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座禅三昧経講義

作者: 更新時間:2025-07-13 05:31:30

第五章 痴を治す法門

原文:若し愚痴偏多ならば。当に三種の思惟法門を学ぶべし。或いは初めて習行する者。或いは已に習行する者。或いは久しく習行する者なり。若し初めて習行する者は当に教えて言うべし。生は老死を縁とし。無明は行を縁とす。是の如く思惟せよ。外念をして起らしめず。外念の諸縁あれば、これを摂めて還らしめよ。

釈:もし愚痴が偏って多いならば、三種の思惟法門を修習すべきである。愚痴の多い者の中には、初めて修習する者、既にしばらく修習した者、そして長く修習を続けている者がいる。もし初めて修習する者であるならば、「生は老死を縁とし、無明は行を縁とする」などの十二因縁の法門を教え、彼に思惟させ、生命の過患が老死の苦しみを生み出し、無明の過患が一切の業行を引き起こして生死を流転させることを認識させるべきである。このような思惟に縁って、心念が外に向かって攀縁するのを許さず、もし心念が移り散乱するならば、それを摂持し牽制して戻すのである。

無明が行を縁とするのは、意根に無明があり、法界の実相を知らず、寂静なる真如の中に安住することを肯んぜず、心を起こして外に向かい貪求しようとするためである。阿頼耶識は意根の無明に随順して意根の心行を生み出し、意根の内に躁動が生じて、三界の法および五陰の身心を執取しようとし、身口意の行を持とうとするのである。

生が老死憂悲苦悩を縁とするのは、五陰の身は生滅幻化の性質を持つためである。生まれた後、阿頼耶識が執持し、絶えず四大の種子を出力して色身を生長させ、徐々に老い、ついには死ぬ。この中には無量の生死の苦しみがあり、憂悲苦悩は尽きることがない。これらの生老病死の苦しみもまた、阿頼耶識が縁によって生み出したものであり、その根源は依然として意根の執取性および意根の貪愛にある。意根の貪愛を滅除してこそ、一切の苦受を滅除できるのである。

原文:若し已に習行する者は当に教えて言うべし。行は識を縁とし。識は名色を縁とし。名色は六入を縁とし。六入は触を縁とし。触は受を縁とし。受は愛を縁とし。愛は取を縁とし。取は有を縁とす。是の如く思惟せよ。不令外念。外念諸縁。摂之令還。

釈:もししばらく修習した者であるならば、十二因縁の中の「行は識を縁とし、識は名色を縁とし、名色は六入を縁とし、六入は触を縁とし、触は受を縁とし、受は愛を縁とし、愛は取を縁とし、取は有を縁とする」ことを修習するよう教えるべきである。順序に従って一つ一つ思惟し、心念が外に縁って流散するのを許さず、もし心念が散乱するならば、心念を収摂して専一に思惟すべきである。

行が識を縁とするのは、意根のこのような躁動不安で外に向かって求取する心行によって、阿頼耶識が意根の思心所を満たし、六識を生じさせ、意根が六識を利用して自らの意図を達成し、一切の身口意の行を造作させるためである。

識が名色を縁とするのは、意根の心行が絶えず、六識の身口意行が続くため、阿頼耶識が自動的に業種を収蔵し、こうして未来世に受生する種子が蒔かれるためである。命終の時、意根の心行が絶えず、五陰身を求取するため、阿頼耶識は中陰身を生じる。中陰身の中で、意根は一時的な色身に満足せず、さらに次の世の五陰身を持とうとする。父母の縁が具足する時、阿頼耶識は意根に随って胎に投じ、名色が生じるのである。

名色が六入を縁とするのは、名色(受精卵)が形成された後、阿頼耶識が意根の五陰身に対する想いに随順し、業種と業縁に基づいて絶えず色身を変造し、色身に眼根・耳根・鼻根・舌根を生じさせ、身根も絶えず成長・完成させるためである。こうして五根が阿頼耶識によって創造され、これに意根を加えて六入が具足するのである。

六入が触を縁とするのは、六入の縁が具足した後、意根が六塵を見ようとするため、阿頼耶識が五根を通じて外六塵を五勝義根に伝達し、六根が六塵に接触するためである。この触もまた阿頼耶識が生み出すものである。

触が受を縁とするのは、六根が六塵に触れることができる時、意根が六塵を了別しようとするため、阿頼耶識が耳識・鼻識・舌識・身識および意識を生じて共同で六塵境を了別するからである(母胎の中では、まだ眼識を生じて色を見ることはできない)。こうして六識は六塵に対して覚受を持つようになり、苦・楽・不苦不楽の三種の受が生じる。意根もその中で自らの受を持ち、これらの受もまた阿頼耶識が生み出すものである。

受が愛を縁とするのは、六識の三種の受があるため、意根は六識の受に依って自らの受を持ち、自ら塵境に接触する時にも受があるからである。あるいは貪愛する楽受、あるいは厭棄する苦受、あるいは捨受である。これらの受によって、特に意根の貪愛が生じる。阿頼耶識はこれに依って後続の一切の身口意行や、より多くの法を生み出すことができる。六識の受および意根の受は、いずれも阿頼耶識が識の種子を出力して生み出したものであり、六識の愛も阿頼耶識が識の種子を出力して生み出したものである。特に意根の貪愛は、阿頼耶識が意根の受に縁って生み出したものである。

愛が取を縁とするのは、意根に貪愛があるため、執取性が生じ、三界六塵の万法を占有し執取しようとするためである。この執取性もまた阿頼耶識が識の種子を出力して生み出したものであり、阿頼耶識を離れれば意根は存在せず、ましてや意根の受・愛・執取性などありえない。

取が有を縁とするのは、意根が三界万法に対して執取するため、阿頼耶識が意根の心行に随順して絶えず三界世間の一切法を生み出すからである。有が生を縁とするのは、三界世間法が生じた後、五陰身の生存環境が具足するため、こうして阿頼耶識は五陰身を生み出すのである。

原文:若し久しく習行する者は当に教えて言うべし。無明は行を縁とし。行は識を縁とし。識は名色を縁とし。名色は六入を縁とし。六入は触を縁とし。触は受を縁とし。受は愛を縁とし。愛は取を縁とし。取は有を縁とし。有は生を縁とし。生は老死を縁とす。是の如く思惟して外念を起さしむることなかれ。外念諸縁あれば、これを摂めて還らしめよ。

問うて曰く。一切智人は是れ明有り。一切愚人は是れ無明なり。是中、云何が無明なるや。答えて曰く。無明と名づくは一切を知らざるなり。此の中の無明は能く後世の有を造る。有るべきものは無く。無きべきものは有り。諸の善を棄て。諸の悪を取る。実相を破り。虚妄に着するなり。

釈:もし長く修習している者であるならば、「無明は行を縁とし、行は識を縁とし、識は名色を縁とし、名色は六入を縁とし、六入は触を縁とし、触は受を縁とし、受は愛を縁とし、愛は取を縁とし、取は有を縁とし、有は生を縁とし、生は老死を縁とする」ことを教えるべきである。十二の生死の環節を仔細に思惟し、心念が流散外放するのを許さず、もし心念が散乱して外境に攀縁するならば、牽制して戻すのである。

ある人が問うて言う、「一切智者はみな明を持ち、一切愚人はみな無明を持っている。無明とは何か?」と。答えて言う、「無明とは一切の事理を知らないことである。無明は後世の三界世間を生じさせ、後世の生命を絶え間なくさせる。無明とは、あるべき智慧がなく、あるべきでない無明煩悩が存在し、一切の善法を棄捨して諸々の悪法を取り、実相を排斥して実相に愚かであり、虚妄相に執着することである」と。

原文:無明相品の中に説くが如し:

益法を明白せず    道徳の業を知らず

而して結使の因を作す    火鑽りで火が生じるが如し

悪法に心着して    善法を遠く棄つ

衆生の明を奪う賊    去来の明も亦劫う

常楽我淨の想    五陰の中に計る

苦習尽道の法    亦復た能く知らず

種種の悩める険道    盲人、中に入りて行く

煩悩故に業集まり    業故に苦流転す

取るべからざるを取り    取るべきを反って棄つ

闇に馳せ非道を逐い    株を蹴りて地に躄く

目有りて慧無き    其の譬えも亦た是の如し

是の因縁滅する故に    智明は日出ずるが如し

釈:無明相品の中で説かれているように:清浄で増益する法を明白せず、道徳的な業行が何であるかも知らない。それゆえ無明の結縛が生じ、火打石で火を起こすように火が生じる。心が悪法に執着すれば、善法を遠く棄て去ってしまう。これは衆生の心の明を奪う賊人であり、無明が来れば明は劫われてしまう。五陰は常楽我淨である、恒常に存在し、清浄で愛楽すべき真実の我であると考える、このような倒錯した想いが無明の結縛であり、苦集滅道の四聖諦の法すら知らない。あたかも盲人が種々の険悪な道の中を行くようなものである。煩悩のゆえに、業行は絶えず積み集まり、煩悩業のゆえに、生死の苦は輪転して絶えない。執取すべきでないものを執取し、取るべきものを棄ててしまう。暗闇の中で邪道を走り、低い木の根に躓いて地面に倒れる。目はあっても智慧がない、これは無明を喩えたものである。因縁法を修習して無明が滅した後は、智慧の光明が太陽が現れるように出現するのである。

原文:是くの如く略説す。無明乃至老死も亦た是くの如し。問うて曰く。佛法の中の因縁は甚だ深し。云何が痴多き人は能く因縁を観ぜんや。答えて曰く。二種の痴人あり。一は牛羊の如き者。二は種種の邪見ある者なり。痴惑闇蔽の邪見痴人に、仏は此の為に因縁を観じて以て三昧を習うべしと説きたまう。

釈:かように簡略に説く、無明から老死に至るまでもこのように思惟すべきである。ある人が問う:「仏法の中の因縁法は甚深である。愚痴の多い人がどうして因縁法を観察できようか?」と。答えて言う:「痴人には二種ある。一つは牛羊のような愚痴無知の者、二つ目は種々の邪見を持つ者である。愚痴に惑い、内心が暗く閉ざされた邪見の痴人に、仏はこれらの人々のために十二因縁法を思惟観察して三昧を修習すべきであると説かれたのである」。

仏が説かれた坐禅は、まず思想知見の上で工夫を重ね、心を清掃することを求める。心の地が清明になれば、禅定は自然に現れる。いわゆる「功夫は詩の外にあり」というように、禅定は脚の上にあるのではない。心を修めず、ひたすら脚を組んで死んだように坐る者は、禅定を修め出すのが難しい。たとえ修め出せたとしても、それは死定であり、暗闇に入るが如く、一片の光明もないのである。

まとめ:修行はどの法門を修めるにせよ、全て心を修めることである。心は一切の法に通じ、心は一切の法に達し、心は一切の法を明らかにする。心が明らかになった後、修行は終わり、ここに無学無為となるのである。

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