衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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座禅三昧経講義

作者: 釋生如 カテゴリ: 禅定の法門 更新時間: 2026年04月06日 閲覧数: 5094
<h2 style="text-indent: 2em;">第十三章 菩薩修行法門</h2>

原文:若菩萨心多思觉。常念阿那波那。入时出时数一乃至十。一一心不令驰散。菩萨从此门得一心。除五盖欲行。

菩萨见道应行三种忍法。生忍柔顺法忍无生忍。云何生忍。一切众生或骂或打或杀。种种恶事。心不动转。不瞋不恚。不唯忍之。而更慈悲。此诸众生。求诸好事。愿一切得。心不舍放。是时渐得解。诸法实相。如气熏着。

解釈:もし菩薩の心に思惟・覚観の雑念が多いならば、常に阿那般那の数息法を修習すべきである。入息して出息する時に一から十まで数え、数息のたびごとに心を馳散させない。菩薩はここから入門して一心の初禅定を得、貪欲・瞋恚・睡眠・掉挙・散乱の五蓋と淫欲行を除く。

菩薩は見道において三種の忍を修行すべきである:生忍、柔順法忍、無生忍である。云何が無生忍か?一切の衆生が罵ったり打ったり殺したり、種々の悪事を加えても、心は動転せず、瞋せず恚まず、ただ忍ぶのみならず、さらに衆生に対して慈悲を起こす。この諸衆生がもし一切の好事を求めるならば、彼らがすべて成就することを願い、心に衆生を捨て棄てない。この時に漸く諸法の実相を得解し、気の薫染するが如しである。

原文:譬如慈母爱其赤子。乳哺养育。种种不净。不以为恶。倍加怜念。欲令得乐。行者如是。一切众生。作种种恶。净不净行。心不增恶。不退不转。复次十方无量众生。我一人应当悉度。使得佛道。心忍不退不悔不却。不懈不厌不畏不难。是生忍中。一心系念。三种思惟。不令外念。外念诸缘。摄之令还。是名生忍。

解釈:譬えば慈母がその子を愛恋し、乳哺して養育するに、その子の種々の不清浄物を、母は嫌悪するどころか、かえって倍加して憐愛し掛念し、その子に快楽を得させようと欲する。行者もまた然り、一切の衆生が種々の悪事を造作し、清浄行であれ不清浄行であれ、心に憎悪せず、度脱の心は退転も動揺もしない。復次、十方の無量の衆生を、我は発願して一人ですべて度脱し、皆に仏道を得させようと、これに対して内心堅忍して退却せず、悔恨せず畏怯せず、懈怠せず厭倦せず困難を畏れず。この生忍の中で一心にこの三種の思惟を繫念し、心に外へ他縁を念ぜしめず、もし心が外へ他縁を念じたならば、気づいた後すぐにまた収摂して戻す、これを生忍と名づける。

原文:云何柔顺法忍。菩萨既得生忍。功德无量。知是功德。福报无常。是时厌无常。自求常福。亦为众生。求常住法。一切诸法。色无色法。可见不可见法。有对无对法。有漏无漏。有为无为。上中下法。求其实相。实相云何非有常非无常。非乐非不乐。非空非不空。非有神非无神。

解釈:何が柔順法忍か?菩薩が生忍の無量の功徳を得た後、この功徳福報の無常性を知り、この時無常法を厭離し、有常の福を求め、また衆生のために常住法を求めるべきである。一切の諸法、色法と無色法、可見の法と不可見の法、有対法と無対法、有漏法と無漏法、有為法と無為法、上中下の法、いずれもその真実相を求め、虚仮の表相にとどまってはならない。これらの法の真実相がなぜ非有常非無常、非楽非不楽、非空非不空、非有神非無神なのかを追究すべきである?(ここの実相はまだ小乗の真実理であり、大乗の実相如来蔵の理を指すものではない。)

原文:何以故非有常。因缘生故。先无今有。故已有还无故。是故非有常。云何非无常。业报不失故。受外尘故。因缘增长故。非无常。云何非乐。新苦中生乐想故。一切无常性故。缘欲生故。是故非乐。云何非不乐。乐有受故。欲染生故。求乐不惜身故。是非不乐。

解釈:なぜ非有常か?一切の法はすべて因縁所生であるがゆえに、元来なく後に生ずる法であり、やがて滅するゆえに、常法ではないからである。なぜまた無常でもないのか?業報が失われず、必ず報を受けゆえに(報を受ける前は無常であり、報を受けている時でさえ無常であり、報を受けた後はなおさら無常である)、外塵を容受するがゆえに(これも無常である)、因縁が絶えず増長するがゆえに、それゆえ非無常である(やはり無常である)。云何が非楽か?五陰は貪欲の染汚法より出生するがゆえに、非楽である。快楽を得るために身命を惜しまないがゆえに、非無楽でもある(楽がある)。

原文:云何非空。内外入各各受了了故。有罪福报故。一切众生信故。是故非空。云何非不空。和合等实故。分别求不可得故。心力转故。是故非不空。云何非有神。不自在故。第七识界不可得故。神相不可得故。是故非有神。

云何非无神。有后世故。得解脱故。各各我心生。不计余处故。是故非无神。如是不生不灭。不不生不不灭。非有非无。不受不着。言说悉灭。心行处断。如涅槃性。是法实相。于此法中信心清净。无滞无碍。软知软信软进。是谓柔顺法忍。

解釈:云何が不空か?内外の十二入に対する受がはっきりと了知されるがゆえに、確かに罪福の報があるがゆえに、一切の衆生が信じるがゆえに、それゆえ空ではないと言う。云何が非不是空か?一切の法は確かに因縁和合して生ずるがゆえに、分別推求すればこれらの法はいずれも不可得であるがゆえに、識心の攀縁力によって運転されたものであるがゆえに、それゆえ非不是空、すなわち空である。云何が非有神識か?第七識が不自在であるがゆえに、第七識界が不可得であるがゆえに、第七識の相貌も不可得であるがゆえに。それゆえ非有神識と言う。

云何が非無神識か?後世の五陰身があるがゆえに第七識があり、五陰身が解脱を得うるがゆえに、すなわち第七識の解脱であり、各各の衆生はみな我心を生じ、第七識が我を執して他処に計ずることがないがゆえに、それゆえ神識がないわけではないと言う。このように不生不滅、非不生非不滅、非有非無であり、法を受けず執著せず、すべての言説相を滅し、心行は寂滅の境界にあり、寂静の涅槃境界の如く、これが諸法の実相である。これらの法を修学する中で、清浄の信心があり、実相法に対して心に滞礙なく、柔軟心をもって法を知り法を信じ精進して法を学ぶ、これを柔順法忍と名づける。

原文:云何无生法忍。如上实相法中。智慧信进。增长根利。是名无生法忍。譬如声闻法中暖法顶法。智慧信精进。增长得忍法。忍者忍涅槃。忍无漏法。故名为忍。新得新见。故名为忍。法忍亦如是。时解脱阿罗汉。不得无生智。增进广利转成。不时解脱。得无生智。

解釈:何を無生法忍と名づけるか?上に説いた如き実相法の中で、慧根・信根・精進根が増長し、根性が利頓である、これを無生法忍と名づける。譬えば声聞法の中で暖法と頂法の階段において、智慧根・信根・精進根が増長を得れば、忍法を得る。いわゆる忍とは寂静の涅槃法に忍び、貪瞋痴なき一切煩悩法に忍ぶことである。今しがた知り、今しがた証し、今しがた見法した、これを忍と名づける。無生法忍もまた然りである。待時解脱の阿羅漢は無生智を得ていないが、後の時に甚深禅定を修行すれば、智慧は絶えず増進広大し、臨終を待たずして解脱を得、この時に無生智を得るのである。

原文:无生法忍亦如是。未得菩萨果。得无生法忍。得菩萨真行果。是名菩萨道果。是时得般舟三昧。于众生中得大悲。入般若波罗蜜门。尔时诸佛便受其号。堕生佛界中。为诸佛所念。一切重罪薄。薄者灭。三恶道断。常生天上人中。名不退转。到不动处。末后肉身尽。入法身中。能作种种变化。度脱一切众生。具足六度。供养诸佛。净佛国土。教化众生。立十地中。功德成满。次第得阿耨多罗三藐三菩提。为菩萨禅法中初门。

解釈:無生法忍もまた然りである。菩薩の果徳を証得していない時に得るのは無生法忍であり、菩薩の真の修行果徳を証得した時を菩薩道果と名づける。この時、実際の修行を通じて般舟三昧を証得し、衆生に対して大慈悲心を生起させ、般若波羅蜜門に入る。爾時に諸仏は菩薩に法号を授け、仏法界に入り、諸仏に護念される。自身の中の一切の重罪は転じて軽くなり、軽罪は転じて滅し、三悪道は断絶し、未来には常に天上と人間に生まれ、不退転の菩薩と名づけられる。八地不動地に修到した時、最後の肉身が了断し、法身に入り、種々の自在変化を作ることができ、一切の衆生を度脱する。六度波羅蜜の功徳を具足して諸仏を供養し、仏国土を清浄にして衆生を教化し、十地の修道位において次第に功徳円満し、阿耨多羅三藐三佛陀を得成する。以上が菩薩禅法における最初の入門処である。

原文:

行者定心求道时    常当观察时方便

若不得时无方便    是应为失不为利

如犊未生允牛乳    乳不可得非时故

若犊生已允牛角    乳不可得无智故

如钻湿木求出火    火不可得非时故

若折干木以求火    火不可得无智故

解釈:行者が堅固な信心をもって道を求める時、常に時節が合宜しているか、因縁が成熟しているか、方便の手段があるかを観察すべきである。証得の時節に至らず、方便の方法がなければ、この時に軽々しく道を求めれば利を失い利を得ることができない。譬えば牛がまだ子牛を生んでいない時に牛乳を吸えば、牛乳は得られない、時節が合わないがゆえである。牛がすでに子牛を生んだ後に牛の角を吸えば、やはり牛乳は得られない、智慧がないがゆえである。譬えば錐もみで湿った木を削って火を出そうとしても、火は得られない、時節が合わないがゆえである。乾いた木を折る方法で火を得ようとしても、火は得られない、智慧がないがゆえである。   

原文:

得处知时量己行    观心方便力多少

宜应精进及不宜    道相宜时及不宜

若心调动不应勇    如是勇过不得定

譬如多薪炽大火    大风来吹不肯灭

若能以定自调心    如是动息心得定

譬如大火大风吹    大水来浇无不灭

解釈:得るべき処においては、時節因縁が適切かを知り、自己の定力三昧力が具足しているかを量度し、自心の方便力がどれほどあるかを観察しなければならない。この時法において精進修習すべきか否か、この時道を得るべきか不宜か、いずれもはっきりと了知すべきである。もしこの時に心がなお散乱して動調やまないならば、勇猛精進すべきではなく、過度の勇猛精進でも定を得ることはできない。譬えば多くの薪柴が燃え上がって大火となった時、もし大風が来て火を吹けば、大火は決して滅びない。この時もし自己の定力をもって心を調えれば、このように気息を調動して心は定を得ることができる。譬えば大風で大火を吹くと、吹くほど火勢は大きくなるが、大水で澆げば大火はすべて滅びる。

原文:

若人心软复懈怠    如是厌没不应行

譬如少薪无焰火    不得风吹便自灭

若有精进勇猛心    如是转健得道疾

譬如小火多益薪    风吹转炽无灭时

若行放舍止调缩    设复发舍失护法

譬如病人宜将养    若复放舍无得活

解釈:もし人の心力が弱くしかも懈怠であるならば、この時に心を止息させてはならず、勇猛精進に修行すべきである。譬えばわずかな薪柴には火のめが少なく、風に吹かれずとも滅びてしまう。もし精進勇猛心があれば、心力は強大になり、速やかに道を得ることができる。譬えば小火には多くの薪柴を加え、さらに風を吹かせれば、火勢はますます盛んになり、滅びることがなくなる。この時は修行を放捨すべきではなく、止を修めて息を調え心識を収縮すべきではない。なぜなら、もし再び心を起こそうとする時に、護法の力がなくなってしまうからである。譬えば病人を将養すべき時に、もし放捨して構わなければ、その人は生き延びることができない。

原文:

若有舍想正等心    宜时勤行得道疾

譬如有人乘调象    如意至凑无踬碍

若多淫欲爱乱心    是时不应行慈等

淫人行慈益痴闷    如人冷病服冷药

淫人心乱观不净    谛观不净心得定

行法如是相应故    如人冷病服热药

解釈:もし不喜不厭の捨心の念想があり、正等心があれば、勤めて精進に行じ、速やかに道を得るべきである。譬えば人が調御された大象に乗れば、順心如意に目的地に到達でき、障礙がない。もし人が淫欲心多く、貪愛の煩悩が心を乱すならば、この時に慈心三昧等を行じてはならない。なぜなら、淫欲を好む人が慈心を行じれば、その愚痴と迷悶を増加させるからである。人が冷病を得たのに冷薬を与えるのと同じく時宜に合わず、ただその病を増すだけである。淫欲の多い人は心が乱れているので、不浄観を修習すべきである。色身の不浄相を仔細に観察すれば、心は定を得ることができる。修行の方法はこのように相応すべきであり、相応した修行方法は人の冷には熱薬を服すべきであるのと同じく、このように対治して初めて得当である。

原文:

若多瞋恚忿乱心    是时不应观不净

瞋人观恶增恚心    如人热病服热药

若人瞋怒行慈心    行慈不舍瞋心灭

行法如是相应故    如人热病服冷药

若多愚痴心闇浅    不净行慈悲行法

二行增痴无益故    如人风病服麨药

人心痴闇观因缘    分别谛观痴心灭

解釈:もし人が瞋恚多く、悩怒して心乱れるならば、この時に不浄観を行じてはならない。瞋恚を好む人が悪相を観察すれば瞋恚心を増加させ、人が熱病を得たのに熱薬を服むのと同じく対症しない。もし人が瞋怒を好むならば、慈悲心を修行すべきであり、慈悲を修行して棄捨しなければ、瞋心は滅する。修行の方法はこのようにして初めて相応し、人の熱病が冷薬を服むのと同じく対症する。もし人が愚痴多く、心が暗閉で浅薄ならば、不浄観と慈悲观の二種の修行方法は、ただその愚痴を増加させるだけで利益がなく、人が風病を得たのに麨薬を服むのと同じである。人心が愚痴暗黒ならば因縁法を観察すべきであり、十二因縁の一支一支を分別して仔細に観行すれば、愚痴心を滅除することができる。

原文:

法行如是相应故    如人风病服腻药

譬如金师排扇炭    用功非时失韛法

匆匆急韛不知时    或时水浇或放舍

金融急韛则消过    未融便止则不消

非时水浇金则生    非时放置则不熟

精进摄心及放舍    应当观察行道法

解釈:仏法の修行はこのように相応すべきであり、人が風病を得た時に膩薬を服すべきであるのと同じである。譬えば鍊金師が炭を焼いて金を鍊するに、加工の時宜が不当で、火加減を把握できなければ、黄金を鍊出することができない。慌てて急火にするは時宜を知らず、時に水を澆ぎ時に放捨する。金鉱が消融した後に急火を用いれば、黄金は融化し過ぎ、金鉱が消融しないうちに炭を止めれば、黄金は消融できない。水を澆ぐべきでない時に澆げば、金は生じて熟せず、放置の時宜が合わなければ黄金も熟しない。修行もまた然りである。いつ精進摂心すべきか、いつ身心を放捨すべきか、よく観察し仔細に観察して、究竟どのように行道すれば時宜に合うのかを知るべきである。

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