座禅三昧経講義
第四章 瞋恚を治める法門
原文:もし瞋恚(しんに)が特に多いならば、三種の慈悲心の法門を学ぶべきである。あるいは初めて修行する者、あるいはすでに修行した者、あるいは久しく修行した者である。もし初めて修行する者ならば、教えて言うべきである。慈悲は親しい人に及ぶ。どのように親しい人に慈悲を及ぼすのか。親しい人に楽しみを与えんと願う。修行者がもし種々の身心の楽しみを得たならば、寒い時には衣を得、暑い時には涼を得、飢渇の時には飲食を得、貧賤の時には富貴を得、行き疲れた時には休息を得る。このような種々の楽しみを、親しい人が得ることを願う。心を慈悲に繋ぎ、他の念いを生じさせない。もし他の念いや諸縁が生じたならば、それを収めて戻す。
釈:もし人に瞋恚の心が特に多いならば、三種の慈悲心の法門を修学すべきである。三種の修行者に分けて教える。一つは初めて修行する者、二つはすでにしばらく修行した者、三つは久しく修行した久修行者である。
もし初めて修行を始める者ならば、教えるべきである。自分が親しみ愛する人に慈悲を向けるように。どのように親しい人に慈悲を向け、親しい人に楽しみを与えようとするのか。この法を修行する者がもし種々の身心の楽しみを得たならば、例えば寒い時に衣を得、暑い時に涼しさを得、飢渇の時に飲食を得、貧賤の時に富貴を得、道に疲れた時に休息を得るなど、このような種々の身心の楽しみを、親愛する人が得ることを願い、心の念いのすべてがこの慈悲心であり、心に他の雑念や考えを起こさせない。もし心の念いが変わって雑念が生じたならば、心を収めて戻す。
原文:もしすでに修行した者ならば、教えて言うべきである。慈悲は親しくも憎くもない人に及ぶ。どのように親しくも憎くもない人に慈悲を及ぼして楽しみを与えるのか。修行者がもし種々の身心の楽しみを得たならば、親しくも憎くもない人が得ることを願う。心を慈悲に繋ぎ、他の念いを生じさせない。他の念いや諸縁が生じたならば、それを収めて戻す。
もし久しく修行した者ならば、教えて言うべきである。慈悲は怨み憎む人に及ぶ。どのように彼らに慈悲を及ぼして楽しみを与えるのか。修行者がもし種々の身心の楽しみを得たならば、怨み憎む人が得ることを願う。得る楽しみが親しい人と同じであることを。同じく一心を得ることを。心は大いに清浄である。親しい人、親しくも憎くもない人、怨み憎む人を等しく広く世界に及ぼし、無量の衆生が皆楽しみを得ることを願う。周遍して十方に及び、異なることなく同等である。大いなる心は清浄であり、十方の衆生を見ることは、あたかも自らが心の目で見るが如く、心の目前にあり、了々とそれを見る。楽しみを受けることを。この時、即ち慈悲心三昧を得る。
釈:もしすでにしばらく修行した者ならば教えるべきである。親しくも憎くもない人に慈悲を向けるべきである。どのように親しくも憎くもない人に慈悲を向け、彼らに楽しみを与えるのか。行者がもし種々の身心の楽しみを得たならば、自分が親しくも怨みもない人が得ることを願う。心の念いをこの慈悲心に置き、他の雑念妄想を起こさせない。もし心の念いが変わって雑念が生じたならば、心を収めて戻す。
もし久しくこの法を修行した人ならば、怨家や憎むべき人に慈悲を向けるように教えるべきである。どのように自分が憎むべき人に慈悲を向けるのか。行者がもし種々の身心の楽しみを得たならば、怨家や憎むべき人も得ることを願い、得られる楽しみが自分の親しい人が得るのと同じ多さであるように。一心にすべての人が同じ楽しみを得ることを願い、心は広大で清浄であり、親しい人と親しくも怨みもない人及び怨家を同等に扱い、慈悲心を全世界に広げ、無量の衆生が皆楽しみを得られ、この心が十方世界に周遍し、すべて同じ清浄な大いなる心量であるように。十方の衆生が自分の心眼で見るように、心に非常に明らかにすべての衆生が楽しみを得ていることを見、はっきりと明らかであるならば、この時に慈心三昧を証得する。
原文:問う。親愛する人や親しくも憎くもない人に、楽しみを得させようと願うのは理解できる。しかし、怨み憎む悪人をどうして憐れみ、また楽しみを与えようと願えるのか。答える。彼らにも楽しみを与えるべきである。なぜならば、その人にはさらに種々の善き清浄の法の因がある。私は今、どうして一つの怨み故にその善を没却させることができようか。さらに思惟する。この人は過去世において、あるいは私の親善であったかもしれない。どうして今の瞋りによって、さらに怨み憎しみを生じさせることができようか。私は彼らを忍ぶべきであり、これが私の善き利益である。また法を行じ、仁徳は広大無辺であり、慈悲の力は無量であることを念じる。これを失ってはならない。
釈:ある人が問うて言う。私たちは親愛する人に楽しみを得させることができるが、どうすれば悪人を憐れみ、怨家や憎む人も同じく楽しみを得ることを願えるのか。答えて言う。皆、彼らにも楽しみを与えるべきである。なぜそう言うのか。これらの人々にはさらに種々の清浄法を好む因縁があり、さらに自らを清めて楽しみを得たいと願っている。私は今、どうして一つの怨結故に彼らの善法を奪い隠し、彼らに善法の利益を得させないことができようか。
さらに思惟する。これらの人々は過去世において、私の親族や恩人であったかもしれない。どうして今の瞋恚によってさらに怨恨憎悪の心を生じさせることができようか。私は彼らを忍耐すべきであり、私はこの種の忍耐によって善法上の利益を得る。またこの善法の仁義の徳は広大であり、その慈悲の力は無量であることを知るべきであり、私はこの機会を失うべきではない。
原文:さらに思惟して言う。もし怨み憎む人がいなければ、何の因縁によって忍辱が生じるだろうか。忍辱は怨みによって生じる。怨みはすなわち私の親善である。さらに瞋りの報いは最も重く、衆悪の中でも最上であり、これを超えるものはない。瞋りをもって物に加えるならば、その毒は制し難い。たとえ他を焼こうと欲しても、実は自らを害することである。
さらに自ら念じて言う。外は法服をまとい、内は忍行を習う。これを沙門という。どうして悪声を発し、このように顔色を変え心を憤らせることができようか。さらに五受陰は、衆苦の林薮であり、悪を受ける的である。苦悩の悪が来るのは、どうして免れられようか。刺が身を刺すように、苦の刺は無量である。衆怨は甚だ多く、除くことはできない。自ら守護し、忍辱の革靴を履くべきである。
釈:さらに思惟して言う。もし怨家憎むべき人がいなければ、私はいったい何の因縁によって忍辱の力を生じることができようか。忍辱力の生じるのは怨家の縁があるからこそ現れる。故に怨悩の人は私の親善の人である。さらに、瞋りを生じる果報は最も重く、一切の衆悪の首位であり、これを超えるものはない。瞋りによって他に加えるならば、この毒心は抑制し難い。たとえこの瞋恨が他を焼き悩ますことができても、実は自ら自らを害することである。
さらに自ら念じて言う。出家の人は外に法服袈裟をまとい、内心で忍辱行を修習するこそ真の沙門である。どうして悪言を吐いて自らの瞋心を放縦し、自ら顔色を大きく変えて心を塞がせることができようか。また、五受陰は一切の苦の集まり処であり、衆悪を受ける所在である。苦悩怨悪はどうして避けられようか。あたかも多くの針が身を刺すように、苦毒の刺は無量であり、多くの怨害は極めて多く、根本的に除き尽くすことはできない。故に自ら自らを守護し、常に忍辱の鞋履を履くべきである。娑婆世界に来ることは苦しみを受けて債を返し業を消しに来たのであり、五陰身はこの苦を受けなければあの苦を受ける。いずれにせよ必ず苦を受けなければならない。既然避けられないならば、耐え忍ぶべきである。以後、事に遇うたびにこのように自らを慰めるべきであり、きっと役に立つ。心が平平静静で事がなければ、禅定は生じやすくなる。
原文:仏の言うように。
瞋りをもって瞋りに報いる 瞋りは還って自らに着く 瞋恚に報いず よく大軍を破る
瞋恚せざるを得る これ大人の法 小人の瞋恚 動かし難きこと山の如し
瞋りは重い毒 多くを残害す 彼を害せず 自ら害して乃ち滅す
瞋りは大いなる闇 目あれども見ず 瞋りは塵垢 清浄心を染汚す
このような瞋恚 急ぎ除くべき 毒蛇が室にいる 除かざれば人を害す
このように種々 瞋毒は無量 常に慈悲心を習い 瞋恚を除滅す
これが慈悲心三昧の門である。
釈:あたかも仏が説かれたように。瞋恚の方法で瞋恚の行いに報復すれば、瞋恚はなお自心に粘着する。瞋恨があっても報復しなければ、煩悩の大軍を破ることができる。忍辱して瞋りを生じないことは、心量の大きい菩薩大人の行持である。小心量の人は好んで瞋恚し、その瞋恚心は山のように動かし難い。瞋恨は巨毒であり、害する人は多く広い。もし他を害することを止めれば、もはや自らを害することもできなくなる。心に瞋恚があることは大いなる暗黒であり、あたかも目があっても色を見ることができないようである。瞋恚は塵埃汚れであり、自らの清浄心を染汚する。このような瞋恚の心行は、急いで滅除すべきである。例えば毒蛇が部屋にいるならば、もし追い出さなければ害人する。このように種々の瞋毒は無量である。常に慈心三昧を修習し、以て瞋恚の毒を除滅する。以上が慈心三昧の法門である。