座禅三昧経講義
原文:若行者求佛道入禅。先当系心专念十方三世诸佛生身。莫念地水火风山树草木。天地之中有形之类及诸余法一切莫念。但念诸佛生身处在虚空。譬如大海清水。中央金山王须弥。如夜闇中然大火。如大施祠中七宝幢。佛身如是。有三十二相八十种好。常出无量清净光明于虚空相青色中。常念佛身相如是。
解釈: 行者が仏道を求め、深い禅定に入ろうとするならば、まず心を繋めて十方三世の諸仏の応化身あるいは報身仏 (saṃbhoga-kāya-buddha)を専念すべきであり、地水火風から成る一切の物質色法、山や樹木草木などを念じてはならない。天地の中の一切の有形のものおよびその他の一切の法も念じてはならず、ただ諸仏の色身が虚空の中にあることを念ずるのみである。仏身は例えば大海の清水の中央の金山の王たる須弥山のようであり、また暗夜に点火された大火のようであり、また堂祠の中の七宝の幢のようである。仏身の金山はまさにこのように三十二相八十種好を具え、虚空相の青色の中に常に無量の清浄 (viśuddha/pariśuddha)な光明を放っている。
原文:行者便得十方三世诸佛悉在心目前。一切悉见三昧。若心余处缘。还摄令住念在佛身。是时便见东方三百千万千万亿种无量诸佛。如是南方西方北方四维上下。随所念方见一切佛。如人夜观星宿。百千无量种星宿悉见。菩萨得是三昧。除无量劫厚罪令薄。薄者令灭。
解釈: 行者が常に仏のこのような身相荘厳を思い念ずれば、十方三世仏悉在前立三昧を証得でき、一切の十方三世の諸仏をことごとく見ることができる。もし心が他処他法に縁ずれば、また摂受して戻し、念頭を仏身に住せしめるべきである。このとき東方の三百千万億種の無量の諸仏を見ることができ、このように南方、西方、北方、四維上下も同様であり、自心の所念に随って、このように多数の諸仏を見ることができる。それは人が夜半に天の星宿を観るように、百千無量種の星宿をすべて見ることができるようである。菩薩が修行してこのような三昧 (samādhi)を証得すれば、無量劫の罪を除き、重罪を軽くし、軽罪を滅せしめることができる。
原文:得是三昧已。当念佛种种无量功德。一切智一切解。一切见一切德。得大慈大悲自在。自初出无明。四无畏五眼。十力十八不共法。能除无量苦。救老死畏。与常乐涅槃。佛有如是等。种种无量功德。作是念已。自发愿言。我何时当得佛身佛功德。巍巍如是。复作大誓。过去一切福。现在一切福。尽持求佛道。不用余报。复作是念。一切众生甚可怜愍。诸佛身功德巍巍如是。众生云何更求余业。而不求佛。
解釈: このような三昧 (samādhi)を証得した後は、仏の種々の功徳を念ずべきである。仏の一切智、一切解、一切見、一切徳を念じ、大慈大悲自在を修得し、無明の殻を破り始めてから、十力四無所畏、五眼六通、十八不共法を獲得するに至り、衆生の無量の苦を除き、衆生の老死の怖畏を救護し、衆生に常楽我浄の涅槃を与える。仏にはこのような種々無量の功徳がある。菩薩はこのような思いをなした後、自ら大誓願を発して言う、私はいつこのような巍巍たる仏身・仏の功徳を得ることができるのかと。衆生はなおその他の業行を求めて、仏道を求めないのか。
原文:譬如贵家盲子。堕大深坑。饥穷困苦。食粪食泥。父甚愍之。为求方便。拯之于深坑。食之以上馔。行者念言。佛二种身功德。甘露如是。而诸众生。堕生死深坑。食诸不净。以大悲心。我当拯济。一切众生。令得佛道。度生死岸。以佛种种。功德法味。悉令饱满。一切佛法。愿悉得之。闻诵持问。观行得果。为作阶梯。立大要誓。被三愿铠。外破魔众。内击结贼。直入不回。如是三愿。比无量诸愿。愿皆住之。为度众生。得佛道故。如是念如是愿。是为菩萨念佛三昧。
解釈: 例えば高貴な家の盲人の息子が深坑に落ち、飢え貧しく困苦し、糞を食べ泥を食べる。父は甚だ憐れみ、方便を求めて彼を深坑から救い出し、上妙な飲食を与える。菩薩の行者は思う、仏の二種の身の功徳は、まさにこのような甘露であると。しかるに諸衆生は生死の深坑に堕し、諸の不清浄物を食している。私もまた大悲心をもって一切衆生を救済し、衆生をして仏道に上り生死の岸を度越せしめるべきであり、仏の種々の功徳の法味をもって、衆生をことごとく飽満充足せしめる。一切の仏法を願わくはことごとく得しめ、聞経・諷誦・受持・咨問・観行 (vipaśyanā-caryā)・証果を、衆生修行の階梯と次第とし、大誓願を樹立し、三つの誓願の鎧を被り、外には魔兵衆を破り、内には煩悩結賊を撃破し、直ちに仏道に入って退かない。このような三つの願力は、その他の無量の諸願に比肩し、衆生を度して仏道を得せしめるが故に、願わくはことごとくこれらの大願に住せん。このような願、このような思い、これが菩薩の念仏 (buddhānusmṛti)三昧である。
原文:行菩萨道者于三毒中。若淫欲偏多。先自观身。骨肉皮肤。筋脉流血。肝肺肠胃。屎尿涕唾。三十六物。九想不净。专心内观。不令外念。外念诸缘。摄之令还。如人执烛。入杂谷仓。种种分别。豆麦黍粟。无不识知。
解釈: 菩薩道を修行する人は、貪瞋痴の三毒の煩悩の中で、もし淫欲が偏に多ければ、まず自身を観察し、骨、筋肉、皮膚、筋脈、流れる血液、および肝肺腸胃・屎尿涕唾などの三十六種の物件が種々の不浄であることを観察し、専心に内観し、心をして外に縁じて散乱せしめず、外に諸法を念ずる時には、心を摂取して戻し、内身の三十六物に繋ぐ。例えば人が蝋燭を持って雑穀の倉に入り、種々の穀物を区別するように、大豆・小麦・粟・黍など知らぬものはない。
原文:复次观身六分。坚为地分。湿为水分。热为火分。动为风分。孔为空分。知为识分。亦如屠牛。分为六分。身首四支。各自异处。身有九孔。常流不净。革囊盛屎。常作是观。不令外念。外念诸缘。摄之令还。若得一心。意生厌患。求离此身。欲令速灭。早入涅槃。是时当发。大慈大悲。以大功德。拔济众生。兴前三愿。以诸众生。不知不净。起诸罪垢。我当拔置。于甘露地。
解釈: さらに身体の六つの部分を観察する。堅硬なものは地分、湿潤なものは水分、熱きものは火分、動くものは風分、孔あるものは空分、了知の性は識分である。また牛を屠るように、牛を六つの部分に分け、身体と頭、四肢は各々分かれ、身に九孔あり、常に不浄物を流し、皮嚢が屎尿を盛るようである。常にこのような観察をなし、心念をして外縁せしめず、一旦外に他法を縁ずれば、摂取して戻すべきである。このように観察して一心の初禅の禅定の境地を得れば、心に厭患を生じ、この身を離れんことを求め、速やかに自らを滅度し、早く涅槃に入らんことを欲する。このとき大慈大悲の心を発し、この修行の大功徳をもって衆生を抜済し、先に発した三つの大願を実現すべきである。諸衆生は色身の不浄を知らず、諸の罪悪煩悩垢を造るが故に、私は彼らを甘露の地に救抜すべきである。
原文:复次欲界众生。乐着不净如狗食粪。我当度脱。至清净道。复次我当学求。诸法实相。不有常不无常。非净非不净。我当云何。着此不净。观不净智。从因缘生。如我法者。当求实相。云何厌患身中不净。而取涅槃。当如大象。度驶流水。穷尽源底。得实法相。灭入涅槃。岂可如猕猴诸兔畏怖驶流。趣自度身。我今当学如菩萨法。行不净观。除却淫欲。广化众生。令离欲患。不为不净观所厌没。
解釈: さらに、欲界の衆生が不浄物を喜楽するのは狗が糞穢物を食うようである。私は彼らを度脱して清浄 (viśuddha/pariśuddha)な道に至らしめるべきである。復次、私は諸法実相を修学し求めるべきである。常でもなく不常でもなく、断でも常でもなく、非浄非不浄である。私はいかにこの不浄を観ずべきか。不浄を観ずる智慧は因縁より生ずる。私のような場合は実相を追求すべきであり、いかにして色身の中の不浄を厭患し、涅槃を取るのか。大象が馳流する大河を渡るように、河流の底源を窮尽し、諸法実相を証得し、自らを滅度して涅槃に入るべきであり、猕猴や兎のように湍流する河水を怖れて、ただ自身の安危のみを顧みるようなことがあってはならない。私は菩薩法を学ぶべきであり、不浄観を修行し、淫欲を除き、広く衆生を化して衆生をして貪欲の苦患を離れしめ、不浄観に道心を退かせられてはならない。
これにより見れば、菩薩はもし何らかの煩悩、あるいは重い煩悩があれば、小乗の種々の観行 (vipaśyanā-caryā)を修習して対治すべきであるが、然しながら小乗人の心行を取らず、大乗の菩薩心を発するのである。
原文:复次既观不净。则厌生死。当观净门。系心三处。鼻端眉间额上。当于是中开一寸皮。净除血肉。系心白骨。不令外念。外念诸缘。摄之令还。着三缘中。恒与心斗。如二人相扑。行者若胜心。则不如制之令住。是名一心。
解釈: 復次、すでに色身の不浄を観察し得たならば、生死を厭患するであろうから、清浄 (viśuddha/pariśuddha)法門を観ずべきである。心を三処に繋ぎ、鼻端、眉間、額上に、この三処において一寸の皮膚を開き、血肉を除去して残余なく、その後一心に白骨に繋ぎ、心念をして外縁せしめず、心念の外縁を発見すれば摂取して戻し、この三処に置き、常に散乱心と搏闘し、二人が相撲を取る搏闘のようである。行者もし自心を調伏せんと欲するならば、心をこの観想に安住せしめるべきであり、これをもって一心の初禅の境地を証するのである。
原文:若以厌患。起大悲心。愍念众生。为此空骨。远离涅槃。入三恶道。我当勤力。作诸功德。教化众生。令解身相空。骨以皮覆。实聚不净。为众生故。徐当分别。此诸法相。有少净想。心生爱着。不净想多。心生厌患。有出法相。故生实法。诸法实相中。无净无不净。亦无闭亦无出。观诸法等。不可坏不可动。是名诸法实相。(出过罗汉法也)
解釈: もし色身と生死を厭患するが故に、衆生を慜念するために大悲心を起こし、衆生が色身の中の空骨を貪るために涅槃を遠離し、三悪道に堕することを悲憫するならば。私は勤めて諸の功徳をなし、衆生を教化し、色身の空相を開解せしめ、骨は外に皮嚢を裹り、実際にはすべて不浄物の集聚であることを。衆生の故に、これらの法相を徐々に分別すべきである。初めはまだ少しく色身の清浄 (viśuddha/pariśuddha)の思いがあり、心にまだ愛着がある。不浄の思いが増大すれば、色身に対して心に厭患を生じ、いくつかの真実の法相を観察し出すので、実法相を生ずる。諸法実相の中には、清浄相もなく不清浄相もなく、入ることも出ることもない。一切の諸法が平等一相で、壊すべからず、動くべからずことを観察する。これが諸法実相であり、阿羅漢法を超えるのである。
原文:行菩萨道者。若瞋恚偏多。当行慈心。念东方众生。慈心清净。无怨无恚。广大无量。见诸众生。悉在目前。南西北方四维上下。亦复如是。制心行慈。不令外念。外念异缘。摄之令还。持心目观。一切众生。悉见了了。皆在目前。
解釈: 菩薩道を修行する人は、もし内心に瞋恚が偏に多ければ、慈心観を修行すべきである。東方世界の衆生を心念し、心地清浄 (viśuddha/pariśuddha)、衆生を慈慜し、怨悪と瞋恚なく、心量広大にして際辺なく、東方の衆生がことごとく目前にあるを見る。南方西方北方四維上下世界の衆生を心念するもまた同様であり、心念を慈悲慜念衆生の行に住せしめ、念頭をして外に攀縁せしめず、もし心念が他法に縁ずれば摂取して戻し、専心に十方世界の衆生を観想し、ことごとく眼前にあり、すべて明らかに見えるようにする。
原文:若得一心。当发愿言。我以涅槃。实清净法。度脱众生。使得实乐。行慈三昧。心如此者。是菩萨道。住慈三昧。以观诸法实相。清净不坏不动。愿令众生。得此法利。以此三昧。慈念东方一切众生。使得佛乐。十方亦尔。心不转乱。是谓菩萨慈三昧门。
解釈: もし一心の初禅の境地を証得すれば、発願して言うべきである。私は涅槃の真実の清浄 (viśuddha/pariśuddha)法をもって衆生を度脱し、衆生をして真実の快楽を得せしめると。慈心三昧 (samādhi)を修行して心このようならば、これを菩薩道と為す。心を慈心三昧 (samādhi)に住せしめて諸法実相を観察し、清浄無染、動かず壊れず、衆生がこの法の利益を獲得することを願う。この三昧 (samādhi)をもって東方一切衆生を慜念し、ことごとく仏地の快楽を得せしめ、十方世界の衆生を慜念するもまた同様であり、心は転動せず散乱せず。これを菩薩の慈心三昧 (samādhi)法門と名付ける。
原文:问曰。何不一时总念十方众生。答曰。先念一方。一心易得。然后次第。周遍诸方。问曰。人有怨家。恒欲相害。云何行慈。欲令彼乐。答曰。慈是心法。出生于心。先从所亲。所亲转增。乃及怨家。如火烧薪。盛能然湿。问曰。或时众生遭种种苦。或在人中或地狱中。菩萨虽慈。彼那得乐。答曰。先从乐人取其乐相。令彼苦人。得如彼乐。如败军将。怖惧失胆。视彼敌人。皆谓勇士。
解釈: ある人が問って言う。なぜ同時に十方世界の衆生を念じないのか。答えて言う。まず一方世界の衆生を念じれば、一心の初禅定を得やすい。然る後に次第に他方世界の衆生を念じ、さらにすべての世界の衆生に周遍する。もし一斉に同時に念じれば、心力不足を恐れ、念じ出すことができなくなる。また問って言う。人はそれぞれ冤家があり、常に自らを悩害せんと欲する。いかに彼らに対して慈を行じ、彼らの快楽を願うのか。答えて言う。慈悲は心法であり、心より生ずる。まず自分の至親から慈心を行じ始め、然る後に転転に親族を増し、最後に冤家に拡張する。火が柴禾を焼く時に絶えず柴禾を増すように、火の旺盛な時に初めて湿柴を燃やすことができる。
問って言う。時に衆生は種々の苦受に遭うことがあり、時に人中にあり、時に地獄中にある。菩薩は慈心を修行できるといえども、それらの人はいかにして楽を得ることができるのか。答えて言う。まず快楽な人から快楽の相を取り、それらの苦悩の人にも彼らと同じ快楽を得せしめる。敗軍の将のように、すでに怖れ、勇気と胆力を失い、自分の敵を見ればことごとく勇士と見なす。
原文:问曰。行慈三昧。有何善利。答曰。行者自念。出家离俗。应行慈心。又思惟言。食人信施。宜行利益。如佛所言。须臾行慈。是随佛教。则为入道。不空受施。复次身着染服。心应不染。慈三昧力。能令不染。复次我心行慈。于破法世。我有法人。非法众中。我有法人。如法无恼。慈定力故。菩萨行道。趣甘露门。种种热恼。慈凉冷乐。如佛所言。人热极时。入清凉池乐。复次被大慈铠。遮烦恼箭。慈为法药。消怨结毒。烦恼烧心。慈能除灭。慈为法梯登解脱台。慈为法船。渡生死海。贫善法财。慈为上宝。行趣涅槃。慈为道粮。慈为骏足。度入涅槃。慈为猛将。越三恶道。能行慈者。消伏众恶。诸天善神。常随拥护。
解釈: 問って言う。慈心三昧 (samādhi)を修行して何の利益があるのか。答えて言う。行者は心自ら念う。出家して世俗を離れたのだから、慈心を修行すべきであると。また思惟して言う。信衆の恭敬布施を受用するならば、信衆に対して利益をなすべきであると。仏の言われるように須臾の間慈を行ずることは、仏の教えに随順することであり、仏道に入るためであり、空しく信衆の布施を受用しないのである。さらに言う。身に壊染の出家服を着ければ、心はもはや染汚すべきでなく、慈心三昧 (samādhi)の力こそ心を染汚せしめない。
復次、仏法を壊乱する世間において、私の心が慈を行ずれば、心に仏法ある人であり、正法を行じない衆生の中で、私は正法を行じる人である。如法に修行すれば心に悩みなく、慈心定力の摂持の故である。菩薩の修行の道は甘露門に趣向し、心中の種々の熱悩を、慈心は清涼せしめ、法楽を得しめる。仏の言われるように、人が非常に熱を感じる時、清涼池に入れば快楽であると。さらに、菩薩がもし大慈悲の甲冑を披くならば、煩悩毒箭を遮蔽し、慈心は法薬であり、怨結の毒害を消滅せしめる。煩悩が心霊を灼焼する時、慈心は煩悩火を滅除せしめる。慈心は仏法の階梯であり、解脱に登る階段である。慈心は法船であり、生死海を渡越せしめる。善法財が欠乏すれば、慈心は最上の宝であり、慈を行ずべきである。修行が涅槃に趣向せんとするならば、慈心は道糧であり、慈心は有力な両脚である。涅槃に度入せんと欲するならば、慈心は勇猛な将士であり、三悪道を超越せしめる。慈心を行ずる人は、衆多の悪賊を消滅降伏せしめ、諸天善神は常に随従守護する。
原文:问曰。若当行人。得慈三昧。云何不失。而复增益。答曰。学戒清净。善信倚乐。学诸禅定。一心智慧。乐处闲静。常不放逸。少欲知足。行顺慈教。节身少食。减损睡眠。初夜后夜。思惟不废。省烦言语。默然守静。坐卧行住。知时消息。不令失度。致疲苦极。调和寒温。不令恼乱。是谓益慈。
解釈: 問う。もし修行人が慈心三昧 (samādhi)を証得したならば、いかにして失わずに保ち、さらに慈心三昧 (samādhi)を絶えず増長せしめることができるのか。答えて言う。戒律を修学し、心地清浄 (viśuddha/pariśuddha)無染を保ち、善に相応し、仏法を深信して軽安と喜楽を生ずべきである。諸禅定を修学し、一心の禅定と智慧を具足し、閑静処に処することを楽しみ、心は常に放逸せず、欲望少なく善く知足し、心行において仏陀慈悲の教えに随順し、自身を約し、飲食と睡眠を減らす。初夜と後夜に、常に仏法を思惟し、時日を荒廃せしめない。不必要な言語を減らし、黙然として清浄 (viśuddha/pariśuddha)な心境を守持する。行住坐臥は時を知り節を知り度あり、過分に造作せず、身心を疲累と苦悩に致さない。色身を善く調和し、過寒過熱にせず、身心を悩乱せしめない。このように絶えず身心を調節して、絶えず慈心三昧 (samādhi)を増長せしめるのである。
真心から仏法を学び修行する人は、このように身心を調節すべきであり、戒定慧の三無漏学こそ成就するのである。もし身行心行がこれに相違すれば、調整し、改めるべきである。貪染を降伏するよう努め、色身を尊崇せず、色身を貪愛せず、戒律を守持して、こそ禅定は成就し、身心は軽安となり、観行 (vipaśyanā-caryā)の智慧は具足し、修行は法を証することができる。
原文:复次以佛道乐。涅槃之乐。与一切人。是名大慈。行者思惟。现在未来。大人行慈。利益一切。我亦被蒙。是我良祐。我当行慈。毕报施恩。复更念言。大德慈心。愍念一切。以此为乐。我亦当尔。念彼众生。令得佛乐。涅槃之乐。是为报恩。复次慈力能令一切。心得快乐。身离热恼。得清凉乐。持行慈福。念安一切。以报其恩。
解釈: 復次、修行人は仏道の楽・涅槃の楽を一切の人に与えるべきであり、これが大慈悲心である。行者はこのように思惟すべきである。現在と未来の仏菩薩の大人は慈悲行を行じ、私もまた彼の恩徳を蒙る。仏菩薩は私の良師であり、仏法は私の良祐である。私もまた慈を行じ、良師が私に施した恩徳をことごとく報いるべきである。さらに思惟して言う。大徳の慈心は一切を慜念し、慈心を楽と為す。私もまたこのようであるべきであり、一切衆生を慜念し、仏法の楽趣と涅槃の楽趣を得せしめる。これが報恩の行である。復次、慈悲の力は一切人の心に快楽を得せしめ、身心を熱悩から離れさせ、清涼の楽を得せしめる。慈悲の福徳を行持し、一切人を慜念安楽し、良師の恩を報いる。
原文:复次慈有善利。断瞋恚法。开名称门。施主良田。生梵天因。住离欲处。除却怨对。及斗诤根。诸佛称扬。智人爱敬。能持净戒。生智慧明。能闻法利。功德醍醐。决定好人。出家猛力。消灭诸恶。骂辱不善。慈报能伏。结集悦乐。生精进法。富贵根因。办智慧府。诚信库藏。诸善法门。致称誉法。敬畏根本。佛正真道。若人持恶向。还自受其殃。五种恶语。非时语非实语。非利语。非慈语。非软语。是五恶语。不能倾动。一切毒害。亦不能伤。譬如小火。不能热大海(此下应出优填王持五百发箭)。
解釈: 復次、慈心には善法の利益があり、瞋恚法を断除し、大名声を獲得し、衆生は知る者はことごとく親近するので、施主の良好な福田となる。慈心に瞋恚心なければ大梵天に生ずる因であり、離欲の処に住し、冤家対頭および闘争諍訟の根源を除去する。諸仏はことごとく称揚し、智者はことごとく愛護敬仰する。浄戒を受持し得る人は、智慧明を出生せしめる。仏法を聞いて利益を得、出生の功徳は醍醐の如く、決定して善人利根の人であり、出家の後修行猛力で、一切の悪法、罵辱などの不善法を消滅せしめ、慈心をもって報いれば、降伏せしめることができる。
多く善縁を結集し、衆生をして悦楽せしめることは、仏法の中の精進修行であり、富貴因を結ぶ根源であり、智慧の府邸を建立し、誠実守信の庫蔵であり、一切善法の大門である。大衆の称誉を獲得することは、大衆敬畏の根本であり、仏法の正真の道である。もし人が悪心をもって之に向かえば、自らその殃を受ける。五種の悪語あり。言うべきでない時に言う言葉、真実でない言語、利益のない言語、慈善でない言語、柔軟でない言語。この五種の悪語もその慈心を揺るがすことができず、一切の毒害も之を傷つけることができない。例えば小火は大海を熱くすることができない。
原文:如毗罗经中优填王阿婆陀那说。有二夫人。一名无比。二名舍迷婆帝。无比诽谤舍迷婆帝。舍迷婆帝有五百直人。王以五百箭。欲一一射杀之。舍迷婆帝语诸直人。在我后立。是时舍迷婆帝入慈三昧。王挽弓射之。箭堕足下。第二箭还向王脚下。王大惊怖。复欲放箭。舍迷婆帝语王言。止止。夫妇之义是故相语。若放此箭。当直破汝心。王时恐畏投弓舍射。问言。汝有何术。答言。我无异术。我是佛弟子。入慈三昧故也。是慈三昧略说有三种缘。生缘法缘无缘。诸未得道是名生缘。阿罗汉辟支佛是名法缘。诸佛世尊是名无缘。是故略说慈三昧门。
解釈: 毗羅経の中の優填王阿婆陀那の説くように、二人の夫人があり、一名を無比と云い、二名を舎迷婆帝と云う。無比は舎迷婆帝を誹謗し、舎迷婆帝には五百人の忠誠耿直な僕人があった。王は五百本の矢をもって、一人一人射殺せんと欲した。舎迷婆帝はこれらの僕人に言った。私の後に立てと。この時舎迷婆帝は慈心三昧 (samādhi)に入り、大王が弓を引き絞って射て来たが、結果矢は足下に堕ち、第二の矢もまた大王の足下に堕ちた。大王は驚怖し、また矢を放って射殺せんとした。舎迷婆帝は大王に言った。止めよ止めよ、夫婦の恩義を念ずるが故に告げるのだ。この矢を射れば、この矢は直ちにあなたの心に向かって射ることになると。大王は驚恐し、弓矢を投げ捨てて射殺さなかった。舎迷婆帝に問うて言った。あなたはどんな術を用いるのか。舎迷婆帝は答えて言った。私は何の術もない。私は仏弟子であり、慈心三昧 (samādhi)に入るが故に、このようであり得るのである。
この慈心三昧 (samādhi)は大略三種の縁を説く。生縁、法縁、無縁である。まだ得道していない人々は生縁であり、阿羅漢・辟支仏は法縁であり、諸仏世尊は無縁である。これが慈心三昧 (samādhi)法門の略説である。
原文:行菩萨道者。于三毒中。若愚痴偏多。当观十二分。破二种痴。内破身痴。外破众生痴。思惟念言。我及众生俱在厄难。常生常老常病常死常灭常出。众生可怜不知出道。从何得脱。一心思惟。生老病死。从因缘生。当复思惟。何因缘生。一心思惟。生因缘有。有因缘取。取因缘爱。爱因缘受。受因缘触。触因缘六入。六入因缘名色。名色因缘识。识因缘行。行因缘无明。
解釈: 菩薩道を修行する人は、貪瞋痴の三毒の煩悩の中で、もし愚痴が偏に多ければ、十二因縁分法を観行 (vipaśyanā-caryā)すべきであり、二種の愚痴を破除する。内には色身の愚痴を破り、外には衆生の愚痴を破る。思惟して言うべきである。私と衆生はともに苦悪災難の中にあり、常に生じ、常に老い、常に病み、常に死に、常に滅し、常に出没する。衆生は誠に憐れむべきであり、出離の道を知らず、どこから解脱するかを知らない。
また一心に思惟する。生老病死は因縁より生ずると。さらに思惟する。生はどんな因縁から出るのか。一心に思惟する。生は三界の有に縁じ、有は執取 (upādāna)に縁じ、取は三界への貪愛に縁じ、貪愛は受に縁じ、受は根塵相触に縁じ、触は六根に縁じ、六根は名色五陰 (pañca-skandha)に縁じ、名色は前世の六識の絶えざる造作に縁じ、前世の六識は意根の心行に縁じ、意根の心行は意根の無明に縁ずる。
原文:如是复思惟。当何因缘。灭生老死。一心思惟。生灭故老死灭。有灭故生灭。取灭故有灭。爱灭故取灭。受灭故爱灭。触灭故受灭。六入灭故触灭。名色灭故六入灭。识灭故名色灭。行灭故识灭。痴灭故行灭。
解釈: このように、さらに思惟する。いかなる因縁をもって生老病死を滅除すべきか。そこで一心に思惟する。生が滅すれば老死は滅し、三界有が滅すれば生は滅し、取が滅すれば有は滅し、愛が滅すれば取は滅し、受が滅すれば愛は滅し、触が滅すれば受は滅し、六根が滅すれば触は滅し、名色が滅すれば六根は滅し、前世の六識が滅して造作しなければ名色は滅し、意根の心行が滅すれば六識の造作は滅し、意根の無明が滅すれば心行は滅する。
原文:此中十二分云何。无明分不知前。不知后不知前后。不知内不知外。不知内外。不知佛不知法不知僧。不知苦不知习不知尽不知道。不知业不知果不知业果。不知因不知缘不知因缘。不知罪不知福不知罪福。不知善不知不善不知善不善。不知有罪法不知无罪法。不知应近法不知应远法。不知有漏法不知无漏法。不知世间法。不知出世间法。不知过去法不知未来法不知现在法。不知黑法不知白法。不知分别因缘法。不知六触法。不知实证法。如是种种不知不慧不见闇黑无明。是名无明。
解釈: ここの十二支分とはいかなるものか。無明分法は前を知らず、後を知らず、前後を知らない。内を知らず外を知らず、内外を知らない。仏を知らず、法を知らず、僧を知らない。苦を知らず、集を知らず、滅を知らず、道を知らない。業を知らず、果を知らず、業果を知らない。因を知らず、縁を知らず、因縁を知らない。罪を知らず、福を知らず、罪福を知らない。善を知らず、不善を知らず、善不善を知らない。有罪法を知らず、無罪法を知らず、有罪無罪法を知らない。応に親近すべき法を知らず、応に遠離すべき法を知らず、有漏法を知らず、無漏法を知らない。世間法を知らず、出世間法を知らない。過去法を知らず、現在法を知らず、未来法を知らない。黒法を知らず、白法を知らない。分別因縁法を知らず、六触法を知らず、実証法を知らない。このような種々知らず見ずということは、智慧がないことであり、心中の黑暗と無明であり、これを無明法と為す。
原文:无明缘行。云何名行。行有三种。身行口行意行。云何身行。入息出息是身行法。所以者何。是法属身。故名身行。云何口行。有觉有观。是作觉观已。然后口语。若无觉观。则无言说。是谓口行。云何意行(痛名世界人所著三种痛。痛应为受。受则随界受苦乐。上界所无故。宜言受想出家所患也)。痛想是意法。系属意故。是名意行。
复次欲界系行。色界系行。无色界系行。复次善行不善行不动行。云何善行。欲界一切善行。及色界三地。云何不善行。诸不善法。云何不动行。第四禅有漏善行。及无色定善有漏行。是名行。
解釈: 無明縁行 (avidyā-pratyayāḥ saṃskārāḥ)、いかにして行なるか。行には三種ある。身行、口行、意行。何が身行か。入息出息は身行法であり、この法が色身上の行為に属するが故に、身行と為す。何が口行か。内心に覚受と思想観念があり、覚観 (vitarka-vicāra)して後、口中の言語が現れる。覚観なければ言説がない。それゆえ覚観は口行である。何が意行か。受想は意行法であり、意に繋属するが故に、意行と為す。
復次、欲界行、色界行、無色界行は、ことごとく行に属する。さらに、善行、不善行、不動行 (Ānaiñjya/Āneñjya)はことごとく行に属する。何が善行か。欲界の善行、および色界の初禅天善行、二禅天善行、三禅天の善行を含む。何が不善行か。すべての不善法は、ことごとく不善行である。何が不動行 (Ānaiñjya/Āneñjya)か。第四禅の有漏の善行、および無色界定中の善の有漏行は、ことごとく行に属する。
意根の無明はこれらの行を直接に生ずることはできないが、意根は無明のために種々の心行を有することができ、すなわち意根の心行であり、五遍行心所法と種々の心所法を含む。その後、阿頼耶識 (Ālayavijñāna)が意根の心所法に配合して六識を出生し、六識にこそ種々の身口意行があり、善行と不善行を含み、欲界色界無色界の行を含み、四禅以上の不動行 (Ānaiñjya/Āneñjya)を含み、種々の有漏行を含む。
原文:行因缘识。云何名识。六种识界。眼识乃至意识。是名六识。识因缘名色。云何为名。无色四分。痛想行识。是谓名。云何为色。一切色四大及造色。是谓色。云何四大。地水火风。云何地。坚重相者地。濡湿相者水。热相者火。轻动相者风。余色可见。有对无对是名造色。名色和合是谓名色。
解釈: 行の因は識を出生せしめる。何が識か。六種の識界。眼識乃至意識を、六識と為す。六識の因は名色を出生せしめる。何が名か。無色界の四種。受想行識を名と為す。何が色か。一切の色法、四大種子および造色の大種を、色と為す。何が四大か。地水火風である。何が地か。堅硬沈重の相あるものが地であり、濡湿の相あるものが水であり、熱の相あるものが火であり、軽動の相あるものが風である。その他の見ることのできる色相、五根と有対および無対のものが造色である。名色が和合して、名色五陰 (pañca-skandha)となる。
原文:名色因缘六入。云何六入。内六入。眼内入乃至意内入。是名六入。六入因缘触。云何触。六种触界。眼触乃至意触。云何眼触。眼缘色生眼识。三法和合是名眼触。乃至意触亦如是。触因缘受。云何受。三种受。乐受苦受不苦不乐受。云何乐受。爱使。云何苦受。恚使。云何不苦不乐受。痴使。复次乐受生乐。住乐灭苦。苦受生苦。住苦灭乐。不苦不乐受。不知苦不知乐。
解釈: 名色の因は六入処 (ṣaḍāyatana)を出生せしめる。云何六入処 (ṣaḍāyatana)。内六入処 (ṣaḍāyatana)であり、眼の内入、耳の内入、鼻の内入、舌の内入、身の内入、意の内入を、合わせて内六入処 (ṣaḍāyatana)と為す。六入処 (ṣaḍāyatana)の因は触を生ずる。何が触か。触は六種の触界を含む。眼触、耳触、鼻触、舌触、身触、意触。何が眼触か。眼根が色塵に縁じて眼識を生じ、三者の和合を触と名付ける。このように耳触、鼻触、舌触、身触、意触もまた同様である。触の因は受を生ずる。云何受。三種ある。楽受、苦受、不苦不楽受。何が楽受か。貪愛の使然であり、貪愛より引き出された受が楽受である。何が苦受か。瞋恚の使然であり、瞋恚より引き出された受である。何が不苦不楽受か。愚痴の使然であり、愚痴より引き出された受である。復次、楽受は楽を生じ、楽受の上に住すれば苦を滅せしめる。苦受は苦を生じ、苦受の上に住すれば楽を滅せしめる。不苦不楽受は、苦を知らず楽をも知らない。
原文:受因缘爱。云何爱。眼触色生爱。乃至意触法生爱。爱因缘取。云何取。欲取见取戒取我语取。取因缘有。云何有。三种有。欲有色有无色有。下从阿鼻大泥梨上至他化自在天。是名欲有。及其能生业。云何色有。从下梵世上至阿迦尼吒天。是名色有。云何无色有。从虚空乃至非有想非无想处。是名无色有。有因缘生。云何生。种种众生处处生出。有受阴得持得入得命。是名生。生因缘老死。云何老。齿落发白多皱。根熟根破气噎。身偻拄杖行步。阴身朽故。是名老。云何死。一切众生处处退落堕灭。断死失寿命尽。是名死。先老后死故名老死。
解釈: 受覚の因は貪愛を出生せしめる。云何貪愛。眼根が色塵に触れ、耳根が声塵に触れ、鼻根が香塵に触れ、舌根が味塵に触れ、身根が触塵に触れ、意根が法塵に触れて、貪愛を生ずる。貪愛の因は執取 (upādāna)を生ずる。云何執取 (upādāna)。欲界中の生死煩悩を取着して放捨せず、我見邪見 (mithyā-dṛṣṭi)煩悩を取着して棄捨できず、解脱の因でない戒条と律則を取着して棄捨せず、内心の自我の覚観 (vitarka-vicāra)を取着して棄捨できない。執取 (upādāna)の因は有を生ずる。云何有。欲界に存在する法、色界に存在する法、無色界に存在する法、三種を合わせて有と為す。下は阿鼻地獄より上は他化自在天に至るまで、欲界に存在する法および欲界が出生せしめる業行である。色界は下は初禅天より上は阿迦膩吒天に至るまで存在する法および生ずる業行が、色界有である。空無辺処天より上は非想非非想処に至るまで、無色界の存在法および無色界が生ずる業行である。
三有の因は生命を生ずる。云何生。種々の衆生が三界の中に処々に出生し、三界有なければ生命体の出生はない。生の後、五受陰・四受陰をもって身を持ち、進入することができ、寿命を得ることができる。これを生と為す。生の因は老死を生ずる。云何老。歯が抜け落ち、頭髪が白くなり、皮膚に皺が多く、身根は老耄壊敗し、気力が通暢せず、腰身は屈曲し、歩行には杖を拝つ必要があり、五陰 (pañca-skandha)身の腐朽が老いを表す。云何死。三界の中の一切衆生が、各々の生存の処で退落し堕滅し、寿命が断尽するのが死である。先ず老いて後に死す。故に老死と名付ける。
原文:是中十二因缘。一切世间。非无因缘边。非天边非人边非种种等邪缘边出。菩萨观十二因缘。系心不动。不令外念。外念诸缘。摄之令还。观十二分。生三世中。前生今生后生。菩萨若得心住。当观十二分空无有主。痴不知我作行。行不知我从痴有。但无明缘故行生。如草木种从子芽出。子亦不知我生芽。芽亦不知从子出。乃至老死亦复如是。是十二分中一一观知。无主无我。如外草木无主。但从倒见。计有吾我。
解釈: ここに説かれる十二因縁法は、一切の世間法相を説くものであり、無因無縁より出生するのではなく、ことごとく因縁の辺際より出生するものであり、天の辺から、人の辺から、種々の縁の辺から出生するのではなく、これら種々の縁に借って、因より出生するのである。菩薩は十二因縁を観察し、心を繋いで動かず、心念をして外に他法を縁ぜしめず、もし心念が外法に縁じて外に攀縁すれば、心念を摂取して戻す。十二因縁支分が出生する三世を観察する。今世、前世、後世である。
菩薩がもし観行 (vipaśyanā-caryā)の中で心がこの法中に住することができれば、十二因縁支分はことごとく空であり、主人なく、真実の各々の支分法がないことを観行 (vipaśyanā-caryā)すべきである。愚痴無明は自分が身口意行を造作する因であることを知らず、身口意行は自分が愚痴のために有ることを知らない。ただ無明の縁のために行が生ずるのみである。例えば草木の種子は草木の子と牙苗の中から出生するが、種子も自分が芽を生ずることを知らず、芽も自分が種子から出生することを知らない。同理、無明乃至老死もこのようであり、互いにその所生を知らない。それゆえ十二因縁支分を観察する中で、各々の支分ごとにその無主無我の性を観察すべきであり、外界の草木が主なき如くであるが、しかし顛倒知見をもって我ありと記するのである。