座禅三昧経講義
第八章 欲界の過患を観じて四禅八定を証する
原文:この時、行者は、一心を得たりといえども、定力は未だ成らず。なお欲界の煩悩に乱される。方便を作して初禅を進んで学ぶべし。愛欲を呵り棄てよ。いかにして呵り棄てるべきか。欲界の過患を観ずるなり。欲は不浄にして、種々の不善なるを観じ、常に初禅の安隠なる快樂を念うべし。
欲を観ずるとはいかに。欲は無常にして、功徳の怨家なるを知る。幻の如く化の如く、空にして得る所なし。これを念じて未だ得ざるに、痴心すでに乱る。いわんや已に得て淫欲に纏覆せらるるをや。天上の楽処すらなお常に安からず。いわんや人中においてをや。人の心は欲に着して厭足することなし。火が薪を得るが如く、海が流れを吞むが如し。頂生王の如く、七宝を雨らし、四天下を王とすといえども、帝釈の分座すらなお知足せず。那睺沙(姓なり)の如く、転輪聖王となりて欲に逼せられ、蟒蛇の中に堕つ。また仙人の如く、果を食い草を衣とし、深山に隠居し、髪を被りて道を求むるも、なお免れずして欲の賊に破らる。
釈:この時、禅を修める者は、専一其の心の禅定境界を証得したが、真の定力はまだ成就せず、なお欲界の貪瞋痴の煩悩に悩乱されている。この時、方法を講じてさらに初禅定を修習し、愛欲を呵責し、愛欲を棄却すべきである。いかに呵責するか。欲界の種々の過患を観察し、愛欲の種々の不浄不善の相を知り、常に初禅の安隠快樂を念じるべきである。
愛欲を観察する結果は何か。愛欲は無常であり、修道の功徳を奪い取る功徳の怨家であることを知る。愛欲もまた諸法の如く幻の如く化の如く、空にして得る所がない。心に愛欲を念じ、未だ愛欲を得ざるに、心はすでに濁乱している。ましてや淫欲に陥り、欲心に纏縛される時においてはなおさらである。天上の美妙なる快樂の処も、天人はなお常に安らかならず、ましてや人中の苦楽半ばする境界においてはなおさらである。人の心は愛欲に痴迷し、厭足する時がない。火に柴を加えるが如く火はますます盛んになり、大海が衆流を吞むが如くますます汹涌澎湃となる。昔の頂生王の如く、七宝の雨を降らせ、四天下を統治し、帝釈天主が半座を分け与えてもなお止足を知らず、那睺沙転輪聖王の如く欲望に逼迫されて蟒蛇の中に堕ち、また仙人の如く山果を食べ草衣をまとい深山に隠居し、長髪を振り乱して一心に道を求めても、道心なお淫欲の賊に破られることを免れない。
原文:欲楽は甚だ少なく、怨毒は甚だ多し。欲に着する人は、悪友近く相い近づき、善人は疏遠なり。欲は毒酒にして、愚惑して酔い死す。欲は欺誑にして、愚人を走らせ使う。疲苦万端にして自在を得ず。ただ欲を離るるにのみ、身心安隠にして快樂極まりなし。欲は得る所なく、犬が枯骨を咬むが如し。欲を求めて勤労し、極苦にして乃ち得る。得ること甚だ難く、失うこと甚だ易し。仮に借りる須臾の如く、勢い久しからず。夢に見るが如く、恍惚として即ち滅す。欲の患いとするや、これを求むるも既に苦しく、これを得るも亦苦し。多く得れば多く苦しむ。火が薪を得るが如く、多ければ益々多く熾んず。欲は肉を搏つが如く、衆鳥競い逐う。
釈:淫欲の中で得られる楽はあまりに少なく、その中の怨怒毒害は多く多い。淫欲に貪着する人は、悪友と親しくし、善友とは疎遠になる。淫欲は毒酒であり、人を愚痴迷惑にし、酔い痴れて死に至らしめる。淫欲は欺誑であり、愚人を駆り立てて身心を疲労せしめ、苦痛万端、自在を得られなくする。ただ欲を離れた者のみ、身心安隠、比類なき快樂を得る。淫欲の後には得る所がなく、犬が枯骨を咬むが如しである。勤苦して淫欲を追求すれば、極めて苦痛な時に至って初めて得られ、淫欲の歓びを得ることは甚だ難く、失う時は容易である。享楽を一瞬借りるが如く、その勢いは久しくは続かない。夢に見るが如く、ぼんやりとして即ち滅する。淫欲の過患は極めて多く、追求する時すでに苦しく、得た後もまた苦しい。得れば得るほど苦しみが増す。火が薪を得るが如く、得れば得るほど燃え盛り、残る灰もまた多くなる。淫欲は死人肉を食い漁るが如く、多くの鳥類が互いに争い奪い合う。
原文:要するに、蛾が火に赴くが如く、魚が鉤を吞むが如く、鹿が声を逐うが如く、渇いて鹹水を飲むが如し。一切の衆生は欲のために患いを致し、苦なきは至らず。是の故に当に知るべし、欲は毒害なりと。当に初禅を求めて、欲火を滅断すべし。行者は一心に精勤信楽し、心を進めて増益せしめ、意を散乱せしめず。欲心を観じて厭い、結び惱みを除きて尽くし、初禅定を得る。欲の盛んなる火を離れ、清凉なる定を得る。熱きが蔭を得るが如く、貧しきが富を得るが如し。是の時に便ち初禅の喜覚を得たり。禅中の種々の功徳を思惟し、分別して好醜を観じ、便ち一心を得たり。
釈:要するに、淫欲は蛾が火に赴いて焼き尽くされるが如く、魚が鉤を吞んで害されるが如く、鹿が空谷の声を逐って空しく力を費やすが如く、人が渇いて鹹水を飲めば飲むほど渇くが如しである。一切の衆生は欲望に害され、苦患は窮まりない。故に当に知るべく、淫欲は毒害であると。故に当に初禅を追求し、欲火を消し去るべきである。修行者は一心に精進信楽して初禅に専念し、心意楽を不断に増進せしめ、心を散乱させない。淫欲の過患を観察し、厭離の心を生じ、愛欲煩悩の結縛を除く。初禅禅定を証得し、欲望の盛んなる火を離れ、清凉なる禅定楽を得る。暑い天に涼しい日陰を得るが如く、貧しい者が富を得るが如し。この時に初禅定の喜覚観を得る。禅定中の種々の功徳を思惟し、自心の好醜を観察分別し、便ち一心の禅定境界を得る。
原文:問うて曰く、修行禅人が一心の相を得たり。いかにして知るべきか。答えて曰く、面色は悦沢にして、徐行端正、一心を失わず。目は色に着かず。神徳定力、名利を貪らず。憍慢を撃破し、その性は柔軟、毒害を懐かず。復た悭嫉無し。直心信じ心浄く、論議して諍わず。心に欺誑無く、易く与に語るべし。柔軟慚愧、心は常に法に在り。勤修精進、持戒完具、誦経正憶、念は法に随って行う。意は常に喜悦し、瞋る処に瞋らず。
四供養の中、不淨は受けず、淨施は則ち受く。量を知りて止足し、寤起して軽利なり。能く二施を行い、忍辱して邪を除く。論議して自ら満たず、言語は鮮少、謙恪恭敬、上中下座、善師善知識に常に親近随順す。飲食は節を知り、欲味に着かず。独り静処を楽しむ。苦くとも楽しくとも、心は忍びて動かず。怨み無く競い無く、斗訟を喜ばず。是の等の種々の相を以て、一心の相を得たりと知る。
釈:或る人が問うて言う、如何にして禅を修める者が一心の禅定境界に達したかを知ることができるか。答えて言う、もしこの人の面色が愉悦潤沢で、身行語行が緩やかに徐徐として、軽柔端正であれば、彼が一心の禅定境界にあることを知る。もしこの人が境に対し、目が境界を追い求めず、境界に貪着せず、神色泰然自若であれば、この人に禅定力があることを知る。この人は名聞利養に貪着せず、自心の驕慢を破り、心性柔軟で、毒害の心がなく、また悭貪や嫉妬心もない。この人は心直く正しく、内心清浄で、人と論議しても争訟を起こさず、勝負心がなく、他人を欺誑する心もなく、容易に語り合うことができ、心に柔和と慚愧を懐いている。この人は心が常に法に住し、精進修行し、勤勉である。戒律を厳守し、律儀を具足し、経文を読誦して正しく憶念し、心念が法に随って行い、越えることがない。心意は常に喜び悦び、瞋るべき処に瞋らない。
飲食衣服医薬臥具の四供養の中で、不浄の供養は受けず、清浄なる布施は受け、かつ量を知り足るを知る。睡眠より起きた後、身心軽利で、法施と無畏施の二種の布施を行うことができる。常に忍辱し、邪見を除き、人と論議しても決して自ら満たず。言語は極めて少なく、謙虚で低く、上座・中座・下座の同参道友を恭敬する。常に良師善知識に親近随順する。飲食は節度があり、味欲に貪着しない。寂静処に独り在ることを喜び、苦楽の境界に処して、忍びを懐いて動じない。心中に怨み悩みや争い競う心がなく、闘争や訴訟を好まない。このような等の行相を見れば、この人が一心の禅定境界を得たことを知る。
これは初禅定の相である。これに相応しなければ禅定はない。争い好み闘い好む人は、心に禅定がなく、まして法を証することはできない。心行が邪曲で、他人を欺誑することを好み、騙しの罠を設ける人も禅定がなく、まして法を証することはできない。
原文:この覚観の二事は、禅定の心を乱す。水の澄み静かなるが如く、波が蕩けば則ち濁る。行者かくの如く、内に已に一心なりといえども、覚観に悩まさる。極めて息を得るが如く、睡って安んずるが如し。是の時次第に、無覚無観、清浄なる定を生ず。内に浄く喜楽あり、二禅に入ることを得たり。心静かに默然たり。本は得ざりし所、今この喜を得たり。是の時心観し、喜を以て患いと為す。上の覚観の如く、無喜の法を行い、乃ち喜の地を離れ、賢聖の説く所の楽を得たり。
釈:心に覚あり観あることは、心の禅定を乱す。澄みきった水面に、波濤が蕩けば水は濁る。修行者もまたこのようで、内心はすでに一心の境界に達しているが、もし心に覚観があれば、その心を悩乱し、禅定を失う。極度の疲労から休息を得るが如く、睡眠する者が安らぎを得るが如く、この時は方法を講じて次第に覚観を除き、無覚無観に至り、より清浄なる禅定を生じ、内心寂静にして喜びと楽しみがあり、二禅に入る。内心は寂静で声息がない。本来このような寂静禅定はなかったが、今これを得て、内心に喜悦が湧き上がる。この時、心眼をもって再び観察すれば、内心の喜楽は前の覚観心と同じくなお過患があるため、再び修行して心に喜悦なきようにし、喜楽心を除き、ここに喜悦の二禅地境界を離れ、賢聖の説く楽地を得る。
原文:一心に諦かに知り念を護り、三禅に入ることを得たり。已に喜を棄てたる故に、諦かに知り憶念して楽を護る。聖人は楽を護ることを言う。余人はこれを捨て難し。楽中の第一、これより以往は復た楽無し。是の故に一切の聖人は、一切の浄地の中に、慈を以て第一の楽と為す。楽は則ち患いなり。所以は何ん。第一禅の中に、心は動転せず。事無きを以ての故なり。動有れば則ち転有り、転有れば則ち苦有り。是の故に三禅は楽を以て患いと為す。
釈:一心に仔細にこの境界を了知し、かつ善く護念すれば、三禅境界を証入する。すでに二禅の喜心を捨てたが故に、三禅に入ることができる。その後再び仔細に回想観察して三禅中の楽受を観じ、自心を善く護るべきであり、楽受に着くべきではない。楽受に着けば生死過患があるため、捨てるべきである。ただ聖人のみが楽受を修除でき、その他は皆捨て難い。三禅中の楽受は楽中の第一の楽であり、これを超えるものはない。楽受が過ぎ去れば、再び楽はなく、故に一切の聖人は、一切の清浄地において、慈心を第一の楽とし、楽受は過患であると言う。なぜそう言うのか。最上の禅定において、心は動転せず、心中に事なきが故である。心が動けば転動があり、転動すれば苦がある。故に三禅の楽には動転があり、苦患があり、災患を受けうると言う。
原文:復た善妙を以て、この苦楽を捨てよ。先ず憂喜を棄て、苦楽の意を除き、念を護りて清浄ならしめ、第四禅に入ることを得たり。苦もなく楽もなく、清浄なる念を護りて一心なり。是の故に仏は言う、最も清浄なる第一を護るは、第四禅と名づく。第三禅の楽動を以ての故に、苦と名づく。是の故に四禅は苦楽を除滅し、不動処と名づく。漸く空処を観じ、内外の色想を破り、有対の想を滅し、種々の色想を念わず。無量の空処を観ず。常に色の過患を観じ、空処定の上妙なる功徳を念う。是の法を習念して、空処を得たり。
釈:再び善巧方便をもって、これらの苦楽受を捨て去る。先ず憂愁喜楽心を取り除き、苦楽の心念を除き、心念を清浄ならしめ、第四禅に入る。苦も感じず楽も感じず、心念清浄にして専一其の心である。故に仏は心念を護る最も清浄なる地こそ第四禅であると言う。第三禅にはなお楽心の動きがあるため、苦処とも呼ばれ、故に第四禅は一切の苦楽受を除滅し、不動処と呼ばれる。ここより次第に空処を観察し、内心の内色と外色の念想を破り、心に何らかの念あればこれを滅し、いかなる色相も念想しない。無量の空処を観察し、常に種々の色相の過患を観じ、空処定の殊勝なる美妙な功徳を念想し、このような念法を修習すれば、空処定を得る。
原文:無量の識処を念う。空処の過患を観じ、無量の識処の功徳を念う。是の法を習念して、識処を得たり。無所有処を念う。識処の過患を観じ、無所有処の功徳を念う。是の法を習念して、便ち無所有処を得たり。非有想非無想処を念う。もし一切の想あらば、その患い甚だ多し。病の如く、瘡の如く、無想の如く、是れ愚痴の処なり。是の故に非有想非無想は、是れ第一の安隠善処なり。無所有処の過患を観じ、非有想非無想の功徳を念う。是の法を習念して、便ち非有想非無想処を得たり。
釈:再び無量識処を念い、空処定中の過患を観察し、無量識処の種々の功徳を念想する。このような念法を修習すれば、無量識処禅定を証得する。再び無所有処定を念い、無量識処禅定の過患を観察し、無所有処定の種々の功徳を念想し、この念法を修習すれば、無所有処定に証入する。
その後再び非想非非想定を念う。もし何らかの念想があれば、極めて多くの過患がある。病想であり瘡想であり無想であり、これらは皆愚痴の処である。故に非想非非想定は全ての禅定中最も安穩なる善処であると言う。無所有処定の種々の過患を観察し、非想非非想定の種々の功徳を念想し、この念法を修習すれば、非有想非無想定を証得する。
原文:或いは行者あり、先ず初地より乃至上地に至る。復た上地に於いて、慈心を習い行う。先ず自ら楽を得て、瞋恚の毒を破る。次に十方の無量の衆生に及ぶ。是の時便ち慈心三昧を得たり。悲心は衆生の苦を憐愍し、能く衆の悩みを破り、広く無量の衆生に及ぶ。是の時便ち悲心三昧を得たり。能く不悦を破り、無量の衆生をして皆喜悦を得せしむ。是の時便ち喜心三昧を得たり。能く苦楽を破り、直に十方の無量の衆生を観ず。是の時便ち護心三昧を得たり。二禅もまた是の如し。三禅四禅は喜を除く。
釈:或る修行者は、最初に第一地の欲界定より始め、さらに上一地の初禅地に至り、初禅地において慈心三昧を修習し、自らまず楽処を得て、瞋恚毒害を破る。次に慈心を十方無量の衆生に及ぼし、この時に慈心三昧を得る。悲心は衆生の苦を憐れみ、衆生の瞋悩を破ることができ、悲心は広大にして無量の衆生に遍く及び、この時に悲心三昧を証得する。不悦の心理を破ることができ、無量の衆生をして皆喜悦を得せしめ、この時に喜心三昧を証得する。苦楽心を破ることができ、直接十方無量の衆生を観察し、この時に護心三昧を証得する。二禅定地においてもまたこのように修習し、三禅と四禅地において修習する時は喜心三昧はない。
原文:次に五通を学ぶ。身は飛行し、変化自在なり。行者は一心に欲定、精進定、一心定、慧定を修す。一心に身を観じ、常に軽き想を作す。飛行を成ぜんと欲す。若し大ならば若し小ならば(欲定の過を以て大と為し、欲定の減を以て小と為す)。この二つ倶に患いあり。精進して翹勤し、常に能く一心に軽観を思惟す。浮かぶ能き人の如く、心力強きが故に沈没せず。また猿猴の高きより堕つるが如く、心力強きが故に身に痛患無し。此もまた是の如し。欲力精進力、一心力慧力、其の広大ならしめ、而して身は更に小となり、便ち身を運ぶことを能う。
釈:慈悲喜捨の四無量心を修め終えた後、再び五種の神通を修学し、身体は飛行し、自由自在に色身を変化させることができる。行者は一心に禅定を修習し、欲心を起こして禅定と神通による色身変化を発起し、自在を得んと欲し、この欲心をもって禅定力を増益し、欲如意足を満足せしめる。精進してこの禅定を修習し、速やかに欲望を満たして神通道力が現れることを望み、不断に禅定力を増長し、精進如意足を満たす。また専注力を修習し、一心に神通自在を得んと欲し、不断に禅定力を増長し、念如意足を満たす。行者は再び慧観を修習し、不断に禅定力を増強し、観如意足を満たす。
行者は一心に色身を観行し、常に色身がますます軽くなり、飛び上がらんとする様を観想する。その禅定力は時として大なり時として小なり、欲如意足の禅定力による。欲如意足定を超えれば力大となり、欲如意足定が不足すれば力小となる。大であれ小であれ、この二つの定には過患がある。行者は再び精進修習し、常に専心して色身が軽微であることを観想し、一心に専一に思惟観想して身体が軽く挙がり飛昇することを観じる。水に浮かぶことのできる人の如く、心力が強大なるが故に水中に沈没せず、また猿猴が高所より地に跳び落ちるが如く、心力が強いが故に傷つかず、痛みがない。色身を軽微に観想して飛行できることもまたこの如く、欲如意足力、精進如意足力、念如意足力、観如意足力によって心力を広大ならしめ、色身を更に小さくし、ここに身を運ぶことを自在にする。
欲如意足は、どの心が具えるものか。禅定を修習する時、飛昇変化を欲する心は、どれを指すのか。皆、意根を指す。ここに来て蔵識は意根の思心所に配合し、意根の所需と欲望を満たし、色身を飛行変化させる。欲如意足は主に意根の欲であり、意根の欲を満たす。意根に力があれば、何らかの目的を達成しようと欲し、蔵識は意根に満足を与えざるを得ない。意根に力がなければ、蔵識も方法がない。その中にはやはり意識の観想と牽引が頼りであり、意根に配合して目的を達成する。ここに見えるように、意根は六識と第八識を利用して、自らの一切の心を実現する。意根の力とは、即ち禅定力である。欲如意足は主に意根の定であり、意識の修習を通じて、意根に目標を達成する力を与え、意根の欲望を満たす。
原文:復た身の空界を観ず。常にこの観を習う。欲力精進力、一心力慧力、極めて広大なり。便ち身を挙げることを能う。大風の力の重きを致して遠くに達するが如し。此もまた是の如し。初め自ら試みるべし。地を離るること一尺二尺、漸く一丈に至り、本処に還り来る。鳥の子の飛ぶを学ぶが如く、小児の歩くを学ぶが如し。思惟して自ら審らかにし、心力の大なるを知り、必ず遠くに至るべしと。四大を学観し、地大を除却し、ただ三大を観ず。心念散ぜず、便ち自在を得、身に掛礙無し。鳥の飛行するが如し。当に復た学習すべし。遠きを近きと想う。是の故に近く滅して遠く出づ。
釈:再び色身の空大を観察し、色身を空と見做し、常にこのように修習観察する。欲力はますます広大となり、精進力、専注力、観察慧力が極めて広大となり、この時に身体を高く挙げることができ、身体は次第に座を離れ、虚空に昇る。強大なる風力が作用して重い物体を遠くへ吹き飛ばすが如く、身体を挙げることもまたこのようである。初めのうちは自ら少しずつ試み、身体を地面から一尺二尺離し、次第に一丈離し、その後元の位置に戻る。小鳥が飛行を学ぶが如く、子供が歩行を学ぶが如し。自ら不断に思惟審査考量し、ある時点で自らの心力がすでに大きくなったことを知り、必ず遠くへ飛べる。
再び修習して自身の四大である地水火風を観察し、心中の地大を除き、ただ水火風大を観察し、心念を専一不散ならしめ、その後身体は自在を得、何らの掛礙もなくなり、鳥の飛行の如くなる。この時は再び学習観察し、遠きを近きと想い、空間距離の想いを滅し去れば、身体は瞬時にして遠くに到達でき、近くに在るが如くなる。
なぜ遠きを近きと想い、空間距離の想いを滅し去れば、身体は瞬時にして遠くに到達でき、近くに在るが如くなるのか。このように想うことで、意根に信じさせ、意根が確かに信じれば、そのように認識し、そのように認識すれば、蔵識は必ず意根に随順してかかる境界を変造する。神通はこのようであり、一切法もまたこのようである。意根が何を信じるかによって、何が現れ、意根を変えれば一切を変えることができる。故に真の自信とは、即ち意根の信である。ただ意根が信じれば、成し遂げられないことはなく、成仏もまたこの原理による。では、意根が無我を証得し、無我を信じる時、その無我の力はどれほど大きいか。我執と一切の煩悩を断除し、一切の我を滅除し、心が解脱を得て、寂静涅槃に入る。
原文:復た諸物を変化することを能う。木の地種を観るが如く、余の種を除却すれば、この木は便ち地に変ず。所以は何ん。木に地種分有るが故なり。水火風空の金銀宝物、悉く皆かくの如し。何を以ての故か。木に諸種分有るが故なり。是れ初神通の根本なり。
四禅に十四変化心有り。初禅二果。一は初禅、二は欲界。二禅三果。一は二禅、二は初禅、三は欲界。三禅四果。一は三禅、二は二禅、三は初禅、四は欲界。四禅五果。一は四禅、二は三禅、三は二禅、四は初禅、五は欲界。余の通は摩訶衍論の中に説くが如し。
釈:神足通等の神通を修得した後は、物質色法を変化させ、物質を変えることができる。例えば一塊の木の地大種性を観察し、水火風の種子を観ずに除けば、この木は大地に変わる。なぜか。木には地大種子があるからである。木の水大、火大、風大、空大種子を分別観察し、木を金銀珠宝に変えることも、皆この原理による。なぜか。木の中にこれらの諸大種子があるからである。これらの観行方法が最初の神通変化の根本である。
四禅には十四種の変化心がある。初禅には二つの果証:一つは初禅定果、一つは欲界定果。二禅には三つの果証:一つは二禅定果、二つは初禅定果、三つは欲界定果。三禅には四つの果証:一つは三禅定果証、二つは二禅定果証、三つは初禅定果証、四つは欲界定果証。四禅には五つの果証:一つは四禅定果証、二つは三禅定果証、三つは二禅定果証、四つは初禅定果証、五つは欲界定果証。その他の神通は摩訶衍論に説かれる如し。