禅定に障りなし

煩悩を降伏し、心性を改め、心が縁(えん)に少(すく)ない状態であってこそ、禅定を修める際の障りが減り、心に定(じょう)が生じる。禅定の成就は必ずしも長時間の坐禅の功夫(くふう)によるものではなく、最も重要なのは心性を改善し、貪(とん)・瞋(じん)・癡(ち)を減らすことにある。心が清浄になり、世俗に対して過剰な念いがなくなれば、定力は自然に高まる。戒律が厳格であれば心の攀縁(はんえん)は減り、煩悩も減るため、禅定は自然に速やかに向上し、単に長時間の坐禅に依存して禅定を得る必要はない。心性は非常に重要であり、持戒と煩悩の軽微さは、禅定の生起に決定的な作用を及ぼす。

貪・瞋・癡・慢・疑および不正な知見は全て煩悩である。各人の煩悩の重点は異なり、道を障げる因縁も異なる。ある者は非常に貪欲であり、ある者は非常に瞋恚(しんに)に満ち、ある者は非常に愚癡(ぐち)であり、ある者は非常に慢心が強く、ある者は疑心が非常に重く、ある者は知見が非常に正しくない。しかし総じて言えば、これらは全て愚癡無明から生じた煩悩である。愚癡は総ての煩悩であり、大きな煩悩である。愚癡がなければ、貪瞋の煩悩や我慢の煩悩は存在せず、疑いや不正見の煩悩も存在しない。仏法を学ぶ者は普段から注意深く観察し、自らの最大かつ主要な煩悩を見つけ出し、主要な煩悩を降伏することを主とし、主要な矛盾を解決すれば、他の全ての矛盾は解消される。煩悩を降伏するのも同様で、主要な煩悩を降伏すれば、基本的に障りは除去され、他の煩悩はそれに従って消滅する。大きな主要な煩悩は、他の煩悩の起因である。起因を見つけ、起因を解決すれば、縁(えん)は存在せず、禅定を修める際の障りは除去される。

二、坐禅時にいかにして速やかに入定するか

入定を速やかにするためには、心身を可能な限りリラックスさせなければならない。坐る際には身体を弛緩(しかん)させ、心も空(くう)にする。必ず心身を放ち空にし、腕、手、肩をリラックスさせ、脚と足をリラックスさせる。肩、腕、手を緊張させてはいけない。全身を弛緩させる。頭もリラックスさせ、自然に真っ直ぐに保ち、わずかに垂らす。背中は自然に真っ直ぐにし、曲げたり反らしたりしない。肩は軽く垂らし、わずかに後ろに引き、力まず軽くリラックスさせる。全身に力を入れてはいけない。力が入ると、身体を反らしている証拠であり、身体が硬直し、気機(きき)が動かず、気脈(きみゃく)が動きにくくなり、身体が通りにくくなる。

身体全体をリラックスさせた後、心を全てリラックスさせ、空にする。軽くリラックスし、観(かん)じる法(ほう)以外は、心に何も考えず、気にかけず、何もかまわない。たとえ天が崩れ落ちてもかまわず、一切を放捨(ほうしゃ)する。身体がどうなろうとかまわない。かまえばかまうほど執着(しゅうじゃく)が強くなり、気機が動きにくくなり、気血(きけつ)が通りにくくなり、禅定が生じにくくなる。逆に、心身が空であればあるほど、リラックスしていればいるほど、禅定は良くなる。坐禅を練習する際には自らの心身を全て放ち空にし、捨て、空にすれば、初めて速やかに入定できる。

三、いかにして入定を速めるか

坐禅時に法義(ほうぎ)を思考することは、『心経』を黙念(もくねん)して入定するよりも速く、かつ深く、呼吸を調えて入定するよりも速く、他の方法で入定するよりも速い。これは、煩悩が軽微で妄念(もうねん)の少ない利根(りこん)の人にとってはそうである。なぜなら既に禅定を修める基礎があり、前行(ぜんぎょう)の方便(ほうべん)は省略できるからだ。しかし、攀縁が重く、心遣いの多い初心者にとっては、思考すればするほど心は乱れ、禅定がない状態は雑思(ざっし)であり、雑思は心を乱す。したがって、禅定の基礎ができてから思考すべきである。私が坐る際には、脚を組むと、どんな前行の方法も用いず、直接深い思考に入る。意識による思惟(しい)はなく、全て意根(いこん)の思量(しりょう)である。脚を組んだ後、まず思考すべき法に注意を向け、その法の上に定まり動かなくなる。一点の妄念もない。これが意根による参禅(さんぜん)、参究(さんきゅう)の状態である。

意根の思量は深くて遅いが、徹底している。意識の思惟は速くて浅く、徹底せず透徹(とうてつ)しない。意識の思惟は前行の方便であり、目的は意根の思考を引き起こすことである。最初は必ず経るべき過程である。意根の思量・参究においては、得る知識はほとんどなく、知識量は増えないが、非常に興味深く、探求の面白さがあり、何かを発見しそうな朦朧(もうろう)とした楽しみがある。開発されるのは全て自心の智慧(ちえ)であり、智慧は外から得るものではない。外から得るのは知識である。この境地に至ると、疲れを感じなくなる。私は午前中ずっと坐っていても、一日中坐っていてもよい。ただ心に気掛かりがあるため、坐を下りざるを得ない。

四、いかにして禅定を修めるか

最初に禅定を修める方法は多くある。『修定と参禅による悟りの証得』(仮)という本ではいくつか述べられている。例えば呼吸を調え、呼吸を整えてから礼盤(らいばん)で礼仏(らいぶつ)の動作を行い、身体を調えてから坐禅するなど、これらの小方法は比較的取り組みやすく、非常に実用的である。また、坐禅時に心をいかに観想(かんそう)すべきか、心が特に散乱(さんらん)している時にいかにして呪文(じゅもん)や経典を唱え、この心を調え、そして心が定まった後にいかに功夫を重ねて参禅するか、方法は全て書中にある。参照して一歩一歩練習するとよい。音声ファイルもあり、音声ファイルの方が詳細に説明している。

心が少し定まってきて、真に我見(がけん)を断とうとする時には、『坐禅三昧経(ざぜんさんまいきょう)』と『四念処経(しねんじょきょう)』に従って修行すべきである。経典に説かれる修行方法には定(じょう)も慧(え)もあり、非常に優れている。四念処(しねんじょ)をよく修めれば、将来、大乗(だいじょう)のいかなる段階の見道(けんどう)もその方法に従って功夫を重ねることができる。その功夫の方法は定慧等持(じょうえとうじ)であり、功夫が十分であれば、見道を保証し、仏法を証得(しょうとく)できる。

ある者は長い間禅定を修め、修定の方法はおそらく非常に良く用いられ、禅定も比較的深いが、その定は死水の如く智慧を生じない。定力が良くなると何もしたくなくなり、終日ただ坐禅したいと願い、あの色身(しきしん)が快適であるという覚受(かくじゅ)を貪(むさぼ)り求める。それでは智慧をもって参禅することができず、観行(かんぎょう)の智慧がなく、仏法の知見は非常に浅い。

ある者はただ一途に禅定を修めるだけで、覚照(かくしょう)を生じず、智慧が良くない。臨終の時には業(ごう)に随って転じる。何故なら、畢竟(ひっきょう)我見を断っておらず、生死を出離(しゅつり)する智慧もなく、明心見性(みょうしんけんしょう)した大乗菩薩の智慧もないからである。後世、生死輪廻(りんね)を免れない。ただ定力をもって観行し参究してこそ、我見を断ち明心見性し、生死の問題を解決できる。これが最も重要である。現在、仏法を学ぶ者の修行には二つの極端がある。一つの極端は専ら禅定を修め、智慧を備えず、観行しようとしないこと。もう一つの極端は一度も禅定を修めたことがなく、ただ意識心(いしきしん)で広く学び多く聞き、あるいは意識の散乱した思惟を用い、解(げ)に心を用い、証(しょう)に心を用いないことである。この二つの極端を融合して初めて仏法を証得できる。

五、菜食は禅定を修めるのに役立つ

仏は『楞厳経(りょうごんきょう)』の中で、衆生が葷腥(くんせい)の食物を食することには種々の害があり、修道に大きな阻碍(そがい)作用があると説かれている。したがって、禅定をよく修めようとするならば、葷腥を断除しなければならない。葷(くん)とは、身体に入ると良くない匂いがする食物、例えば韮(にら)、葱(ねぎ)、蒜(にんにく)、蒜苔(にんにくのとう)、蒜苗(にんにくの苗)、玉葱(たまねぎ)などを指す。腥(せい)とは衆生の肉体の食物を指す。

これらの葷腥を身体に入れると、心が清浄でなくなり、欲念(よくねん)や瞋恚(しんに)が生じやすく、鬼神(きしん)の接近も引き寄せやすい。鬼神は葷腥を好み、彼らはあなたの口を舐(ねぶ)り匂いを嗅(か)ぐ。こうなると修行に不利であり、災難にも遭いやすく、また間接的な殺生(せっしょう)にも属し、将来は千百倍にして償わなければならない。『楞厳経』における仏陀の開示に依れば、速やかに葷腥の飲食を断除し、速やかに道に入るべきである。

六、いかにして未到地定(みとうじじょう)を得るか

未到地定を得て保持するためには、日常生活において心を自らが現在行っていることに専注させ、かつそれは主要な事柄であり、些細な事や雑事にはあまり心を用いないこと。重要でないことを行う時は、自らの内心に専念し、外の事柄は少し知っているだけでよく、かまわず気にもかけない。何かを失って初めて何かを得る。事事に心をかけていると、何事も精通せず、結局は一事も成し遂げられない。必ず自らを訓練し、いつでもどこでも雑事の束縛から脱し、主要な事に専心し、心に余計なことを考えなければ禅定が現れる。

人が一生涯で成功しようと思えば、必ず専注することを学び、主要な事柄を選んで行い、役に立たない事には心を少なくすべきである。禅定が修められると、物事を行う智慧が増し、その後はどんな事でもよく行えるようになる。もし様々な事に興味を持ち心を用いると、様々なことに通じる可能性はあるが、精通することはできない。精通することは、通じることよりもはるかに重要で意義深い。精通は智慧を表し、智慧があれば何事も成し遂げられないことはない。成仏という事も含まれる。

現代人は比較的貪(むさぼ)りが多く、何にでも興味を持ち、何でも知りたがり、何にでも参加したがる。求めることが多すぎ、注目点も多すぎるが、結果は往々にして一事も成し遂げられず、何も得られない。取捨(しゅしゃ)を知らない者は、このようである。得ようと思えば、専心して求め、多くの不必要な人や事を捨てて初めて、心満ち願い満たされる。人は総じて両手しかないのに、何でも掴み取ろうとする。結果は熊がトウモロコシを収穫するように、一つの穂を取っては一つの穂を落とし、最後に一つのトウモロコシの穂を得られれば良い方である。

あなたがた自身、自分のスマートフォンにある様々なアプリや、注目している内容がどれほどあるかを点検すれば、自分が到底禅定を修め出せるかどうか、心に定が持てるかどうかを判断できる。それらのものを一生涯注目したところで、どうなるというのか? 世の中の五花八門(ごかはちもん)の新鮮な出来事を全て知ったところで、どうなるというのか? 何を得られるのか? あなたはこの一生で結局何を望んでいるのか? また、仏法を十年二十年学んだ者が、まだ自分に相応しい仏法を見つけられず、あらゆる法に接触し、あらゆる法を学び、非常に博学であるかのように見えるが、実は何も身につけておらず、どんな法も理解せず、目的もなくあちこちで手当たり次第にぶつかり、どうしても帰着点が見つからない者もいる。

七、いかにして初禅定(しょぜんじょう)を得るか

毎日数時間坐禅を続ければ、初禅定を証得できると言う者もいる。これは必ずしもそうではない。初禅定に入ることは、坐禅の時間がどれほど長いかではなく、心が欲界(よくかい)の貪欲(とんよく)を捨てられるかどうかによる。多くの者はたとえ一年半座っても飲まず食わずで入定できても、初禅定には入れない。なぜなら欲界の貪心が重く、欲界の法を捨て離れられないからである。欲界の法は、捨て離せるだけ捨て離す。捨てるほど禅定は深まる。

初禅定は色界(しきかい)の初禅天と相応する。心が初禅天人の心性に似た時、初めて初禅定を得られる。色界天人の心性を持つためには、心に欲界の種々の法があってはならない。毎日努めて欲界の法を捨て離し、欲界の法から遠ざかれば、心は色界天の境界と相応するようになる。この時、必ず初禅定が生じ、しかも初禅定は招かずして自ずから来る。欲界の法を捨て離そうと思えば、どの法が欲界に属するのか、欲界にはどのような法があるのか、いかにして捨て離すのかを思惟(しい)すべきである。

八、落日(らくじつ)の写真を観(かん)じるという修定方法は良いか?

二年前、私はいかにして落日を観じるかを説いた。あの落日を観じる方法は、主に自ら進んで西方の空にある落日を観じ、虚空に懸鼓(けんこ)のように懸(か)かっている金紅色の太陽を観察し、観た後に目を閉じて自らがこの目で見たあの落日を回想することである。こうすれば記憶が新たで、観想の効果は最も良く、観想を修めるのも比較的容易である。何しろ自ら目にしたものであり、根拠がある。空想のように困難ではない。実際、これらの全ての観行方法は似たり寄ったりである。どれがより取り組みやすいか、どの方法が自分に適しているかだけの違いである。

どの方法を用いるにせよ、ただ一つの方法で成功して定力を修め出し、はっきりと現量(げんりょう)で観行できれば良い。ただ観行を意根(いこん)に落とし、意根が専注して思量(しりょう)できれば、あなたは修めに成功したのである。意根を用いて専注して思量することを会得した後は、いかなる法に遭遇しても、意根を用いて思量し、意根に法を証得させることができるようになる。そうすれば皆、大智慧三昧(だいちえさんまい)を得られ、修める法に対して円融無碍(えんゆうむげ)となる。

『華厳経(けごんきょう)』の善財童子(ぜんざいどうじ)の五十三参(ごじゅうさんさん)では、善知識(ぜんちしき)を一人参訪(さんぽう)するごとに、善知識の教導を得た後、三昧定(さんまいじょう)の中で参究(さんきゅう)する。全て意根が専注して思量し、意識の意解(いげ)はない。こうして定慧等持(じょうえとうじ)の三昧を証得し、最後に等覚菩薩(とうかくぼさつ)の位に至った。善財童子は多くの理論を学ぶ時間を費やさず、理論に専心して豊富な理論的知識を得ようとはせず、ただ一つの法を求めると、直ちに禅定三昧の中で実証と参究を加え、最後に定慧等持の甚深(じんじん)三昧を得た。定にも偏らず慧にも偏らない。これが実証(じっしょう)であり、最も究極の実証である。したがって我々の修行も、できる限り定慧等持の修行状態を保つべきであり、狂慧(きょうえ)にもならず、愚定(ぐじょう)にもならず、一つの方法を会得したならば定の中で参究すべきである。もしひたすら理論を学ぶばかりでは、禅定も修め出しにくく、全ての理論が消化吸収されず、心の中に詰まって慢心(まんしん)を増長させる。

理論が多い者は速やかに心を静めて実証に取り組むべきである。どれほど理論を説いても自らの経験ではなく、説いても無駄である。ただ実証したものだけが自らの智慧であり、未来世に持ち越せ、生々世々(しょうしょうせせ)で利益(りやく)を受ける。修行の道筋(みちすじ)がまだ見えていない者は、一方で禅定を修めつつ、一方で道筋を探求すべきである。両手で掴み、両手を強くすべきであり、一方を偏っておろそかにしてはならない。

『観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)』の第一観(だいいちかん)は、もし完成できれば、禅定はすでに未到地定を超え、初禅に至ることもあり得る。これは真実の修行であり、容易か? 非常に容易ではない。未到地定を修め得る者ですらごくごく少ない。それは多くの世俗法を失って初めて成し得る。初禅を修めるには、極めて多くの貪欲の煩悩を降伏し、世俗に求めることが甚だ少なくなければならない。どれほどの者が成し得ようか? ましてや在家(ざいけ)の者では、世俗の習気(じっけ)がそれほど重い。したがって、あれが四禅(しぜん)を得た、これが四禅を得たと信じてはならない。未到地定ですら大きな試練である。

人間界の世俗の欲望を降伏して初めて未到地定を得られる。欲界天人の欲望を降伏して初めて初禅定を得られる。最も低い欲望すら降伏できないなら、未到地定を望むべきではない。人は何でも得たがり、権利、金銭、勢力、名誉を全て得たがり、しかも目立ちたがり、自らを顕示(けんじ)する。どうして禅定が得られようか? 美味しいものを食べ、美味しいものを飲み、良い服を着て、良いものを享受する。どうして禅定が得られようか? 世俗の何事にもこだわる。どうして禅定が得られようか? 修行を自らの心身と結びつけ、自らの一切の身口意(しんくい)と結びつけ、絶えず照らし合わせ反省し、絶えず自らを修証して初めて自我を降伏し、禅定を修め出し、道業(どうごう)が絶えず進歩するのである。

九、定中の妄念(もうねん)にいかに対処するか

常に「念いの起こることを恐れず、ただ覚(さと)りの遅れを恐れよ」と言う者がいる。しかし、いかに覚っても、念いは既に現れ、定は失せ、その瞬間は畢竟(ひっきょう)覚っていない。後知後覚(こうちこうかく)、亡羊補牢(ぼうようほろう)で、畢竟羊は既に逃げている。坐禅時にうまく行い、清く明るく澄んでいるとき、もし突然一つの念いが起こっても、かまわずに、過ぎ去るに任せればよい。そしてまた定に戻る。もしかまうと、また一つの念いが起こり、二つの妄念が現れる。念いの妄念を覚る念いは、往々にして長引き、またこの念いが起こったことを後悔すると、定を保ち続けるのは難しくなる。

一切の法(ほう)にかまわなければ、自然に過ぎ去る。遅かれ早かれ過ぎ去る。一つの法、一つの現象が長く存在し続けることはない。生滅(しょうめつ)するものであり、生じれば自然に滅する時がある。滅する時、その法は元々何ものでもない。生じた時も本来何ものでもない。かまわなければ心は自ずから清浄である。万法(まんぽう)が来ればその来るのを見、去ればその去るのを見る。自ら生じ自ら滅するに任せ、自ら遊ばせる。あなたはただ劇を見るようにする。そうすれば禅定が現れないことを心配する必要はない。

十、呼吸念仏(こきゅうねんぶつ)の正しい方法

念仏する時、声が胸腔(きょうくう)口腔(こうくう)の外に流れ出るのは、気体が丹田(たんでん)から身体の外に向かって運行することで、気体を放出する過程である。では吸気(きゅうき)の時は念仏できなくなる。念仏の音流と対向するため、念仏できない。したがって呼気(こき)の時のみ念仏できる。吸気の時は一心不乱に吸気し、注意力を全て吸気の過程に置く。気がどこに至れば、注意力もそこに至る。こうすれば気血(きけつ)が通暢(つうちょう)し、心身が快適で、心は非常に速く定まる。

吸気は鼻腔(びくう)から入り、丹田にまで至る。心力が十分であれば、四肢、全身の各毛孔(もうこう)にまで到達させることができる。同時に身体の覚受(かくじゅ)を体得し感じることに注意する。再び呼気する時、呼び出す息は少なく軽微である。なぜなら全身の細胞は全て新陳代謝を行い、全て廃気(はいき)を排出するからである。これらの廃気は全身の毛孔を通して排出され、毛孔も呼吸できる。呼吸念仏の方法は心気(しんき)を一つにし、心身を調和させ、気血を通暢させ、定を得るのが速く、定が深く、入定の時間が長い。初めて禅定を修める者はここから始めるべきである。具体的な念仏方法は『修定と参禅による悟りの証得』(仮)の書を詳しく参照されたい。

十一、禅定は不良な習気(じっけ)を降伏できる

仏法を学ぶ者は皆、努めて禅定を修習し、旧来の世俗の習気を克服し、心を全て修道に向けて転じ、世俗法に過剰に注目すべきではない。累生累世(るいしょうるいせ)に渡って経験してきたものを、再び注目しても生死の大事を解決できない。大事をしっかり捉えれば、世俗の一切の事は何でもなくなる。皆さんは智慧をもってこの理(ことわり)をはっきりと認めるべきである。

一つの習気を降伏し改めることは非常に困難であり、自らにある面の習気があると反観(はんかん)できることさえ容易ではない。習気が習気と呼ばれるのは、長く熏習(くんじゅう)され、積習(しゃくじゅう)が深く、根深(ねぶか)いからである。我々の一つの思想観念はほとんど全て習気に順っている。相当に良い定力をもって反観し覚らなければ、自らの考えや観念は存在すべきでない習気であり、したがって大多数の者は自らにどんな習気があるか知らず、自らが考えていることが全て誤りであり、無明(むみょう)の業障(ごうしょう)であり煩悩(ぼんのう)であり、それに順ずることは即ち生死に向かうことだと知らない。

たとえ無明の習気を認識しても、捻(ね)じ曲げ改めるのは難しい。これには我々が常に警戒し自らを鞭撻(べんたつ)して一心に道に向かい、猛烈な修道心を発起(ほっき)し、絶えず自らの生死の業障を反省し、人生の真諦(しんたい)を思惟し、真の価値体系を認め、世俗法の虚偽(きょぎ)と不実(ふじつ)を認め、速やかに生死の火坑(かこう)から飛び出し、再び振り返って多くの同胞道友(どうゆう)を救うべきである。

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