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座禅三昧経講義

作者: 釋生如 カテゴリ: 禅定の法門 更新時間: 2026年04月29日 閲覧数: 4456
<h2 style="text-indent: 2em;">第十二章 四諦三十七品十二因縁</h2>

原文:问曰。若无吾我无主无作。云何去来言说。死此生彼。答曰。虽无吾我。六情作因。六尘作缘。中生六识。三事和合。故触法生。念知诸业。由是去来言说。从是有生死。譬如日爱珠。因日干牛屎和合。方便故火出。五阴亦尔。因此五阴生。后世五阴出。非此五阴至后世。亦不离此五阴。得后世五阴。

解釈: 問って言う:もし我がなければ、主なく作もないのに、どうして色身の来去と言説の相があり、またここで死んで彼処に生じるのか。答えて言う:たとえ吾我はなくとも、六根を因とし、六塵を縁として、その中間で六識が出生し、三者の和合によって、触法から六識が出生する。六識は法を念じ法を知ることができ、そこで五陰 (pañca-skandha) 身の来去と言説、諸のすべての業行がこれより出生し、それならば生死もまた出生するのである。譬如、日愛珠という火起こしの器は、太陽の光と乾いた牛糞との和合という方便によって、火が出生するのである。五陰身もまたこのようである。この世の五陰が出生するがゆえに、後世の五陰が出生するのであり、この世の五陰が後世へ行けるのではなく、しかしまたこの世の五陰身を離れずに、後世の五陰身があるのである。

原文:五阴但从因缘出。譬如谷子中芽出。是子非芽。亦非余芽边生。非异非一。得后世身亦尔。譬如树未有茎节枝叶华实。得时节因缘华叶具足。善恶行报亦复如是。种子坏故非常非一。芽茎叶等生故。不断不异。死生相续。亦复如是。

解釈: 五陰身はただ因縁から出生したものである。譬如、穀子の中から芽が生じ出るが、穀子そのものは芽ではなく、しかし芽もまた他の物から出生したものではない。穀子と芽は非一非異で、関わりがありながら同一の体ではない。後世の五陰身を得るのもまたこのようで、今世の五陰身と非一非異である。譬如、樹木がまだ茎・節・枝・葉・華・果を生じていないとき、時節因縁が具足すれば生じ出ることができる。善悪の業報もまたこのようである。種子が壊れてこそ、後の枝葉花果があるのであり、それゆえ種子は常存ではなく恒一不変でもない。後続の芽・茎・葉などがこれより出生し、種子は断じられることなく、芽・茎・葉などとも異ならない。五陰身の死生相続もまたこのようである。

原文:行者谓法。无常苦空无我。自生自灭。知因爱等有。知因灭是尽。知尽是道。以四种智。知十二分是正见道。众生为缚着所诳。如人有无价宝珠。不别其真。为他欺诳。是时菩萨。发大悲心。我当作佛。以正真法。化彼众生。令见正道。

解釈: 修行者は、五陰世間の一切の法は、すべて無常・苦・空・無我であり、自ら生じ自ら滅するものであると観じる。五陰身は貪愛などの因によって有ることを了知し、五陰身の出生の因を滅すれば五陰身は滅尽することを了知し、五陰身を滅尽することがすなわち道であることを了知する。この苦・集・滅・道の四つの智慧をもって、十二因縁の各々の支分が修行の正しい知見道であることを了知する。衆生は皆、煩悩の結縛に誑惑され欺かれており、譬如、人が無価の宝珠を持ちながら、それが真の宝であると識別できず、人に欺かれるようなものである。このとき菩薩は大悲心を発して言う:我はまさに仏と作るべきである、正真の法をもってこれらの衆生を化導し、彼らに正道を見させん、と。

原文:问曰。如摩诃衍般若波罗蜜中言。诸法不生不灭。空无所有。一相无相。是名正见。云何言无常等观。名为正见。答曰。若摩诃衍中说。诸法空无相。云何言无常苦空等不实。若言不生不灭空是实相者。不应言无相。汝言前后不相应。

解釈: 問って言う:大乗の般若波羅蜜経に「諸法は不生不滅、空にして無所有、すべて相なき一相(如来蔵 (tathāgatagarbha) 相、自性清浄相)である。これを正知見と名づける」と説かれているのに、どうして諸法は無常・苦・空・無我などの観念を正見と名づけると言うのか。答えて言う:もし大乗法の中で諸法は空にして無相であると説くなら、どうして諸法は無常・苦・空などであって真実法ではないと言えるのか。もし不生不滅、空が実相であると言うなら、無相と言うべきではない。汝の言は前後相応しない。

原文:复次佛说四颠倒。无常中常颠倒。亦有道理。一切有为无常。何以故。因缘生故。无常因无常缘。所生果云何常。先无而今有。已有便无。一切众生皆见无常。内有老病死。外见万物凋落。云何言无常不实。

解釈: 復次、仏の説かれる四顛倒の中で、衆生が無常の法を常と見なすことは、その一つの顛倒である。これにもまた道理がある。一切の有為法はすべて無常である。なぜか。すべて因縁より出生したものだからである。無常の因に無常の縁を加えて、生じた果がどうして常であろうか。先には無くて今あり、すでに有ってまた無くなる、これがすなわち無常である。一切の衆生は皆、無常法を見ることができる。内には五陰身の老病死があり、外には万物の凋零落謝がある。どうして諸法は無常であって真実の法理ではないと言えようか。(道理は真実ではあるが、大乗実相の実ではなく、この真実はあの真実ではない。)

原文:问曰。我不言有常为实。无常为不实。我言有常无常俱是不实。何以故。佛言。空中有常无常二事不可得。若着此二事是俱颠倒。答曰。汝言不与法相应。何以故。言无法。云何复言二俱颠倒。一切空无所有。是为实不颠倒。

解釈: 問って言う:私は有常の法が真実であり、無常の法が真実でないとは言わない。私は有常も無常もともに真実ではないと言うのである。何以故か。仏は、空(空性心の中には一法もなく、まして常と無常は、いずれも存在しない。)の中には常・無常の二事ともに得ることはできないと説かれ、もしこの二事に執着すれば、ともに顛倒であるとされる。(空中とは実相の空性心を指し、神様は常にも非ず無常にも非ず、常でもあり無常でもあり、心体はもともと空であって、常と無常の二法を含まない。)答えて言う:あなたの言うことは法と相応しない。何以故か。一切の法は無いと言いながら、なぜまた有常・無常の二者はともに顛倒であると言うのか。一切の法は空にして無所有である、これこそが真実にして顛倒でない法である。(これはなお小乗の空の真理であって、大乗の究竟空の理ではない。)

原文:若我破有常着无常。我法应破。而不实我。有常颠倒破故观无常。何以故。无常力能破有常。如毒能破余毒。如药除病。药亦俱去。当知药妙能除病故。若药不去。后药为病。此亦如是。若无常法着。应当破不实故。我不受无常法云何破。

解釈: もし私が有常を破除して無常に執着するなら、私の一切法空・無所有の法は破除されるべきであり、真実の我法はない。有常法の顛倒を破除したなら、無常法を観察すべきである。何以故か。無常法は大力あって有常を破除でき、譬如、一種の毒薬が他の毒薬を破除できるようなものである。薬が疾病を除去できるように、最後には薬もともに除去すべきである。薬性が善く諸病を除去できることを知るべきであるが、もし薬を除去しなければ、薬もまた病を得る因となる。この常・無常の法もまたこのようである。もし無常法に執着するなら、破除すべきである。無常法は真実でないがゆえである。私は無常法を受け入れないのだから、どうして私の心中の無常法を破せよというのか。

原文:佛言。苦是四真谛中言实苦。谁能使乐。苦因是实因。谁能令非因。苦尽是实尽。谁能令不尽。尽道是实道。谁能令非道。如日或可令冷。月或可令热。风可令不动。是四真谛终不可动转。汝于摩诃衍中不能了。但着言声。摩诃衍中诸法实相。实相不可破。无有作者。若可破可作。此非摩诃衍。

解釈: 仏は説かれる、苦とは四真諦に説かれる真実有る苦であり、誰が苦を楽に変えることができようか。苦因は真実有る因であり、誰が真実有る因を非因とすることができようか。苦尽は真実の尽であり、誰が苦を尽きさせないことができようか。苦尽の修行方法は真実の道であり、誰がそれを非道とすることができようか。譬如、太陽を冷たくすることも、月を熱くすることも、風を動かないようにすることもできるかもしれないが、この四聖諦は終始動転することができない。汝は大乗法を抉了できず、ただ言語音声に執着しているだけである。大乗法の中の諸法実相、この実相は破除できず、破除しうる造作者はない。もし実相が破れたり作られたりするなら、これは大乗摩訶ではない。

原文:如月初生一日二日。其生时甚微细。有明眼人能见指示不见者。此不见人但视其指而迷于月。明者语言。痴人何以但视我指。指为月缘指非彼月。汝亦如是。言音非实相。但假言表实理。汝更着言声。闇于实相行。若得如是正知见。观十二分和合。为因果二分。果时十二分为苦谛。因时十二分为习谛。因灭是尽谛。见因果尽是道谛。四种观果无常苦空无我。四种观因集因缘生。

解釈: 譬如、月が生じて一日二日の、すなわち毎月の朔・二日のとき、その月生の相は甚だ微細で見難く、明眼人のみが見ることができ、それから見えない者に指示する。この月を見えない人は、彼の指先だけを見て、月を見ることができない。明眼人は言う:痴人よ、なぜ私の指先だけを見るのか。指先は月を見る縁であって、指先は月ではない。汝もまたこのようである。言語音声は実相ではないが、言語音声に依って実相の理を表示するのであり、それなのに汝は言声に執着し、実相の行に対して昏昧している。もしかような正知見を得るなら、十二因縁の和合相を因と果の二つの部分として観察する。果を結ぶときの十二因縁はすべて苦諦であり、因位のときの十二因縁はすべて集諦である。因の滅するのがすなわち滅諦であり、因果の滅尽を見るのがすなわち道諦である。これは四種の観行 (vipaśyanā-caryā) の因集諦であり、因縁はこれより生じるのである。

原文:问曰。果有四种。但名苦谛。余者无谛名也。答曰。若言无常谛复疑。苦谛亦疑。无我谛亦疑。一种难处。复次若言无常谛无咎。空非我谛亦无咎。若无常苦空无我谛。于说为重故。是故于四说一。

解釈: 問って言う:果には苦・空・無常・無我の四種があるが、苦だけが苦諦と呼ばれ、苦の真理であり、他の三種は真諦・真理と呼ぶことができない。答えて言う:もし無常が真諦・真理であることを疑い、苦が真諦・真理であることを疑い、無我が真諦・真理であることを疑うなら、一種の難処に堕し、世間には真実の理がなく、真諦もないことになる。復次、もし無常諦に過咎がないと言うなら、空と非我諦にも過咎がない。もし無常・苦・空・無我諦が言説の上で重複性を持つなら、それゆえ四種の諦の中でただ一つの苦諦だけを説くのである。

原文:问曰。苦有何异相。于三中独得名。答曰。苦是一切众生所厌患。众生所怖畏。无常不尔。或有人为苦所逼。思得无常。无有欲得苦者。问曰。有人欲得捉刀自杀针炙苦药入贼。如是种种非求苦也。答曰。非为欲得苦。欲存大乐。畏苦故取死。苦为第一患。乐为第一利。以是故离实苦得快乐。是故佛以果分独名苦谛。非无常空无我谛。

解釈: 問って言う:苦にはどんな特殊な相貌があって、無常・空・無我の中で独り苦諦と呼ばれるのか。答えて言う:苦は一切の衆生の厭い患いとするところであり、すべての衆生の怖畏するところである。無常はしかしそうではない。苦に逼迫された人は無常の法を得たいと願うが、実際には苦を得たいと願う人はいない。問って言う:人が刀を取って自殺しようとしたり、針で自分を刺し痛めようとしたり、苦い薬を飲もうとしたり、賊の中に入ろうとしたりするのは、かような種々の行為は苦を求めているのではない。

答えて言う:これらの行為はいずれも苦を得たいのではなく、大楽を求めようとするものであり、苦を怖れるがゆえに死を求めるのである。苦は衆生の第一に怖れる苦患であり、楽は衆生の第一の大利である。それゆえ真実の苦を離れることで快楽を得ることができる。それゆえ仏は果の支分をもって、独り苦を苦諦と称し、無常・空・無我もまた諦であるとは説かれなかったのである。

原文:是于四谛中了了实智慧。不疑不悔。是名正见。思惟是事种种增益故。是名正觉。除邪命摄四种邪语。离余四种邪语。摄四种正语。除邪命摄身三种业。除余三种邪业名正业。离余种种邪命。是名正命。如是观时精进。是正方便。是事念不散。是名正念。是事思惟不动。是名正定。正觉如王七事随从。是名道谛。是事一心。实信不动。是名信根。一心精勤求道。是名精进根。一心念不忘失。是名念根。心住一处亦不驰散。是名定根。思惟分别无常等觉。是名慧根。是名增长得力。是名五力。

解釈: このように四聖諦において真実の智慧を明了とし、疑わず悔いなければ、これを正見と名づける。これらの事理を思惟することが自心に対して種々の増上の利益があるのを、正覚と名づける。邪命に摂持される四種の邪語、すなわち妄語・綺語・悪口・両舌を除去し、この四種の邪語を離れて、四種の正語を摂持する。邪命に摂持される身体の三種の業、すなわち殺・盗・淫を除去し、色身の不殺・不盗・不淫の三種の業を摂持し、殺盗淫の三種の邪業を除去するのを、正業と名づける。その他の種々の邪命の生活を離れるのを、正命と名づける。精進にかような観行をするのが、正方便である。この事理に対して常に念じて散らざるを、正念と名づける。この事理にかように思惟して心が動転しないのを、正定と名づける。

正しい覚悟は譬如、転輪聖王の身後には必ず七宝の随従があるようで、これを修道諦と名づける。この理に対して一心に実信して動転しないのを、信根と名づける。一心に精進して道証を勤め求めるのを、精進根と名づける。一心に法を念じて忘失しないのを、念根と名づける。心を一処に住まわせて馳散らざるを、定根と名づける。無常などの観念を思惟観行するのを、慧根と名づける。五根が増長して勢力強大となれば、五力と名づける。

原文:问曰。八正道中皆说慧念定等。根力中何以重说。答曰。随入行时初得小利。是时名为根。是五事增长得力。是时得名为力。初入无漏见谛道中。是功德名八正道。

入思惟道时名七觉意。初入道中观念身痛心法。常一心念。是名四念止。如是得善法味四种精勤。是名四正勤。如是欲、精进、定、慧初门。勤精进求如意自在。是名四神足。

解釈: 問って言う:八正道の中では正慧・正念・正定などをすべて説いているのに、五根五力の中でなぜ改めて説くのか。答えて言う:四聖諦の理に入って修道するとき、はじめて少しの功徳利益を得るが、このときを根と呼ぶ。五根の勢力が増長して以後、より大きな利益を得るに至ると、このときを五力と呼ぶ。最初に無漏の四聖諦の見諦に入ると、その見諦の功徳を八正道と名づける。

見諦道から思惟道に入るとき、これを七覚支と名づける。初めて七覚支の念覚支に入り、身・受・心・法を観行し、常に一心に観行し、心に四種の法を念ずるのを、四念処観と呼ぶ。かように修行して善法味を得、四種の精勤を起こすのを、四正勤と名づける。かようにして精進して定慧の初門を修習しようと願い、勤苦精進して種々の如意自在を求め得るのを、四神足と名づける。

原文:虽名四念止四正勤四神足五根等。皆摄随行时。初后少多。行地缘各各得名。譬如四大各各有四大。但多得名。若地种多水火风少处名为地大。水火风亦如是。如是三十七品中各各有诸品。

如四念止中有四正勤四神足五根五力七觉八道等。如是观十二分四谛行四念止四正勤四神足五根五力七觉意八正道。其心安乐。复以此法度脱众生。一心誓愿精进求佛。

解釈: 以上は四念処・四正勤・四神足・五根・五力などと呼ばれるが、いずれも修行時間の先後、用功修行の多寡、修行の階層および具足する縁に応じて、それぞれこれらの名を取ったものである。譬如、地水火風はそれぞれ四大を有するが、四大の構成成分に応じて、多いものをもって命名する。地大の種子の成分が多く、水火風大の種子が少なければ、地と呼ぶ。水火風もまたこのようで、自らの種子成分が多く他の大種が少ないのである。

かように、三十七道品の中には各々他の道品が含まれており、譬如、四念住の中には四正勤・四神足・五根・五力・七覚支・八正道などが含まれている。かように十二因縁・四聖諦・四念処・四正勤・四神足・五根・五力・七覚分・八正道を観行すれば、心は安楽を得ることができる。さらにこれらの法をもって他の衆生を度脱し、一心に誓願して精進修学し、仏道を求めるのである。

要するに、三十七道品の修行次第は大略以下の通りである。最初の五根の修習により五力を増長させ、その後八正道に入り、思惟修を起こして七覚支を修習し、念覚支の中で四念処観を修習して善法味を得、四正勤を起こし、最後に結果として勤苦修習して四神足の果楽を得て、心は自在解脱を得る。三十七道品の各品は、意識が修習し獲得するのみならず、同時に意根をも薫習し、意根にも三十七道品を修習させ、しかも完満具足して、各道品を獲得し、四神足を成就するのである。

原文:是时心中思惟观念。我了了观知此道不应取证。有二事力故未入涅槃。一者大悲不舍众生。二者深知诸法实相。诸心心数法从因缘生。我今云何随此不实。当自思惟欲入深观十二因缘。知因缘是何法。

解釈: このとき心中で自らの心念を思惟観察する。私は今、心中で極めて明了に観察できる。四聖諦の法を修行しても、四果と涅槃を証取することはできないと。二つの事の力のゆえに、私を涅槃に入らせないのである。一つには大悲心が衆生を憐愍し、私は衆生を捨てて顧みることができないこと。二つには私が諸法実相を深く知り、一切の心法・識心の心数法はすべて因縁より生じることを知り、我今どうしてこれらの真実でない法に随順することができようか。私は仔細に思惟し、深定に入って十二因縁法を観察し、究竟に十二因縁が何法であるかを了知すべきである。

原文:复更思惟。是四种缘。因缘。次第缘。缘缘。增上缘。五因为因缘。除过去现在阿罗汉最后心。余过去现在心心数法。是次第缘。缘缘增上缘。缘一切法。

复自思惟言。若法先因缘中有。则不应言是法因缘生。若无亦不应言因缘中生。生有半无。亦不应因缘生。云何有因缘。若法未生。若过去心心数法失。云何能作次第缘。若佛法中妙法无缘。涅槃云何为缘缘。

解釈: さらにまた思惟する。四種の縁がある。因縁、次第縁(等無間縁)、縁縁(所縁縁)、増上縁である。五因は因縁と言うことができ、俱有因・同類因・相応因・遍行因・異熟因を含む。過去現在の阿羅漢の最後心を除き、意根が我執を断除し、三界の法を貪愛しなければ、もはや後有を引生せず、次第縁ではない。其余の衆生の過去現在の心法と心数法が、すなわち次第縁であり、未来世の五蘊身を引生することができる。縁縁と増上縁は、識心を輔助して一切法を縁じ、一切法を増長し、一切法を顕現することができる。

さらにまた思惟して言う。もし法がもともと因縁の中に存在しているなら、この法は因縁の中から出生したと言うべきではない。もし法が因縁の中に本来存在しないなら、法は因縁の中から出生したと言うべきではない。もし生じた法が、因と縁の二者のいずれかに存在するなら、やはり法は因縁から出生したと言うべきではない。どうして因縁があり得ようか。もし法がまだ出生しておらず、もし過去の心と心数法がすでに滅去しているなら、これらの識心及び心所法はどうして次の識心の次第縁(等無間縁)となることができようか。もし仏法の中の妙法が縁なくして出生できるなら、涅槃はなぜ所縁縁なのか。

因縁について、因とは他の法を引生して他法を出現させる法であり、縁とは因を助けて他法を出現させる法である。譬如、甲が乙を打つのが因であり、二人が再び出会うのが縁であり、このとき乙の甲に対する報復が引生され、同じく甲を打つ。乙が甲を打つのがすなわち因縁所生法である。因と縁はいずれも他法を出生させる方便因であり、導火線のごとくである。一切法の最根本の因は、万法出生の出処である如来蔵であり、因と縁の二つの法を含めて、いずれも最根本因である如来蔵から出生したものである。

次第縁は等無間縁とも言い、同等同じ法が相等しく無間断に次第に一つ一つ出生し滅去して、次の同じ法の出生を引生する。譬如、識種子は、前の識種子(譬如、意識の識種子)がある処・ある塵の上に出生し、それから滅して戻り、次の同じ識種子(意識)が同じ処に出生し、また滅して戻り、また一つの識種子が同じ処所・塵の上に出生し、また滅して戻る。このように同等同じ識種子が連続不斷に同じ処所で出生し滅して戻ることで、連続不斷の識心の活動が形成される。心所法もまたこのようである。

所縁縁について、所と能が対応し、能とは主観的能動性を有する七識心であり、七識心は一切法を縁じることができ、とりわけ六塵境界を縁じる、能縁の心である。所縁とは一切法あるいは六塵境界である。所縁縁とは一切法の生起の縁、六塵境界の生起の縁である。

増上縁とは、この法の出生を助けることができる、自身を除く他の一切の助縁である。

原文:若诸法实无性。有法不可得。若因缘果生。因此有彼。是说则不然。若因缘中各各别。若和合一处。是果不可得。云何因缘边出果。因缘中无果故。

若因缘中先无果而出者。何以不非因缘边出果。二俱无故。果属因缘。因缘边出。是因缘不自在。属余因缘。是果属余因缘。云何不自在。因缘能生果。是故果不从因缘有。亦不从非因缘有。则为非果。果无故。缘与非缘亦无也。

解釈: もし諸法が確かにその自体性をことごとく持たないなら、三界の有法は得ることはできない。もし因があり縁があり、因縁和合して一つの果が出生し、それゆえもう一つの法が出生すると言うなら、この説は実は正しくない。もし因と縁が互いに異なり、各々その特徴を有するなら、二者が和合して一つになっても、何らかの果が出現することはあり得ない。どうして因縁の辺際から果が出生したと言えようか。因と縁の中にはいずれも果がないがゆえである。(この因縁はいずれも縁であり、実際に果を出生させるのは根本因である如来蔵である。)

もし因と縁の中にもともと果がなくて、なお果を出生させうるなら、なぜ非因非縁の辺から果を出生させないのか。非因非縁の二者の中にはいずれも果がないがゆえである(譬如、父母の和合が子を出生させるに、父の身体の中には子がなく、母の身体の中には子がなく、和合後にも子があることはあり得ない。父精の中には受精卵がなく、母血の中には受精卵がなく、精血の和合にも受精卵がない。必ずもう一つの因があって、因縁和合の中で受精卵と子を出生させたのであり、この因こそ如来蔵である)。果は因縁の辺際に属し、因縁の辺際で出生するが、これらの因縁もまた自在でない。それゆえ果は他の因縁に属する。果が他の因縁の辺で出生する以上、どうして自在でないと言えようか。因縁が果を生じうるなら、それゆえ果は因縁から生じたものではなく、また非因縁の辺から生じたものでもない。それゆえもともと果はないのである。根本的に果がないがゆえに、因と縁もまた存在しないのである。

原文:问曰。佛言十二因缘无明缘诸行。汝云何言无因果。答曰。先以被答不应更难。若难者更当答。佛言眼因色缘。痴边生。邪忆念痴是无明。是中无明何所依住。若依眼邪。若色中若识邪。不应依眼住。若依眼住。不应待色常应痴。若依色住。不应待眼。是则外痴。何豫我事。若依识住。识无色无对。无触无分无处。无明亦尔。云何可住。

解釈: 問って言う:仏は十二因縁法において無明縁行と説かれているのに、あなたはなぜ因果がないと言うのか。答えて言う:以前すでに答えたのであって、さらに非難すべきではない。さらに非難するなら、改めて答えよう。仏は、眼根を因とし、色塵を縁として、眼識は愚痴の辺に出生し、邪心に法を憶念する愚痴性がすなわち無明であると説かれる。ここでの無明はどの法に依って住着するのか。眼根に依って住するのか、色塵の中に住するのか、それとも眼識の中に住着するのか。眼根に依って住着すべきではない。もし眼根に依って住着するなら、色塵の出現を待つべきではなく、常に愚痴であるはずである。

もし愚痴が色塵に依って住するなら、眼根の出現を待って住着すべきではない。それゆえ愚痴は外界の愚痴であり、私と何の関わりがあろうか。愚痴がもし識心に依って住するなら、識心には色相がなく、相対する法の存在がなく、触もなく支分もなく、処所もない。無明もまたこのようであり、どうして住することができようか。

原文:是故无明非内非外非两中间。不从前世来。亦不住后世。非东西南北四维上下来。无有实法。无明性尔。了无明性。则变为明。一一推之痴不可得。云何无明缘行。如虚空不生不灭不有不尽。本性清净。无明亦如是。不生不灭不有不尽。本性清净。乃至生缘老死亦尔。菩萨如是观十二因缘。知众生虚诳系在苦患。易度耳。诸法若有实相。难可得度。思惟如是。则破愚痴。

解釈: それゆえ無明は内にも非ず外にも非ず両者の中間にも非ず、前世から来たのでもなく、後世に住するのでもなく、東西南北、四維上下から来たものでもない。実法の存在はなく、無明性もまたこのようである。無明性を了了とすれば、明に変わる。以上より一つ一つ推論すれば、愚痴は得ることはできず、どうして無明縁行があろうか。虚空のごとく、不生不滅・不有不無、本性清浄 (viśuddha/pariśuddha) であり、無明もまたこのようで、不生不滅・不有不無、本性清浄である。乃至、十二因縁の最後の生縁老死もまたこのようである。

菩薩はかように十二因縁を観行し、衆生が虚誑にして生死の苦患の中に繋縛されていることを了知すれば、衆生は度脱しやすいのである。諸法がもし実相を有し、真実であるなら、衆生は度脱し難いのである。かように思惟すれば、愚痴無明を破除するのである。

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