背景 戻る

書籍
作品

座禅三昧経講義

作者: 更新時間:2025-07-14 04:02:22

第九章 四念止観を修習して涅槃に向かう

原文:世尊の弟子は、五つの法門を習学し、涅槃を志求する。二種の人がいる。あるいは定を好むことが多い者は、楽しみの故である。あるいは智を好むことが多い者は、苦患を畏れる故である。定の多い者は先に禅法を学び、後に涅槃を学ぶ。智の多い者は直ちに涅槃に向かう。直ちに涅槃に向かう者は、未だ煩悩を断たず、また深い禅を得ていないが、専心散乱せず、直ちに涅槃を求め、愛などの諸煩悩を超越する。これを涅槃と名づける。身は実に無常・苦・不浄・無我である。心が顛倒している故に、常楽我浄であるとする。この故に事々にその身を愛着する。これが卑下の衆生である。

釈:世尊の弟子は五つの法門を修習し、志を立てて涅槃を求める。涅槃を求める人は二種に分かれる。一種の人は禅定を好み、非想非非想処定まで修め続ける。禅定は人を楽しませる縁故であり、この故に禅定に迷い、定が多く慧が少なくなり、定解脱の阿羅漢となる。一種の人は智慧を好み、生死の苦という種々の過患を恐れ、過剰な深い禅定を修習する時間を費やすことを好まず、生死から解脱できれば良いとし、この故に智慧が禅定よりも多く、慧解脱の阿羅漢となる。定の多い者は先に禅法を学び、後に涅槃の理を学ぶ。智慧の多い者は直ちに涅槃に向かい、二禅から非想非非想処定までは修めない。

慧が多く定が少なく直ちに涅槃に向かう人は、煩悩を断除せず、また深い禅定を証得していない時に、専心致志して心を繋ぎ散乱させず、五蘊の苦・空・無常・無我を観行し、涅槃を求めれば、三界の愛繋などのあらゆる煩悩を超越して断除し、故に涅槃できるのである。色身は確かに無常であり苦であり、不浄であり無我である。心に顛倒想がある故に、常楽我浄であると見做す。これらの顛倒想の故に、事々にその身を愛着し、卑下の衆生に落ち、三界に乞うのである。

原文:行者が顛倒を破らんと欲する故に、四念止観を習うべきである。身には種々様々に多くの苦患があると観じる。因縁から生じる故に無常であり、種々の悩みがある故に苦であり、身に三十六物がある故に不浄であり、自在を得られない故に無我である。このような観を習い、内身を観じ、外身を観じ、内外の身を観じる。このような観を習う。これを身念止と謂う。身の実相はこのようである。何故これについて顛倒を起こし、この身を愛着するのか。諦かに思惟して念う。身には楽受がある。楽受を愛する故にこの身に執着する。楽受は実に得られないと観ずべきである。

釈:修行人がもし種々の顛倒を破りたいならば、四念処観を修習し、色身には種々に多くの苦患があり、全て因縁から生じ、無常であり、種々の煩悩がある故に苦であると観察すべきである。色身には五臓六腑などの三十六物がある故に不浄であり、色身が自在でない故に無我である。このような観行を修習し、内身を観察し、外身を観察し、内外の身を観察し、このような観行を修習する、これが身念住である。色身の真実相はこのようである。何故色身に対して顛倒想を生じ、この身を愛着するのか。仔細に思惟すれば、元は色身の楽受に貪着しているからであり、楽受を貪愛する縁故に色身に貪着するのである。楽受は確かに得られないと観察すべきである。

原文:どうして得られないのか。衣食の故に楽がもたらされるのではない。楽が過ぎれば苦が生じる。真実の楽ではない故である。瘡の患いの苦しみのようである。薬で塗って治せば、痛みが止まって楽と感じる。大苦がある故に、小苦を楽と謂う。真実の楽ではない。また、故苦を苦とし、新たな苦を楽とする。重い荷物を担いで肩を替えるように、新たな重さを楽とする。真実で常なる楽ではない。火の性質が熱いように、一時も冷たい時はない。もし真実の楽ならば、不楽があってはならない。

釈:何故衣食の縁故に楽を得られないのか。楽の後には苦悩が現れるからであり、この楽は真実の楽ではないからである。身体に瘡ができて苦悩が生じ、薬で身体を塗れば、痛みが止まって楽と感じる。大苦を受けた故に、小苦を楽と見做すのであり、これは真実の楽受ではない。また言う、元々の苦を苦とし、新しく現れた苦を楽と見做す。肩に重い荷物を担ぎ、肩を替えて担げば、もう一方の肩に重さがかかるのを楽と見做すのであり、これは真実の楽ではない。火の性質が常に熱く、一瞬たりとも冷たい性質がないように、色身の苦性もまた同様であり、一時も楽の時はない。もし真実の楽があるならば、不楽の時があるべきではない。

原文:或る者は言う。外事は楽の因縁である。必ずしも楽ではない。ある時は楽の因となり、ある時は苦の因となる。もし心法が愛と相応すれば、その時は楽である。瞋恚と相応すればその時は苦である。愚痴と相応すれば苦でも楽でもない。これによって推し量れば、楽があるかないかが分かる。答えて言う。そうではない。淫欲は楽であるべきではない。何故か。もし淫欲が内にあるならば、外に女色を求めるべきではない。外に女色を求めるならば、淫欲が苦であると知るべきである。もし淫欲が楽ならば、時々棄てるべきではない。もし棄てるならば、楽であるべきではない。大苦の中で小苦を楽としているのである。人が死ぬべきところ、命を全うして鞭を受けるのを楽としているようである。欲心が熾盛で、欲を楽とする。老いて欲を厭う時、欲が楽ではないと知る。もし真実の楽の相ならば、厭いを生ずべきではない。このような種々の因縁により、欲楽の相は実に得られない。楽が失われれば苦となる。仏は言う。楽受は苦と観ずべきである。苦受は楽と観ずべきである。体に矢が刺さっているようである。苦でも楽でもない受は生滅無常と観ずべきである。これを痛念止と謂う。心が苦受・楽受・不苦不楽受を受けていると知るべきである。

釈:ある者は言う、身外の事は全て楽を生む因縁であり、因縁は必ずしも楽ではなく、因縁は時には楽の因となり、時には苦の因となる。もし心が喜楽と相応すれば、この時心は楽である。瞋恚と相応すればこの時心は苦である。愚痴と相応すればこの時心は不苦不楽である。これによって苦楽の因を推求すれば、心に楽があるかないかが分かる。

この問題に対する回答は:そうではない、淫欲は楽であるべきではない。何故そう言えるのか。もし淫欲が身内にあるならば、外に再び女色を求めて楽を得るべきではない。もし外に貪って女色を求めるならば、淫欲が苦であると知るべきである。もし淫欲が楽ならば、楽受は少しずつ消失すべきではない。もし楽受が消失するならば、楽であるべきではなく、これは大苦の中で小苦を楽と見做しているのである。例えば、ある人が死ぬべきところ、もしその命を保全して鞭打ちの刑罰を受けられれば、その人は鞭打ちを楽と見做す。

同じく、淫欲心が熾盛な人は、淫欲を楽しみとし、年老いて淫欲を厭離し始め、淫欲は楽ではないと知る:もし淫欲が確かに楽の相であるならば、淫欲に厭離心を生じるべきではない。このように種々の楽の因縁を述べ、淫欲の楽相は確かに得られないことを説明し、楽受が失われれば苦悩が訪れる。仏は言う、楽受の時はその中の苦を観察すべきであり、苦受の時は楽を観察すべきであり、苦受であれ楽受であれ毒矢が身体に隠れているようである。不苦不楽受の時は受覚の生滅無常性を観察すべきであり、これを修習して受念処という。この時、心が苦受・楽受・不苦不楽受を受けていると知るべきである。

原文:何が心か。この心は無常である。因縁から生じる故に、生滅して住まない。相似して生じる故である。ただ顛倒の故に、一であると謂う。本無く今有り、有って後還って無し。この故に無常である。心が空であると観知する。

何が空か。因縁から生じる。眼があり色があり見える。憶念し見ようと欲する。このような等の和合により眼識が生じる。日愛珠のようである。日があり珠があり、乾いた草や牛糞などの衆縁が和合して、ここに火が生じる。一つ一つ推求すれば、火は得られない。縁が和合して火がある。眼識もまた同様である。眼の中に住まず、また色の中に住せず、両者の中間に住せず、住する所無し。また無くもない。この故に仏は言う。幻の如く化の如しと。現在の心で過去の心を観る。或いは苦、或いは楽、或いは不苦不楽。心は各々異なり各々滅する。欲心有るも欲心無きもまた同様である。各々異なり各々滅する。内の心を観、外の心を観、内外の心を観るもまた同様である。これを心念止と名づける。

釈:何が心か。所謂る心は無常であり、因縁から生じ、生滅性が決して止まず、それによって一切の法が生じたかのように見える。ただ心が顛倒している故に、心は恒常で永久に変わらないと考える。心は本来無く、今現れ、現れた後はまた滅する。それ故に無常であると言う。

何故空なのか。心は因縁から生じるからである。眼根があり見える色塵があり、憶念する心があり、色を見たいという欲望がある。これらの因縁条件が和合し、眼識が生じる。それ故に眼識は空である。日愛珠の火器のようである。太陽があり、凸レンズがあり、乾いた草あるいは牛糞などの因縁条件が和合し、ここに火が生まれる。一つの因縁ずつ推求すれば、火性は得られない。因縁が和合して初めて火がある。眼識もまた同様であり、眼根の中に住せず、色塵の中にも住せず、眼根と色塵の中間にも住せず、住する所が無い。また存在しないわけでもない。

それ故に仏は言う、一切の法は幻の如く化の如しと。現在の心で過去の心を観察し、或いは苦、或いは楽、或いは不苦不楽である。心は各々変異し、各々滅する。欲心有り無欲心もまた同様であり、各々変異し、各々滅する。内の心を観察し、外の心を観察し、内外の心を観察するも、皆同様であり、念念生滅変異する。これが心念住である。

原文:また心が誰に属するかを観る。想・思惟・念・欲などの諸心相応法・不相応法を観察し、その主を諦かに観る。主は得られない。何故か。因縁から生じる故に無常であり、無常故に苦であり、苦故に自在でなく、自在でない故に主無く、主無い故に空である。

前に別々に身・受・心・法を観察して得られないことを観た。今更に総じて四念止の中を観る。主は得られない。この処を離れて求めても得られない。もし常ならば得られるべきではない。無常もまた得られない。もし常ならば常に苦であり常に楽であるべきであり、また忘れるべきではない。もし常に神があるならば、殺害や悩みの罪も無く、また涅槃も無い。もし身が神ならば、無常の身が滅すれば、神もまた滅すべきであり、また後世も無く、また罪福も無い。このように遍く観て主無し。

釈:また、心が誰に属するかを観察し、想う心、思惟する心、貪欲を念う心など、これらの心相応法と心不相応法を観察し、これらの心の主人を仔細に観察する。主人は得られない。何故か。これらの心は皆因縁から生じるからであり、無常である。無常は苦であり、苦は自在でなく、自在でない故に主無く、主無い故に空である。

以前に個別に身・受・心・法が皆得られないと観察した。今更に総じて四念住の中を観察する。その主人も得られず、四念住の中を離れて主人を求めても得られない。もし常法が得られないならば、無常法もまた得られない。もし常法があるならば、常苦と常楽であるべきであり、苦楽が変異転変すべきではなく、また苦楽受を忘れるべきではない。もし常に神识が存在するならば、殺害や瞋恚の罪も無く、涅槃も無い。何故ならば、この時神识は変異するか滅するかのどちらかだからである。もし身体が神识ならば、無常の色身が滅すれば、神识もまた滅すべきであり、後世も無く、罪福性も無い。このように遍く観察すれば、確かに身・受・心・法には主人が無い。

原文:諸法は皆空であり自在でない。因縁が和合する故に生じ、因縁が壊れる故に滅する。このように因縁和合法を思惟する。これを法念止と名づける。もし行者が法念止を得れば、世間の空なる老病死の法を厭い、その中に少しの常楽我浄も無いことを知る。我はこの空法の中で、更に何を求めようか。涅槃に入るべきである。最善の法の中に住すべきである。精進力を建て、深いシャマタを得んとする故である(深舍摩陀とは心を一処に住す名である。此の国にはこの名無し)。

釈:一切の法は全て空であり自在でない。因縁が和合する時に初めて生じ、因縁が散壊すれば滅する。このように因縁和合法を思惟する。これが法念処である。もし行者が法念処を修行し、心念が止息することを得、法に着き法を求めようとせず、世間の空法・生老病死法を厭離し、その中に少しの常楽我浄も無ければ、我はこれらの空法の中で何を求めようか、涅槃の最善法の中に入って住すべきである。今、精進して修行し、甚深なシャマタを証得しようとする。

原文:この時深いシャマタを得る。第四の法念止の中に住し、諸法の相は皆苦であり楽無しと観ずる。楽無しが実である。それ以外は妄語である。苦の因は愛などの諸煩悩及び業である。これは天でも時でも塵でもないなどの種々の妄語の中から生じる。この煩悩及び業がこの苦を生み出す。この苦は涅槃に入る時に一切滅し尽きる。色界・無色界及び世界の始まり(外道は一切の有法の初めの色を世界の始まりとする。外道はこれを涅槃とする。この始まり有るが故に万物を化して作ることができ、即ち造化と名づける)などの種々の妄語はこの苦を滅することができる。正見などの八正道は涅槃の道である。その他の外道の苦行ではない。種々の空なる持戒、空なる禅定、空なる智慧ではない。

釈:そこで精進した後に甚深なシャマタを証得し、第四念住である法念住の上に住し、心が止息を得る。諸法の法相は皆苦であり楽が無いと観察する。楽無しが真実相であり、楽しく苦でないなどと言うのは妄語である。世間の苦因は貪愛などの煩悩と業障によってあり、妄見である非天・非時・非塵などの妄語がある故に、苦受が生じる。煩悩と業障がある故にこれらの苦受があり、これらの苦受は涅槃に入る時に全て滅し尽き、色界・無色界や世界の始まりも無くなる。世界に生があるなどのこれらの妄語・不実語の苦受も滅し去り、正見・正語・正思惟・正業・正命・正精進・正念・正定の八正道は涅槃に向かう道であり、その他の外道の苦行が涅槃に向かうのではなく、また彼らの種々の空なる持戒、空なる禅定、空なる智慧が涅槃に向かうのでもない。

原文:何故か。仏法の中では戒・定・慧の三法を合わせて行い、涅槃に入ることができる。譬えば人が平地に立ち、良き弓箭を持てば怨賊を射殺できる。三法を合わせて行うのもまた同様である。戒は平地であり、禅定は良き弓であり、智慧は利箭である。三つの事が備われば、煩悩の賊を殺すことができる。この故に外道の輩は涅槃を得られない。行者はこの時、四法を縁として、縁を観ることを射博の如くとする。苦を四種観ずる。因縁から生じる故に無常であり、身心が悩ます故に苦であり、一つとして得るもの無し故に空であり、作る者無く受ける者無い故に無我である。

釈:何故そう言うのか。仏法の中では戒定慧の三法を共に行い、初めて涅槃に入ることができる。譬えば人が平らな地に立ち、良き弓箭を持てば怨賊を射殺できる。戒定慧の三法が和合して修行するのもまた同様である。戒は平地、禅定は良く使える弓、慧は箭であり、三つが全て備わって初めて煩悩の賊を殺すことができる。この道理によって、あの外道の輩は涅槃を得られない。行者はこの時、四つの法を縁として観行を行い、諸法の因縁を観行することは矢を射るようである。四種の苦受を観行する:一切の法は因縁から生じる故に無常である。身心が焼き悩ます故に苦である。世間に一法も得るもの無し故に空である。造る者も無く受ける者も無く、一法も自己に属するものは無い故に、一切の法は皆無我である。

原文:習を観る四種。煩悩有漏業が和合する故に集まり、相似の果が生じる故に因となる。この中で一切の行を得る故に生じ、相似の果でない相続する故に縁となる。尽を観る四種。一切の煩悩が覆う故に閉じ、煩悩の火を除く故に滅す。一切の法中で第一である故に妙であり、世間を過ぎ去る故に出る。

道を観る四種。涅槃に到ることができる故に道であり、顛倒しない故に正であり、一切の聖人の去る処である故に跡であり、世の愁悩から解脱を得る故に離である。このように観ずる者は無漏の相似法を得る。これを暖法と名づける。何を暖と名づけるのか。常に勤めて精進する故に暖法と名づける。諸煩悩の薪に無漏の智火が、火を焼き出さんとする初めの相を暖法と名づける。譬えば火を鑽るに初めに煙が出る。これを暖と名づける。これが涅槃の道の初めの相である。

釈:四種の念処を観行し修習し、煩悩有漏業は和合するものであることを知り、故に集起という。煩悩が世間の五蘊身を集起し、未来に相似の果が生じる故に、煩悩有漏業は未来の果報の因である。因縁果報を実現する過程には業報の運行があり、故に果が生じる。果報に属さない法が相続して絶えず運行するのは果報が現行する縁である。この四種の法を観行し尽くせば、一切の煩悩が自心を覆うことを知り、故に遮閉という。煩悩の火を除滅できる故に、煩悩は滅する。四念処観は一切の法中で第一の法である故に妙法であり、衆生を世間法から離脱させることができる故に出離法である。

観行の方法には四種あり、涅槃に達することができる故に道といい、心を再び顛倒させなくする故に正といい、一切の聖人が必ずここを通る故に聖跡といい、世間の憂愁煩悩を離脱できる故に離という。このように観行する人は、相似の無漏法を証得でき、暖法と名づけられる。

何を暖というのか。内心が常に精進して四念処法を修習する故に、暖法という。諸煩悩の薪で無漏の智慧の火を燃やし、智慧の火が今まさに出ようとする時を暖法という。譬えば鑽火鑽で火を鑽るに、始めて鑽る時に煙が出るのを暖相という。これが涅槃の道の初めの相である。

原文:仏弟子の中に二種の人がいる。一者は多く一心を好み禅定を求める。この人は有漏の道である。二者は多く愛着を除き、真実の智慧を好む。この人は直ちに涅槃に向かう。暖法の中に入る。暖相有る者は、深く一心の実法鏡を得て、無漏の界の辺に到る(鏡中の像は面に似て界の辺にあり中ではない故に以て譬えとする)。行者はこの時大いに安隠を得る。自ら念う、我は必ず涅槃を得るであろうと。この道を見る故である。

釈:仏弟子は二種に分かれる。一種の人は禅定を喜び楽しみ、多く禅定を修め、一心に禅定の快適さ自在を求めるが、智慧を増長させ煩悩を降伏させることを勤めず、有漏道を修行する。一種の人は智慧を勤め求め、自らの煩悩を反観し、自らの貪愛を除去することに注意し、この種の人は直ちに涅槃に向かうことができる。修行の初歩として暖法に入り、暖相を得た人は、一心の初禅禅定境界を証得し、煩悩を断除する辺縁に修める。この時修行人は大いなる安穏を得る。何故ならば煩悩を断じ尽くし涅槃に向かおうとしているからであり、自ら必ず涅槃を証得できると知る。暖相を証得する。

原文:人が井戸を穿つように、湿った泥に至れば、水を得るのは間もないと知る。人が賊を撃つように、賊が既に退散すれば、自ら勝つを得たと知り、意中安隠である。人が死を怖れるように、人が生きているか知りたいならば、先ず試すべきである。杖で身体を打てば、もし隠疹脈が起きれば、暖があると知り、必ず生きられる。また法を聴く人のように、思惟して喜悦の心が着く。この時心が熱する。行者はこのように暖法有る故に有暖と名づけられる。また涅槃分の善根を得ることができると名づけられる。

釈:人が井戸を穿ち、湿った泥に出会えば、心の中で間もなく水が出ると知る。人が賊を打ち、賊が既に退散すれば、自ら勝利を得たと知り、心が安穏になる。人が死を恐れ、ある人が既に死んだかどうかを知りたいならば、先ず試すべきであり、木杖でその身体を打てば、もし身体の脈象が微かに動けば、身体にまだ暖度があると知り、必ず生き返る。また法を聴く人が、仏法を思惟して喜悦の心が生じ、この時心に熱流があるように感じる。行者はこのように暖相有り、これを有暖といい、また涅槃分の善根を得ることができるといい、分証涅槃解脱する。

原文:この善根の法は十六行の四諦に縁り、六地の中の一智慧である。一切の無漏法の基である。野人も行うことができ安隠である(無漏に疎い故に野人と名づける。梵本によれば先に凡夫人と言うが非ず)。これを有暖法と名づける。増進して転じて更に上れば頂法と名づける。乳が酪に変わるように。この人は法の実相を観る。我は苦を脱するを得んと。心はこの法を愛する。これが真実の法である。種々の苦患及び老病死を除くことができる。

釈:この種の善根の修持方法は四聖諦に縁り十六種の行相があり、欲界と色界の六地の中で涅槃の智慧を生じることができ、一切の無漏法の基礎であり、煩悩の重い人でも修行して安穏を得られ、暖法と呼ばれる。この智慧が更に増進成長すれば、頂法と呼ばれる。牛乳が酥酪に変わるように、この人は仏法の真実相は空・苦・無常であると観行し出し、即ち願いを発する「我はこの苦を脱するべきである」と。心は四聖諦法を愛楽し、これを真実法と見做し、種々の苦患と老病死を除去できると考える。

原文:この時思惟する。この法は誰が説いたのか。仏世尊である。ここに仏宝を得て信心が清浄となり、大いなる歓喜が生じる。もしこの法が無ければ、一切の煩悩は誰が遮ることができようか。我はいかがして、真実の智慧の少々の明を得るべきか。ここに法宝を得て信心が清浄となり、大いなる歓喜が生じる。もし我が仏弟子輩の良き伴侶善友を得なければ、いかがして真実の智慧の少々の明を得るべきか。ここに僧宝を得て信心が清浄となり、大いなる歓喜が生じる。この三宝の中に一心清浄を得て、真実の智慧と合す。これが頂善根である。また頂法と名づけられ、また涅槃分の善根を得ることができると名づけられる。

釈:この時、四聖諦法・四念処法は誰が説いたのかと思惟する。仏世尊が説いたのであり、それ故に仏宝に対する清浄な信心を得て、心大いに歓喜する。また心に念じて思惟する。もしこのような仏法が無ければ、我の一切の煩悩は誰が遮止し降伏できようか。我はいかにしてこのような智慧を証得し、少々の智慧の光明を得るべきか。そこで法宝に対する清浄な信心を得て、心大いに歓喜する。また思惟する。もし我に仏弟子輩の良き伴侶善友が無ければ、如何にして真実の智慧を得、少々の智慧の光明を持つべきか。そこで僧宝に対する清浄な信心を得て、心大いに歓喜する。三宝の中で一心清浄信楽を得て、真実の智慧と合する。これが頂善根であり、また頂法と呼ばれ、また涅槃の解脱分善根を得ることができると呼ばれる。

原文:如く波羅延経の中に説く。

仏宝・法宝・僧宝    誰か少信浄有る

是れ名けて頂善根    汝ら曹、一心に持て

何を少信と為す。仏・菩薩・辟支仏・阿羅漢の辺りでは少と為し、野人の辺りでは多と為す。また、これは破られ失せうる故に少と名づける。法句の説く如し。

芭蕉は実を生じて死す    竹は実を生じてまた然り

騾馬は子有れば則ち死す    小人は養を得て死す

破失は利ならざる故に    小人は名誉を得て

白浄分は失い尽くし    頂法に至るまで堕つ

釈:波羅延経に説く、仏宝・法宝・僧宝、誰がこの三宝に少々の清浄な信心を持つか、それが最上の善根である。汝ら大衆は一心に奉持し、三宝を恭敬すべきである。何を少々の信心というのか。仏・菩薩・辟支仏・阿羅漢に少信があるのを少とし、無漏の善根から遠い煩悩の重い人に少々の信があるのを多とする。この少々の信心は退失し破壊されやすい故に、少という。

法句経に説く如く、芭蕉は一旦実心を生長させれば死に、竹は一旦実心を生じればまた死に、騾馬は子を生めば死に、小人は恩養と尊重を得れば得意になって心を失い、恩養は小人にとって益が無い。小人が一旦名誉を得れば、善根は消失し尽くし、修得した頂法も退堕する。

原文:また諸々の結使を断ぜず、無漏の無量慧心を得ていない。この故に少と名づける。また勤めて精進し一心に、涅槃の道の中に入り、更に了々と五陰・四諦・十六行を観る。この時心は縮まず悔やまず退かず、愛楽して忍に入る。これを忍善根と名づける。何を忍ずるか。四諦の行に随う。これを忍と名づける。この善根に三種あり。上・中・下の三時である。何を忍と名づけるか。五陰の無常・苦・空・無我を観て、心が忍可して退かない。これを忍と名づける。

釈:また、諸々の煩悩結縛を断除せず、無漏の無量慧心を得ていない。それ故に少信であるという。精勤精進して修行し一心三昧を証得し、涅槃の道の中に入り、更に仔細に五陰・四聖諦の十六種の行相を観行し、この時心は縮まず悔やまず退失せず、心は四聖諦法を愛楽し修習して忍位に入る。これを忍善根という。何の法を忍ずるか。四聖諦法に随順して行うことが忍であり、忍善根は上中下の三種に分かれる。何が忍か。五陰の無常・苦・空・無我を観察し、心が忍可して退失しないことを忍という。

原文:また。諸々の世間は尽き、苦であり空であり楽無しと観ずる。この苦の因は習愛などの諸煩悩である。これが習智縁尽である。これを上法と名づける。更に上は無し。八正道は行人をして涅槃に至らしめることができ、更に上は無し。このような信心は悔やまず疑わず、忍ずることを忍と名づける。この中に更に忍有り。種々の結使、種々の煩悩疑悔が心中に入って来ても、破ることができない。譬えば石の山のようである。種々の風水も漂動させることができない。この故に忍と名づける。この事を得て名づけて真の好い野人である。

仏の法句の中に説く如し。

世界の正見は上なり    誰か多く得る者有る

千万歳に至るまで    終に悪道に堕ちず

釈:また全ての世間は苦空であり楽が無いと観察する。貪愛などの煩悩を熏習することは苦の因であり、貪習の縁が尽きて解脱の智慧を得るのが上忍法であり、更に上は無い。八正道は修行人を涅槃の楽に至らせることができる。それ故に更に上は無い法である。このように四聖諦法に対する信心を生じ、悔やまず疑わず、このように忍耐することを忍という。種々の煩悩結使・種々の疑悔が皆自心を侵襲しても、自心の清浄信を破壊できない。譬えば石の高山のようであり、種々の風や水も石山を漂動させることができない。それ故に忍という。この程度に修成して、初めて真の修行人である。

仏が法句経で説く如く、世界の全ての正知見は最も無上であり、誰が多く得るか、誰が多く得るかであり、千万年の中でも、終始悪道に堕ちることはない。

目次

ページトップへ戻る