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座禅三昧経講義

作者: 更新時間:2025-07-12 06:09:08

第十一章 如何にして種々の三昧を修習すべきか

原文:もし行者が仏道を求め入禅せんとするには、まず心を繋ぎて専らに十方三世の諸仏の生身(応化身あるいは報身)を念ずべし。地水火風山樹草木を念ずること莫れ。天地の中の有形の類および諸余の法、一切を念ずること莫れ。ただ諸仏の生身が虚空の中に在ることを念ずべし。譬えば大海の清水の中央の金山の王たる須弥山の如く、また夜の闇の中に燃ゆる大火の如く、また大施祠の中の七宝の幢の如し。仏身は是の如くにして、三十二相八十種好あり。常に無量の清浄なる光明を虚空相の青色の中に出だす。常に仏身の相の是の如きを念ずべし。

釈:もし行者が仏道を求め、深い禅定に入らんとするならば、まず心を繋ぎ専らに十方三世の諸仏の応化身あるいは報身を念じ、地水火風の成す一切の物質的色法、山・樹・草木等を念じてはならず。天地の中の一切の有形の類およびその他の一切の法を念じてはならず、ただ諸仏の色身が虚空の中にあることを念ずべし。仏身は譬えば大海の清水の中央の金山の王たる須弥山の如く、また暗夜に燃え盛る大火の如く、また堂祠の中の七宝の幢の如し。仏身の金山はかくの如く三十二相八十種好あり、虚空相の青色の中に常に無量の清浄なる光明を放つ。

原文:行者は便ち十方三世の諸仏が悉く心の目前に在るを得ん。一切を悉く見る三昧。もし心が余の処に縁すれば、還って摂めて住するを令め、念を仏身に在らしむ。是の時に便ち東方に三百千万千万億種の無量の諸仏を見る。是の如く南方・西方・北方・四維・上下に、念ずる所の方に随って一切の仏を見る。人の夜に星宿を観るが如く、百千無量種の星宿を悉く見る。菩薩が是の三昧を得れば、無量劫の厚き罪を除いて薄くし、薄き者は滅せしむ。

釈:行者が常に仏の是の如き身相の荘厳を思い念ずれば、十方三世の仏が悉く前に立つ三昧を証得し、一切の十方三世の諸仏を悉く見ることを得る。もし心が他処他法に縁すれば、なお摂受して戻し、念を仏身に住せしむべし。この時には東方に三百千万億種の無量の諸仏を見ることができ、是の如く南方・西方・北方・四維・上下も、自心の念ずる所に随ってかくの如き多数の諸仏を見ることを得る。譬えば人が夜半に天上の星宿を観るが如く、百千無量種の星宿を悉く見るが如し。菩薩が修行して是の如き三昧を証得すれば、無量劫の罪を除き、重罪を軽くし、軽罪を滅すことを得る。

原文:是の三昧を得て已(おわ)りて、当に仏の種種無量の功徳を念ずべし。一切智・一切解・一切見・一切徳。大慈大悲自在を得ん。初め無明を出でんより、四無畏・五眼・十力・十八不共法。能く無量の苦を除き、老死の畏れを救い、常楽涅槃を与う。仏は是の如き等の種種無量の功徳有り。是の念を作(な)して已りて、自ら願を発して言わく、我いづれの時にか当に仏身仏功徳を得ん、巍巍(ぎぎ)たる是の如く。また大誓をなす。過去の一切の福、現在の一切の福、尽(ことごと)く持して仏道を求め、余の報を用いず。また是の念を作(な)す。一切の衆生は甚だ憐愍(れんみん)すべし。諸仏の身功徳は巍巍たる是の如し。衆生は如何にして更に余の業を求めんとし、仏を求めざるや。

釈:是の如き三昧を証得して後は、当に仏の種種の功徳を念じ、仏の一切智・一切解・一切見・一切徳を念じ、大慈大悲自在を修得し、初めて無明の殻を破りてより、十力・四無所畏・五眼六通・十八不共法を得んとし、能く衆生の無量の苦を除き、衆生の老死の怖畏を救護し、衆生に常楽我浄の涅槃を与う。仏は是の如き種種無量の功徳有り。菩薩は是の如き念想を作(な)して後、自ら大誓願を発して言う、私はいつかかような巍巍たる仏身仏の功徳を得ることができるだろうか。また大誓をなす。過去一切の福、現在一切の福を尽く持して仏道を求め、他の果報を用いない。また是の如く念う。一切の衆生は甚だ憐愍すべし。諸仏の身功徳は巍巍たる是の如し。衆生は何ゆえに尚お他の業行を希求し、仏道を求め取らないのか?

原文:譬えば貴家の盲子が大いなる深き坑に堕ち、飢え窮まり困苦して糞を食い泥を食う。父は甚だ之を愍(あわ)れみ、方便を求めんが為に、之を深き坑より拯(すく)い出だし、之に上馔(じょうせん)を食わしむ。行者は念じて言わく、仏の二種の身の功徳甘露は是の如し。而るに諸の衆生は生死の深き坑に堕ち、諸の不浄を食う。大悲心を以て我は当に一切の衆生を拯済し、仏道を得せしめて生死の岸を度(わた)らしめん。仏の種種の功徳法味を以て悉く飽満せしめん。一切の仏法を願わくは悉く之を得せしめん。聞き誦じ持ち問い観行し果を得て、為に階梯(けいてい)を作(な)す。大いなる要誓を立てて三願の鎧を被(こうむ)る。外には魔衆を破り、内には結賊を撃ち、直入して回らず。是の如き三願は、無量の諸願に比(たと)う。願わくは皆之に住せん。衆生を度して仏道を得せしめんが為なり。是の如く念じ是の如く願う、是れ菩薩の念佛三昧と為す。

釈:譬えば高貴な家の盲の子が深い坑に落ち、飢餓貧窮困苦し、糞を食い泥を食い、父は大いに彼を憐れみ、方便手段を求め、彼を深い坑から救い出し、上妙の飲食を与える。菩薩行者は思う、仏の二種の身の功徳は、かくの如き甘露である。而るに諸々の衆生は生死の深い坑に堕ち、諸々の不浄物を食い、私もまた大悲心を以て一切の衆生を救済し、衆生をして仏道に歩ませ生死の岸を越え渡らしめん。仏の種々の功徳法味を以て、衆生をして全て飽満充足を得せしめん。一切の仏法を願わくは彼らが悉く得ることを得ん。経を聞き、諷誦し、受持し、諮問し、観行し、証果し、これらを衆生の修行の階梯と次第となさん。大誓願を立て、三つの誓願の鎧を着け、外には魔兵衆を破り、内には煩悩の結賊を撃破し、直ちに仏道に入って回頭せず。是の如き三つの願力は、他の無量の諸願に比すべく、衆生を度して仏道を得せしめんが為に願わくは皆これらの大願の中に住せん。是の如き願い、是の如き念想、これが菩薩の念佛三昧である。

原文:菩薩道を行ずる者は三毒の中に於いて。もし淫欲が偏(かたよ)り多ければ、まず自ら身を観ずべし。骨肉皮膚。筋脈流れる血。肝肺腸胃。屎尿涕唾。三十六物。九想不浄。専心内観。外念を令(し)むること莫(な)かれ。外念諸縁。之を摂めて還(かえ)らしめよ。人の燭(しょく)を執(と)りて雑穀倉に入り、種々に分別し、豆麦黍粟、識知せざること無きが如し。

釈:菩薩道を修行する者は、貪・瞋・痴の三毒煩悩の中に於いて、もし淫欲が偏って多いならば、まず自身を観察せねばならず、骨・肉・皮膚・筋脈・流れる血液、及び肝・肺・腸・胃・屎・尿・涕・唾等々三十六種の物に種々の不浄があることを観察し、専心に内に向かって観察し、心が外に縁って散乱することを許さず、外に諸法を念じている時は、心を収め戻し、内身の三十六物に繋げよ。譬えば人が蝋燭を手に取り雑穀の倉庫に入り、各種の穀物を区別し、大豆・小麦・粟・豆等々を了知しないことがないが如し。

原文:復次に身を六分に観ず。堅きを地分と為す。湿りを水分と為す。熱きを火分と為す。動くを風分と為す。孔(あな)を空分と為す。知るを識分と為す。また屠牛(とぎゅう)の如く、六分に分つ。身首四肢。各自異処(いしょ)。身に九孔有り。常に不浄を流す。革囊(かくのう)屎を盛る。常に是の観を作(な)せ。外念を令(し)むること莫(な)かれ。外念諸縁。之を摂めて還(かえ)らしめよ。もし一心を得ば、意に厭患(えんげん)を生じ、此の身を離れんことを求め、此の身を速やかに滅せしめ、早く涅槃に入らんと欲す。是の時に当に大慈大悲を発(おこ)すべし。大いなる功徳を以て衆生を抜済し、前に興(おこ)せる三願を起こす。諸の衆生は不浄を知らず、諸の罪垢を起こすを以てなり。我は当に抜き置かん、甘露の地に於いて。

釈:次に身体の六つの部分を観察する。堅いものを地分とし、湿り気のあるものを水分とし、熱いものを火分とし、動くものを風分とし、孔のあるものを空分とし、了知性を識分とする。また牛を殺すように、牛を六つの部分に分け、身体と頭・四肢をそれぞれ分け離す。身には九つの孔があり、常に不浄物を流す。譬えば皮袋が屎尿を盛るが如し。常に是の如き観察を行い、心念が外縁に馳せないようにせよ。一旦他法に外縁すれば、収め戻さねばならぬ。もし是の如く観察して、一心の初禅禅定の境界を得れば、心に厭患を生じ、此の身を離れんと欲し、速やかに自身を滅度し、早く涅槃に入らんとする。この時には大慈大悲の心を起こし、此の修行の大功徳を以て衆生を救済し、自ら先に発した三つの大願を実現せん。諸々の衆生は色身の不浄を知らず、諸々の罪悪煩悩の垢を造る故に、私は彼らを救い抜き甘露の地に置かん。

原文:復次に欲界の衆生は不浄に楽着して狗(いぬ)の糞を食うが如し。我は当に度脱して清浄道に至らしめん。復次に我は当に学び求むべし、諸法の実相を。常にあらず不常にあらず。浄にあらず不浄にあらず。我は当に如何にして此の不浄を着(つ)けんや。不浄を観る智は因縁より生ず。我が法の如き者は、当に実相を求むべし。如何にして厭患(えんげん)せん、身中の不浄を、而して涅槃を取らんや。当に大像の駛(はや)き流水を度(わた)るが如く、源底を窮尽して実法相を得ん。滅して涅槃に入る。豈に猕猴(みこう)諸(もろもろ)の兔(うさぎ)の如く駛流(はやいながれ)を畏怖し、趣(おもむ)いて自ら身を度(わた)すべけんや。我は今当に菩薩の法の如く学ぶべし。不浄観を行い淫欲を除却(じょきゃく)し、広く衆生を化して欲患(よくげん)を離れしめ、不浄観に厭没(えんもつ)せられざらしむ。

釈:また、欲界の衆生は不浄物を喜び楽しむこと狗が糞穢物を食うが如し。私は彼らを度脱して清浄な道に至らしめん。また、私は諸法実相を修学し求めねばならず、常でもなく不常でもなく、不断不常、浄でもなく不浄でもない。私は如何にして此の不浄を観るべきか、不浄を観察する智慧は因縁より生ずる。私の如き情況の者は、実相を追求すべきであり、如何にして色身の中の不浄を厭患し、涅槃を取得するか。譬えば大像が奔流の大河を渡るが如く、河の底源を窮尽し、諸法実相を証得し、自らを滅度して涅槃に入るべきであり、豈に猕猴や兎の如く湍流の河水を恐れ、ただ自身の安危を顧みるべきではない。私は菩薩法を学び、不浄観を修行し、淫欲を除き、広く衆生を化導して衆生を貪欲の苦患から離れしめ、不浄観に道心を挫かれることなからしめん。

これによって見るに、菩薩もしある種の煩悩があるか、あるいはある種の煩悩が重いならば、小乗の種々の観行を修習し、以て対治すべきであるが、然しながら小乗人の心行を取らず、大乗の菩薩心を発す。

原文:復次に既に不浄を観ずれば、則ち生死を厭う。当に浄門を観ずべし。心を三処に繋げよ。鼻端・眉間・額上。当に是の中に於いて一寸の皮を開き、血肉を浄除し、心を白骨に繋げよ。外念を令(し)むること莫(な)かれ。外念諸縁。之を摂めて還(かえ)らしめよ。三縁の中に着(つ)けよ。恒に心と相(あい)闘(たたか)う。二人相撲するが如し。行者もし心に勝たば、則ち之を制して住せしむるに如(し)かず。是を一心と名づく。

釈:また、既然色身の不浄を観察できれば、生死を厭患するであろう。清浄の法門を観察すべく、心を三つの場所、鼻端・眉間・額上に繋げよ。この三つの場所に一寸の皮膚を開くことを観想し、血肉を除き去り、残余無くした後、一心を白骨に繋げよ。心念が外縁に馳せないようにせよ。心念が外縁していることを発見したら、収め戻し、この三つの観想の場所に置け。常に散乱心と搏闘せよ。譬えば二人が相撲を搏つが如し。行者もし自心を調伏せんと欲せば、心を此の観想に安住せしめよ。これによって一心の初禅境界を証得せん。

原文:もし厭患を以て、大悲心を起こし、衆生を愍念(みんねん)せんとせば、此の空骨の為に涅槃を遠く離れ、三悪道に入るを愍(あわ)れむ。我は当に勤力(ごんりき)して諸の功徳を作(な)し、衆生を教化して身相の空なるを解(げ)せしめん。骨は皮を以て覆われ、実は不浄の聚(あつま)りなり。衆生の為に故に、徐(おもむ)ろに当に分別すべし、此の諸法の相を。少(すこ)しの浄想有れば、心に愛着を生ず。不浄想多ければ、心に厭患を生ず。出ずる法相有れば、故に実法を生ず。諸法実相の中には、浄も無く不浄も無し。また閉(と)じるも無く出づるも無し。諸法の等しくして壊す可からず動かす可からざるを観ず、是を諸法実相と名づく。(阿羅漢の法を出過(しゅっか)するなり)

釈:もし色身と生死を厭患するが故に、衆生を愍念せんと大悲心を起こせば、衆生が色身の中の空骨を貪るが為に涅槃を遠く離れ、三悪道に堕ちることを悲しみ憐れむ。私は勤力して諸々の功徳を作り、衆生を教化し、其が色身の空相を開解せしめん。骨は外に皮嚢(ひのう)に包まれ、実際は不浄物の集まりである。衆生の為に故に、徐々に是等の法相を分別すべきである。初めは尚お少々の色身清浄の念想有り、心には愛着が残る。不浄の念想が増せば、色身に対して心に厭患を生ず。観察して或る真実の法相を生ずれば、故に実法相を生ず。諸法実相の中には、清浄相も無く、不清浄相も無く、入ることも出ることも無い。一切の諸法が平等一相であることを観察し、壊す可からず、動かす可からず、これが諸法実相であり、阿羅漢の法を超える。

原文:菩薩道を行ずる者は、もし瞋恚(しんに)が偏(かたよ)り多ければ、当に慈心を行ずべし。東方の衆生を念じ、慈心清浄にして怨無く恚無し。広大無量。諸の衆生を見ること悉く目前に在り。南方・西方・北方・四維・上下も亦た是の如し。心を制して慈を行じ、外念を令(し)むること莫(な)かれ。外念異縁。之を摂めて還(かえ)らしめよ。心と目を以て観じ、一切の衆生を悉く見て了(あきら)かに、皆目前に在ることを得(う)る。

釈:菩薩道を修行する者で、もし内心の瞋恚が偏って多いならば、慈心観を修行すべきであり、東方世界の衆生を心念じ、心地清浄に、慈しみ愍れみ、怨みや瞋恚無く、心量広大にして際限無く、東方の衆生が皆目前に在ることを見る。南方・西方・北方・四維・上下世界の衆生もまた是の如く心念じ、心念をして慈悲を以て衆生を愍れむことに住せしめ、念を外に攀縁せしめず。もし心念が他法に縁すれば収め戻し、専心に十方世界の衆生を観想し、皆眼前にあり、全てが明瞭に見えることを得(う)る。

原文:もし一心を得ば、当に願を発して言わく、我は涅槃の実清浄の法を以て、衆生を度脱し、実の楽を得せしめんと。慈三昧を行ずるに心此の如き者は、是れ菩薩道なり。慈三昧に住して以て諸法実相を観ず。清浄にして壊れず動かず。願わくは衆生に此の法利を得せしめん。此の三昧を以て東方一切の衆生に慈念し、仏の楽を得せしめん。十方も亦た爾(しか)り。心転乱せず、是れ菩薩の慈三昧門と謂う。

釈:もし一心の初禅境界を証得すれば、発願して言うべし:私は涅槃の真実なる清浄法を以て、衆生を度脱し、衆生に真実の歓楽を得せしめんと。慈心三昧を修行し、心が此の如くである者は、菩薩道である。心を慈心三昧に住して諸法実相を観察し、清浄にして染まらず、動かず壊れず、願わくは衆生が此の法の利益を得んことを。此の三昧を以て東方一切の衆生を愍念し、仏地の歓楽を得せしめん。十方世界の衆生を愍念するもまた是の如く、心を転動散乱せしめず。これを菩薩の慈心三昧法門と謂う。

原文:問うて曰く、何ぞ一時に総(すべ)て十方の衆生を念ぜざるや。答えて曰く、先ず一方を念ずれば、一心を得易し。然る後に次第に、周遍に諸方に及ぶ。問うて曰く、人に怨家有り、恒に相い害せんと欲す。如何にして慈を行じ、彼に楽を得せしめんと欲するや。答えて曰く、慈は是れ心法、心より出生す。先ず親しむ所より始め、親しむ所転(うつ)り増して、乃(すなわ)ち怨家に及ぶ。火の薪を焼くが如く、盛んなれば能(よ)く湿れるを燃やす。問うて曰く、或る時衆生は種種の苦に遭う。或いは人中に在り或いは地獄中に在り。菩薩は雖(いえど)も慈しむも、彼は何(いず)くんぞ楽を得んや。答えて曰く、先ず楽人より其の楽相を取り、彼の苦人に、彼の如き楽を得せしむ。敗軍の将の怖懼して胆を失い、彼の敵を見て皆な勇士と謂(おも)うが如し。

釈:或る人が問うて言う:何故同時に十方世界の衆生を念ぜず、一方ずつ念ずるのか?答えて曰く:先ず一つの世界の衆生を念ずれば、一心の初禅定を得易く、然る後に次第に他方世界の衆生を念じ、更に周遍に全ての世界の衆生を念ずる。もし一斉に同時に全てを念ぜば、恐らく心力が足りず、念じ出せないであろう。また問うて言う:各人には冤家がおり、常に自分を悩まし害そうとするが、如何にして彼らに慈を行じ、彼らをして楽しませようとするのか?答えて曰く:慈悲は心法、心より生ず。まず自分の至親より慈心を行じ始め、次第に親族を増やし、最後に冤家にまで拡大する。譬えば火が柴を焼く時に絶えず柴を増やすが如く、火が旺盛であれば湿った柴も燃やすことができる。

問うて言う:時として衆生は種々の苦受に遭うことがあり、時には人中に、時には地獄中にいる。菩薩は慈心を修行できるが、彼らは如何にして楽を得るのか?答えて曰く:まず楽しい人から、楽の相を取り、それらの苦しむ人々にも彼らと同じような楽を得せしめる。譬えば敗軍の将が既に恐れ、勇気と胆力を失い、自分の敵を皆な勇士と見做すが如し。

原文:問うて曰く、慈三昧を行ずるに、何の善利有るや。答えて曰く、行者自ら念ず、出家して俗を離るるは、応に慈心を行ずべしと。また思惟して言わく、人の信施を食(は)むは、宜(よろ)しく利益を行ずべし。仏の言うが如く、須臾(しゅゆ)に慈を行ずるは、是れ仏教に随う、則ち入道と為す。空しく施を受くるに非ず。復次に身は染服(ぜんぷく)を着(き)つれども、心は応に染むること莫(な)かれ。慈三昧の力は能(よ)く染まざらしむ。復次に我が心は慈を行ず。破法の世に於いて、我に法の人あり。非法の衆中に於いて、我に法の人あり。法の如くにして悩むこと無し。慈定の力の故に。菩薩行道は甘露門に趣(おもむ)く。種種の熱悩(ねつのう)は慈の涼冷(りょうりょう)の楽。仏の言うが如く、人の熱極まる時、清涼池に入るの楽。復次に大慈の鎧(よろい)を被(こうむ)りて煩悩の箭(や)を遮る。慈は法薬と為りて怨結の毒を消す。煩悩心を焼けども、慈は能く除滅す。慈は法梯(ほうてい)と為りて解脱の台に登る。慈は法船と為りて生死の海を渡る。善法の財に貧しきは、慈を上宝と為す。行きて涅槃に趣(おもむ)くは、慈を道糧(どうりょう)と為す。慈は駿足(しゅんそく)と為りて涅槃に度(わた)り入る。慈は猛将(もうしょう)と為りて三悪道を越ゆ。能く慈を行ずる者は、衆悪を消伏(しょうぶく)す。諸天善神は常に随い擁護す。

釈:問うて言う:慈心三昧を修行することに何の利益があるか?答えて曰く:行者は心に自ら念ず:出家して世俗を離れたのだから、慈心を修行すべきであると。また思惟して言う:信衆の恭敬布施を受用するならば、信衆に何らかの利益を与えるべきである。仏の説かれた如く、須臾の間慈を行ずることは、仏の教えに随順し、仏道に入る為であり、空しく信衆の布施を受用するのではない。また、身には染汚され得る出家衣を着ているが、心は再び染汚されるべきではない、慈心三昧の力が心を染まらせないようにするのである。

また、仏法を破壊する世間において、我心が慈を行ずるとは、心に仏法を持つ人であること。正法を行わない衆生の中にあって、私は正法を行う人である。正法に随って修行し心に悩み無し、慈心定力に摂持される故に。菩薩の修行の道は、甘露の門に趣く。心中の種々の熱悩は、慈心がこれを清涼ならしめ、心に法楽を得しめる。譬えば仏の説かれた如く、人が非常に熱を感じる時、清涼な池に入れば楽しくなる。また、菩薩が大慈悲の甲冑を身にまとわんとするならば、煩悩の毒矢を遮蔽し、慈心は法薬であり、怨結の毒害を消滅する。煩悩が心を灼く時、慈心は煩悩の火を滅する。慈心は仏法の階段であり、解脱の台に登る階梯である。慈心は法船であり、生死の海を渡り越える。善法財に乏しいならば、慈心は最上の宝であり、行うべきである。修行が涅槃に趣くならば、慈心は道糧である。慈心は力強い双足である。涅槃に度り入らんとするならば、慈心は勇猛な将士であり、三悪道を超越する。慈心を行う者は、衆多の悪賊を消滅降伏し、諸天善神は常に随従守護する。

原文:問うて曰く、もし当(まさ)に行人(ぎょうにん)、慈三昧を得たりとせば、如何にして失わざらしめ、また増益せしめんや。答えて曰く、戒を学び清浄にし、善を信じ倚(よ)りて楽しましむ。諸の禅定を学び、一心の智慧。閑静(かんじょう)なる処を楽み、常に放逸せず。少欲にして知足し、慈の教に順(したが)いて行ず。身を節し少く食し、睡眠を減損す。初夜後夜に思惟して廃(すた)れず。煩(わずら)わしき言語を省み、黙然として静を守る。坐臥行住(ざがぎょうじゅう)に時を知り消息(しょうそく)し、度(ど)を失して疲苦極まるに致(いた)らしむる莫(な)かれ。寒温を調和し、惱乱(のうらん)せしむる莫(な)かれ。是れ慈を益(ま)すと謂う。

釈:問う:もし修行人が慈心三昧を証得したならば、如何にして保持し失わず、尚お不断に慈心三昧を増長せしめるか?答えて曰く:戒律を修学し、心を清浄無染に保つべきであり、善と相応し、深く仏法を信じて軽安と喜楽を生起せしむ。諸々の禅定を修学し、一心の禅定と智慧を具足し、空閑の処に在ることを楽しみ、心を常に放逸せしめず、少欲にして善く知足し、心行において仏陀の慈悲の教えに随順し、自身を束縛し、飲食と睡眠を減らす。初夜と後夜に、常に仏法を思惟し、時を荒らさず。不必要な言語を減らし、黙然として清浄の心境を守持す。行住坐臥は時を知り節度有り、過分な造作なく、而して身心を疲労苦悩せしめず。色身を善く調え、過寒過熱ならしめず、身心を惱乱せしめず。是の如く不断に身心を調節すれば、不断に慈心三昧を増長することができる。

真心にて仏を学び修行する者は、是の如く身心を調節すべきであり、戒・定・慧の三無漏学が成就する。もし身行心行が此れに違うならば、調整し直し、改めるべきである。努力して貪染を降伏し、色身を尊崇せず、色身を貪愛せず、戒律を守持すれば、禅定が成就し、身心が軽安となり、観行の智慧が具足し、修行して法を証することができる。

原文:復次に仏道の楽、涅槃の楽を以て、一切の人に与う、是を大慈と名づく。行者思惟すべし、現在未来の大人(だいにん)は慈を行じ、一切を利益す。我もまた蒙(こうむ)る、是れ我が良祐(りょうゆう)なり。我は当に慈を行じ、畢(おわ)りて施恩に報いん。復更(またさらに)に念じて言わく、大徳の慈心は一切を愍念(みんねん)し、此れを以て楽と為す。我も亦た爾(しか)るべし。彼の衆生を念じて、仏楽・涅槃の楽を得せしめん、是れ恩に報ゆる為なり。復次に慈の力は能く一切をして、心に快樂を得せしめ、身を熱悩(ねつのう)より離れしめて清涼の楽を得せしむ。慈の福を持(じ)して行い、一切を安んずるを念じて以て其の恩に報ゆ。

釈:また、修行人は修学する仏道の楽、涅槃の楽を一切の人に齎すべきであり、これが大慈悲心である。行者は是の如く思惟すべきである。現在と未来の仏菩薩の大人は慈悲行を行い、私も彼らの恩徳を蒙る。仏菩薩は私の良師であり、仏法は私の良祐である。私も慈を行わねばならず、完全に良師が施与した恩徳に報いん。更に思惟して言う:大徳の慈心は一切を愍れみ、慈心を以て楽とする。私もまた是の如くあるべきであり、一切の衆生を愍れみ、仏法の楽しみと涅槃の楽しみを得せしめん。これが報恩の行である。また、慈悲の力は一切の人をして心に歓楽を得せしめ、身心を熱悩から離れしめて清涼の楽を得せしめる。慈悲の福徳を行持し、一切の人を愍念し安楽ならしめ、以て良師の恩に報いる。

原文:復次に慈には善利有り。瞋恚(しんに)の法を断つ。名称(みょうしょう)の門を開く。施主の良田(りょうでん)。梵天に生まるる因。離欲の処に住す。却(しりぞ)けて怨対(おんたい)を除く。及び斗諍(とうじょう)の根。諸仏称揚(しょうよう)す。智人愛敬す。能く浄戒を持(じ)つ。智慧の明を生ず。法の利を聞くことを得(う)る。功徳の醍醐(だいご)。決定して好人(こうにん)なり。出家の猛力。諸の悪を消滅す。罵辱(めじょく)の不善。慈報能く伏す。結集(けつじゅう)して悦楽(えつらく)せしむ。精進の法を生ず。富貴の根因。智慧の府(ふ)を弁(そな)う。誠信の庫蔵(こぞう)。諸善の法門。称誉(しょうよ)の法を致す。敬畏の根本。仏の正真の道。若し人悪を持して向かわば、還って自ら其の殃(わざわい)を受く。五種の悪語、非時の語・非実の語・非利の語・非慈の語・非軟(やわら)かなる語。是の五悪語は傾動(けいどう)する能(あた)わず。一切の毒害も亦た傷つくる能(あた)わず。譬えば小火、大海を熱すること能(あた)わざるが如し(此の下に優填王(うでんおう)が五百の箭(や)を持つ事を出すべし)。

釈:また、慈心には善法の利益があり、瞋恚の法を断ち、大いなる名声を得、衆生は知って親しまざるはなく、是れ施主の良き福田となる。慈心無瞋恚心は大梵天に生まれる因であり、離欲の処に住し、冤家対頭を除き、及び闘争諍訟の根源を絶つ。諸仏は皆称揚し、智者は皆愛護敬仰する。浄戒を受持する者は智慧明を出生する。仏法を聞き利益を得れば、出生する功徳は醍醐の如く、決定して善人利根の人であり、出家して後は修行猛力、一切の悪法を消滅し、罵辱等の不善法を慈心を以て報い、降伏することを得る。

多く善縁を結集し、衆生を悦楽せしめることは、即ち仏法における精進修行であり、富貴の因を結ぶ根源であり、智慧の府邸を建立し、誠実守信の庫蔵を有し、一切の善法の大門である。大衆の称誉を得ることは、大衆が敬畏する根本であり、仏法の正真の道である。もし人が悪心を以て向かえば、自らその災いを受ける。五種の悪語:言うべきでない時に言う言葉、真実でない言葉、利益にならない言葉、慈善でない言葉、柔和でない言葉。此の五種の悪語も其の慈心を動揺せしめることはできず、一切の毒害も傷つけることはできない。譬えば小さな火が大海を熱せしめることができないが如し。

原文:毗羅経(びらきょう)の中の優填王(うでんおう)阿婆陀那(あばだな)の説く所の如く。二の夫人有り。一名は無比(むひ)、二名は舍迷婆帝(しゃめいばてい)。無比は舍迷婆帝を誹謗(ひぼう)す。舍迷婆帝に五百の直人(じきにん)有り。王は五百の箭(や)を以て、一一に射殺せんと欲す。舍迷婆帝、諸の直人に語りて言わく、我が後に立て。是の時舍迷婆帝、慈三昧に入る。王、弓を挽(ひ)きて之を射るに、箭(や)其の足下に堕つ。第二の箭は還って王の脚下に向かう。王大いに驚怖す。復た箭を放たんと欲す。舍迷婆帝、王に語りて言わく、止(や)めよ止めよ。夫婦の義の故に相(あい)語るなり。若し此の箭を放たば、当に直(ただ)ちに汝の心を破らんとす。王の時恐畏(くい)して弓を投げ射を捨つ。問うて言わく、汝に何の術有るや。答えて言わく、我に異なる術無し。我は仏弟子なり、慈三昧に入る故なり。是の慈三昧は略説して三種の縁有り。生縁・法縁・無縁。諸の未だ道を得ざる者は是を生縁と名づく。阿羅漢・辟支仏(びゃくしぶつ)は是を法縁と名づく。諸仏世尊は是を無縁と名づく。是の故に略説して慈三昧門と為す。

釈:毗羅経の中の優填王阿婆陀那の説く所の如く、二人の夫人がいた。一人の名は無比、一人の名は舍迷婆帝。無比は舍迷婆帝を誹謗し、舍迷婆帝には五百人の忠実で剛直な下僕がいた。国王は五百本の矢を以て、一人一人を射殺さんとした。舍迷婆帝はこれらの下僕に言う:私の後ろに立て。この時舍迷婆帝は慈心三昧に入った。大王が弓を引き彼女を射ると、矢は彼女の足下に落ちた。第二の矢は大王の足下に落ちた。大王は驚き怖れ、また矢を射んとした。舍迷婆帝は大王に言う:止めよ止めよ。夫婦の恩義を念う故に告げる、もし此の矢を射れば、この矢は直接お前の心臓を射抜くであろう。大王は驚き恐れ、弓を投げ捨て射ることを止めた。舍迷婆帝に問う:お前は何の術を使ったのか?舍迷婆帝は答えて言う:私は何の術もない。私は仏弟子であり、慈心三昧に入った故に、此の如くできたのである。

此の慈心三昧は大略して三種の縁がある:生縁・法縁・無縁。未だ得道せざる者は生縁、阿羅漢・辟支仏は法縁、諸仏世尊は無縁、これが慈心三昧法門の略説である。

原文:菩薩道を行ずる者は三毒の中に於いて。もし愚痴が偏(かたよ)り多ければ、当に十二分を観じて二種の痴を破るべし。内には身の痴を破り、外には衆生の痴を破る。思惟して念じて言わく、我及び衆生は倶(とも)に厄難(やくなん)に在り。常に生じ常に老い常に病み常に死に常に滅し常に出づ。衆生は憐愍(れんみん)すべし、出づる道を知らず。何れの処よりか脱(だつ)せん。一心思惟すべし、生老病死は因縁より生ず。当に復た思惟すべし、何の因縁よりか生ずるや。一心思惟すべし、生は有に因縁す。有は取に因縁す。取は愛に因縁す。愛は受に因縁す。受は触に因縁す。触は六入に因縁す。六入は名色に因縁す。名色は識に因縁す。識は行に因縁す。行は無明に因縁す。

釈:菩薩道を修行する者は、貪・瞋・痴の三毒煩悩の中に於いて、もし愚痴が偏って多いならば、十二因縁分法を観行し、二種の愚痴を破るべきである。内には色身の愚痴を破り、外には衆生の愚痴を破る。思惟して言うべきである、私と衆生は共に苦悪災難の中にあり、常に生まれ、常に老い、常に病み、常に死に、常に滅し、常に出没する。衆生は憐愍すべきであり、出離の道を知らず、何れの処より解脱するかを知らない。

また一心思惟すべし、生老病死は因縁より生ず。更に思惟すべし、生は何の因縁より生ずるか。一心思惟すべし、生は三界の有に縁り、有は執取に縁り、取は三界への貪愛に縁り、貪愛は受に縁り、受は根塵の触に縁り、触は六根に縁り、六根は名色五陰に縁り、名色は前世の六識の不断の造作に縁り、前世の六識は意根の心行に縁り、意根の心行は意根の無明に縁る。

原文:是の如く復た思惟すべし、当に何の因縁を以てか生老死を滅せん。一心思惟すべし、生滅すれば故に老死滅す。有滅すれば故に生滅す。取滅すれば故に有滅す。愛滅すれば故に取滅す。受滅すれば故に愛滅す。触滅すれば故に受滅す。六入滅すれば故に触滅す。名色滅すれば故に六入滅す。識滅すれば故に名色滅す。行滅すれば故に識滅す。痴滅すれば故に行滅す。

釈:是の如く、更に思惟すべし、如何なる因縁を以て生老病死を滅除すべきか。於是一心思惟すべし、生が滅すれば、老死は滅す。三界有が滅すれば、生は滅す。取が滅すれば、有は滅す。愛が滅すれば、取は滅す。受が滅すれば、愛は滅す。触が滅すれば、受は滅す。六根が滅すれば、触は滅す。名色が滅すれば、六根は滅す。前世の六識の造作が滅すれば、名色は滅す。意根の心行が滅すれば、六識の造作は滅す。意根の無明が滅すれば、心行は滅す。

原文:此の中の十二分は如何。無明分は前を知らず。後を知らず前後を知らず。内を知らず外を知らず内外を知らず。仏を知らず法を知らず僧を知らず。苦を知らず習(しゅう)を知らず尽(じん)を知らず道を知らず。業を知らず果を知らず業果を知らず。因を知らず縁を知らず因縁を知らず。罪を知らず福を知らず罪福を知らず。善を知らず不善を知らず善不善を知らず。有罪法を知らず無罪法を知らず。応近法を知らず応遠法を知らず。有漏法を知らず無漏法を知らず。世間法を知らず出世間法を知らず。過去法を知らず未来法を知らず現在法を知らず。黒法を知らず白法を知らず。分別因縁法を知らず六触法を知らず実証法を知らず。是の如き種種の不知不慧不見闇黒無明、是を無明と名づく。

釈:此処の十二支分は如何なるものか。無明分法とは、前を知らず、後を知らず、前後を知らず。内を知らず外を知らず、内外を知らず。仏を知らず、法を知らず、僧を知らず。苦を知らず、集(習)を知らず、滅(尽)を知らず、道を知らず。業を知らず、果を知らず、業果を知らず。因を知らず、縁を知らず、因縁を知らず。罪を知らず、福を知らず、罪福を知らず。善を知らず、不善を知らず、善不善を知らず。有罪法を知らず、無罪法を知らず、有罪無罪法を知らず。応当に親近すべき法を知らず、応当に遠離すべき法を知らず。有漏法を知らず、無漏法を知らず。世間法を知らず、出世間法を知らず。過去法を知らず、現在法を知らず、未来法を知らず。黒法(不善法)を知らず、白法(善法)を知らず。分別因縁法を知らず、六触法を知らず、実証法を知らず。是の如き種々の不知不見は智慧無く、心中暗黒にして無明、これが無明法である。

原文:無明縁(よ)って行(ぎょう)を生ず。如何が行と名づく。行に三種有り。身行・口行・意行。如何が身行。入息出息は是れ身行の法。所以は何ん。是の法は身に属す。故に身行と名づく。如何が口行。覚有り観有り。是れ覚観を作(な)して已(おわ)りて、然(しか)る後に口語す。若し覚観無ければ、則ち言説無し。是を口行と謂う。如何が意行(痛(つう)は世界の人の著(ぢゃく)する所の三種の痛(つう)。痛は応に受とすべし。受は則ち界に随って苦楽を受く。上界には所有無きを以てなり。宜(よろ)しく言うべし、受想は出家の患う所なり)。痛想(受想)は是れ意法。意に係属する故に。是を意行と名づく。

復次に欲界に繋(け)がるる行。色界に繋がるる行。無色界に繋がるる行。復次に善行・不善行・不動行。如何が善行。欲界の一切の善行及び色界の三地(初禅・二禅・三禅)。如何が不善行。諸の不善法。如何が不動行。第四禅の有漏善行及び無色定の善有漏行。是を行と名づく。

釈:無明が縁って行を生ず。如何が行か。行に三種あり:身行・口行・意行。何が身行か?入息出息は身行法である。何故ならばこの法は色身上的な行為に属するから、身行と呼ばれる。何が口行か?内心に覚受(感覚)あり思想(観念)あり、覚観(感覚と思考)があって後、口の言語が現れる。もし覚観がなければ、言説はない。故に覚観は口行である。何が意行か?受想(感受と表象)は意行法であり、意に係属するから、意行と呼ばれる。

また、欲界に係属する行、色界に係属する行、無色界に係属する行は、全て行に属する。また、善行・不善行・不動行は全て行に属する。何が善行か?欲界の善行、及び色界の初禅天善行・二禅天善行・三禅天の善行を含む。何が不善行か?全ての不善法は不善行である。何が不動行か?第四禅の有漏善行、及び無色界定中の善有漏行、これらは全て行に属する。

意根の無明は直接にこれらの行を生じないが、意根は無明故に様々な心行、即ち意根の心所法(五遍行心所法及び様々な心所法)を有し、その後阿頼耶識が意根の心所法に配合して六識を出生し、六識が様々な身口意行、善行や不善行、欲界・色界・無色界の行、四禅以上の不動行、様々な有漏行を含む行を有するのである。

原文:行が因縁(よ)って識を生ず。如何が識と名づく。六種の識界。眼識乃至意識。是を六識と名づく。識が因縁(よ)って名色を生ず。如何が名と為す。無色の四分。痛(受)・想・行・識。是を名と謂う。如何が色と為す。一切の色、四大及び造色(ぞうしき)。是を色と謂う。如何が四大。地・水・火・風。如何が地。堅重の相は地。濡湿の相は水。熱の相は火。軽動の相は風。余の色は見る可し。有対無対は是を造色と名づく。名色和合して是を名色と謂う。

釈:行の因が識を生ず。何が識か?六種の識界:眼識乃至意識、これを六識と呼ぶ。六識の因が名色を生ず。何が名か?無色界の四種:受・想・行・識が名である。何が色か?一切の色法、四大種子及び造色の大種が色である。何が四大か?地水火風である。何が地か?堅硬で重い相が地、濡れて湿った相が水、熱い相が火、軽く動く相が風である。他の見える色相で、五根と有対・無対の関係にあるものが造色である。名色が和合したものが名色五陰である。

原文:名色が因縁(よ)って六入を生ず。如何が六入。内六入。眼内入乃至意内入。是を六入と名づく。六入が因縁(よ)って触を生ず。如何が触。六種の触界。眼触乃至意触。如何が眼触。眼が色に縁って眼識を生ず。三法の和合、是を眼触と名づく。乃至意触も亦た是の如し。触が因縁(よ)って受を生ず。如何が受。三種の受。楽受・苦受・不苦不楽受。如何が楽受。愛使(あいし)。如何が苦受。恚使(いし)。如何が不苦不楽受。痴使(ちし)。復次に楽受は楽を生じ、楽に住して苦を滅す。苦受は苦を生じ、苦に住して楽を滅す。不苦不楽受は苦を知らず楽を知らず。

釈:名色の因が六入を生ず。何が六入か?内六入、眼の内入、耳の内入、鼻の内入、舌の内入、身の内入、意の内入、合わせて内六入である。六入の因が触を生ず。何が触か?触は六種の触界を含む:眼触・耳触・鼻触・舌触・身触・意触。何が眼触か?眼根が色塵に縁って眼識を生じ、三者が和合して触となる。同様に耳触・鼻触・舌触・身触・意触もまた同様である。触の因が受を生ず。何が受か?三種:楽受・苦受・不苦不楽受。何が楽受か?貪愛によって引き起こされる受、貪愛が引き出す受が楽受。何が苦受か?瞋恚によって引き起こされる受、瞋恚が引き出す受。何が不苦不楽受か?愚痴によって引き起こされる受、愚痴が引き出す受。また、楽受は楽を生じ、楽受に住すれば苦を滅す。苦受は苦を生じ、苦受に住すれば楽を滅す。不苦不楽受は苦を知らず楽も知らない。

原文:受が因縁(よ)って愛を生ず。如何が愛。眼が色に触れて愛を生ず。乃至意が法に触れて愛を生ず。愛が因縁(よ)って取を生ず。如何が取。欲取・見取・戒取・我語取。取が因縁(よ)って有を生ず。如何が有。三種の有。欲有・色有・無色有。下は阿鼻(あび)の大泥梨(だいないり)より上は他化自在天(たけじざいてん)に至る。是を欲有と名づく。及び其の能(よ)く生む業。如何が色有。下は梵天より上は阿迦尼吒天(あかにたてん)に至る。是を色有と名づく。如何が無色有。虚空より乃至非有想非無想処に至る。是を無色有と名づく。有が因縁(よ)って生を生ず。如何が生。種種の衆生、処々に生み出だす。受陰(五蘊)を得て持たしめ入らしめ、命を得しむ。是を生と名づく。生が因縁(よ)って老死を生ず。如何が老。歯落ち髪白く皺多し。根熟(こんじゅく)根破(こんは)れ気噎(けい)す。身偻(しんろう)して杖を拠(よ)りて歩行す。陰身朽(く)ちる故。是を老と名づく。如何が死。一切の衆生、処々に退落し堕ち滅す。死を断ち寿命を失い尽くす。是を死と名づく。先ず老いて後に死す、故に老死と名づく。

釈:受覚の因が貪愛を生ず。何が貪愛か?眼根が色塵に触れ、耳根が声塵に触れ、鼻根が香塵に触れ、舌根が味塵に触れ、身根が触塵に触れ、及び意根が法塵に触れて、貪愛を生ず。貪愛の因が執取を生ず。何が執取か?欲界の生死煩悩に執着し、捨てようとしない。我見邪見煩悩に執着し、棄てられない。解脱の因でない戒条や律則に執着し、棄てようとしない。内心の自我の覚観に執着し、棄てられない。執取の因が有を生ず。何が有か?欲界に存在する法・色界に存在する法・無色界に存在する法、三種を総称して有という。下は阿鼻地獄から上は他化自在天までが欲界に存在する法及び欲界が生み出す業行。色界は下は初禅天から上は阿迦膩吒天に存在する法及び生み出す業行が色界有。空無辺処天から上は非想非非想処天までが無色界に存在する法及び無色界が生み出す業行。

三有の因が生命を生ず。何が生か?種々の衆生が三界に於いて処々に出生する。三界有がなければ生命体は出生しない。生まれた後は五受陰(五蘊)あるいは四受陰が身を持ち、入ることができ、寿命を得る。これが生である。生の因が老死を生ず。何が老か?歯が抜け、髪が白くなり、皮膚に皺が多く、身根が老耄して壊れ、気力が通じず、腰が曲がり、歩くには杖が必要で、五陰身が朽ちれば老いたことを示す。何が死か?三界の一切の衆生が各々の生存の処で落ち堕ち滅び亡ぶ、寿命が断ち尽くされる。これが死である。先に老いて後に死ぬ、故に老死と呼ぶ。

原文:是の中の十二因縁は、一切の世間は、無因無縁の辺(へん)より出ずるに非ず、天辺より出ずるに非ず、人辺より出ずるに非ず、種種等の邪縁辺より出ずるに非ず。菩薩は十二因縁を観ずるに、心を繋げて動かず、外念を令(し)むること莫(な)かれ。外念諸縁。之を摂めて還(かえ)らしめよ。十二分を観じて三世の中に生ずるを。前生・今生・後生。菩薩もし心の住するを得ば、当に十二分の空にして主無きを観ずべし。痴は我が行を作(な)すを知らず。行は我が痴より有るを知らず。ただ無明の縁(よ)って行生ず。草木の種が子より芽出すが如く。子も亦た我が芽を生ずるを知らず。芽も亦た子より出づるを知らず。乃至老死も亦た是の如し。是の十二分の中に一一に観知して、主無く我無し。外の草木に主無きが如く。ただ倒見より計(はか)りて吾我(ごが)有りとす。

釈:ここに説く十二因縁法は、一切の世間法相が無因無縁で生じるのではなく、全て因縁の縁(へん)から生じるのであり、天辺から、人辺から、種々の縁辺から生じるのではなく、これらの種々の縁を借りて、因によって生じるのである。菩薩は十二因縁を観察し、心を繋いで動かさず、心念が他法に外縁して外に攀縁しないようにせよ。もし心念が外法に縁って外に攀縁すれば、心念を収め戻せ。十二因縁支分が生じる三世、今世・前世・後世を観察せよ。

菩薩が観行中に心を此法に住せしめることができれば、十二因縁支分が全て空であり、主人がおらず、真実の各支分法が無いことを観行すべきである。愚痴無明は自らが身口意行を造作する因であることを知らず、身口意行は自らが愚痴故にあることを知らない。ただ無明の縁によって行が生じるのである。譬えば草木の種子が草木の種や芽から生じるが、種子も自ら芽を生じることを知らず、芽も自らが種子から生じることを知らない。同様に無明から老死までもそうであり、互いに生じたことを知らない。故に十二因縁支分を観察し、各支分が無主無我性であることを観察せよ。譬えば外界の草木に主が無いが、倒錯した知見によって我が有ると想い計るが如し。

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