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座禅三昧経講義

作者: 更新時間:2025-07-13 15:27:58

第十二章 四諦三十七品十二因縁

原文:問うていわく。もし吾我無く主無く作無しとせば、いかにして去来言説し、死にて此れに生じ彼れに生ずるや。答えていわく。吾我無しといえども、六情(六根)が因と作り、六塵(六境)が縁と作る。中に六識を生じ、三事(根・境・識)和合するがゆえに、触法生じ、念知して諸業をなす。これによりて去来言説し、ここより生死あり。譬えば日愛珠のごとし。日と乾いた牛屎と和合するを因とし、方便のゆえに火が出る。五蘊もまたしかり。この五蘊によりて生じ、後世の五蘊が出る。この五蘊が後世に至るにあらず。またこの五蘊を離れて後世の五蘊を得るにもあらず。

釈:問うていう。もし我がなく、主がなく、造作者がなければ、どうして色身の行き来や言葉があり、ここで死んであちらに生まれるのか。答えていう。我はないけれども、六根が因となり、六境が縁となり、その間に六識が生じる。この三つが和合して触法(触れて対象を認識すること)が生じ、六識は法を念じ知る。それによって五蘊身の行き来や言葉、すべての業行がここから生じ、生死もまた生じるのだ。譬えば日愛珠という火起こし器のように、太陽の光と乾いた牛糞が和合するという方便の法によって火が生じる。五蘊身もまた同じで、この世の五蘊によって生じるので、後世の五蘊が生じるのである。この世の五蘊が後世に行くのではないが、この世の五蘊身を離れて後世の五蘊身があるわけでもない。

原文:五蘊はただ因縁より出づ。譬えば穀物の種子より芽が出るがごとし。この種子は芽にあらず。また他の芽の辺りより生ずるにもあらず。異ならず一ならず。後世の身を得ることもまたしかり。譬えば樹木に茎節枝葉華実が未だ無きに、時節因縁を得て華葉具足するがごとし。善悪の行いの報いもまたかくのごとし。種子壊るるがゆえに常ならず一ならず。芽茎葉等生ずるがゆえに、断絶せず異ならず。死生相続するもまたかくのごとし。

釈:五蘊身はただ因縁から生じるのである。譬えば穀物の種子から芽が生じるように、種子そのものは芽ではないが、芽もまた他の物から生じるのではない。種子と芽は一でもなく異でもなく、関連はあるが同一体ではない。後世の五蘊身を得ることもまた同じで、今世の五蘊身と一でもなく異でもない。譬えば樹木にまだ茎や節、枝や葉、花や実が生じていない時、時節の因縁が具われば生長するように、善悪の業報もまたそうである。種子が壊れることで後の枝葉花果が生じるので、種子は常に存続するものではなく恒一不変ではない。続いて生じる芽や茎や葉などは種子から生じるので、種子は断絶せず、芽や茎や葉などと異なるものでもない。五蘊身の死と生の相続もまた同じである。

原文:行者は法を謂う。無常・苦・空・無我。自ら生じ自ら滅す。愛等を因として有ることを知り、因の滅するがこれ尽きることを知り、尽きることが道であることを知る。四種の智をもって、十二分(十二因縁)が正見の道であることを知る。衆生は縛着に誑かされ所詮される。人が無価の宝珠を持ちながらその真偽を識別せず、他人に欺かれるがごとし。この時、菩薩は大悲心を発し、我まさに仏とならん、正真の法をもって彼の衆生を化導し、正道を見させんと。

釈:修行者は五蘊世間の一切法はすべて無常・苦・空・無我であり、自生自滅するものと見る。五蘊身は貪愛などの因によってあることを了知し、五蘊身を生じる因を滅すれば五蘊身は滅尽することを了知し、五蘊身を滅尽することが道であることを了知する。この苦・集・滅・道の四つの智慧によって、十二因縁の各々の支分が修行の正しい知見の道であることを了知する。衆生は煩悩の結び縛りに誑惑され欺かれている。人が無価の宝珠を持ちながら、それを真の宝と識別できず、人に欺かれるようなものである。この時、菩薩は大悲心を発して言う。私は仏となって、正真の法によってこれらの衆生を化導し、彼らに正道を見させよう、と。

原文:問うていわく。摩訶衍(大乗)の般若波羅蜜の中に言う。諸法は生ぜず滅せず、空にして所有無く、一相にして無相、これを正見と名づく。いかにして無常等の観察を正見と言うや。答えていわく。もし摩訶衍の中に説く、諸法は空にして無相と。いかにして無常・苦・空等が不実であると言うや。もし生ぜず滅せず空なるが実相であると言うならば、無相と言うべきにあらず。汝の言うことは前後相応せず。

釈:問うていう。大乗般若波羅蜜経の中に、諸法は生ぜず滅せず、空無所有であり、すべて相のない一相(如来蔵の相、自性清浄相)である、これが正知見であると説かれている。どうして諸法は無常・苦・空・無我などの観念を正見と言うのか? 答えていう。もし大乗法の中で諸法は空で無相であると言うなら、どうして諸法の無常・苦・空などが真実の法ではないと言うのか? もし不生不滅・空が実相であると言うなら、無相と言うべきではない。汝の言葉は前後矛盾している。

原文:復次に仏は四顛倒を説く。無常の中に常の顛倒。また道理あり。一切有為は無常なり。何がゆえに。因縁生ずるがゆえに。無常の因、無常の縁、生ずる所の果いかにして常ならんや。先には無くして今有り、すでに有りて便ち無し。一切衆生皆無常を見る。内には老病死あり、外には万物の凋落を見る。いかにして無常は不実であると言うや。

釈:さらに、仏は四顛倒の中で、衆生が無常の法を常と見なすことを一つの顛倒として説く。これにも道理がある。一切の有為法は無常である。なぜか? すべて因縁によって生じるからである。無常の因に、無常の縁が加わって、生じる果がどうして常であろうか? 先には無くて今あり、有ったものはやがて無くなる、これが無常である。一切の衆生は皆無常法を見ている。内には五蘊身の老病死があり、外には万物の凋零落謝がある。どうして諸法の無常は真実の法理ではないと言うのか?(道理は真実ではあるが、大乗の実相の「実」ではない。この真実はあの真実〔大乗の実相〕ではない。)

原文:問うていわく。我は常なるが実であるとは言わず。無常が不実であるとも言わず。我は有常・無常ともに不実であると言う。何がゆえに。仏は言う。空(空性の心)の中には常・無常の二事は得られず。もしこの二事に執着すれば、これらはともに顛倒であると。答えていわく。汝の言うことは法に相応せず。何がゆえに。法無しと言いながら、いかにしてまた二つともに顛倒であると言うや。一切は空にして所有無し、これが実にして顛倒ならざる法である。

釈:問うていう。私は常なる法が真実だとは言わないし、無常法が不真実だとも言わない。私は有常も無常もともに不真実だと言うのだ。なぜか? 仏は空(空性心の中には一法もなく、ましてや常と無常は存在しない。)の中には常・無常の二事は得られないと言われ、もし二事に執着すれば皆顛倒であると言われた(空とは実相空性心を指し、それは非常非無常、常でもあり無常でもある。心体は本来自体が空であり、常と無常の二法を含まない。)答えていう。あなたの言うことは法に相応しない。なぜか? 一切法は無いと言いながら、どうしてまた有常・無常の二者がともに顛倒だと言うのか? 一切法が空無所有であることこそが、真実で顛倒ではない法である。(これはまだ小乗の空の真理であって、大乗の究竟空の理ではない。)

原文:もし我が有常に執着することを破りて無常に執着するならば、我が法(一切法空・無所有の法)は破られるべきである。しかして実なる我は無し。有常の顛倒破るがゆえに無常を観察する。何がゆえに。無常の力は有常を破る能あり。毒が余毒を破るがごとし。薬が病を除くがごとし。薬もまたともに去る。まさに知るべし、薬は妙にして能く病を除くがゆえに。もし薬去らずんば、後の薬は病となる。これもまたかくのごとし。もし無常法に執着すれば、まさに破るべきである。不実なるがゆえに。我は無常法を受けず、いかにして(我の心の中の無常法を)破るや。

釈:もし私が有常を破って無常に執着するならば、私の一切法空・無所有という法は破られるべきであり、真実の我法はない。有常法の顛倒を破ったなら、無常法を観察すべきである。なぜか? 無常法は大きな力があって有常を破ることができる。一種の毒薬が他の毒薬を破るようなものである。薬が病気を取り除くが、最後には薬もまた一緒に取り除かれるべきである。薬の性質はよく諸病を除くが、もし薬が取り除かれなければ、薬もまた病の因となる。この常・無常の法もまた同じで、もし無常法に執着するならば、破るべきである。無常法は不実だからである。私は無常法を受け入れない、どうして私の心の中の無常法を破るのか?

原文:仏は言う。苦は四真諦の中に言う実の苦なり。誰か能くして楽たらしめんや。苦因は実の因なり。誰か能くして非因たらしめんや。苦尽(苦の滅)は実の尽きなり。誰か能くして尽きざらしめんや。尽道(苦を滅する道)は実の道なり。誰か能くして非道たらしめんや。日はあるいは冷たからしむべく、月はあるいは熱からしむべく、風は動かざらしむべしとも。この四真諦は終に動転すべからず。汝は摩訶衍の中に了することができず。ただ言声に着するのみ。摩訶衍の中の諸法実相、実相は破るべからず。作者無し。もし破るべく作るべくば、これは摩訶衍にあらず。

釈:仏は言う。苦は四聖諦の中で説かれる真実に存在する苦である。誰が苦を楽に変えることができるか? 苦因は真実に存在する因である。誰が真実に存在する因を非因に変えることができるか? 苦を滅尽する修行方法は真実の方法である。誰が苦を滅尽させないようにできるか? 苦を滅尽する修行方法は真実の道である。誰がそれを非道にすることができるか? 太陽を冷たくすることはできるかもしれないし、月を熱くすることはできるかもしれないし、風を動かないようにすることはできるかもしれないが、この四聖諦は決して動かすことができない。あなたは大乗の教えを理解できず、ただ言葉や音声に執着しているだけである。大乗の教えの中の諸法実相、この実相は破ることができず、これを破る造作者もいない。もし実相が破ることができ、作り変えることができるなら、これは大乗摩訶(偉大なる乗り物)ではない。

原文:月の初めの生ずること一日二日のごとし。その生ずる時は甚だ微細なり。明眼の人能く見て見えざる者に指示す。この見えざる人はただその指を見て月に迷う。明者は言う。痴人、いかでただ我が指を見るや。指は月の縁(たより)にして指は彼の月にあらず。汝もまたかくのごとし。言音は実相にあらず。ただ仮の言をもって実理を表す。汝はさらに言声に着して、実相の行いに暗し。もしこのような正知見を得ば、十二分の和合を観察して、因果の二分と為す。果の時の十二分は苦諦と為し、因の時の十二分は習諦(集諦)と為す。因の滅するは尽諦(滅諦)なり。因果の尽きるを見るは道諦なり。四種をもって果(苦諦)を観て無常・苦・空・無我とし、四種をもって因(集諦)を観て集・因・縁・生とす。

釈:ちょうど月が生まれて一日二日、つまり毎月の一日二日(朔・朏)の頃、その月の生じた相は非常に微細で見にくい。明眼の人だけが見ることができ、見えない人に指し示す。この月を見えない人は、ただ彼の指先だけを見て、月を見失う。明眼の人は言う。愚かな人よ、なぜ私の指だけを見るのか? 指は月を見るための縁であって、指そのものが月ではない。あなたもまた同じである。言葉や音声は実相ではない。ただ言葉や音声を借りて実相の理を表しているのに、あなたは言葉や音声に執着して、実相の行いに暗い。もしこのような正しい知見を得ることができれば、十二因縁の和合相を因と果の二つの部分として観察する。結果として現れる時の十二因縁はすべて苦諦であり、因の位にある時の十二因縁はすべて集諦である。因が滅するのが滅諦であり、因果が滅尽するのを見ることが道諦である。これは四種の観行(苦・集・滅・道)であり、集諦を因として因縁がこれによって生じる。

原文:問うていわく。果には四種(苦・無常・空・無我)あるも、ただ苦諦と名づく。余りには諦の名無し。答えていわく。もし無常諦と言えばまた疑わしく、苦諦もまた疑わしく、無我諦もまた疑わしい。一種の難き処に堕つ。復次に、もし無常諦と言えば咎無く、空諦・非我諦もまた咎無し。もし無常・苦・空・無我諦とすれば、説くに重なるがゆえに。ここをもって四つの中に一を説く。

釈:問うていう。果には苦・空・無常・無我の四種があるが、ただ苦だけが苦諦、つまり苦の真理と呼ばれ、他の三つは真諦真理とは呼ばれない。答えていう。もし無常が真諦真理であることを疑い、苦が真諦真理であることを疑い、無我が真諦真理であることを疑うなら、一種の難所(真理がないという誤った見解)に堕ちてしまい、世の中に真実の理はなく、真諦はないことになる。さらに、もし無常諦と言っても過ちがなく、空諦や非我諦(無我諦)にも過ちがないならば、無常・苦・空・無我諦とするのは、言葉の上で重複性があるため、四諦の中では一つの苦諦だけを説くのである。

原文:問うていわく。苦には何の異なる相ありて、三つ(無常・空・無我)の中に独り名を得るや。答えていわく。苦は一切衆生の厭患する所なり。衆生の怖畏する所なり。無常はしからず。あるいは人ありて苦に逼められ、無常を得んと思考す。苦を得んと欲する者無し。問うていわく。人ありて刀を捉えて自殺せんと欲し、針灸苦薬を用い、賊に入らんと欲する。かくのごとき種々は苦を求むるにあらず。答えていわく。苦を得んと欲するにあらず。大楽を存せんと欲するなり。苦を畏るるがゆえに死を取るなり。苦は第一の患い、楽は第一の利なり。ここをもって実の苦を離れて快樂を得る。ここをもって仏は果の分(部分)を以て独り苦諦と名づく。無常・空・無我諦とはせず。

釈:問うていう。苦にはどんな特別な相貌があって、無常・空・無我の中でただ苦だけが苦諦と呼ばれるのか? 答えていう。苦は一切の衆生が厭い嫌うものであり、すべての衆生が怖れ畏れるものである。無常はそうではない。ある人は苦に逼迫されて、無常法を得ようと考えるが、実際に苦を得ようとする人はいない。問うていう。人によっては刀を取って自殺しようとしたり、針で痛みを与えたり、苦い薬を飲んだり、賊の中に入ったりする。こうした様々な行為は苦を求めるものではない。

答えていう。これらの行為は苦を得ようとするものではなく、大いなる楽を求めようとするのである。苦を恐れるがゆえに死を求めるのだ。苦は衆生が第一に恐れる苦患であり、楽は衆生が第一に求める利益である。それゆえ真実の苦を離れてこそ快樂を得るのである。それゆえ仏は果の支分として、ただ苦を苦諦と呼び、無常・空・無我を諦とは言わない。

原文:この四諦の中に了々たる実の智慧あり。疑わず悔いず。これを正見と名づく。この事を思惟して種々増益するがゆえに。これを正覚(正思惟)と名づく。邪命(正しからぬ生活)を除き四種の邪語を摂め、余りの四種の邪語を離れて四種の正語を摂む。邪命が摂める身の三業を除き、余りの三種の邪業を除いて正業と名づく。余りの種々の邪命を離れて正命と名づく。かくのごとく観る時に精進するは正方便なり。この事を念じて散ぜざるは正念と名づく。この事を思惟して動かざるは正定と名づく。正覚(正思惟)は王のごとく、七事(正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定の八正道の内、正思惟を除く七つ)は随従す。これを道諦と名づく。この事に一心に実信して動かざるは信根と名づく。一心に精勤して道を求むるは精進根と名づく。一心に念じて忘失せざるは念根と名づく。心一処に住してまた馳散せざるは定根と名づく。思惟分別して無常等を覚るは慧根と名づく。これを増長して力を得るは五力と名づく。

釈:このように四聖諦の中で明らかな真実の智慧を得て、疑わず悔いず、これを正見という。これらの事理を思惟して自心に様々な増上の益があるので、正覚(正思惟)という。邪命(正しからぬ生活)が摂持する四種の邪語(妄語・綺語・悪口・両舌)を除き、この四種の邪語を離れて四種の正語を摂持する。邪命が摂持する身体の三業(殺生・偸盗・邪淫)を除き、殺生・偸盗・邪淫の三種の邪業を除いて正業という。他の様々な邪命による生活を離れて正命という。このように精進して観行するのが正方便(正精進)である。この事理を常に念じて散乱しないのを正念という。この事理をこのように思惟して心が動転しないのを正定という。

正しい覚り(正思惟)は転輪聖王のようであり、それに必ず七宝(八正道の内、正思惟を除く七つ)が随従するのを修道諦という。この理を一心に真実と信じて動転しないのを信根という。一心に精進勤めて道を証得しようとするのを精進根という。一心に法を念じて忘失しないのを念根という。心が一つの所に安住して散らないのを定根という。思惟観行して無常などの観念を覚るのを慧根という。五根が増長して勢力が強くなるのを五力という。

原文:問うていわく。八正道の中に皆、慧・念・定等を説く。根・力の中にいかにして重ねて説くや。答えていわく。行に入るに随い、初めに小利を得る。この時は根と名づく。この五事(五根)が増長して力を得る。この時に得て力と名づく。初めに無漏の見諦道に入る。この功徳を八正道と名づく。

思惟道に入る時に七覚意(七覚支)と名づく。初めに道に入り身・痛(受)・心・法を観念し、常に一心に念ず。これを四念止(四念処)と名づく。かくのごとく善法の味を得て四種の精勤あり。これを四正勤と名づく。かくのごとく欲・精進・定・慧の初門、勤めて精進して如意自在を求む。これを四神足と名づく。

釈:問うていう。八正道の中に正慧・正念・正定などが説かれているのに、五根五力の中でなぜ重ねて説くのか? 答えていう。四聖諦の理に入って修行するとき、最初に少しの功徳利益を得る、この時は根という。五根の勢力が増長してより大きな利益を得る、この時は五力という。最初に無漏の四聖諦見諦道に入る時、その見諦の功徳を八正道という。

見諦道から思惟道に入る時、七覚支といい、初めて七覚支の念覚支に入り、身・受・心・法を観行し、常に一心に観行し、心で四つの法を念ずるのを四念処観という。このように修行して善法味を得て、四種の精勤を起こすのを四正勤という。このように定慧の初歩を精進修習しようと欲し、勤苦精進して様々な如意自在を得ようとするのを四神足という。

原文:四念止・四正勤・四神足・五根等と名づくといえども、皆、随行する時の初めと後、少と多、行く地と縁によって各々名を得る。譬えば四大は各々四大を有すといえども、ただ多きを得て名づく。もし地種多く水火風少なき処は地大と名づく。水火風もまたかくのごとし。かくのごとく三十七品の中に各々諸品を有す。

四念止の中に四正勤・四神足・五根・五力・七覚・八道等あり。かくのごとく十二分・四諦を観じ、四念止・四正勤・四神足・五根・五力・七覚意・八正道を行ず。その心安楽なり。またこの法をもって衆生を度脱し、一心に誓願して精進して仏を求む。

釈:以上は四念処・四正勤・四神足・五根・五力などと呼ばれるが、すべて修行の時間の前後、必要とする修行の量の多少、修行の段階および具わる縁によってそれぞれこれらの名前が付けられる。譬えば地水火風はそれぞれ四大を有するが、四大の構成成分によって、多いものによって命名される。もし地大の種子成分が多く、水火風大の種子が少なければ地という。水火風もまた同じで、それぞれの種子成分が多く他の大種が少ない。

このように、三十七道品の中にはそれぞれ他の道品が含まれている。例えば四念処の中に四正勤・四神足・五根・五力・七覚支・八正道などが含まれる。このように十二因縁・四聖諦・四念処・四正勤・四神足・五根・五力・七覚分・八正道を観行すれば、心は安楽を得る。さらにこれらの法をもって他の衆生を度脱し、一心に誓願を立てて精進修行し、仏道を求める。

要するに、三十七道品の修行次第はおおむね次の通りである。最初の五根の修習から始まり、五力を増長し、その後八正道に入って思惟修(観察思惟による修行)を起こし、七覚支を修習する。念覚支の中で四念処観を修習し、善法味を得て四正勤を起こし、最後に勤苦修行して四神足の果楽を得て、心は自在解脱を得る。三十七道品のそれぞれは、意識が修習し獲得するだけでなく、同時に意根をも熏習し、意根にも三十七道品を修習させ、完満具足させ、それぞれの道品を成就し、四神足を得させるのである。

原文:この時、心中に思惟観念す。我は了々と観知す。この道は応に取証すべからず。二つの事の力あるがゆえに未だ涅槃に入らず。一には大悲、衆生を捨てず。二には諸法実相を深く知る。諸々の心・心数法は因縁より生ず。我はいまいかにしてこの不実に随わんや。まさに自ら思惟して深く十二因縁を観ずることを欲す。因縁は何の法なるかを知らんと。

釈:この時、心中で思惟観察する。私は今、心中でとてもはっきりと観察できる。四聖諦の法を修行しても四果や涅槃を証取すべきではない。二つの事の力によって、私は涅槃に入ることができない。一つは大悲心で衆生を憐れみ、私は衆生を見捨てて顧みることができないからである。二つは私は諸法実相を深く知っているからである。一切の心法、識心の心数法はすべて因縁から生じる。私は今、どうしてこれらの不実の法に随順できようか? 私は仔細に思惟し、深い禅定に入って十二因縁法を観察し、十二因縁が何たる法かを究竟に了知しよう。

原文:また更に思惟す。この四種の縁。因縁・次第縁(等無間縁)・縁縁(所縁縁)・増上縁。五因(俱有因・同類因・相応因・遍行因・異熟因)は因縁と為す。過去・現在の阿羅漢の最後心を除く。余りの過去・現在の心・心数法は次第縁なり。縁縁・増上縁は一切法を縁ず。

また自ら思惟していわく。もし法、先に因縁の中に有らば、すなわちこの法は因縁より生ずと言うべからず。若し無くんば、また因縁の中より生ずと言うべからず。生ずるに半ば有り半ば無くんば、また因縁より生ずと言うべからず。いかにして因縁有らんや。もし法未だ生ぜず、もし過去の心・心数法失せば、いかにして能く次第縁を作さんや。もし仏法中、妙法は無縁なりとせば、涅槃いかにして縁縁と為さんや。

釈:また思惟する。四種の縁がある。因縁・次第縁(等無間縁)・縁縁(所縁縁)・増上縁。五因(俱有因・同類因・相応因・遍行因・異熟因)は因縁と言える。過去・現在の阿羅漢の最後心(意根が我執を断ち、三界法を貪愛しなくなれば、もはや後有を引生せず、次第縁とならない)を除き、その他の衆生の過去・現在の心法と心数法は次第縁となり、未来世の五蘊身を引生する。縁縁と増上縁は、識心が一切法を縁じ、一切法を増長し一切法を顕現させるのを助ける。

また思惟していう。もし法が元々因縁の中に存在しているなら、その法は因縁から生じたと言うべきではない。もし法が因縁の中に元々存在していないなら、法が因縁から生じたとも言うべきではない。もし生じた法が因と縁のどちらか一方に存在するなら、やはり法が因縁から生じたと言うべきではない。どうして因縁があると言えるのか? もし法がまだ生じていないなら、もし過去の心と心数法がすべて滅去しているなら、これらの識心や心所法はどうして次の識心の次第縁(等無間縁)となり得るのか? もし仏法の中の妙法が縁なしで生じるなら、涅槃はなぜ所縁縁となるのか?

因縁:因は他の法を生じさせる法、縁は因が他の法を生じさせるのを助ける法。例えば甲が乙を殴るのが因、二人が再び出会うのが縁、その時乙が甲への復讐として甲を殴る行為が生じる。乙が甲を殴る行為が因縁所生法である。因と縁はどちらも他法を生じさせる方便因であり、導火線のようなものである。一切法の根本の因は万法が生じる源である如来蔵であり、因と縁という二つの法もまた根本因である如来蔵から生じる。

次第縁:等無間縁ともいう。同等同じ法相が等しく間断なく次々と生じ滅して、次の同じ法を生じさせる。例えば識の種子、前の識の種子(例えば意識の種子)が某処某塵に生じ、次に滅去し、次の同じ識の種子(意識)が同じ処に生じ、再び滅去し、また次の識の種子が同じ処所の塵に生じ、再び滅去する。このように同等同じ識の種子が連続して同じ処所に生滅することで、連続した識心の活動が形成される。心所法もまた同じである。

所縁縁:所は能に対応する。能は主観的能動性を持つ七識心(眼・耳・鼻・舌・身・意・末那)であり、七識心は一切法、特に六塵境界を縁じることができる(能縁の心)。所縁は一切法あるいは六塵境界である。所縁縁は一切法が生じる縁、六塵境界が生じる縁である。

増上縁:ある法が生じるのを助ける他の一切の助縁で、その法自身以外のもの。

原文:もし諸法実に性無くんば、有法は得べからず。もし因縁果生ずれば、これによりて彼れ有り。この説くはすなわち然らず。もし因縁の中に各々別別ならば、もし和合して一処ならば、この果は得べからず。いかにして因縁の辺より果が出んや。因縁の中に果無きがゆえに。

もし因縁の中に先に果無くして出づるならば、何を以て非因非縁の辺より果が出ずとせんや。二つともに無きがゆえに。果は因縁に属す。因縁の辺より出づ。この因縁は自在ならず。余の因縁に属す。この果は余の因縁に属す。いかにして自在ならざるや。因縁は能く果を生ず。ここをもって果は因縁より有るにあらず。また非因縁より有るにもあらず。すなわち非果と為す。果無きがゆえに、縁と非縁もまた無し。

釈:もし諸法が確かに自体性がなければ、三界の有法は得られない。もし因と縁があり、因縁和合して一つの果が生じ、それによって別の法が生じると言うなら、この説は実は正しくない。もし因と縁がそれぞれ異なり、特徴が違えば、二つが和合しても何の果も現れるはずがない。どうして因縁の縁(辺際)から果が生じると言えるのか? 因と縁の中に果はないからである。(この因縁はすべて縁であり、実際に果を生じるのは根本因である如来蔵である。)

もし因と縁の中に元々果がないのに果が生じるなら、なぜ非因非縁(因でも縁でもないもの)の縁から果が生じないのか? 非因非縁の両方にも果はないからである(例えば父母が和合して子供が生まれるが、父親の身体の中に子供はおらず、母親の身体の中にも子供はいない。和合しても子供はできないはずである。父の精液の中には受精卵はなく、母の血中にも受精卵はない。精血が和合しても受精卵はない。必ず別の因が、因縁和合の中で受精卵や子供を生じさせる。この因が如来蔵である)。果は因縁の縁(辺際)に属し、因縁の縁で生じるが、これらの因縁もまた自在ではなく、それゆえ果は他の因縁に属する。果が他の因縁で生じるなら、どうして自在ではないのか? 因縁が果を生じる、それゆえ果は因縁から生じるのではないし、非因縁から生じるのでもない。だから元々果はないと言える。果が根本的に存在しないのであれば、因と縁も存在しない。

原文:問うていわく。仏は言う。十二因縁は無明を縁として諸行あり。汝はいかにして因果無しと言うや。答えていわく。先にすでに答えられたり。応に再び難くすべからず。もし難ずるならば、更に答うべし。仏は言う。眼を因とし色を縁として、痴の辺より生ず。邪に憶念する痴は無明なり。この中、無明は何れの所に依って住するや。もし眼に依って住するならば、色を待つべからず。常に痴あるべし。もし色に依って住するならば、眼を待つべからず。これすなわち外の痴なり。何ぞ我が事に関預せんや。もし識に依って住するならば、識は色無く対無く、触無く分無く処無し。無明もまたかくのごとし。いかにして住すべけんや。

釈:問うていう。仏は十二因縁法で無明が縁となって行が生じると説かれたのに、あなたはなぜ因果がないと言うのか? 答えていう。以前にすでに答えた。再び非難すべきではない。もし再び非難するなら、もう一度答える。仏は眼根を因とし、色塵を縁として、眼識が愚痴の辺から生じると言われ、邪な心で法を憶念する愚痴性が無明であると言われる。ここで無明はどの法に依って住しているのか? 眼根に依って住しているのか、色塵の中に住しているのか、眼識に依って住しているのか? 眼根に依って住しているはずはない。もし眼根に依って住しているなら、色塵が現れるのを待つべきではなく、常に愚痴であるはずだ。

もし愚痴が色塵に依って住しているなら、眼根の出現を待つべきではない。それゆえ愚痴は外界の愚痴であり、私と何の関係があるのか? 愚痴がもし識心に依って住しているなら、識心には色相がなく、相対する法も存在せず、触もなく支分もなく、処所もない。無明もまた同じで、どうして住することができようか?

原文:ここをもって無明は内にあらず外にあらず両の中間にもあらず。前世より来たらず。また後世に住せず。東西南北四維上下より来たらず。実法無し。無明の性かくのごとし。無明の性を了れば、すなわち明と変ず。一々これを推して痴は得べからず。いかにして無明を縁として行ありや。虚空のごとく生ぜず滅せず有らず尽きず。本性清浄なり。無明もまたかくのごとし。生ぜず滅せず有らず尽きず。本性清浄なり。乃至生を縁として老死あるもまたかくのごとし。菩薩かくのごとく十二因縁を観ずれば、衆生の虚誑、苦患に繋がるを知る。度し易きのみ。諸法もし実相あらば、度し難し。思惟かくのごとくすれば、すなわち愚痴を破る。

釈:それゆえ無明は内でもなく外でもなく両者の中間でもなく、前世から来たのでもなく、後世に住むのでもなく、東西南北、四維上下から来るのでもない。実体として存在する法はなく、無明の本性もまたそうである。無明の本性を明らかにすれば、明に変わる。以上のように一つ一つ推論すれば、愚痴は得られない。どうして無明を縁として行が生じるというのか? 虚空のように生ぜず滅せず、有らず無からず、本性清浄であり、無明もまた同じで、生ぜず滅せず有らず無からず、本性清浄である。十二因縁の最後の生を縁として老死があるというのもまた同じである。

菩薩がこのように十二因縁を観行すれば、衆生が虚妄に誑かされ生死の苦患に繋縛されていることを了知し、衆生は度脱しやすいと知る。諸法に実相があるなら、つまり真実なら、衆生は度脱しにくい。このように思惟すれば、愚痴無明が破られる。

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