座禅三昧経講義
原文:第五法门治等分行。及重罪人求索佛。如是人等。当教一心念佛三昧。念佛三昧有三种人。或初习行。或已习行。或久习行。若初习行人。将至佛像所。或教令自往谛观佛像相好。相相明了。一心取持。还至静处。心眼观佛像。令意不转。系念在像。不令他念。他念摄之。令常在像。
解釈:五番目の煩悩を対治する修行法門であり、また重罪を犯した人が業障を懺悔し、仏の加持を求めて重罪を除こうとするならば、これらの人々に一心に念仏するよう教え、念仏三昧を修成すべきである。念仏三昧の法門の修習は三種の人に分けられ、その用いる方法はそれぞれ異なる。すなわち、初めて念仏法門を修習する人、しばらくの間念仏法門を修習した人、久しく念仏法門を修習した人の三種である。
初めて念仏法門を修習する人に対しては、その人を仏像のある所へ連れて行き、あるいは自ら仏像のある所へ行かせて、仏像の相好荘厳 (lakṣaṇa-vyañjana-sampad) を仔細に観察させ、仏の一つ一つの荘厳な法相を、心の中ではっきりと、くっきりと明らかにしなければならない。その後、心を専一にして仏像を観想し、静寂な所に行って、心眼で再び仏像を観想し、仏像を意念し、心の念念を仏像の上に置かせ、他の所へ行かせず、仏像の上に専一させる。もし意念が移転したら、引き戻して、内心がことごとく仏像であるように保ち、心念はずっと仏像の観想の上に置くのである。
原文:若心不住。师当教言。汝当责心。由汝受罪不可称计。无际生死种种苦恼无不更受。若在地狱。吞饮洋铜食烧铁丸。若在畜生。食粪啖草。若在饿鬼受饥饿苦。若在人中贫穷困厄。若在天上失欲忧恼。
常随汝故令我受此种种身恼心恼无量苦恼。今当制汝。汝当随我。我今系汝一处。我终不复为汝所困更受苦毒也。汝常困我。我今要当以事困汝。如是不已心不散乱。是时便得心眼见佛像相好光明。如眼所见无有异也。如是心住。是名初习行者思惟。
解釈:もしその心が仏像の上に住することができなければ、その師は彼に次のように自らその心を責めさせるべきである。あなた(心)のゆえに、私が受けた罪苦は計り知れず、無辺無際の種々の生死の苦悩で、一つとして経験しなかったものはない。もし地獄にいれば、焼けた銅の汁を飲み、焼け赤い鉄丸を食らい、もし畜生にいれば、糞を食べ草を食らい、もし餓鬼にいれば、飢餓の苦を忍び、もし人の中にいれば、貧窮困苦の生活を送り、もし天上にいれば、貪愛していた境界を失ったことで常に憂悩苦悶するのである。
私が常にあなた(心)に随うゆえに、身体と心の上の無量の苦悩を忍ばせられるのである。私は今あなた(心)を制約しよう、あなたは私に随って行くべきである。私は今あなた(心)を一つの所に繫縛する、私はもう二度とあなた(心)に惑わされ苦しめられることはない。あなたは常に私を困らせる、私は今、念仏の方法であなたを繫縛しよう。このように絶えず自心を牽制すれば、心はもう散乱することがなくなる。このとき心眼は仏像の相好光明を見ることができ、肉眼で見たのと差異がなく、念仏三昧は現前に成就する。このように修習して心を住まわせるのが、初めて念仏法門を修習する者が繫心して思惟すべき方法である。
ここでの「我」とは意識五陰 (pañca-skandha) であり、「你(あなた)」とは意根である。
原文:是时当更念言。是谁像相。则是过去释迦牟尼佛像相。如我今见佛形像。像亦不来我亦不往。如是心想见过去佛。初降神时震动天地。有三十二相大人相:
解釈:このときさらに思惟すべきである。これはどの仏の像の相貌か、もとは釈迦牟尼仏の相好の像である。今私が見ている仏の形像のように、像も来ず、私も行かず、ただこのように意想するだけで、過去の仏を見ることができる。仏が最初に降神して人間の世界に来られたとき、天と地を震動させられた。仏像には三十二の大人相がある。
一つには足下安平に立つ。
(足の裏の脚心は平らで窪みがなく、歩くときはきわめて安定している。)
二つには足下に千輻輪あり。
(足の裏の脚心に千の宝輪の相がある)
三つには指長くして好なり。
(指は細く長く美しい)
四つには足跟広し。
(踵が広い)
五つには手足の指に縵網を合す。
(指の間に縵網があり、足の指の間もまた同様である。)
六つには足趺高く平らかにして好なり。
(足の甲が高く平らかで美しい)
七つには伊尼延の鹿�の如し。
(脛は鹿の腿のようにまっすぐである)
八つには平住して手膝を過ぐ。
(腕を垂直に下ろすと、手が膝を越える。)
九つには陰馬蔵の相。
(男根は良馬のように隠れて現れない。)
十には尼倶盧陀の身。
(身体は威厳があり端正で、縦横が釣り合っている。)
十一には一孔ごとに一毛ずつ生ず。
(一つの孔ごとにそれぞれ一毛が生え、青瑠璃色である)
十二には毛は上に向かって生え右に旋る。
(仏の身体のすべての毛髪は上に向かって右に旋る)
十三には身色は上金に勝る。
(全身が真金色である)
十四には身光の面一丈。
(身光は大千世界を普く照らし、四方それぞれ一丈の光芒がある。)
十五には皮薄くして好なり。
(皮膚は細く薄く潤い、一塵も染まらない。)
十六には七処満なり。
(両手・両足・両肩・頸項の七処が満ちて柔らかい)
十七には両腋下平らかにして好なり。
(両腋の下は骨肉が円満で虚しくない)
十八には上身は師子の如し。
(上半身は獅子王のように広く満ちている)
十九には身大にして好く端直なり。
(仏の身は大きくて端直である)
二十には肩円くして好なり。
(両肩は円満で豊かに荘厳である)
二十一には四十歯。
(仏は四十の歯をもち、斉しく密で白雪のようである)
二十二には歯白く斉しく密にして等しく根深し。
(歯は斉しく密で雪のように白く、歯根が深い)
二十三には四牙白くして大なり。
(上下それぞれ二牙が雪のように白く大きい)
二十四には頬方にして師子の如し。
(面頬は方形円満で獅子のようである)
二十五には味の中に上味を得。
(すべての飲食の味の中で上味を得る)
二十六には舌大にして広長にして薄し。
(舌は広大で長く薄く柔らかい)
二十七には梵音深遠。
(声は梵天の音楽のように清浄 (viśuddha/pariśuddha) である)
二十八には迦蘭頻伽の声。
(声はまた迦陵頻伽鳥の声のように美しい)
二十九には眼紺青色。
(仏の眼は紺青色で青蓮華のようである)
三十には眼睫牛王の如し。
(まつげは整って乱れがなく、牛王のまつげのようである)
三十一には頂髪肉骨成る。
(仏の頂に肉髻の相がある)
三十二には眉間の白毛長くして好く右に旋る。
(眉間の白毛は広く長く右に旋る)
次に八十種の小相:
一つには無見頂。二つには鼻まっすぐで高く好く、孔現れず。三つには眉は初生の月のようで紺瑠璃色。四つには耳好し。五つには身は那羅延の如し。六つには骨際は鉤鎖の如し。七つには身一時に回ること象王の如し。八つには行くとき足地を去ること四寸にして印文現る。九つには爪は赤銅色の如く薄くして潤沢。十には膝円くして好し。十一には身清潔。十二には身柔軟。十三には身曲がらず。十四には指長く円くして繊。十五には指紋は画の如く雑色に荘厳す。十六には脈深くして現れず。十七には踝深くして現れず。十八には身潤い光沢あり。十九には身自ら持し委陀せず。二十には身満足(三月に受胎し二月に生まる)。
二十一には容儀備わり足る。二十二には住処安し(牛王の立って動かざるが如し)。二十三には威一切を振るう。二十四には一切楽しく観る。二十五には面長からず。二十六には容貌正しく色撓まず。二十七には唇は頻婆果の色の如し。二十八には面円満。二十九には響声深し。三十には臍円く深く出ず。三十一には毛処々に右に旋る。三十二には手足満つ。三十三には手足如意(旧に内外握と言うのはこれである)。三十四には手足の紋明らかに直し。三十五には手紋長し。三十六には手紋断絶せず。三十七には一切の悪心の衆生、見る者は皆和悦の色を得。三十八には面広くして姝し。三十九には面月の如し。四十には衆生見る者怖れず懼れず。
四十一には毛孔香風を出す。四十二には口より香気を出し、衆生遇う者は七日法を楽しむ。四十三には儀容師子の如し。四十四には進止象王の如し。四十五には行法は鵞王の如し。四十六には頭は磨陀羅果の如し(この果は円からず長からず)。四十七には声分満足(声に六十種の分あり、仏は皆具足す)。四十八には牙利なり。四十九(漢名無きゆえに出すことを得ず)。五十には舌大にして赤し。五十一には舌薄し。五十二には毛純紅色にして色清潔。五十三には広長の眼。五十四には孔門満つ(九孔門の相具足して満つ)。五十五には手足赤白にして蓮華色の如し。五十六には腹見えず出ず。五十七には腹凸れず。五十八には身動かず。五十九には身重し。六十には大身。
六十一には身長し。六十二には手足満ちて浄し。六十三には四辺に大光遍く、光明自ら照らして行く。六十四には衆生を等しく視る。六十五には教化に著せず、弟子を貪らず。六十六には衆声に随いて満足し、減じず過ぎず。六十七には衆の音声に随いて法を説く。六十八には言語に碍り無し。六十九には次第に相続して法を説く。七十には一切の衆生、目をもって諦視し相を知り尽くすこと能わず。七十一には視て厭足するなし。七十二には髪長くして好し。七十三には髪好し。七十四には髪乱れず。七十五には髪破れず。七十六には髪柔軟。七十七には髪は青毗瑠璃色。七十八には髪絞りて上る。七十九には髪稀ならず。八十には胸に"卍"字あり、手足に"吉"字あり。
原文:光明彻照无量世界。初生行七步。发口演要言。出家勤苦行。菩提树下降伏魔军。后夜初明成等正觉。光相分明。远照十方。靡不周遍。诸天空中弦歌供养。散华雨香。一切众生咸敬无量。独步三界。还顾转身。如象王回。观视道树。初转法轮。天人得悟。以道自证。得至涅槃。佛身如是。感发无量。
解釈:仏の身の光明は無量の世界を徹照し、仏が生まれたばかりのとき七歩行き、口を開いて法要を演説された。天上天下唯我独尊!成長してから出家して勤苦に道を修め、菩提樹の下で魔軍を降伏させ、後半夜天がほのぼのと明るくなるとき、仏道を成就し、等正覚を成った。仏の身の光明は遠く十方世界を照らし、周遍して覆い、空しく過ごすことはなかった。各層の天の空中に鼓楽歌弦が鳴り、花を散らし香を雨と降らせて仏を供養した。一切の衆生は仏に対して無量の敬仰と尊敬を生じた。世尊は三界の中を独歩し、さらに振り返り身を転じて顧視するのは、象王が身を転じ振り返って顧盼するように、自ら道を成ったときの菩提樹を観て、初めて初転法輪を始められた。人天の大衆のうち得道した者は数知れず、自ら作証して心は解脱を得、慧は解脱を得、終に涅槃に至った。仏の身はこのようであり、無量の衆生を感化して菩提道心を発起させることができる。
原文:专心念佛。不令外念。外念诸缘。摄之令还。如是不乱。是时便得见一佛二佛。乃至十方无量世界。诸佛色身。以心想故。皆得见之。既得见佛。又闻说法言。或自请问。佛为说法。解诸疑网。既得佛念。当复念佛。功德法身。无量大慧。无崖底智。不可计德。
解釈:このように専心に念仏して、心に他縁を念じ外に散らせない。もし心が外法に縁ずれば、心を収摂して戻す。このようにすれば心は散乱せず、念仏の上に定まり、三昧 (samādhi) 現前して、一仏・二仏乃至十方無量世界の諸仏の色身を見ることができる。これは心の中に見るものであるからこそ、すべてを見ることができるのである。仏を見た後、仏の説かれる法の声を聞くことができ、あるいは自ら仏法を請問すれば、仏がために解説して疑網を破除する。このような念仏三昧を修出した後は、心中はことごとく仏念であり、さらに仏の功徳法身、無量の大智慧、涯り無き底の智慧、称計しがたい功徳を念ずべきである。
多陀阿伽度(多陀は秦言に「如」、阿伽度は「解」と言い、また「実語」とも言い、また諸余の聖人が安隠の道より来たるに、仏はかくの如く来たる。復次、更に後有の中に来たることなし)阿犁(魯迷反)呵(阿犁は秦言に「賊」、呵は「殺」と言う。仏は忍辱を鎧と為し、精進を堅牢と為し、禅定を弓と為し、智慧を箭と為して、憍慢等の賊を殺すがゆえに、殺賊と名づく)三藐(無灼反)三佛陀(三藐は秦言に「真実」、三佛陀は「一切覚」と言う。苦因の習を覚り、涅槃因の道を正解し、四実は転ずべからず、了尽して無余なるがゆえに、真実に一切を覚ると言う)鞞伽(除夜反)遮羅那(鞞伽は秦言に「明」、遮羅那は「善行」と言う。明は三明なり。行は清浄の行なり。これをもって独り成って無師の大覚となるがゆえに、明・善行と言う)三般那(秦言に「満成」)宿伽陀(秦言に「善解」と言い、また「善自得」と名づけ、また「善説無患」とも言う)路伽憊(皮拝反。路伽は秦言に「智」、智者は世の因を知り、尽きし道を知るがゆえに世智と名づく。世智は世を知るなり)阿耨多羅(秦言に「無上」と言う。善法聖智は一切を示導し、大徳無量にして梵魔衆聖の及ぶ者はなく、まして過ぐることを得べしや。仏の尊徳大なるがゆえに無上と言う)富楼沙曇藐(富楼沙は秦言に「大丈夫」、曇藐は「可言可化丈夫調御師」と言う。仏は大慈大悲大智のゆえに、時に軟美の語あり、時に苦切の語あり、あるいは親教をもって、これによりて調御し道を失わしめざるがゆえに、仏を可化丈夫調御師法と名づく)舎(賒音)多(都餓反)提婆魔㝹舎喃(奴甘反。秦言に「天人師」と言う。尽く能く一切人の煩悩を解脱せしめ、常住不退の上法なり)仏婆伽婆(過去未来現在、行く行かずを知り、行の尽くると尽くれざるとを知り、一切諸法を菩提樹の下で一切了了に知るがゆえに仏と名づく。婆伽婆は大名声ありと言う。復次、婆は女根を名とし、婆は吐くを名とし、永く女根を棄つるゆえに、女根を吐くなり)。
原文:尔时复念二佛神德。三四五佛乃至无量尽虚空界。皆悉如是。复还见一佛。能见一佛作十方佛。能见十方佛作一佛。能令一色作金银水精毗琉璃色。随人意乐。悉令见之。尔时惟观二事。虚空佛身及佛功德。更无异念。心得自在。意不驰散。是时得成念佛三昧。
解釈:一仏の功徳を念じ終わったら、さらに第二の仏の功徳を念じ、第三・第四・第五の仏の功徳、乃至無量無辺尽虚空際の諸仏の功徳も、同様に念ずる。それから再び一尊の仏を見て、一尊の仏が十方諸仏に化作するのを見ることができ、十方諸仏が一仏に化作するのを見ることができ、一色を金・銀・水晶・毗瑠璃色に化作せしめることができ、念仏する人の意願に随って、すべて見ることができる。このとき観行すべきはただ二事のみで、第一は虚空のような仏身を観行すること、第二は仏の功徳を観行することであり、その他の念頭を再び起こさなければ、心は大自在を得、心念は他縁に馳散せず、念仏三昧が成就するのである。
原文:若心驰散。念在五尘。若在六觉者。当自勖勉。克励其心。强制伏之。如是思惟。人身难得。佛法难遇。故曰众明日为最。诸智佛为最。所以者何。佛兴大悲。常为一切故。头目髓脑救济众生。何可放心不专念佛。而孤负重恩。若佛不出世。则无人道天道。涅槃之道。
若人香华供养。以骨肉血髓。起塔供养。未若行人。以法供养。得至涅槃。虽然犹负佛恩。设当念佛。空无所获。犹应勤心。专念不忘。以报佛恩。何况念佛。得诸三昧。智慧成佛。而不专念。是故行者。常当专心。令意不散。既得见佛。请质所疑。是名念佛三昧。除灭等分。及余重罪。
解釈:もし心が馳散して五塵の境界の法を念じていれば、もし心が六塵の境界に対して覚受があれば、自ら自心を呵責し、自心を勉励し、強いて制圧降伏させるのである。心の中では人身の得がたきこと、仏法の遇いがたきことを思惟すべきである。それゆえに、一切の光明の中で太陽の光が最も明るく、一切の智慧の中で仏の智慧が最も広大であると言う。なぜそうなのか。仏は大慈悲心を興こして、常に一切の衆生の利益のために、頭・目・髄・脳をもって衆生を救済される。それなのに、どうして私はまだ心を放下して専心に念仏せず、仏恩を辜負するのか。もし仏が出世されなければ、人道・天道と涅槃道の法を修学する機会はないのである。
もし人が香華をもって仏を供養し、骨肉・血液・髄脳をもって塔を起て諸仏を供養しても、修行人が修学仏法の方法をもって仏を供養し、終に涅槃を得るには及ばない。このようであっても、なお仏恩を辜負しており、もし念仏を修習してもなお空しく何も得なければ、なお精勤して専心に念仏し、これをもって仏恩に報いるべきである。まして念仏によって種々の念仏三昧の智慧を証得して成仏するのは、なおさら仏恩に報いる心行であり、どうしてなお専心に念仏しないのか。それゆえ修行人は、常に専心に念仏し、意念を散らさないべきである。仏を見た後、仏に法を請い、心中の疑いを請教する。このような念仏三昧は貪瞋痴の煩悩とその他の重罪を除滅することができる。