座禅三昧経講義
第六章 第四の思惟を治める法門
原文:もし思惟・覚察が偏り多いならば、安那般那(出入息)三昧の法門を習うべきである。三種類の学人がいる。すなわち、初めて習い行う者、すでに習い行っている者、久しく習い行っている者である。もし初めて習い行う者ならば、教えて言うべきである。一心に念じて数を入息出息に置く。長くても短くても、一から十まで数えるのである。
釈:もし人が内心の思慮・念頭が偏り多いならば、安那般那三昧の法門を修習すべきである。この法を修習する人には三種類あり、第一は初めて修習を始めた者、第二はすでにしばらく修習している者、第三は久しく修習している者である。もし初めて修習を始めた者ならば、彼に教えるべきである。一心に念じて呼吸の数を数えること、入息と出息、長い息も短い息も数え、一から十まで数えるのである。入息の時に一(奇数)を数え、出息の時に二(偶数)を数え、呼吸が長くても短くても、一から十まで数え、それから再び一から数え始める。このように繰り返し循環を絶やさず、心は次第に静まり、過剰な思慮がなくなり、身体も健康になるのである。これは六妙門の第一妙門「数」である。
原文:もしすでに習い行っている者ならば、教えて言うべきである。一から十まで数え、息の出入りに随い、念いを息とともにし、心を一処に止めるのである。もし久しく習い行っている者ならば、教えて言うべきである。数・随・止・観を転じて、清浄を観ずるのである。
釈:もしすでにしばらく修習している者ならば、彼に教えるべきである。呼吸を数える際、一から十まで数え、心念が気息の入りと出に随い、気息とともに離れず、それから心念は出入息を見つめ、出入息に随い、出息には出息を知り、入息には入息を知り、心を気息の上に止めて、他の法を縁とせず、心を専一にし、定を得、止を得るのである。心念を数えることの上に置かず、出入息の上に安住させ、出入息が自由に出入りするに任せれば、心念は止まることができるのである。これが第二妙門「随」である。
もし久しく修習している者ならば、彼に教えるべきである。数を数える念いが出入息に随い、出入息の上に止まった後、観照の作用を起こすべきであり、行を観じ、自心を観照すれば、このように念頭は止観に随って次第に清浄になっていくのである。これが第三・第四・第五・第六妙門「止・観・還・浄」である。
原文:安那般那三昧には、六種の門・十六の分けがある。いかにして数えるか。一心に念じて入息、入息が終わって一を数える。出息が終わって二を数える。もし終わらないうちに数えるのは非数である。もし二から九まで数えて誤ったならば、更に一から数え始める。譬えば算人が一々で二、二二で四、三三で九とするようなものである。
釈:安那般那三昧の法門には、六種の妙入門・十六品がある。如何に数息するか? それは一心に念じて入息、入息が終われば一を数え、一心に念じて出息、出息が終われば二を数えるのである。もし入息と出息が共に終わらないうちに数を数えるのは、これは数えたことにならず、初めから再び数え始めるべきである。もし二あるいは九まで数えて、数え間違えたならば、初めから数え直す。譬えば人数を数えるように、一々で二、二二で四、三三で九とするのである。
原文:問うて言う。何の故に数えるのか。答えて言う。無常観が得易いからである。また諸々の思惟・覚察を断つからである。一心を得るからである。身心の生滅は無常であるが、相似して相続し見難い。入息出息の生滅は無常で、知り易く見易いからである。
釈:ある人が問う:何故に数息するのか? 答:数息法は無常を観察し易く、無常の観念は成就し易く、また思慮・覚観を容易に断除し、心は清浄になり易く、専心一意となり、禅定を修出し易いからである。なぜなら、平時の身心の生滅無常の現象は、真実に相似し、しかも連続不断に運行しており、定力が不足している時には、このような身心生滅無常の真実の相貌を見るのは難しい。しかし入息と出息という生滅の無常現象は、了知し見ることが容易であるからである。
原文:また、心を数に繋ぎ留めることにより、諸々の思惟・諸々の覚察を断つ。思惟・覚察とは、欲の思惟・覚察、瞋(いかり)の思惟・覚察、悩みの思惟・覚察、親族の思惟・覚察、国土の思惟・覚察、不死の思惟・覚察である。清浄な心を求め正道に入ろうとする者は、先ず三種の粗い思惟・覚察を除却すべきであり、次に三種の細かい思惟・覚察を除く。六つの覚察を除いた後、一切の清浄なる法を得るであろう。譬えば金を採る人が、先に粗い石や砂を除き、その後細かい石や砂を除き、次第に細かい金砂を得るようなものである。
釈:重ねて言う、識心をしっかりと数息に繋ぎ留めることにより、一切の思想・思慮・覚察を断除できる。思想・覚察には貪欲の思想・覚察、瞋恚の思想・覚察、憂悩の思想・覚察、家の親族眷属の思想・覚察、国土・家园の思想・覚察、永遠に不死でありたいという思想・覚察が含まれる。
もし清浄な自心を求め仏の正道に入ろうとする者は、先ず三種の粗い思想・覚察を除去し、その後細かい思想・覚察を除去すべきである。六種の思想・覚察を除去した後、一切の清浄なる法を証得するであろう。譬えば金を採る人は、先に粗大な砂石を除去し、その後細かい砂石を除去し、このように次第に細かい金砂を得るのである。
原文:問うて言う。いかなるものを粗い病とするか。いかなるものを細かい病とするか。答えて言う。欲・瞋・悩みの覚察、これ三つを粗い病とする。親族・国土および不死の覚察、これ三つを細かい病とする。この覚察を除いた後、一切の清浄なる法を得る。問うて言う。未だ道を得ざる者は結使(煩悩の繋縛)未だ断たず、六つの思惟・覚察は強く心より生じて乱れる。いかにして除くことができようか。答えて言う。心が世間を厭うに至れば、正観が遮ることができるが、未だ抜くことはできない。後に無漏の道を得て、結使の根本を抜くことができるのである。
釈:ある人が問う:何が粗病か? 何が細病か? 答えて言う:貪欲の覚察、瞋恚、悩害の覚察の三つは粗重な覚察であり、家の親族眷属の覚察、国土・家园の覚察、長生不死を望む覚察は三つの細かい覚察である。これらの覚察を除去すれば、一切の清浄なる法を得る。
また問う:道を得ていない者は、煩悩の結使が断たれておらず、六種の思想・覚察は非常に強く、全て心から生じた乱想である。どうやって除去できるのか? 答えて言う:修習して心が世間を厭うに至った時、これらの思想・覚察を正しく理にかなって観察できれば、自心がこれらの覚察を生じるのを遮障できるが、これは徹底したものではなく、これらの覚察・思惟を抜除するのは、ただ圧服降伏するに過ぎない。その後修行して無漏の道果を証得した時、これらの煩悩結使を根本から抜き去ることができるのである。
原文:何を正観というか
欲多い人の求める苦しみを見よ 得てこれを守ることもまた苦しみ
失えば憂い悩みもまた大いなる苦しみ 心が欲を得る時も満たされぬ苦しみ
欲は無常にして空しく憂い悩みの因 衆人共有のこれ覚りて棄てるべし
譬えば毒蛇が人の家に入るが如し 急ぎ除かざれば害必ず至らん
定まらず実らず貴重ならず 種々の欲求は楽を顛倒す
六神通ある阿羅漢の如く 欲覚ある弟子を教え誡めて言う
汝は戒を破らず戒は清浄なり 女人と共に同室に宿らず
欲結の毒蛇心の室に満つ 纏綿として愛喜び離れず
既に身戒の毀つべからざるを知るに 汝が心は常に欲火と共に宿る
汝は出家して道を求める人 何の縁ぞ心を放縦してかくの如くならん
父母生み養い育て汝を 宗親の恩愛共に成し遂げ
皆涙して汝を恋い惜しむ 汝は能く捨て離れ顧みず
而るに心は常に欲覚の中に在り 欲と共に嬉戯して厭う心無し
常に欲火と一処を楽み 歓喜愛楽して暫しも離れず
かくの如き種々なる呵責を欲覚に加う。かくの如き種々なる正観をもって欲覚を除く。
釈:何が正観か? 貪欲の多い人が様々な貪欲を追求するのは非常に苦しいのを見よ。求めるところを得たとしても、得たものを守るのも苦しい。失う時、内心に憂い悩みが生じるのも依然として大苦である。心が貪るものを得ても満足がないのは同じく苦である。欲望は無常であり苦の因であり、憂い悩みの因縁でもある。衆生は皆これらの煩悩苦しみを持っている。覚って貪欲を捨て去るべきである。譬えば毒蛇が人の住む家屋に入ったならば、急いで除かなければ必ず危害がある。種々の貪欲は楽を顛倒し、定相がなく、真実でもなく、軽薄で貴重ではない。
譬えば六神通を具足した阿羅漢が、欲覚のある弟子を教え誡めて言う:もし汝が戒を破らず、女人と共に宿らず、戒行は清浄であるが、纏綿として貪愛し離れず、内心は貪欲の結縛である毒蛇で満ちている。身戒が毀つべからざることを知りながら、なぜ心には常に欲火を懐いて消えないのか。汝は出家して仏道を求める人である。なぜこのように自分を放縦するのか? 父母が汝を生み養い、宗親眷属が大切に送り出して出家修道させた。全ての親族が涙して汝を憐れみ惜しむ。汝は彼らを捨て離れ顧みないのに、心には常に貪欲を懐き、貪欲心を放縦して厭う心がない。常に欲火の中にいることを好み、歓喜愛楽して一時たりとも捨て離れようとしない。
このように種々の言葉で欲覚を呵責すべきであり、このように種々の正観を用いて欲覚心を除去するのである。
原文:問うて言う。いかにして瞋恚の覚察を滅するか。答えて言う。
胎より生まれ来たりて常に苦しむ 是の中の衆生は瞋り悩ますな
もし瞋り悩ますを念ずれば慈悲滅す 慈悲と瞋悩は比ぶべからず
汝が慈悲を念ずれば瞋悩滅す 譬えば明と闇は同じ処に住まず
もし清浄戒を持ちて瞋恚を念ずれば この人は自ら毀ち法の利を破る
譬えば諸々の象が水に入り浴すが如く また泥土を以て身に塗り坌(まみ)る
一切には常に老病死あり 種々の鞭打ち百千の苦しみ
いかにして善人は衆生を念じ また益すに瞋悩を以てせんとするか
もし瞋恚を起こして彼を害せんと欲せば 前人に及ばずして先ず自ら焼かる
故に常に慈悲を行ずるを念え 瞋悩の悪念は内に生ぜず
もし人常に善法を行ずるを念うれば この心は常に仏の念うところを習う
故に善からざるを念うべからず 常に善法を念うは歓楽の心
今世楽しみを得て後もまた然り 道を得て常楽なるはこれ涅槃
もし心に不善の覚察を積聚せば 自ら己の利を失い並びに他を害す
是を不善と謂い彼我共に失う 他に清浄心あればまたまた没す
譬えば阿蘭若の道人 手を挙げて哭きて言う賊我を劫うと
釈:問う:如何にして瞋恚の覚察を滅除するか? 答えて言う:胎より生まれて心には常に苦を懐く。故に衆生は常に瞋ってはならない。もし修道者の心に瞋悩があれば、慈悲心は無くなる。慈悲と瞋悩は同時に存在せず、両者に比べるべきものはない。もし汝の心念に慈悲があれば、瞋悩は滅する。譬えば明と暗は同時に存在しない。もし清浄な戒律を守りたいと思うが、瞋恚の心念があるならば、この人は戒律を毀ち、自ら仏法の利益を失う。譬えば象が川に入って水浴し、さらに泥土を全身に塗るのは、実に不智の挙げである。全ての衆生には生老病死の苦があり、種々の苦悩は皮鞭で打つように苦痛に堪えない。なぜ善人が衆生を憐れみながら、衆生に苦悩を増加させるのか? もし瞋恚心を起こして相手を害そうとすれば、まだ害が相手に及ぶ前に、自分が先に瞋火に焼かれるのである。
故に常に慈悲の行いを持つべきであり、内心に瞋悩や悪念を生じてはならない。もし人が常に善法を行う念を持つならば、その心は常に仏の念を修習しているのである。故に不善の念を持つべきではない。常に善法を念ずれば、心は歓楽である。今世楽しみを得て後世もまた楽しくなり、常楽の道果を証得すれば涅槃である。もし心に不善の覚察を積聚すれば、自らの利益を失うだけでなく、他人をも悩害する。故に不善の心念があると、彼も我も共に損害を受け、他人の清浄心も無くなり、譬えば清浄な阿蘭若道場に住む人が、手を挙げて泣き叫び「賊が私を打ち劫う」と言うのである。
原文:ある人問うて言う。誰が汝を劫うのか。答えて言う。財を劫う賊は我畏れず。
我は財を集めて世の利を求めず。誰に財を劫う賊あって我を侵せん。
我は善根・諸々の法宝を集む。覚観の賊来たりて我が利を破る。
財賊は避け易く蔵むる処多し。善を劫う賊来れば避く処無し。
かくの如き種々なる呵責を瞋恚に加う。かくの如き種々なる正観をもって瞋恚の覚察を除く。
釈:ある人が問う:誰が汝を打ち劫うのか? 答えて言う:財を劫う賊は私は恐れない。なぜなら私は財産を集めて世間の利益を求めないから、どの劫財の賊が私を侵せようか? 私は善根・仏法の宝蔵を積集している。覚観の賊が来れば、私が仏法上の利益を失うことになる。財を劫う賊は避けやすく、隠れる所は多い。しかし善法を劫う賊が来れば避ける所はない。このように種々の言葉で瞋恚を呵責し、このように種々の正観を用いて瞋恚の覚察を除去するのである。
原文:問うて言う。いかにして悩害の覚察を除くか。
答えて言う衆生百千の種 諸々の病互いに恒に来たり悩ます
死の賊は捕らえ伺い常に殺さんと欲す 無量の衆苦自ら沈没す
いかにして善人はまた悩害を加え 讒謗謀害して慈仁無きか
未だ彼を傷つけずして殃(わざわい)を身に被る 俗人が悩害を起こすは是れ恕すべき
この事は世の法・悪業の因 また自ら我は善を修めると言わず
清浄道を求める出家人 しかして瞋恚を生じ嫉心を懐く
清冷なる雲中に毒火を放つ 当に知るべしこの悪は罪極めて深しと
釈:如何にして悩害の覚察を除去するか? 答えて言う:衆生には百千種もの病があり、常に交替して悩害しに来る。死の賊は常に追捕し、五陰身を殺害しようとする。衆生は無量の苦痛に常に沈没している。善人であるならば、なぜまた衆生に害を加えようとするのか。讒言・毀謗・謀略で衆生を害し、仁慈心が無い。人を傷つけようとする者がまだ他人を傷つけていないうちに、自分が先に災いを被る。世俗人が心を起こして他人を悩害するのは、まだ許容できる。なぜならこれが世俗法における悪を造る起因であり、世俗人は自分が善を修め善人になろうなどと言わないからである。しかし心清浄を求めようとする出家人が、心に嫉妬心を懐いて瞋恚を生じるのは、清冷な白雲の中に毒烈な炎を放つようなものであり、このような罪悪は極めて重く大きいと知るべきである。
原文:
阿蘭若の人は嫉妬を起こす 他心智ある阿羅漢あり
教誡し苦しく責む汝は何ぞ愚かなる 嫉妬は自ら功徳の本を破る
もし供養を求むるならば自ら集むべし 諸々の功徳の本を以て身を荘厳せよ
もし戒を持たず禅・多聞せずば 虚仮の染衣は法身を壊す
実は乞食の弊悪人 いかにして供養を求め身を利せんとするか
飢え渇き寒さ熱さ百千の苦しみ 衆生は常にこの諸々の悩みに困る
身心の苦厄は窮まり無く いかにして善人は諸々の悩害を加えんとするか
譬えば病んだ瘡に針を刺すが如く また獄囚の未だ決せられず考(かんが)えられるが如し
苦厄身に纏わり衆悩集まる いかにして慈悲は更に劇しくせんとするか
かくの如き種々なる呵責を悩害の覚察に加う。かくの如き種々なる正観をもって悩害の覚察を除く。
釈:静かな道場に住む人が心に嫉妬を生じた。ある阿羅漢に他心智通があり、彼を教導し、苦しく呵責して言う、汝はなぜこのように愚かなのか。嫉妬心は汝が修得した功徳の元手を破壊する。もし供養を求めたいならば、汝自身が努力して功徳を積み重ね、多くの功徳で自らを荘厳すべきである。もし戒行を持たず、禅定を修習せず、広く学び多く聞かなければ、出家服を着るだけで法身慧命を破壊する。これは実際には乞食の弊悪人であることを示している。なぜさらに貪って供養を求め自分の色身を養おうとするのか?
飢え・渇き・寒さ・熱さの百千の苦悩、衆生は常にこれらの煩悩病痛に困っている。各々の衆生の身心が受ける苦厄煩悩は窮まり無い。なぜ善人である者がさらに衆生に多くの苦悩を加えようとするのか? 譬えば一人が病んだ瘡を持ち、さらに針で刺して傷つけるようなものであり、また牢獄の囚人が厳しい拷問を受け、生死が定まらず、多くの苦厄が色身に纏わり、多くの苦悩も一身に集まる。どうして慈悲心のある人がさらに彼の苦悩を重くしようとするのか?
このように種々の言葉で自らの悩害覚察を呵責し、このように種々の正観を用いて悩害覚察を除去するのである。これがすなわち心を修める法門である。自心を観察することを学び、自心を呵責することを学び、自心を教育することを学び、自心を正しく導くことを学べば、心地はますます清浄になり、ますます智慧が増し、道業の進歩は速くなるのである。