座禅三昧経講義
第七章 等分を治める法門
原文:第五の法門は等分の行を治める。及び重罪の人が仏を求める。このような人々には、一心に念仏三昧を教えるべきである。念仏三昧には三種類の人がいる。或いは初めて習い行う者、或いは既に習い行う者、或いは久しく習い行う者である。もし初めて習い行う人には、仏像の在処に連れて行くか、自ら往って仏像の相好を諦観するよう教える。相々を明らかにし、一心に取り持ち、静かな所に還り、心眼で仏像を観じ、意を転じさせず、念を像に繋ぎ、他念をさせず、他念を収めて常に像に在らしめる。
釈:第五の煩悩を対治する修行法門、及び重罪を犯した人が業障を懺悔し、仏の加護を求めて重罪を消除しようとする場合、これらの人々に一心に念仏し、念仏三昧を成就するよう教えるべきである。念仏三昧の法門を修習するには三種類の人があり、その用いる方法は異なる。初めて念仏の法門を修習する者、しばらく念仏の法門を修習した者、久しく念仏の法門を修習した者の三種類である。
初めて念仏の法門を修習する者に対しては、仏像のある所に連れて行くか、自ら仏像の在処に往かせ、仏像の相好荘厳を仔細に観察させ、仏の一つ一つの荘厳なる法相を、心の中で明らかに、はっきりと知らしめる。その後、内心を専一に仏像を観想し、静寂な所に行き、心眼で再び仏像を観想し、仏像を意念し、心をして念念に仏像の上に在らしめ、他処に至らず、専ら仏像の上に置かせる。もし意念が転移したならば、引き戻し、内心をことごとく仏像に保ち、心念を常に仏像を観想する上に置かせる。
原文:もし心が住せずば、師は教えて言うべきである。汝は心を責めよ。汝によって受ける罪は称計すべからず。際限なき生死の種々の苦悩は、受けないものはない。もし地獄にあれば、溶けた銅を飲み焼けた鉄丸を食らう。畜生にあれば、糞を食い草を啖う。餓鬼にあれば、飢餓の苦しみを受ける。人中にあれば、貧窮困厄に遭う。天上にあれば、欲を失い憂い悩む。
常に汝に随うが故に、我にこの種々の身の悩み心の悩み無量の苦悩を受けさせる。今や汝を制せん。汝は我に随うべし。我は今汝を一処に繋ぐ。我は終に再び汝に困らされ苦毒を受けることはない。汝は常に我を困らす。我は今や事をもって汝を困らさん。かくして止まず、心は散乱せず。この時、便ち心眼を得て仏像の相好光明を見る。目で見るが如く異なることなし。かくして心は住す。これを初習行者が思惟するという。
釈:もしその心が仏像の上に住せずば、その師はこのように自ら心を責めるよう教えるべきである:汝(心)の故に、私が受ける罪苦は計り知れず、際限ない種々の生死の苦悩は一つとして経験していないものはない。もし地獄にあれば、焼けた銅汁を飲み焼け赤くなった鉄丸を食らう。畜生にあれば、糞を食い草を食らう。餓鬼にあれば、飢餓の苦しみを忍ぶ。人中にあれば、貧窮困苦の生活を送る。天上にあれば、失った愛する境界のために常に憂い悩み苦しむ。
私は常に汝(心)に随うが故に、身体と心の無量の苦悩を忍ばせる。私は今や汝(心)を制約しよう。汝は私に随って行うべきである。私は今、汝(心)を一つの所在の処に縛り付け、再び汝(心)に困らされ苦しめられることはない。汝は常に私を困らす。私は今、念仏の方法で汝を縛り付けよう。かくして絶えず自心を牽制すれば、心は再び散乱することはない。この時、心眼は仏像の相好光明を見ることができ、肉眼で見るのに差別なく、念仏三昧は現前成就する。このように修習して心を住するのは、初めて念仏の法門を修習する者が系心して思惟すべき方法である。
ここでの「我」は意識の五陰であり、「汝」は意根である。
原文:この時、更に念じて言うべきである。これは誰の像の相か。則ちは過去の釈迦牟尼仏の像の相である。我が今見る仏の形像の如く、像も来らず我も往かず。かくの如く心想して過去の仏を見る。初めて神を降ろす時、天地を震動せしめる。三十二相の大人の相あり:
釈:この時、更に思惟して言うべきである:これはどの仏の像の相貌か、元は釈迦牟尼仏の相好の像である。私が今見る仏の形象のように、像も来ず、私も往かず、ただこのように意想するだけで、過去の仏を見る。仏が最初に神を降ろして人間界に来た時、天と地を震動させた。仏像には三十二の大人の相がある:
一者 足下安平立(足底の足心は平直で、陥没した処なく、歩き出すと却って安穏である)。
二者 足下千輻輪(足底の足心に一千の宝輪の相あり)。
三者 指長好(手指は細長く美しい)。
四者 足跟広(踵は広い)。
五者 手足指合縵網(手指の間に縵網あり、足指の間もまた同様)。
六者 足趺高平好(足首は高く平らで良い)。
七者 伊尼延鹿[王+専](ふくらはぎは鹿の脚のように平直)。
八者 平住手過膝(腕を垂直に下ろすと、手が膝を過ぎる)。
九者 陰馬蔵相(男根は良馬のように隠れて現れない)。
十者 尼俱盧陀身(身体は威厳があり端正で、縦横相称)。
十一者 一一孔一一毛生(一孔各々一毛生じ青琉璃色)。
十二者 毛生上向而右旋(仏身の全ての毛は上に向かって右に旋る)。
十三者 身色勝上金(全身は真金色)。
十四者 身光面一丈(身光は大千世界を普く照らし、四面各々一丈の光芒あり)。
十五者 皮薄好(皮膚は細かく潤い、一塵も染まらない)。
十六者 七処満(両手両足両肩頸項の七処が満ちて柔軟)。
十七者 両腋下平好(両腋下の骨肉は円満で虚しくない)。
十八者 上身如師子(上半身は獅子王のように広大で満ちている)。
十九者 身大好端直(仏身は大きくて端直)。
二十者 肩円好(両肩は円満で豊かであり荘厳)。
二十一者 四十歯(仏には四十の歯が雪のように白く整い密生)。
二十二者 歯白斉密等而根深(歯は整い密生し雪白で歯根は深い)。
二十三者 四牙白而大(上下各二の牙は雪白で大きい)。
二十四者 頬方如師子(面頬は獅子のように方円)。
二十五者 味中得上味(一切の飲食の味中に上味を得る)。
二十六者 舌大広長而薄(舌は広大で長く薄く柔らかい)。
二十七者 梵音深遠(声は梵天の音楽のように清浄)。
二十八者 迦蘭頻伽声(声はまた迦陵頻伽鳥の声のように美妙)。
二十九者 眼紺青色(仏眼は青蓮華の如き紺青色)。
三十者 眼睫如牛王(眼の睫毛は整って乱れず牛王の睫毛の如し)。
三十一者 頂髪肉骨成(仏頂に肉髻の相あり)。
三十二者 眉間白毛長好右旋(眉間の白毛は広く長く右に旋る)。
また八十種の小相:
一者 無見頂(頂が見えない)。二者 鼻直高好孔不現(鼻は直く高く良く孔が現れない)。三者 眉如初生月紺瑠璃色(眉は新月の如く紺瑠璃色)。四者 耳好(耳が良い)。五者 身如那羅延(身体は那羅延の如し)。六者 骨際如鉤鎖(骨の境は鉤鎖の如し)。七者 身一時回如象王(身体は一時に回るが如く象王の如し)。八者 行時足去地四寸而印文現(歩く時足は地を離れること四寸にして印文が現れる)。九者 爪如赤銅色薄而潤沢(爪は赤銅色で薄く潤いがある)。十者 膝円好(膝は円く良い)。十一者 身浄潔(身体は清浄で潔い)。十二者 身柔軟(身体は柔軟)。十三者 身不曲(身体は曲がらない)。十四者 指長円纖(指は長く円く細い)。十五者 指紋如画雑色荘厳(指紋は絵の如く雑色で荘厳)。十六者 脈深不現(脈は深く現れない)。十七者 踝深不現(踝は深く現れない)。十八者 身潤光沢(身体は潤い光沢がある)。十九者 身自持不委陀(身体は自ら持ち委ねず)。二十者 身満足(三月受胎二月生)(身体は満ち足りている(三月受胎二月生))。
二十一者 容儀備足(容儀が備わっている)。二十二者 住処安(如牛王立不動)(住処が安らか(牛王の立つが如く動かない))。二十三者 威振一切(威は一切を振るう)。二十四者 一切楽観(一切が楽しく観る)。二十五者 面不長(面は長くない)。二十六者 正容貌不撓色(正しい容貌で色を撓めない)。二十七者 唇如頻婆果色(唇は頻婆果の色の如し)。二十八者 面円満(面は円満)。二十九者 響声深(響き声が深い)。三十者 臍円深不出(臍は円く深く出ない)。三十一者 毛処処右旋(毛は処々に右に旋る)。三十二者 手足満(手足が満ちている)。三十三者 手足如意(旧言内外握者是)(手足が如意(旧く言う内外握とはこれである))。三十四者 手足紋明直(手足の紋は明らかで直い)。三十五者 手紋長(手の紋は長い)。三十六者 手紋不断(手の紋は絶えない)。三十七者 一切悪心衆生見者皆得和悦色(一切の悪心の衆生見る者は皆和悦の色を得る)。三十八者 面広姝(面は広く美しい)。三十九者 面如月(面は月の如し)。四十者 衆生見者不怖不惧(衆生見る者は怖れず惧れない)。
四十一者 毛孔出香風(毛孔から香風が出る)。四十二者 口出香気衆生遇者楽法七日(口から香気が出て衆生出遇う者は法を楽しむこと七日)。四十三者 儀容如師子(儀容は獅子の如し)。四十四者 進止如象王(進退は象王の如し)。四十五者 行法如鵞王(行法は鵞鳥の王の如し)。四十六者 頭如磨陀羅果(此果不円不長)(頭は磨陀羅果の如し(この果は円くも長くもない))。四十七者 声分満足(声有六十種分仏皆具足)(声の分が満ち足りている(声には六十種の分があり仏は皆具足する))。四十八者 牙利(牙が鋭い)。四十九者 (無漢名故不得出也)(漢名無きが故に出せず)。五十者 舌大而赤(舌は大きくて赤い)。五十一者 舌薄(舌は薄い)。五十二者 毛純紅色色浄潔(毛は純紅の色で色が浄く潔い)。五十三者 広長眼(広く長い眼)。五十四者 孔門満(九孔門相具足満)(孔門が満ちている(九孔門の相が具足して満ちている))。五十五者 手足赤白如蓮華色(手足は赤白で蓮華の色の如し)。五十六者 腹不見不出(腹は見えず出ず)。五十七者 不凸腹(腹が凸でない)。五十八者 不動身(身が動かない)。五十九者 身重(身体が重い)。六十者 大身(身体が大きい)。
六十一者 身長(身体が長い)。六十二者 手足満浄(手足が満ちて浄い)。六十三者 四辺遍大光光明自照而行(四方に遍く大光あり光明自ら照らして行く)。六十四者 等視衆生(等しく衆生を視る)。六十五者 不着教化不貪弟子(教化に執着せず弟子を貪らない)。六十六者 随衆声満不減不过(衆に随って声が満ち減らず過ぎず)。六十七者 随衆音声而為説法(衆の音声に随って法を説く)。六十八者 語言無礙(語言に障礙無し)。六十九者 次第相続説法(次第に相続して法を説く)。七十者 一切衆生目不能諦視相知尽(一切の衆生の目は相を諦視し知り尽くすことができない)。七十一者 視無厭足(視ることに厭き足りることがない)。七十二者 髪長好(髪は長く良い)。七十三者 髪好(髪が良い)。七十四者 髪不乱(髪が乱れない)。七十五者 髪不破(髪が破れない)。七十六者 髪柔軟(髪が柔軟)。七十七者 髪青毘瑠璃色(髪は青く毘瑠璃色)。七十八者 髪絞上(髪は絞って上る)。七十九者 髪不稀(髪が薄くない)。八十者 胸有"卍"字手足有"吉"字(胸に「卍」の字あり、手足に「吉」の字あり)。
原文:光明は無量の世界を徹照する。初めて生まれて七歩行き、口を開き要言を演ずる。出家して勤苦行し、菩提樹下にて魔軍を降伏す。後夜初明に等正覚を成ず。光相分明、遠く十方を照らし、周遍せざる無し。諸天の空中に弦歌供養し、華を散じ香を雨らす。一切の衆生咸く無量に敬す。独り三界に歩み、還り顧み身を転じ、象王の回るが如し。道樹を観視し、初めて法輪を転ず。天人悟を得て、道を以て自ら証し、涅槃に至る。仏身かくの如し。無量を感発す。
釈:仏身の光明は無量の世界を徹照し、仏が生まれたばかりの時、七歩歩き、口を開いて法要を演じる:天上天下唯我独尊!成長して後、出家して勤苦して道を修め、菩提樹下で魔軍を降伏し、後夜、天がほのぼの明るくなる時、仏道を成就し、等正覚を成ず。仏身の光明は遠く十方世界を照らし、周遍して覆い、空しく過ごすことがない。各層の天の空中で鼓楽歌玄し、花を散らし香を雨のように降らせて仏に供養する。一切の衆生は仏に対して無量の敬仰と尊敬を生じる。世尊は独り三界の中を歩み、再び振り返って身を顧み、象王が振り返って顧みるように、自ら成道した時の菩提樹を観視し、初めて法輪を転じ始める。人天の大衆、得道者数知れず、自ら証心して解脱を得、慧解脱を得、遂に涅槃に至る。仏身はかくの如く、無量の衆生を感化して菩提道心を発起せしめる。
原文:専心に念仏し、外念をさせず。外念の諸縁を収めて還らしむ。かくして乱れず。この時、便ち一仏二仏を見ることを得、乃至十方無量世界の諸仏の色身を。心想の故に、皆見ることを得る。仏を見ることを得て、又説法の言を聞く。或いは自ら問い請い、仏が法を説き、諸の疑網を解く。仏念を得て、当に復た仏の功徳法身、無量の大慧、涯底なき智、計るべからざる徳を念ずべし。
釈:かくして専心に念仏し、心念を他縁に外散させない。もし心が外法に縁すれば、心を収摂して戻し、かくして心は散乱せず、念仏に定まり、三昧が現前すれば、一仏二仏、乃至于方無量世界の諸仏の色身を見ることができる。これは心で見るものだからこそ、全て見ることができるのである。仏を見た後は、仏の説法の声を聞くことができ、あるいは自ら仏法を問い請い、仏が解説し、疑網を破る。このような念仏三昧を修め出した後は、心中はことごとく仏念であるから、更に仏の功徳法身、無量の大智慧、涯底なき智慧、称計すべからざる功徳を念ずべきである。
多陀阿伽度(多陀は秦言で如、阿伽度は言解、亦た実語と言い、又た諸余の聖人安隠道来、仏は如是に来る。復次更に来ず後有の中に在り)阿犁(魯迷反)呵(阿犁は秦言で賊、呵は言殺、仏は忍辱を鎧と為し、精進を堅牢と為し、禅定を弓と為し、智慧を箭と為し、憍慢等の賊を殺す故に殺賊と名づく)三藐(無灼反)三佛陀(三藐は秦言で真実、三佛陀は言一切覚、苦因・習・涅槃因・道を正解見し、四実を転了尽無余する故に真実覚一切と言う)鞞伽(除夜反)遮羅那(鞞伽は秦言で明、遮羅那は言善行、三明なり。行清浄の行、以て独り成し無師大覚する故に明善行と言う也)三般那(秦言で満成)宿伽陀(秦言で善解、亦名善自得、又言善説無患)路伽憊(皮拜反、路伽は秦言で智、智者は世因を知り、尽道を知る故に世智と名づく、世智は世を知る也)阿耨多羅(秦言で無上、善法聖智は一切を示導し、大徳無量、梵魔衆聖及ぶもの莫し、況んや能く仏の尊徳大なるを過ぎんや、故に無上と言う)富楼沙曇藐(富楼沙は秦言で大丈夫、曇藐は言可、化丈夫調御師、仏は大慈大悲大智の故に、時に軟美語、時に苦切語、或いは親教を以て、此を調御し道を失わざらしむる故に、仏を化丈夫調御師法と名づく)舍(赊音)多(都餓反)提婆魔㝹舎喃(奴甘反、秦言で天人師、能く一切の人を解脱せしめ、煩悩常住不退の上法)仏婆伽婆(過去未来現在行不行知行尽不尽一切諸法を菩提樹下に一切了々知する故に仏と名づく。婆伽婆は言有大名声。復次婆は名女根、婆は名吐、永く女根を棄つる故に女根吐也)。
原文:爾時復た二仏の神徳を念ず。三四五仏乃至無量尽虚空界。皆悉くかくの如し。復た還って一仏を見る。一仏を見て十方仏を作ることを能くし、十方仏を見て一仏を作ることを能くし、一色をして金銀水精毘瑠璃色を作ることを能くし、人の意楽に随って、悉く見しむ。爾時惟二事を観ず。虚空仏身及び仏の功徳。更に異念無し。心自在を得。意馳散せず。この時念仏三昧を成ずることを得。
釈:一仏の功徳を念じ終え、更に第二の仏の功徳、第三第四第五の仏の功徳、乃至于無量無辺尽虚空際の諸仏の功徳も、またこのように念ず。その後、再び一尊の仏を見る。一尊の仏を見て十方諸仏に化することを能くし、十方諸仏を見て一仏に化することを能くし、一色をして金銀水晶毘瑠璃色に化することを能くし、念仏人の意願に随って、全て見ることができる。この時はただ二つの事を観行すべきである。第一は虚空のような仏身を観行し、第二は仏の功徳を観行する。更に他の念頭を置かず、かくして心は大自在を得、心念は他縁に馳せ散らさず、念仏三昧は成就する。
原文:もし心が馳散し、念が五塵に在り、もし六覚に在る者は、自ら勖勉し、其の心を克励し、強いて伏することを制す。かくの如く思惟す。人身は得難く、仏法は遇い難し。故に衆明は日を以て最と為す。諸智は仏を以て最と為す。所以は何ん。仏は大悲を興し、常に一切の故に、頭目髄脳を以て衆生を救済す。何ぞ心を放ち専らに念仏せずして、重恩を孤にせんや。もし仏世に出ずることを出でずんば、則ち人天道、涅槃の道無し。
もし人香華を供養し、骨肉血髓を以て塔を起て供養するも、未だ行人の法を以て供養するが如くは非ず。涅槃に至るを得る。然りといえども猶お仏恩を負う。設い当に念仏し、空しく所獲無くとも、猶お応に心を勤めて専念忘れず、以て仏恩に報ずべし。況んや念仏して諸の三昧を得、智慧成仏するをや。而して専らに念ぜずんば。是の故に行者は常に当に専心にし、意を散らさざらしむ。既に仏を見ることを得て、請うて質す所の疑いを。是を名づけて念仏三昧、等分を除滅し、及び余の重罪と為す。
釈:もし心が馳散し、五塵境界の法を念じ、もし心が六塵境界に覚受あれば、自ら心を呵責し、自心を勉励し、強いて降伏させる。心に思惟すべきである:人身は得難く、仏法は遇い難い。故に一切の光明の中では太陽の光が最も明るく、一切の智慧の中では仏の智慧が最も広大である。なぜそうなのか?仏は大慈悲心を起こし、常に一切の衆生の利益のために、頭目髄脳を用いて衆生を救済する。なぜ私はまだ心を放って専心に念仏せず、仏恩を裏切るのか?もし仏が世に出なければ、人道、天道、涅槃道の法を修学する機会はない。
もし人が香花で仏を供養し、骨肉血液髄脳で塔を起てて諸仏に供養しても、修行人が仏法を修学する方法で仏を供養し、最後に涅槃を得るには及ばない。そうであっても、なお仏恩を裏切っている。もし念仏を修習しても空しく何も得られなければ、なお精勤専心に念仏すべきであり、これによって仏恩に報いるべきである。ましてや念仏して各種の念仏三昧智慧を得て成仏するならば、なおさら仏恩に報いる心行である。なぜまだ専心に念仏しないのか?故に修行人は、常に専心に念仏すべきであり、意念を散らさない。仏を見た後は、仏に請法し、心中の疑いを問うべきである。この念仏三昧は貪瞋痴の煩悩やその他の重罪を除滅することができる。