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座禅三昧経講義

作者: 釋生如 カテゴリ: 禅定の法門 更新時間: 2026年04月15日 閲覧数: 4956
<h2 style="text-indent: 2em;">第九章 四念止観を修習して涅槃に趣向す</h2>

原文:世尊弟子。习学五法门。志求涅槃。有二种人。或好定多。以快乐故。或好智多。畏苦患故。定多者先学禅法。后学涅槃。智多者直趣涅槃。直趣涅槃者未断烦恼。亦未得深禅。专心不散。直求涅槃。越爱等诸烦恼。是名涅槃。身实无常苦。不净无我。以心颠倒故。为常乐我净。以是故事事爱着其身。是则卑下众生。

解釈:世尊の弟子は五種の法門を修習し、志して涅槃を求める。涅槃を求める人は二種に分かれる。一種の人は定を修することを好み、非想非非想定まで修めるが、禅定が人を快楽させることができるため、禅定に迷い、定多く慧少なく、定解脱の阿羅漢となる。一種の人は智慧を好み、生死の苦の種々の過患を恐れるため、過度の甚深な禅定を修習する時間を費やすことを望まず、生死を解脱できるだけでよいとする。そのため智慧が禅定より多く、慧解脱の阿羅漢である。定の多い人は先に禅法を学び、後に涅槃の理を学ぶ。智慧の多い人は直接涅槃に趣向し、二禅から非想非非想定までは修めない。

慧多く定少なく直接涅槃に趣向する人は、煩悩を断除しておらず、甚深な禅定も証得していないとき、専心致志して心を繋ぎ散らさず、五陰の苦・空・無常・無我を観行して涅槃を求めれば、三界愛繋などのすべての煩悩を超越断除し、ゆえに涅槃に至ることができる。色身は確かに無常で苦であり、不浄で無我である。心に顛倒想があるため、常楽我浄と考え、これらの顛倒想のゆえに、事ごとにその身を愛着すれば、卑下の衆生に沈淪し、三界に乞食することとなる。

原文:行者欲破颠倒故。当习四念止观。观身种种多诸苦患。从因缘生故。无常种种恼故苦。身有三十六物故不净。以不得自在故无我。习如是观。观内身观外身。观内外身。习如是观。是谓身念止。身实相如是。何故于此。而起颠倒。爱着此身。谛思惟念。身边乐痛。以爱乐痛。故着此身。当观乐痛。实不可得。

解釈:修行人が種々の顛倒を破除したいならば、四念処観を修習すべきである。色身の種々の多くの苦患を観察すると、いずれも因縁より生じ、無常であり、種々の煩悩があるため、苦である。色身は五臓六腑など三十六物があるので不浄であり、色身が自在でないため無我である。このような観行を修習し、内身を観察し、外身を観察し、内外身を観察する。このような観行を修習するのが身念住である。色身の真実相はこのようであるのに、なぜ色身に対して顛倒想を生じ、この身を愛着するのか。仔細に思惟すると、もとは色身の楽受を貪着するためであり、楽受を貪愛するゆえに色身を貪着するのである。楽受は確かに了不可得であると観察すべきである。

原文:云何不得因衣食故致乐。乐过则苦生。非实乐故。如患疮苦。以药涂治。痛止为乐。以大苦故。谓小苦为乐。非实乐也。复次以故苦为苦。新苦为乐。如担重易肩。而以新重为乐。非实常乐也。如火性热。无暂冷时。若是实乐。不应有不乐。

解釈:なぜ衣食のゆえに快楽を得ることができないのか。快楽の後に苦悩が現れるからであり、この快楽は真の快楽ではない。身体に瘡ができて苦悩が生じたとき、薬を塗って治療すれば、痛みが止んで快楽を感じる。大いなる苦を経たため、小さな苦を楽とみなすのであり、これは真実の楽受ではない。さらに言えば、もとの苦を苦とみなすため、新たに現れた苦を楽と思う。肩に重荷を担い、肩を替えて担えば、もう一方の肩に重荷を担ぐのを楽とみなすが、これは真実の楽ではない。火の性が常に熱く、一瞬たりとも冷たい時がないように、色身の苦性もまた然りで、暫く楽な時がない。真実の楽があれば、楽でない時があるはずがない。

原文:或曰。外事是乐因缘。不必是乐。或时乐因。或时苦因。若使心法与爱相应。尔时是乐。与恚相应尔时是苦。与痴相应不苦不乐。以此推之。可知有乐无乐。答曰。无也。淫欲不应是乐。何以故。若淫欲在内。不应外求女色。外求女色当知淫苦。若淫是乐不应时时弃。若弃不应是乐。于大苦中以小苦为乐也。如人应死。全命受鞭。以是为乐。欲心炽盛。以欲为乐。老时厌欲。知欲非乐。若实乐相。不应生厌。如是种种因缘。欲乐相实不可得。乐失则苦。佛言。乐痛应观苦。苦痛应观乐。如箭在体。不苦不乐应观生灭无常。是谓痛念止。当知心受苦乐受。不苦不乐。

解釈:ある人は言う。身外の事はすべて楽を生じる因縁であるが、因縁は必ずしも楽ではなく、因縁は時に楽の因であり、時に苦の因である。心法を愛と相応させれば、このとき心は楽であり、瞋恚と相応すれば、このとき心は苦であり、愚痴と相応すれば、このとき心は不苦不楽である。これにより苦楽の因を推求すれば、心に楽と不楽があることが分かる。

この問題に対する回答は、そうではない、淫欲は楽であるべきではない、である。なぜこのように言うのか。もし淫欲が身内にあれば、外に女色を求めて楽を得るべきではない。外に女色を貪求すれば、淫欲が苦であることが分かる。もし淫欲が楽であれば、楽受は少しずつ消失するはずがない。楽受が消失できるならば、楽であるべきではない。これは大いなる苦の中で小さな苦を楽としたのである。例えば、死ぬべき人が、命を全うするために鞭刑を受ければ、鞭刑を楽とみなす。

同様に、淫欲心が熾盛な人は淫欲を快楽とし、年老いたとき淫欲を厭離し始め、淫欲が楽ではないことを知る。もし淫欲が確かに楽相であれば、淫欲に対して厭離心を生じるはずがない。このように種々の楽の因縁を説いて、淫欲の楽相が確かに了不可得であることを明かす。楽受が失われると苦悩がやって来る。仏は言う。楽受のときはその中の苦を観察すべきであり、苦受のときは楽を観察すべきである。苦受も楽受も毒箭が身体に潜んでいるようであり、不苦不楽受のときは受覚の生滅無常性を観察すべきである。これを修習受念処という。このとき、心が苦楽受と不苦不楽受を受けていることを知るべきである。

原文:云何心。是心无常从因缘生故。生灭不住。相似生故。但颠倒故。谓是为一。本无今有。已有还无。是故无常。观知心空。

云何为空。从因缘生。有眼有色可见。忆念欲见。如是等和合眼识生。如日爱珠。有日有珠。有干草牛屎众缘和合。于是火生。一一推求。火不可得。缘合有火。眼识亦尔。不住眼中亦非色中住。不两中间住。无有住处。亦复不无。是故佛言。如幻如化。现在心观过去心。或苦或乐。或不苦不乐。心各各异各各灭。有欲心无欲心亦如是。各各异各各灭。观内心观外心。观内外心亦如是。是名心念止。

解釈:心とは何か。いわゆる心は無常であり、因縁より生じたものであり、生滅性は決して止まらず、それゆえ一切法が生じたようである。ただ心が顛倒しているゆえに、心は恒一永久不変であると考える。心はもともとなく、今になって現れ、現れた後にはまた滅する。それゆえ無常という。

なぜ空なのか。心は因縁より生じるからである。眼根があり、可視の色塵があり、憶念の心があり、色を見たい欲望があれば、これらの因縁条件が和合して眼識が生じる。それゆえ眼識は空である。日愛珠(火生器)のように、太陽があり、凸レンズがあり、乾草や牛糞などの因縁条件が和合すると、火が生じる。一つ一つの因縁を推求すると、火性は了不可得であり、因縁が和合して初めて火がある。眼識もまた然りで、眼根の中に住せず、色塵の中にも住せず、眼根と色塵の間にも住せず、住処がなく、しかも存在しないのでもない。

それゆえ仏は言う。一切法は如幻如化である。現在の心をもって過去の心を観察すれば、あるいは苦、あるいは楽、あるいは不苦不楽である。心は各々変異があり、各々滅する。有欲心と無欲心もまた然りで、各々変異し、各々滅する。内心を観察し、外心を観察し、内外心を観察するのもすべてこのようであり、念念生滅変異する。これが心念住である。

原文:复次观心为属谁。观想思惟念欲等诸心相应法不相应法。谛观其主。主不可得。何以故。从因缘生故无常。无常故苦。苦故不自在。不自在故无主。无主故空。

前别观身痛心法不可得。今更总观四念止中。主不可得。离此处求亦不可得。若常不可得。无常亦不可得。若常应当常苦常乐。亦不应忘。若常有神者。无杀恼罪亦无涅槃。若身是神。无常身灭。神亦应灭。亦无后世。亦无罪福。如是遍观无主。

解釈:復次、心が誰の所有であるかを観察する。観想する心、思惟する心、貪欲を念ずる心など、これらの心と相応する法と相応しない法を、仔細に観察するに、これらの心の主人は了不可得である。なぜか。これらの心はすべて因縁より生じるので無常であり、無常であるから苦であり、苦であるから自在でなく、自在でないので主なく、主がないので空である。

以前は個別に身・受・心・法を観察してすべて不可得であった。今さらに総体的に四念住の中を観察しても、その主人は不可得であり、四念住を離れて主人を求めても不可得である。もし常法が不可得ならば、無常法も不可得である。もし常法があれば、常苦と常楽であるべきであり、苦楽が変異転変すべきではなく、苦楽受を忘れることもあるはずがない。もし常に神識が存在するならば、殺害と瞋怒の罪もなく、涅槃もない。なぜならこのとき神識は変異するか滅するかだからである。もし身体が神識ならば、無常の色身が滅すれば神識も滅するはずであり、後世もなく、罪福性もない。このように遍観察すれば、確かに身・受・心・法には主人がない。

原文:诸法皆空不自在。因缘合故生。因缘坏故灭。如是思惟缘合法。是名法念止。若行者得法念止。厌世间空老病死法。都无少许常乐我净。我于此空法。复何所求。应当入涅槃。最善法中住。建精进力。得深舍摩陀故(深舍摩陀者住心一处名也此土无是名)。

解釈:一切法はすべて空で自在でなく、因縁が和合して初めて生じ、因縁が散壊すれば滅する。このように因縁和合法を思惟するのが法念処である。もし行者が法念処を修行して心念の止息を得、法に着して法を求めることを欲しなければ、世間の空法・生老病死法を厭棄し、その中に少しの常楽我浄もないと知り、ならば私はこれらの空法の中で何を求めようか、涅槃の最善法の中に住すべきである。私は今まさに精進修行して、甚深な奢摩他を証得することを期す。

原文:是时得深舍摩陀。住第四法念止中。观诸法相皆苦无乐。无乐是实。余者妄语。苦因爱等诸烦恼及业。是非天非时非尘等种种妄语中生。是烦恼及业出生此苦。是苦入涅槃时一切灭尽。非色无色界及世界始。世界始(外道谓一切有法之初色为世界始外道谓涅槃也以此有始能化作万物即名造化也)等种种妄语能灭此苦。正见等八直。是涅槃道。非余外道苦行。种种空持戒。空禅定空智慧。

解釈:そこで精進の後に甚深な奢摩他を証得し、第四念住の法念住に住して心得止息する。諸法の法相を観察するに、みな苦であって楽がなく、無楽が真実相であり、楽あり苦なしと言うなどはすべて妄語である。世間の苦は貪愛などの煩悩と業障によってあり、妄見の非天・非時・非塵などの種々の妄語があるため、苦受が生じる。煩悩と業障があるゆえにこれらの苦受があり、これらの苦受は涅槃に入るときすべて滅尽し、もはや色界・無色界と世界の始まりもない。世界に生じがあるなどという妄語・不真実語の苦受も滅する。正見・正語・正信・正業・正命・正精進・正定・正慧などの八正道は涅槃に趣向する道であり、其余の外道の苦行が涅槃に趣向できるのではなく、彼らの種々の空持戒・空禅定・空慧が涅槃に趣向できるのでもない。

原文:何以故。佛法中戒定慧三法合行。能入涅槃。譬如人立平地。持好弓箭能射杀怨贼。三法合行亦如是。戒为平地。禅定为快弓。智慧为利箭。三事备足。能杀烦恼贼。以是故外道辈。不得涅槃。行者是时。作四法缘。观缘如射博。观苦四种。因缘生故无常。身心恼故苦。无一可得故空。无作无受故无我。

解釈:なぜこのように言うのか。仏法の中で戒定慧の三法を共に行じて初めて涅槃に入ることができる。例えば人が平地に立ち、良い弓矢を持って初めて怨賊を射殺すことができるように、戒定慧三法の和合修行もまた然りである。戒は平地、禅定は速やかな弓、慧は鋭い矢であり、三つが備わって初めて煩悩賊を殺すことができる。この道理ゆえに、それらの外道の輩は涅槃を得られない。行者はこのとき四つの法を縁として観行し、諸法の因縁を観行するのは射箭のようである。四種の苦受を観行する。一切法は因縁より生じるので無常であり、身心に焼悩があるので苦であり、世間に一法も可得しないので空であり、造作者もなく受苦者もなく、一法として自分のものがないので、一切法はすべて無我である。

原文:观习四种烦恼有漏业。和合故集。相似果生故因。是中得一切行故生。非相似果相续故缘。观尽四种一切烦恼覆故闭。除烦恼火故灭。一切法中第一故妙。世间过去故出。

观道四种。能到涅槃故道。不颠倒故正。一切圣人去处故迹。得脱世愁恼故离。如是观者得无漏相似法。名为暖法。云何名暖。常勤精进故名暖法。诸烦恼薪无漏智火。烧火欲出初相名为暖法。譬如钻火初钻烟出。是名暖。是为涅槃道初相。

解釈:四種の念処を観行修習し、煩悩・有漏業が和合していることを知るので、集起という。煩悩が世間の五陰身を集起し、未来に相似の果が生じるので、煩悩・有漏業は未来の果報の因である。因縁果報を実現する過程には業報の運行があるので、果が生じる。果報に属さない法が相続不断に運行するのが果報現行の縁である。この四種の法をすべて観行し尽くせば、一切の煩悩が自心を覆うことを知るので、遮閉という。煩悩火を除滅できるので、煩悩は滅する。四念処観は一切法の中の第一の法なので妙法であり、衆生を世間法から脱出させることができるので出離法である。

観行の方法には四種あり、涅槃に到達できるので道といい、心を顛倒させないので正といい、一切の聖人がここから通過するので聖跡といい、世間の憂愁煩悩から脱離できるので離という。このように観行する人は相似の無漏法を証得でき、これを暖法という。

暖とは何か。内心が常に精進して四念処法を修習できるので暖法という。諸煩悩の薪柴をもって無漏の智慧の火を焼き出し、智慧の火がまさに出ようとするときを暖法という。例えば鑽燧で火を鑽くとき、鑽き始めて煙が出るのを暖相という。これは涅槃道の初相である。

原文:佛弟子中有二种人。一者多好一心求禅定。是人有漏道。二者多除爱着。好实智慧。是人直趣涅槃。入暖法中。有暖相者。深得一心实法镜。到无漏界边(镜中像似面界边非中故以为喻)。行者是时大得安隐。自念我定当得涅槃。见此道故。

解釈:仏弟子は二種の人に分かれる。一種の人は禅定を喜楽し、多く禅定を修め、一心に禅定の舒適自在を求めるが、智慧を増長させ煩悩を降伏することを勤め求めず、有漏道を修行する。一種の人は智慧を勤め求め、自分の煩悩を反観することに注意し、自分の貪愛を消除する。この種の人は直接涅槃に趣向できる。修行が初めて暖法に入り、暖相を得た人は、一心の初禅禅定の境界を証得し、煩悩を断除する縁辺まで修める。このとき修行人は初めて大いなる安穏を得る。まもなく煩悩を断尽して涅槃に入るため、自分が必ず涅槃を証得できることを自ら知る。暖相を証得する。

原文:如人穿井。得至湿泥。知当得水不久。如人击贼贼已退散。自知得胜。意中安隐。如人怖死。人欲知活不。当先试之。以杖打身。若隐胗脉起者。知是有暖必可得活。亦如听法人。思惟喜悦心着。是时心热。行者如是有暖法故名为有暖。亦名能得涅槃分善根。

解釈:猶如人が井を鑿ちて湿泥が出れば、心にまもなく水が出ることを知る。人が賊を撃ち、賊がすでに退散すれば、自分の勝利を知り、心は安穏になる。人が死を怖れ、ある人がすでに死んでいるかどうかを知りたいときは、まず試すべきである。木杖でその身体を打ち、身体の脈が微かに動けば、身体にまだ暖があることを知り、必ず生き返ることができる。また法を聞く人が思惟して喜悦心が生じるとき、心に熱流があるように感じる。行者がこのように暖相があれば有暖といい、涅槃分を得る善根ともいう。分証涅槃解脱である。

原文:是善根法有十六行四谛缘。六地中一智慧。一切无漏法基。野人能行安隐(于无漏疏故名为野人案梵本尔先言凡夫人非)。是名有暖法。增进转上更名顶法。如乳变为酪。是人观法实相。我当得苦脱。心爱是法。是为真法。能除种种苦患及老病死。

解釈:この善根の修持方法は四聖諦に縁じて十六種の行相があり、欲界と色界の六地の中でいずれも涅槃智慧を生じることができ、一切無漏法の基礎であり、煩悩の重い人でも修行すれば安穏を得ることができる。これを暖法という。この智慧がさらに増進増長すれば、頂法という。牛乳が酥酪に変わるように、この人は仏法の真実相が空苦無常であると観行し、すなわち願を発して私はこの苦から脱離すべきであるとし、心に四聖諦法を愛楽し、これが真実法であり、種々の苦患と老病死を除去できると考える。

原文:是时思惟。此法谁说。是佛世尊。从是得佛宝中信心清净。大欢喜悦。若无此法。一切烦恼谁当能遮。我当云何。得实智慧少许明。从是得法宝中信心清净。大欢喜悦。若我不得佛弟子辈好伴。云何当得实智慧少许明。从是得僧宝中信心清净。大欢喜悦。是三宝中得一心清净。合实智慧。是顶善根。亦名顶法。亦名能得涅槃分善根。

解釈:このとき思惟するに、四聖諦法・四念処法は誰が説いたのか。仏世尊が説かれたのである。それゆえ仏宝に対する清浄信心を得て、心大いに歓喜する。さらに心念思惟するに、もしこのような仏法がなければ、私の一切の煩悩を誰が遮止降伏できるのか、私はどのようにしてこのような智慧を証得し、少しの智慧光明を得るべきか。そこで法宝に対する清浄信心を得て、心大いに歓喜する。さらに思惟するに、もし私に仏弟子の良い伴侶・善友がなければ、どのようにして真実智慧を得て、少しの智慧光明を得ることができるか。そこで僧宝に対する清浄信心を得て、心大いに歓喜する。三宝の中で一心の清浄信楽と真実の智慧を得るのが頂善根であり、頂法ともいい、涅槃を得る解脱分善根ともいう。

原文:如波罗延经中说。

佛宝法僧宝    谁有少信净

是名顶善根    汝曹一心持

云何为少信。于佛菩萨辟支佛阿罗汉边为少。于野人边为多。复次此可破可失是故名少。如法句说。

芭蕉生实死    竹生实亦然

骡有子则死    小人得养死

破失非利故    小人得名誉

白净分失尽    乃至顶法堕

解釈:波羅延経に説く。仏宝・法宝・僧宝、誰がこの三宝に対して少しの清浄信心を持てば、それが最頂の善根である。あなたがた大衆は一心に奉持し、三宝を恭敬すべきである。何を少しの信心というのか。仏・菩薩・辟支仏・阿羅漢に対して信が少ないのが少であり、無漏善根から遠い煩悩の重い人に対して少しの信があるのが多である。この少しの信心は退失し破壊しやすいので、少というのである。

法句経に説くように、芭蕉は一旦実心を生じれば死に、竹も一旦実心を生じれば死に、騾馬は子を産めば死に、小人は恩養と尊重を得ると得意になって心を失う。恩養は小人にとって益がない。小人が一旦名誉を得れば、善根は消失し尽くし、修得した頂法も退堕する。

原文:复次未断诸结使。未得无漏无量慧心。以是故名少。复次勤精进一心。入涅槃道中。更了了观五阴四谛十六行。是时心不缩不悔不退。爱乐入忍。是名忍善根。忍何等。随四谛行。是名为忍。是善根三种。上中下三时。云何名忍。观五阴无常苦空无我。心忍不退是名忍。

解釈:さらに、諸煩悩の結縛を断除しておらず、無漏の無量慧心を得ていないので、少信というのである。精勤精進して修行し一心三昧を証得し、涅槃の道に入り、さらに仔細に五陰・四聖諦の十六種の行相を観行すれば、このとき心は退縮せず悔いず退失せず、心は四聖諦法の修習を愛楽し、忍位に入る。これを忍善根という。何の法を忍ぶのか。四聖諦法に随順して行ずるのが忍であり、忍善根は上中下の三種に分かれる。何が忍か。五陰の無常・苦・空・無我を観察し、心に忍可して退失しないのを忍という。

原文:复次。观诸世间尽。苦空无有乐。是苦因习爱。等诸烦恼。是习智缘尽。是名上法。更无有上。八直道能令行人得至涅槃。更无有上。如是信心。不悔不疑。忍是名忍。是中更有忍。种种结使。种种烦恼疑悔。来入心中。不能令破。譬如石山。种种风水不能漂动。是故名忍。是事得名真好野人。

如佛说法句中。

世界正见上    谁有得多者

乃至千万岁    终不堕恶道

解釈:さらに観察するに、すべての世間は苦空で楽がなく、貪愛などの煩悩を熏習するのが苦の因であり、貪習の縁が尽きて解脱智慧を得るのが上忍法であり、これより上のものはない。八正道は修行人に涅槃の楽を得させることができるので、これより上の法はない。このように四聖諦法に対する信心を生じ、悔いず疑わず、このように忍耐するのを忍という。種々の煩悩結使、種々の疑悔が来たりて自心に入っても、自心の清浄信を破壊できない。例えば石の高山のように、種々の風や水も石山を飄動できない。それゆえ忍という。この程度まで修成してこそ、真の修行人である。

仏が法句経で説かれるように、世界におけるすべての正知見が最も無上であり、誰が多く得れば多く得るのであり、千万年の中に至るまで、終始悪道に堕入しない。

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