座禅三昧経講義
第十三章 菩薩の修行法門
原文:もし菩薩の心に思惟と覚察が多いならば、常にアーナーパーナ(数息観)を念じ、入息する時出息する時に一から十まで数える。一一の心が馳散せぬようにする。菩薩はこの門より一心を得て、五蓋(貪欲・瞋恚・睡眠・掉悔・疑)の欲行を除く。
菩薩は見道において三種の忍法を行うべきである。生忍・柔順法忍・無生忍である。いかにして生忍とするか。一切の衆生が罵ろうが打とうが殺そうが、種々の悪事をなしても、心は動転せず、瞋らず恨まず、ただ忍ぶのみならず、さらに慈悲を起こす。これらの衆生が諸々の善事を求め、一切を得ることを願い、心は捨て放たない。この時次第に諸法の実相を解し得る。あたかも香気が染みつくが如くである。
釈:もし菩薩の心に思想や覚観の雑念が多いならば、常にアーナーパーナ数息法を修習すべきである。入息し出息する時に一から十まで数え、毎回の数息において、心を馳散させてはならない。菩薩はここから入門し、一心の初禅定を得て、貪欲・瞋恚・睡眠・掉挙・散乱の五蓋と淫欲行を除く。
菩薩は見道において三種の忍を行うべきである:生忍・柔順法忍・無生忍である。いかにして生忍とするか。一切の衆生が罵ろうが打とうが殺そうが、種々の悪事を加えられても、心は動転せず、瞋らず恨まず、ただ忍ぶのみならず、さらに衆生に対して慈悲を起こす。これらの衆生がもし一切の善事を求めようとするならば、彼らが一切成就することを願い、心は衆生を捨てない。この時次第に諸法の実相を解し得る。あたかも香気が染みつくが如くである。
原文:譬えば慈母が赤子を愛するが如く、乳を飲ませ育てる。種々の不浄な物があっても、悪いとは思わず、倍に憐れみ思い、楽しみを得させんとする。行者もまた如是であり、一切の衆生が種々の悪をなしても、浄行であれ不浄行であれ、心に憎悪を増さず、退転せず動揺しない。さらに十方の無量の衆生を、私は一人で悉く度脱し、仏道を得させんとす。心に忍辱不退・不悔・不却・不懈・不厭・不畏・不難を起こす。この生忍の中において、一心にこの三種の思惟に念を繋ぎ、心を外縁に念じさせず。もし心が外縁を念じたならば、発覚した後直ちに再び摂め戻す。これを生忍と名づける。
釈:譬えば慈母がその子を愛し、乳を飲ませ育てる。その子の種々の不浄物に対し、母は嫌悪しないばかりか、倍に憐れみ思い、その子に楽しみを得させんとする。行者もまた如是であり、一切の衆生が種々の悪事を造作しても、浄行であれ不浄行であれ、心に憎悪せず、度脱の心は退転も動揺もしない。さらに、十方無量の衆生を、私は発願して一人で全て度脱し、皆に仏道を得させんとし、これに対し内心は堅忍不退却・不悔恨・不畏怯・不懈怠・不厭倦・不畏難である。この生忍において一心にこの三種の思惟に念を繋ぎ、心が他縁を外念させないようにする。もし心が他縁を外念したならば、発覚したら直ちに再び収摂して戻す。これが生忍である。
原文:いかにして柔順法忍とするか。菩薩は既に生忍を得て、功徳は無量である。この功徳は福報が無常であると知る。この時無常を厭離し、自ら常福を求め、また衆生のために常住の法を求める。一切の諸法、色法・無色法、可見の法・不可見の法、有対法・無対法、有漏・無漏、有為・無為、上中下の法、その実相を求める。実相とはいかにして非有常非無常・非楽非不楽・非空非不空・非有神非無神であるか。
釈:何が柔順法忍か?菩薩が生忍の無量功徳を得た後、この功徳福報の無常性を知り、この時は無常法を厭離し、有常の福を求め、また衆生のために常住法を求めねばならない。一切の諸法、色法と無色法、可見の法と不可見の法、有対法と無対法、有漏法と無漏法、有為法と無為法、上中下の法、皆その真実相を求め、虚仮の表相に留まってはならない。これらの法の真実相が何故に非有常非無常・非楽非不楽・非空非不空・非有神非無神であるかを追究すべきである(ここでの実相は小乗の真実理を指し、大乗の実相如来蔵の理を指すものではない)。
原文:何故に非有常か。因縁生であるから。先に無く今有るから。既に有って還って無くなるから。故に非有常である。いかにして非無常か。業報は失わないから。外塵を受けるから。因縁が増長するから。非無常である。いかにして非楽か。新たな苦中に楽想を生ずるから。一切は無常性であるから。欲に縁って生ずるから。故に非楽である。いかにして非不楽か。楽には受があるから。欲染によって生ずるから。楽を求めて身を惜しまないから。これは非不楽である。
釈:何故に非有常か?一切の法は因縁生であるから、元来無かったものが後に生じた法である。故にまた滅するため、常法ではない。何故にまた無常ではないのか?業報は失わず必ず報いを受けるから(報いを受ける前は無常であり、報いを受けている時も無常であり、報いを受けた後は更に無常である)、外塵を受容する故(これも無常)、因縁が不断に増長する故に、非無常である(依然として無常である)。いかにして非楽か?五陰は貪欲染汚法によって生じる故に非楽である。楽しみを得るために身命を惜しまない故に、非無楽(楽有り)でもある。
原文:いかにして非空か。内外入が各々受を了々としているから。罪福の報いがあるから。一切衆生が信じるから。故に非空である。いかにして非不空か。和合等は実であるから。分別して求めても得られないから。心力が転ずるから。故に非不空である。いかにして非有神か。自在でないから。第七識界は得られないから。神相は得られないから。故に非有神である。
いかにして非無神か。後世があるから。解脱を得るから。各々我の心が生じ、余処を計らないから。故に非無神である。如是にして不生不滅・不不生不不滅・非有非無、受もせず着もせず、言説は悉く滅し、心行の処は断たれる。涅槃の性の如く、これが法の実相である。この法において信心清浄、滞り無く礙り無く、軟知・軟信・軟進。これを柔順法忍と謂う。
釈:いかにして非不空か?内外十二入の受が明瞭である故に、確かに罪福の報いがある故に、一切衆生が信じる故に、故に空ではないと言う。いかにして非不空でないか?一切の法は確かに因縁和合によって生じる故に、分別推求してもこれらの法は得られない故に、識心の攀縁力によって運転される故に、故に非不空ではなく、空であると言う。いかにして非有識か?第七識が自在でない故に、第七識界は得られない故に、第七識の相貌も得られない故に。故に非有識であると言う。
いかにして非無識か?後世の五陰身がある故に第七識が存在し、五陰身が解脱を得る故に即ち第七識の解脱であり、各々衆生に我心が生じ、第七識が我を執って他処を計らない故に、故に識が無いわけではないと言う。如是にして不生不滅・非不生非不滅・非有非無、法を受けることもなく法に執着することもなく、全ての言説相を滅し、心行が寂滅の境界に至り、寂静なる涅槃の境界の如く、これが諸法の実相である。これらの法を修学するにあたり、清浄なる信心を持ち、実相法に対して心に滞礙無く、柔軟心をもって法を知り信じ精進して法を学ぶ。これを柔順法忍と名づける。
原文:いかにして無生法忍とするか。上述の如き実相の法において、智慧と信と進が、増長し根が利となる。これを無生法忍と名づける。譬えば声聞法における暖法・頂法において、智慧・信・精進が増長して忍法を得る。忍とは涅槃を忍び、無漏法を忍ぶことをいう。故に忍と名づける。新たに得て新たに見ることを、故に忍と名づける。法忍もまた如是である。時解脱阿羅漢は無生智を得ず、増進広利して転じ成り、不時解脱となって無生智を得る。
釈:何が無生法忍か?上述の如き実相法において、慧根・信根・精進根が増長し、根性が利頓となり、無生法忍と名づける。譬えば声聞法において暖法と頂法の段階で、智慧根・信根・精進根が増長し、忍法を得る。所謂る忍とは寂静なる涅槃法を忍び、無貪無瞋無痴一切煩悩法を忍ぶことである。新たに知り新たに証得し新たに法を見ることを忍と名づける。無生法忍もまた如是である。待時解脱の阿羅漢は無生智を得ず、後時甚深禅定を修行する時、智慧が不断に増進広大し、臨命終時を待たずして解脱を得る。この時に無生智を得る。
原文:無生法忍もまた如是である。未だ菩薩の果を得ずして無生法忍を得、菩薩の真の行果を得る。これを菩薩道果と名づける。この時に般舟三昧を得、衆生の中に大悲を得、般若波羅蜜門に入る。爾の時諸仏は便ちその号を授け、生仏界の中に堕ち、諸仏の念う所となる。一切の重罪は薄く、薄きは滅し、三悪道は断たれる。常に天上人中に生まれ、不退転と名づけ、不動処に至る。末後の肉身が尽きて法身の中に入り、種々の変化を作して一切衆生を度脱し、六度を具足して諸仏を供養し、仏国土を浄め、衆生を教化し、十地の中に立ち、功徳成満し、次第に阿耨多羅三藐三菩提を得る。これを菩薩禅法の初門とする。
釈:無生法忍もまたこうであり、菩薩の果徳を証得せずして得るのは無生法忍であり、菩薩の真の修行果徳を証得した時を菩薩道果と名づける。この時実際の修行を通じて般舟三昧を証得し、衆生に対し大慈悲心を生じ、般若波羅蜜門に入る。爾の時諸仏は菩薩に法号を授け、仏法界に入り、諸仏の護念するところとなる。自身の中の一切の重罪は軽くなり、軽罪は滅し、三悪道は断たれ、未来永劫天上と人間に生まれ、不退転の菩薩と名づけられる。八地不動地に修到した時、最後の肉身を了断し、法身の中に入り、種々の自在変化を作し、一切衆生を度脱する。六度波羅蜜の功徳を具足して諸仏を供養し、仏国土を清浄にし衆生を教化し、十地修道位において次第に功徳が円満し、阿耨多羅三藐三佛陀となる。以上を菩薩禅法の最初の入門処とする。
原文:
行者定心して道を求むる時 常に時と方便を観察すべし
もし時を得ず方便無きは 是れ失と為すべきなり利と為さず
譬えば犢未だ生ぜずして牛乳を允(す)うも 乳得可からず時ならざる故
もし犢生じ已(おわ)りて牛角を允(す)うも 乳得可からず智無き故
譬えば湿りたる木を鑽(き)りて火を出ださんとすれば 火得可からず時ならざる故
もし乾きたる木を折りて火を求めんとすれば 火得可からず智無き故
釈:行者が堅固な信心で道を求める時は、常に時節が適切か、因縁が熟しているか、方便の手段があるかを観察すべきである。もし証得の時節に至らず、方便の方法が無いのに、軽率に道を求めれば損失を被り利益を得られない。譬えば牛がまだ子牛を生んでいない時に牛乳を吸おうとしても、牛乳は得られない。時節が合わない故である。もし子牛が既に生まれた後に牛の角を吸おうとしても、やはり牛乳は得られない。智慧が無い故である。譬えば錐で湿った木を鑽って火を出そうとしても、火は得られない。時節が合わない故である。もし乾いた木を折って火を得ようとしても、火は得られない。智慧が無い故である。
原文:
処を得るを知り時を量り己が行を観 心の方便力の多少を観る
宜しく精進すべきか及び宜しからざるか 道相宜しき時及び宜しからざる時
もし心調動すれば勇むべからず 如是の勇過は定を得ず
譬えば多き薪の熾(さか)んなる大火 大風来たり吹くも肯(あ)えて滅せず
もし能く定を以て自ら心を調うれば 如是の動き息みて心得て定まる
譬えば大火に大風吹くも 大水来たりて注げば滅せざる無し
釈:得るべき処においては、時節因縁が適切かどうかを知り、自らの定力三昧力が具足しているかを量り、自心の方便力がどれほどあるかを観察すべきである。この時は法に対して精進修習すべきか否か、この時は道を得るべきか否かを、明らかに知らねばならない。もしこの時心がなお散乱して調動し続けるならば、勇猛精進すべきではなく、過度に勇猛精進しても定は得られない。譬えば多くの薪が燃え盛る大火は、大風が吹いても決して消えず、この時に自ら定力で心を調えるならば、こうして調動する息が心を定まらせる。譬えば大風で大火を吹けば火勢はますます盛んになるが、もし大水で消せば大火は全て消える。
原文:
もし人心軟にして復た懈怠ならば 如是の厭没は行うべからず
譬えば少き薪の焰なき火 風吹くを得ずして便ち自ら滅す
もし精進勇猛の心有らば 如是の転健は道を得ること疾(はや)し
譬えば小火は多く薪を益し 風吹きて転じ熾(さか)んにして滅する時無し
もし放捨を行い止調縮す 設(たと)い復た発捨すとも護法を失う
譬えば病人は宜しく将養すべし もし復た放捨せば活くを得ず
釈:もし人の心力が弱くしかも懈怠ならば、この時は心を止息させるべきではなく、勇猛精進して修行すべきである。譬えば少ない薪の火は火苗が少なく、風が吹かなくても消えてしまう。もし精進勇猛心があれば、心力は強大になり、速やかに道を得られる。譬えば小火には薪を多く加え、風で吹けば、火勢はますます盛んになり消えることはない。この時は放捨を修行すべきではなく、止調息して心識を収縮すべきではない。なぜならもし再び心を起こそうとしても、護法の力が無くなるからである。譬えば病人は将養すべき時に、もし彼を見捨て放っておけば、彼は生きられない。
原文:
もし捨想正等の心有らば 宜しく時に勤行して道を得ること疾(はや)し
譬えば人調(しつ)けられたる象に乗ずるが如し 意の如く湊(みなと)に至りて踬礙(つまずきさまたげ)無し
もし多淫欲にして愛乱の心あれば 是の時は慈等を行ずべからず
淫人は慈を行えば痴悶を益す 人冷病の冷薬を服するが如し
淫人の心乱るれば不浄を観よ 諦観不浄にして心得て定まる
行法如是相応する故 人冷病の熱薬を服するが如し
釈:もし不喜不厭の捨心の念想があり、正等心があるならば、勤行精進すべきであり、速やかに道を得る。譬えば人が調御された象に乗れば、意のままに目的地に到達し、障害は無い。もし一人の者が淫欲心が多く、貪愛の煩悩で心が乱れているならば、この時は慈心三昧等を修行すべきではない。なぜなら好淫欲の者が慈心を修行すれば、彼の愚痴と迷悶を増すからである。人が冷病にかかっているのに冷薬を飲ませるようなもので、時宜に合わない。淫欲が多い者は心が乱れているので、不浄観を修習すべきである。色身の不浄相を仔細に観察すれば、心は定を得る。修行の方法はこのように相応すべきであり、相応する修行方法は人が冷えれば熱薬を飲むようなもので、こうして対処して初めて適切である。
原文:
もし多瞋恚忿乱の心あれば 是の時は不浄を観ずべからず
瞋人は悪を観れば恚心を増す 人熱病の熱薬を服するが如し
もし人瞋怒して慈心を行えば 慈を行い捨てずして瞋心滅す
行法如是相応する故 人熱病の冷薬を服するが如し
もし多愚痴心闇浅ならば 不浄行と慈悲行の法
二行は痴を増し益無き故 人風病の麨(こうりゃく)薬を服するが如し
人心痴闇は因縁を観よ 分別諦観して痴心滅す
釈:もし一人の者が多く瞋恚し、怒りで心が乱れているならば、この時は不浄観を修行すべきではない。好瞋恚の者が悪相を観察すれば瞋恚心を増し、人が熱病にかかっているのに熱薬を飲むようなもので対症しない。もし人がよく瞋怒するならば、慈悲心を修行すべきであり、慈悲を修行して棄捨しなければ、瞋心は滅する。修行の方法はこのようにしてこそ相応し、人の熱病に冷薬を飲ませるようなもので対症する。もし一人の者が愚痴が多く、心が暗く閉ざされ浅薄ならば、不浄観と慈悲観の二種の修行方法は、ただ彼の愚痴を増すだけで利益が無い。人が風病にかかっているのに麨薬を服用するようなものである。人の心が愚痴で暗いならば因縁法を観察すべきであり、十二因縁の各支を分別して仔細に観行すれば、愚痴心を滅することができる。
原文:
法行如是相応する故 人風病の膩(じ)薬を服するが如し
譬えば金師(きんし)炭を排(お)し扇ぐ 功を用いる時ならざれば韛(ふいご)の法を失う
匆匆急韛して時を知らず 或いは時に水を注ぎ或いは放捨す
金融けて急韛すれば則ち消過す 未だ融けずして便ち止むれば則ち消えず
時にあらざれば水を注げば金は則ち生ず 時にあらざれば放置すれば則ち熟せず
精進摂心及び放捨 観察すべし行道の法を
釈:仏法の修行はこのように相応すべきであり、人が風病にかかっているならば膩薬を服用すべきである。譬えば金細工師が炭を焼いて金を精錬する時、加工時間が適切でなく、火加減を掌握できなければ、黄金を精錬できない。慌てて急火で時宜を知らず、時に水を注いだり放っておいたりする。金鉱石が融けた後に急火を用いれば、黄金は融け過ぎ、金鉱石がまだ融けないうちに火を止めれば、黄金は融けない。水を注ぐ時でないのに注げば金は生のままで熟さず、放置する時間が適切でなければ金は熟さない。修行もまたこうであり、いつ精進して心を摂すべきか、いつ身心を放捨すべきか、よく観察し仔細に観察して、いかに行道するのが時宜に適うかを知るべきである。