座禅三昧経講義
原文:若思觉偏多。当习阿那般那三昧法门。有三种学人。或初习行。或已习行。或久习行。若初习行当教言。一心念数。入息出息。若长若短。数一至十。
解釈:もし一人の内心に思慮・念頭が偏って多ければ、阿那般那三昧の法門を修習すべきである。この法を修習する者には三種あり、第一種は初始に修習を始めたばかりの人、第二種はすでにしばらく修習した人、第三種は長く修習している人である。もし修習を始めたばかりの人であれば、彼に教導すべきである。一心に呼吸を数え念じ、入息と出息、長い息も短い息も数え、一から十まで数える。入息の時に一(単数)を数え、出息の時に二(複数)を数え、呼吸が長かろうが短かろうが、一から十まで数え、それからまた一から数え始める。このように繰り返し絶えず循環していくと、心は次第に静まって、過剰な思慮はなくなり、身体も健康になっていく。これが六妙門の第一の妙門である:数。
原文:若已习行当教言。数一至十。随息入出。念与息俱。止心一处。若久习行当教言。数随止观。转观清净。
解釈:もしすでにしばらく修習した人であれば、彼に教導すべきである。呼吸を数える時、一から十まで数え、心念は息の入ると出るとに随い、息と共にあって分離せず、それから心念は出入息を見、出入息に随い、出息を出息と知り、入息を入息と知り、心を息の上に止め、他の法に縁らせず、心を専一として、定を得止を得る。心念は数えることにあってはならず、出入息の上に安住し、出入息に随って自由に出入すれば、心念は止めることができる。これが第二の妙門である:随。
もし長く修習している人であれば、彼に教導すべきである。数える心念は出入息に随い、出入息の上に止めた後、観照の作用を起こすべきであり、観行 (vipaśyanā-caryā) を行い、自心を観照すれば、このように心念は止観に随って次第に清浄 (viśuddha) していく。これが第三・四・五・六の妙門である:止、観、還、浄。
原文:阿那般那三昧。六种门十六分。云何为数。一心念入息。入息至竟数一。出息至竟数二。若未竟而数为非数。若数二至九而误更从一数起。譬如算人一一为二。二二为四。三三为九。
解釈:阿那般那三昧の法門には、六種の妙たる入門と十六品がある。いかに数息するのか。すなわち一心に入息を念じ、入息が終われば一と数え、一心に出息を念じ、出息が終われば二と数える。もし入息と出息が終わらないうちに数えれば、これは数えたことにならず、初めから数え直すべきである。もし二まで数えたか九まで数えたところで誤れば、また初めから数え直す。例えば人数を数えるに、一一を二とし、二二を四とし、三三を九とするようなものである。
原文:问曰。何以故数。答曰。无常观易得故。亦断诸思觉故。得一心故。身心生灭无常。相似相续难见。入息出息生灭无常。易知易见故。
解釈:有人問:なぜ数息するのか。答:数息の法は無常を観察しやすく、無常の観念が成就しやすく、また思慮・覚観を断除しやすく、心は清浄になりやすく、専心一意となり、禅定を修み出すことができるからである。普段は身心の生滅無常の現象が、真実に相似していて、また絶え間なく運行しているので、定力が不足している時には、この身心の生滅無常の真実の相貌を見ることは難しい。しかし入息と出息という生滅の無常の現象は、了知し見ることが容易である。
原文:复次心系在数。断诸思诸觉。思觉者。欲思觉。恚思觉。恼思觉。亲里思觉。国土思觉。不死思觉。欲求净心入正道者。先当除却三种粗思觉。次除三种细思觉。除六觉已。当得一切清净法。譬如采金人先除粗石砂。然后除细石砂。次第得细金砂。
解釈:さらに言う。識心をしっかりと数息の上に繋留すれば、一切の思想・思慮・覚観を断除することができる。思想覚観には、貪欲の思想覚観、瞋恚の思想覚観、憂悩の思想覚観、家親眷属の思想覚観、国土・家園の思想覚観、永遠に死なないことを願う思想覚観が含まれる。
もし自心を清浄にして仏の正道に入りたい人は、まず三種の粗い思想覚観を除去し、それから細かい思想覚観を除去すべきである。六種の思想覚観を除去した後、一切の清浄の法を証得することができる。例えば金を採る人は、まず粗い砂石を除き、それから細かい砂石を除き、このように次第に細かい金砂を得るのである。
原文:问曰。云何为粗病。云何为细病。答曰。欲瞋恼觉是三名粗病。亲里国土及不死觉是三名细病。除此觉已。得一切清净法。问曰。未得道者结使未断。六思觉强从心生乱。云何能除。答曰。心厌世间。正观能遮而未能拔。后得无漏道。能拔结使根本。
解釈:有人問:何が粗病か。何が細病か。答曰:貪欲・瞋恨・悩害の覚観の三つは粗重な覚観であり、家親眷属の覚観、国土・家園の覚観、長生不死を願う覚観の三つは細かい覚観である。これらの覚観を除去すれば、一切の清浄の法を得ることができる。
また問う:道を得ていない人は煩悩の結使が断除されておらず、六種の思想覚観は強大で、いずれも心から生じた乱想であるが、どうすれば除去できるのか。答曰:修習して心が世間を厭うようになった時、これらの思想覚観を正しく如理に観察できれば、自心がこれらの覚観を生じるのを遮ることができるが、しかしこれは徹底しておらず、これらの覚観・思惟を拔除できるわけではなく、ただ圧服・降伏しただけである。その後修行して無漏の道果を証得した時、初めてこれらの煩悩結使を根本から拔除することができる。
原文:何谓正观
见多欲人求欲苦 得之守护是亦苦
失之忧恼亦大苦 心得欲时无满苦
欲无常空忧恼因 众共有此当觉弃
譬如毒蛇入人室 不急除之害必至
不定不实不贵重 种种欲求颠倒乐
如六神通阿罗汉 教诲欲觉弟子言
汝不破戒戒清净 不共女人同室宿
欲结毒蛇满心室 缠绵爱喜不相离
既知身戒不可毁 汝心常共欲火宿
汝是出家求道人 何缘纵心乃如是
父母生养长育汝 宗亲恩爱共成就
咸皆涕泣恋惜汝 汝能舍离不顾念
而心常在欲觉中 共欲嬉戏无厌心
常乐欲火共一处 欢喜爱乐不暂离
如是种种呵欲觉。如是种种正观除欲觉。
解釈:何が正観か。貪欲の多い人が様々な貪欲を追求するのは大変辛苦であり、たとえ求めるものを得ても、得たものを守護するのもまた辛苦であり、失った時には内心に憂悩が生じ、これもやはり大苦であり、心が貪愛するものを得ても満足はなく、これも同じく苦である。欲望は無常と苦の因であり、憂悩の因縁でもある。衆生は皆これらの煩悩の苦しみを有しているので、貪欲を覚悟した上で捨て去るべきである。例えば毒蛇が人の住む舎宅に入り込んだなら、急いで除かなければ必ず危害が及ぶ。様々な貪欲の顛倒の楽には定相がなく、真実でもなく、軽薄で貴重ではない。
例えば六神通を具足した阿羅漢が、欲覚のある弟子に教誨して言う:もし汝が戒を破らず、女人と共に宿らなければ、戒行は清浄であるが、綿々とした貪愛は相捨離せず、内心は貪欲の結縛の毒蛇で満ちている。身の戒を毀犯してはならないと知りながら、なぜ心には常に欲火を抱いて消えないのか。汝は出家して仏道を求める者であり、なぜこのように自分を放縦するのか。父母は汝を生み育て、宗親眷属は汝を慈しみ送り出して出家修道させ、すべての親族は涙を流して汝を憐しみ惜しんでいるが、汝は彼らを捨て離れて顧みない。それなのに心には常に貪欲を抱き、貪欲の心を放縦して厭い足らず、常に欲火の中にいることを好み、歓喜愛楽して一時も捨て離れようとしない。
このように様々な言詞で欲覚を呵責し、このように様々な正観によって欲覚の心を除去すべきである。
原文:问曰。云何灭瞋恚觉。答曰。
从胎中来生常苦 是中众生莫瞋恼
若念瞋恼慈悲灭 慈悲瞋恼不相比
汝念慈悲瞋恼灭 譬如明闇不同处
若持净戒念瞋恚 是人自毁破法利
譬如诸象入水浴 复以泥土涂坌身
一切常有老病死 种种鞭笞百千苦
云何善人念众生 而复加益以瞋恼
若起瞋恚欲害彼 未及前人先自烧
是故常念行慈悲 瞋恼恶念内不生
若人常念行善法 是心常习佛所念
是故不应念不善 常念善法欢乐心
今世得乐后亦然 得道常乐是涅槃
若心积聚不善觉 自失己利并害他
是谓不善彼我失 他有净心亦复没
譬如阿兰若道人 举手哭言贼劫我
解釈:問:いかに瞋恚覚を滅するか。答曰:胎から生まれて心には常に苦が懐かれている。それゆえ衆生は常に瞋悩してはならない。もし修道の人が心に瞋悩があれば、慈悲心はなくなってしまう。慈悲と瞋悩は同時に存在できず、両者には比較の余地がない。もし心に慈悲を念じれば、瞋悩は滅する。例えば明と暗が同時に相处できないようなものである。もし清浄な戒律を守持しようとしながら、瞋恚の心念があるなら、この人は戒律を毀破し、自ら仏法の利益を失う。例えば大象が川に入って沐浴した後、さらに泥土を体に塗りたくるようなもので、実に愚かな行いである。すべての衆生には生老病死の苦があり、様々な苦悩は皮鞭で打たれるように痛み堪え難い。なぜ善人が衆生を憐れみ念じながら、さらに衆生に苦悩を加えるのか。もし瞋恚心を生じて相手を害しようとすれば、相手に害を加える前に、まず自分が瞋火に焼かれる。
それゆえ常に慈悲の心行を有すべきであり、内心に瞋悩と悪念を生じてはならない。もし人が常に善法を行う念があれば、このような心は仏念を修習しているのである。それゆえ不善の念があってはならない。常に善法を念じれば、心は快楽であり、今世に楽を得れば後世もやはり楽であり、常楽の道果を証得するのが涅槃である。もし心に不善の覚観が集積していれば、自分の利益を失うだけでなく、他人をも悩害できる。それゆえ不善の心念があれば、彼我ともに損害があり、他人の清浄心もなくなってしまう。例えば清浄な阿蘭若の道場に住む人が、手を挙げて泣き叫んで「賊が私を打ち劫った」と言うようなものである。
原文:有人问言。谁劫汝。答言。财贼我不畏。
我不聚财求世利。谁有财贼能侵我。
我集善根诸法宝。觉观贼来破我利。
财贼可避多藏处。劫善贼来无处避。
如是种种呵瞋恚。如是种种正观除瞋恚觉。
解釈:有人問:誰があなたを打ち劫ったのか。答えて言う:財を劫う賊は私は恐れない。なぜなら私は財産を集めて世間の利益を求めないからであり、どの劫財の賊が私を侵犯できようか。私は善根・仏法の宝蔵を集積しているので、覚観の賊が来れば仏法上の利益を失わせてしまう。劫財の賊人は避けやすく、隠匿する所も多いが、善法を劫う賊人が来れば避ける方法がない。このように様々な言詞で瞋恚を呵責し、このように様々な正観によって瞋恚覚観を除去するのである。
原文:问曰。云何除恼觉。
答曰众生百千种 诸病更互恒来恼
死贼捕伺常欲杀 无量众苦自沉没
云何善人复加恼 谗谤谋害无慈仁
未及伤彼被殃身 俗人起恼是可恕
此事世法恶业因 亦不自言我修善
求清净道出家人 而生瞋恚怀嫉心
清冷云中放毒火 当知此恶罪极深
解釈:いかに悩害覚観を除去するか。答曰:衆生には百千種もの疾病があり、常に交互にやって来て悩害し、死亡の賊は常に追捕に来て五陰 (pañca-skandha) の身を殺害しようとし、衆生はしばしば無量の苦痛の中に沈没している。善人であるならば、なぜさらに衆生を加害するのか。讒言・毀謗・謀害は仁慈心がなく人を傷つけるものであり、まだ他人を傷つけないうちに、自分が先に災いに遭う。世俗の人が心を起こして他人を悩害するのはまだ寛恕できるが、これは世俗法の中で悪を造る起因であり、世俗の人も自分が善を修め善人になると言ったことは決してない。しかし心の清浄を求める出家人が、心に嫉妬心を懐いて瞋恚を生じるのは、清冷な白雲の中に毒烈な火焔を放つようなものであり、このような罪悪は極めて重く大きいことを知るべきである。
原文:
阿兰若人兴嫉妒 有阿罗汉他心智
教诫苦责汝何愚 嫉妒自破功德本
若求供养当自集 诸功德本庄严身
若不持戒禅多闻 虚假染衣坏法身
实是乞儿弊恶人 云何求供养利身
饥渴寒热百千苦 众生常困此诸恼
身心苦厄无穷尽 云何善人加诸恼
譬如病疮以针刺 亦如狱囚考未决
苦厄缠身众恼集 云何慈悲更令剧
如是种种呵恼觉。如是种种正观除恼觉。
解釈:寂静な道場に住む一人の人が嫉妬心を生じた時、ある阿羅漢が他心智通を有していて、教導し勧告し、苦苦しく呵責して言う:汝はなぜこのように愚痴なのか。嫉妬心は汝が修得した功徳の元本を破壊する。もし供養を求めたいなら、自分で努力して功を積み徳を累ね、多くの功徳で自分を荘厳すべきである。もし戒行を修持せず、禅定を修習せず広く学んで多聞しなければ、いたずらに出家服を着て法身慧命を破壊することになる。このようにすることは、自分が実際には乞食の弊悪な人であることを示しており、なぜさらに供養を貪って自分の色身を養おうとするのか。
飢渇・寒熱の百千種の苦悩の中で、衆生は常にこれらの煩悩・病痛に困われており、一人一人の衆生の身心が受ける苦厄・煩悩は窮まりがない。善人として、なぜさらに衆生に多くの苦悩を加えるのか。例えばある人が病瘡を生じたところに、さらに針を取って刺し傷つけるようなものであり、また監獄の囚人が厳しい拷問を受け、生死も定まらず、多くの苦厄が色身に纏わり、多くの苦悩も一身に集まっているのに、慈悲心のある人がなぜさらにその苦悩を重くするのか。
このように様々な言詞で自分の悩害覚観を呵責し、このように様々な正観によって悩害覚観を除去する。これが修心の法門である。自分の心を観察することを学び、自心を呵責することを学び、自心を教育することを学び、自心を正しく導くことを学べば、心地はますます清浄になり、ますます智慧が増し、道業の進歩も速くなる。