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座禅三昧経講義

作者: 釋生如 カテゴリ: 禅定の法門 更新時間: 2026年04月09日 閲覧数: 5687
<h2 style="text-indent: 2em;">第八章 欲界の過を観じて四禅八定を証す</h2>

原文:尔时行者。虽得一心。定力未成。犹为欲界。烦恼所乱。当作方便。进学初禅。呵弃爱欲。云何呵弃。观欲界过。欲为不净。种种不善。当念初禅。安隐快乐。

观欲云何。知欲无常。功德怨家。如幻如化。空无所得。念之未得。痴心已乱。何况已得。淫欲缠覆。天上乐处。犹不常安。何况人中。人心着欲。无有厌足。如火得薪。如海吞流。如顶生王。虽雨七宝。王四天下。帝释分座。犹不知足。如那睺沙(姓也。)转金轮王为欲所逼。堕蟒蛇中。又如仙人。食果衣草。隐居深山。被发求道。犹复不免。欲贼所坏。

解釈:このとき禅を修する者は、心を一つにする禅定の境地を証得してはいるが、真の定力はまだ成就しておらず、いまだ欲界の貪瞋痴の煩悩に悩乱されている。このときは方便を設けてさらに初禅定を修習し、愛欲を呵責し、愛欲を棄捨すべきである。いかに呵責するのか?欲界の种种の過患を観察し、愛欲の种种の不浄不善の相を知り、初禅の安穏快楽を念ずべきである。

愛欲を観察した結果は何か?愛欲は無常であり、修道の功徳を奪い取るもので、功徳の怨家であることを知る。愛欲もまた諸法と同じく如幻如化であり、空しく何も得るところがない。心に愛欲を念ずれば、愛欲を未だ得ざる時にすでに心は濁乱しており、まして淫欲に陥り、欲心に纏縛されているならなおさらである。天上の美妙快楽の処においてさえ、天人はなおしばしば安穏でないと感じており、まして人中の苦楽半ばする境界においてはなおさらである。人心は愛欲に痴迷し、厭足する時がなく、火に薪を加えればさらに旺んになるが如く、大海が衆流を呑み込めばさらに洶湧澎湃となるが如し。かつての頂生王のごとく、七宝の雨を降らせ、四天下を統治し、帝釈天主が半座を分け与えてもなお止足を知らず、那睺沙の転金輪王のごとく欲望に逼迫して蟒蛇の中に堕ち、また仙人のごとく山の果実を食べ草を衣とし深山に隠居し、長い髪を披いて一心に道を求めても、なお道心は淫欲の賊に破られることを免れない。

原文:欲乐甚少。怨毒甚多。着欲之人。恶友相近。善人疏远。欲为毒酒。愚惑醉死。欲为欺诳。走使愚人。疲苦万端。不得自在。唯有离欲。身心安隐。快乐无极。欲无所得。如狗咬枯骨。求欲勤劳。极苦乃得。得之甚难。失之甚易。如假借须臾。势不得久。如梦所见。恍惚即灭。欲之为患。求之既苦。得之亦苦。多得多苦。如火得薪。多益多炽。欲如搏肉。众鸟竞逐。

解釈:淫欲の中で得られる楽しみはあまりにも少なく、その中の怨怒毒害は非常に多い。淫欲に貪着する人は、悪友がこれに親しみ、善友はこれと疎遠になる。淫欲は毒酒のごとく、人を愚痴迷惑させ、酔い迷って死なせる。淫欲は欺誑であり、愚人を駆り使って身心を疲れさせ、苦痛万端、自在を得られなくする。欲を離れた者のみが、身心安穏で、比類なき快楽を得る。淫欲の後には何も得るものがなく、犬が枯骨を咬むがごとし。勤め苦しんで淫欲を追求し、極めて苦痛な時にようやく得る。淫欲の歓を得ることは甚だ難しく、失うことは甚だ容易い。享楽を一瞬借用するがごとく、その勢いはまもなく消滅する。夢の中で見たもののごとく、恍惚としてたちまち滅する。淫欲の過患は極めて多く、追求する時すでに苦しく、得た後もまた苦しく、得るほどにますます苦しい。火が薪を得れば、得るほどに燃え盛り、残る灰も多くなるがごとし。淫欲は死人の肉をかじるがごとく、多くの鳥が互いに競い奪い合うがごとし。

原文:以要言之。如蛾赴火。如鱼吞钩。如鹿逐声。如渴饮咸水。一切众生为欲致患。无苦不至。是故当知。欲为毒害。当求初禅。灭断欲火。行者一心。精勤信乐。令心增进。意不散乱。观欲心厌。除结恼尽。得初禅定。离欲盛火。得清凉定。如热得荫。如贫得富。是时便得。初禅喜觉。思惟禅中。种种功德。观分别好丑。便得一心。

解釈:要するに、淫欲は蛾が火に赴くがごとく、火に焼き尽くされる。魚が鉤を呑むがごとく、鉤に害される。鹿が空谷の声を追うがごとく、徒に力を費やす。人が渇いて塩水を飲むがごとく、飲むほどにますます渇く。一切の衆生は欲望に害され、苦患は尽きることがない。それゆえ、淫欲こそ毒害であることを知り、遠ざかるべきである。だから初禅を追求し、欲火を消滅すべきである。修行者は一心に精勤し初禅を信楽し、心の意楽を絶えず増進させ、心を散乱させない。淫欲の過患を観察して厭離の心を生じ、愛欲の煩悩結縛を除去する。初禅の禅定を証得し、欲望の盛んな火を離れ、清涼の禅定楽を得る。暑い日に陰涼を得たがごとく、貧者が富貴を得たがごとし。このとき初禅定の喜覚観を得る。禅定の中の种种の功徳を思惟し、自心の好醜を観察分別すれば、一心の禅定の境地を得る。

原文:问曰。修行禅人得一心相。云何可知。答曰。面色悦泽。徐行端正。不失一心。目不着色。神德定力。不贪名利。击破憍慢。其性柔软。不怀毒害。无复悭嫉。直信心净。论议不诤。心无欺诳。易可与语。柔软惭愧。心常在法。勤修精进。持戒完具。诵经正忆。念随法行。意常喜悦。瞋处不瞋。

四供养中。不净不受。净施则受。知量止足。寤起轻利。能行二施。忍辱除邪。论议不自满。言语鲜少。谦恪恭敬。上中下座。善师善知识。常亲近随顺。饮食知节。不着欲味。乐独静处。若苦若乐。心忍不动。无怨无竞。不喜斗讼。如是等种种相。得知一心相。

解釈:ある人が問うて言うには、禅を修する人が一心の禅定の境地に至ったことを、いかにして知ることができるか、と。答えて言うには、もしこの人の面色が愉悦潤沢で、身行・語行がゆったりと軽やかで、柔軟端正であれば、この人が一心の禅定の境地にあることを知る。もしこの人が境に対して、目光が境界を追わず、境界に貪着せず、神色泰然自若であれば、この人に禅定力があることを知る。この人は名聞と利養に貪着せず、自心の憍慢を破除し、心性は柔軟で、毒害の心がなく、また悭貪と嫉妬心ももはやない。この人は心が直正で、内心は清浄であり、人と論議しても争訟を起こさず、勝負心がなく、人を欺誑する心もなく、語り合いやすく、心に柔軟と慚愧を懐く。この人の心は常に法の上に住し、精進に修行し、勤勉懇篤である。戒律を厳しく持し、律儀具足であり、経文を読誦して正しく憶念し、心念は法に随って行じて規矩を越えない。心意は常に喜び悦び、瞋すべき処においても瞋らない。

飲食・衣服・医薬・臥具の四種の供養のうち、不清浄の供養は受けず、清浄な布施なら受け、しかも量を知り止足を知る。睡眠から起きた後は身心軽利で、法施と無畏施の二種の布施 (dāna) を行うことができる。常に忍辱を行じ、邪見 (mithyā-dṛṣṭi) を除き、人と論議しても決して自満しない。言葉は極めて少なく、謙虚で低く、上座・中座・下座の同参道友を恭敬する。常に良師と善知識に親しみ随順する。飲食は節度を知り、味欲に貪着しない。寂静の処に独りいることを楽しみ、苦楽の境界に処しても、忍を懐いて動かない。心中に怨惱と争競がなく、闘争と訴訟を好まない。このような种种の行相を見れば、この人が一心の禅定の境地を得たことを知る。

これが初禅の定相であり、これに相応しなければ禅定はない。争い闘うことを好む人には、心の中に禅定がなく、まして法を証することはできない。心行が邪曲で、人を欺誑することを好み、罠を仕掛ける人にも禅定はなく、まして法を証することはできない。

原文:此觉观二事。乱禅定心。如水澄静。波荡则浊。行者如是。内已一心。觉观所恼。如极得息。如睡得安。是时次第。无觉无观。生清净定。内净喜乐。得入二禅。心静默然。本所不得。今得此喜。是时心观。以喜为患。如上觉观。行无喜法。乃离喜地。得贤圣所说乐。

解釈:心に覚観 (vitarka-vicāra) があると、禅定の心を乱す。澄浄な水面のごとく、波が蕩れば水は濁る。修行者もまた同じで、内心がすでに一心の境地に達していても、心に覚観があれば心を惱乱し、禅定を失う。極度に疲労した時に休息を得たがごとく、眠る人が安穏を得たがごとく、このときは次第に覚観を除去し、無覚無観に達して、さらに清浄な禅定を生じさせ、内心は寂静で喜びと楽があり、二禅に入る。内心は寂静で音もない。本来このような寂静の禅定はなかったが、いま得て、内心は喜びが湧き動く。このとき心眼でさらに観察すると、内心の喜楽は前の覚観の心と同じくまだ過患があるので、さらに修行して心に喜びを持たせず、喜楽の心を除去すると、喜びの二禅地の境界を離れ、賢聖の所説の楽地を得る。

原文:一心谛知念护。得入三禅。已弃喜故。谛知忆念乐护。圣人言乐护。余人难舍。乐中第一。过此以往。无复乐也。是故一切圣人。于一切净地中。说慈为第一乐。乐则是患。所以者何。第一禅中。心不动转。以无事故。有动则有转。有转则有苦。是故三禅以乐为患。

解釈:一心にこの境地を仔細に了知し、かつよく護念すれば、三禅の境界に証入する。すでに二禅の喜心を棄てたがゆえに、三禅に入ることができる。その後さらに三禅の中の楽受を仔細に回想観察し、自心をよく護るべきで、楽受に着してはならない。楽受に着することにも生死の過患があるから、棄捨すべきである。聖人だけが楽受を修除でき、その他の人は捨除することが非常に難しい。三禅の中の楽受は楽の中の第一の楽であり、これに過ぐるものはないからである。楽受が過ぎれば、もはや楽はなくなる。それゆえ一切の聖人は、一切の清浄地の中で、慈心を第一の楽と説くのであり、楽受こそ過患である。なぜそう言うのか?最上の禅定の中では、心は動転しない。心中に事がないからである。心が動けば転動があり、転動は苦である。それゆえ三禅の楽には動転があり、苦患があり、災患に遭いうるという。

原文:复以善妙。舍此苦乐。先弃忧喜。除苦乐意。护念清净。得入第四禅。不苦不乐。护清净念一心。是故佛言。护最清净第一。名第四禅。以第三禅乐动故。名之为苦。是故四禅除灭苦乐。名不动处。渐观空处。破内外色想。灭有对想。不念种种色想。观无量空处。常观色过。念空处定。上妙功德。习念是法。逮得空处。

解釈:さらに善巧方便をもって、これらの苦楽受を捨除する。まず憂愁喜楽の心を除き、苦楽の心念を除去して心念を清浄 (viśuddha/pariśuddha) とし、第四禅に入る。苦を感じず楽をも感じず、心念は清浄で心を一つにする。それゆえ仏は、心念を護ることが最も清浄な地が第四禅であると説かれる。第三禅にはまだ楽心の湧動があるので苦処とも呼ばれ、それゆえ第四禅は一切の苦楽受を除滅し、不動処と名づける。ここから次第に空処を観察し、内心の内色と外色の思いを破除し、心にどんな念があればそれを滅除し、いかなる色相も念じない。無量の空処を観察し、常に种种の色相の過患を観察し、空処定の殊勝美妙な功徳を念じ、このような念法を修習すれば、空処定を得ることができる。

原文:念无量识处。观空处过。念无量识处功德。习念是法。逮得识处。念无所有处。观识处过。念无所有处功德。习念是法。便得无所有处。念非有想非无想处。若一切想。其患甚多。若病若疮若无想。是愚痴处。是故非有想非无想。是第一安隐善处。观无所有处过。念非有想非无想功德。习念是法。便得非有想非无想处。

解釈:さらに無量識処を念じ、空処定の中の過患を観察し、無量識処の种种の功徳を念じる。このような念法を修習すれば、無量識処の禅定を証得できる。さらに無所有処定を念じ、無量識処の禅定の過患を観察し、無所有処定の种种の功徳を念じ、この念法を修習すれば、無所有処定に証入できる。

さらに非想非非想定を念じる。いかなる一種の念想があっても、極めて多くの過患があり、病の想であり瘡の想であり無想であり、いずれも愚痴の処である。それゆえ非想非非想定はすべての禅定の中で最も安穏なる善処であると説く。無所有処定の种种の過患を観察し、非想非非想定の种种の功徳を念じ、この念法を修習すれば、非有想非無想定を証得できる。

原文:或有行者。先从初地。乃至上地。复于上地。习行慈心。先自得乐。破瞋恚毒。次及十方无量众生。是时便得。慈心三昧。悲心怜愍。众生之苦。能破众恼。广及无量众生。是时便得。悲心三昧。能破不悦。令无量众生。皆得喜悦。是时便得。喜心三昧。能破苦乐。直观十方无量众生。是时便得。护心三昧。二禅亦复如是。三禅四禅除喜。

解釈:ある修行者は、最初に第一地の欲界定から始め、さらにもう一地上の初禅地に至り、初禅地の中で慈心三昧 (samādhi) を修習し、自らまず楽しみを得て、瞋恚の毒害を破除する。次に慈心を十方無量の衆生に及ぼすと、このとき慈心三昧を得る。悲心で衆生の苦を憐憫すれば、衆生の瞋惱を破除でき、悲心が広大にして無量の衆生に遍及すると、このとき悲心三昧を証得できる。不悦の心理を破除し、無量の衆生をしてみな喜悦を得させると、このとき喜心三昧を証得する。苦楽の心を破除し、直ちに十方無量の衆生を観察すると、このとき護心三昧を証得する。二禅定地の中でも同様に修習し、三禅と四禅地の中で修習する場合には、喜心三昧はない。

原文:次学五通。身能飞行。变化自在。行者一心欲定。精进定一心定慧定。一心观身。常作轻想。欲成飞行。若大若小(以欲定过为大以欲定减为小)。此二俱患。精进翘勤。常能一心。思惟轻观。如能浮人。心力强故。而不沉没。亦如猿猴。从高上堕。心力强故。身无痛患。此亦如是。欲力精进力。一心力慧力。令其广大。而身更小。便能运身。

解釈:慈悲喜捨の四無量心を修し終えた後、さらに五種の神通を修学すれば、身体は飛行でき、色身を自在に変化できる。行者は一心に禅定を修習し、欲心を起こして禅定と神通で色身を変化させ、自在を得たいと願い、この欲心をもって禅定力を増益し、欲如意足を満足させる。この禅定を精進修習し、速やかに欲望を満足させて神通の道力を現起させ、絶えず禅定力を増長して、精進如意足を満足させる。さらに専注力を修習し、一心に神通自在を得ようと願い、絶えず禅定力を増長して、念如意足を満足させる。行者はさらに慧観を修習し、絶えず禅定力を増強して、観如意足を満足させる。

行者は一心に色身を観行し、常に色身がますます軽くなることを観想し、飛び上がろうとする様子を思う。その禅定力は時に大時に小で、欲如意足の禅定力に依って定まる。欲如意足の定を超えれば力は大であり、欲如意足の定が不足すれば力は小である。大であれ小であれ、この二種の定にはいずれも過患がある。行者はさらに精進修習し、常に専心に色身の軽微を観想し、一心専一に身体の軽挙飛昇を思惟観想する。水に浮かべる人のごとく、心力が強大なるがゆえに、身は水中に沈没しない。また猿猴が高所から地に跳び堕ちても、心力が強いがゆえに、身は傷つかず、傷痛がない。色身を軽微と観想して飛行できるのもまた同様で、欲如意足力、精進如意足力、念如意足力、観如意足力によって心力を広大にし、色身をさらに小さくさせれば、身体を自在に運ぶことができる。

欲如意足は、どの心が持つものか?禅定を修習する時に、飛昇変化したいと願う心は、どれを指すのか?いずれも意根を指す。そこで如来蔵 (tathāgatagarbha) が意根の思心所に配合して、意根の必要と欲望を満足させ、色身を飛行変化させる。欲如意足は主として意根の欲であり、意根の欲を満足させる。意根に力があれば、何らかの目的を達成しようと願い、如来蔵は意根を満足させざるを得ない。意根に力がなければ、如来蔵も配合するすべがない。その中ではやはり意識の観想と牽引に頼って意根に配合し、目的を達成する。このことから、意根は六識と第八識を利用して、自己の一切の心思を実現していることが分かる。意根の力とは禅定力である。欲如意足は主として意根の定であり、意識の修習を通じて、意根に力を持たせて目標を達成させ、意根の欲望を満足させるのである。

原文:复次观身空界。常习此观。欲力精进力。一心力慧力。极为广大。便能举身。如大风力。致重达远。此亦如是。初当自试。离地一尺二尺。渐至一丈。还来本处。如鸟子学飞。小儿学行。思惟自审。知心力大。必能至远。学观四大。除却地大。但观三大。心念不散。便得自在。身无挂碍。如鸟飞行。当复学习。远作近想。是故近灭远出。

解釈:復次、さらに色身の空大を観察し、色身を空しいものとして、常にこのように修習観察すれば、欲力はさらに広大になり、精進力、専注力と観察の慧力は極めて広大となり、このとき身体を高く挙げることができ、身体は次第に座席を離れて虚空に昇る。非常に強大な風力が作用して、非常に重い物体を遠くへ吹き飛ばすがごとく、身体を挙げるのもまた同様である。最初は自分で少しずつ試験すべきで、身体を地面から一尺、二尺離し、次第に一丈まで離し、それから元の場所に戻る。小鳥が飛行を学ぶように、子供が歩行を学ぶように。自分の心力を絶えず思惟し審査し考量し、ある時点で自分の心力がすでに非常に大きくなり、必ず遠くまで飛べると知る。

さらに自身の四大である地水火風を観察修習し、心中の地大を除去し、水火風大のみを観察し、心念を専一不散とさせれば、その後身体は自在を得て、いかなる掛礙もなくなり、鳥が飛行するようになる。このときさらに観察を学ぶべきで、遠くを近くと観想し、空間距離の思いを滅すれば、身体は瞬時に遠くへ到達でき、近くにいるのと同じようになる。

なぜ遠くを近くと観想し、空間距離の思いを滅すれば、身体は瞬時に遠くへ到達でき、近くにいるのと同じようになるのか?このように観想すれば、意根に信じさせることになるからである。意根が本当に信じれば、そのように認め、意根がそのように認めれば、如来蔵は必ず意根に随順してそのような境界を変造する。神通はまさにこのようであり、一切の法もすべてこのようである。意根が何を信じれば何が現れ、意根を変えれば一切を変えることができる。だから真の自信とは意根の信であり、意根が信じさえすれば、成し遂げられないことはなく、成仏もまさにこの原理である。ならば意根が無我を証得し、無我を信じれば、その無我の力はどれほど大きいだろうか?我執と一切の煩悩を断除し、一切の我を滅除し、心を解脱させて、寂静の涅槃に入るのである。

原文:复能变化诸物。如观木地种。除却余种。此木便变为地。所以者何。木有地种分故。水火风空金银宝物。悉皆如是。何以故。木有诸种分故。是初神通根本。

四禅有十四变化心。初禅二果。一者初禅。二者欲界。二禅三果。一者二禅。二者初禅。三者欲界。三禅四果。一者三禅。二者二禅。三者初禅。四者欲界。四禅五果。一者四禅。二者三禅。三者二禅。四者初禅。五者欲界。余通如摩诃衍论中说。

解釈:神足通などの神通を修出した後は、物質の色法を変化させ、物質を変えることができる。例えば一本の木の地大の種性を観察し、水火風の種子を観ずることを除けば、この木は大地に変えることができる。なぜそうなるのか?木には地大の種子があるからである。木の水大、火大、風大、空大の種子をそれぞれ観察して、木を金銀珠玉に変えるのも、すべて同様の原理である。なぜか?木の中にこれらの諸大の種子があるからである。これらの観行 (vipaśyanā-caryā) の方法こそ最初の神通変化の根本である。

四禅には十四種の変化心がある。初禅には二つの果証がある。一つは初禅定果、一つは欲界定果である。二禅には三つの果証がある。一つは二禅定果、二つは初禅定果、三つは欲界定果である。三禅には四つの果証がある。一つは三禅定果証、二つは二禅定果証、三つは初禅定果証、四つは欲界定果証である。四禅には五つの果証がある。一つは四禅定果証、二つは三禅定果証、三つは二禅定果証、四つは初禅定果証、五つは欲界定果証である。その他の神通は摩訶衍論の所説の通りである。

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