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座禅三昧経講義

作者: 更新時間:2025-07-13 09:20:06

第三章 貪欲を治める法門

原文:淫欲の多い者は、不浄観を修習せよ。足から髪の先に至るまで、不浄に満ちていると観じる。髪、毛、爪、歯、薄皮、厚皮、血肉、筋脈、骨髄、肝、肺、心、脾、腎、胃、大腸、小腸、屎、尿、洟、唾、汗、涙、垢、坋、膿、脳、胞、胆、水微、膚脂、肪、脳膜、これら身中のものは、かくの如く種種不浄である。また次に不浄を漸く観ずるには、青黒く変色し膨張し破れ爛れた状態、血流れ塗れ漫り、臭い膿が喰い尽くされず、骨は散り焼け焦げるを観ずる。これを不浄観と謂う。

釈:淫欲の多い者は、不浄観を多く修習すべきである。その観行の方法は、足から髪まで観じ、全てが不浄に満ち汚穢甚だしく、一点も清浄なところはないと観察する。例えば、髪、汗毛、手足の爪、歯、薄皮と厚皮、血肉と筋脈、骨髄、心臓、肝臓、脾臓、胃、腎臓、大腸、小腸、屎尿、唾液、汗、涙、脳漿、脂肪、脳膜など、全身のあらゆる部位は種種不浊で、全て汚穢である。不浄観は次に、身体の青黒く変色し膨張し爛れ膿み、流れ出た血液が辺りに広がり、生臭い悪臭を放ち、骨は散り乱れ、焼け焦げるなどの現象を漸進的に観じる。これらは全て不浄の相である。

不浄観は坐禅時に観想してもよいし、人に会った時に相手も自分も同様に汚穢不浄であると観じてもよい。一定の時期まで観じると、厭離心が生じ、身体を喜ばず、淫欲を多く望まなくなる。観行が究極に至り白骨観三昧を成就すると、開眼閉眼を問わず自他の色身が全て白骨であると見えるようになる。これは定果色であり、他人には見えず、この三昧定境を修得した者のみが見ることができる。このような定境は、意識による長期の観想が成功裏に意根を薫染し、意根が色身は即ち白骨の様相であると認めるに至った結果である。すると如来蔵が白骨相を顕現し、意識はいつでもどこでも白骨相を見ることができるようになり、観想は成就する。

故に一切の定境と三昧は、意識による観想が成功裏に意根を薫染し変化させた結果である。意識は容易に様々な理論を認めるが、意根は無明が深重で習性が強いため、認めることが非常に難しい。これが修行の困難さを生み出す。各衆生の意根の無明の程度は異なり、習性も異なる。無明が薄いほど修行は速く、禅定が生じやすく、三昧に入りやすく、法を証しやすい。白骨観が成就する時、まず身見が断たれ、身体を我と認めず、貪欲が降伏され、身体への強い執着がなくなり、一分の解脱を得る。次に我見を断ち、四果の阿羅漢を証得し、三界の煩悩の束縛から解脱する。

原文:また次に、淫欲の多い者には七種の愛着がある。或いは好色に執着し、或いは端正に執着し、或いは儀容に執着し、或いは音声に執着し、或いは細滑に執着し、或いは衆生に執着し、或いは全てに愛着する。もし好色に執着するならば、青瘀観の法を習うべきである。黄赤などの不浄色もまた同様である。もし端正に執着するならば、膨脹し身の散る観法を習うべきである。

もし儀容に執着するならば、新たに死んだ者の血流れ骨を塗る観法を観ずべきである。もし音声に執着するならば、咽喉が塞がれ命が断たれる観法を習うべきである。もし細滑に執着するならば、骨見及び干からびた病の観法を習うべきである。もし衆生を愛するならば、六種の観法を習うべきである。もし全てに愛着するならば、一切を遍く観ずるか、或いは時に種種に異なる観法を行う。これを不浄観と名づく。

釈:再び、淫欲の多い者には七種の愛着がある。或いは好ましい色相、すなわち美色を好み、或いは端正な色相を好み、或いは他人の儀容外表を好み、或いは他人の音声を好み、或いは他人の細やかで滑らかな肌を好む。或いは一切の衆生相を好み、或いは全てに貪愛する。

もし好ましい色相に貪着する者は、身体が青黒く変色し膨張し爛れる観行の方法を修習すべきである。或いは色身が黄色い膿や赤い血など種種不浄であると観行すべきである。もし容貌の端正さに貪着する者は、身体が膨張し身体が散り乱れる観行の方法を修習すべきである。

もし外表の儀容に貪着する者は、観想として新しく死んだ者の血流れが全身に満ち、骨を塗り汚す観行の方法を修習すべきである。もし美妙な音声に貪着する者は、喉が詰まり塞がれて命が断たれる観行の方法を修習すべきである。

もし細やかで滑らかな皮膚に貪着する者は、白骨観及び身体が干からびる病にかかり次第に干からびる観行の方法を修習すべきである。もし一切の生の相に貪着する者は、以上の六種の観行の方法を修習すべきである。もし身体の一切の相貌に貪着するならば、全面的に色身の全ての不浄相を観行し、一つ一つ観行し、空しく過ごしてはならない。或いは身体の全ての相貌を変異の観行として、死後の愛すべからざる相貌を観行すべきである。

これらの観行の方法はすぐに語り終わるが、具体的な観行には数ヶ月、半年や一年、或いは更に長い時間を要し、ようやく貪愛を降伏させ、色身に貪らなくなり、欲心を軽減できる。普段は身体の各部位の汚穢汚れた相、血塗れの相、腫れ爛れた相、破れ敗れた相を観行すべきであり、貪着心は軽減されるであろう。好きな人を見かけたら、相手を最も汚く醜い人の相貌に置き換えれば、心はあまり好きではなくなるであろう。

原文:問うて曰く、もし身体が不浄で臭い腐った屍の如きならば、どうして執着が生じるのか。もし清浄な身体に執着するならば、臭く腐爛した身体にもまた執着すべきである。もし臭い身体に執着しないならば、清浄な身体にも執着すべきではない。二つの身体は同等であるから。もし二つの実の清浄を求めれば、共に得ることはできない。

人心は狂惑し、倒見に覆われて、不浄を計って浄と為す。もし倒見の心が破れれば、即ち実相法観を得、不浄が虚誑で真実でないと知る。また次に、死屍には火大がなく命がなく識がなく、諸根がない。人はこれを諦めて知り、心に執着を生じない。身体には暖かさがあり命があり識があり、諸根が完具しているため、心は倒惑して執着する。

釈:問う:もし色身が臭穢腐爛した屍の如く不浄であるなら、何故執着が生じるのか?もし清浄な色身に貪着するなら、臭穢腐爛した色身にも貪着すべきである。もし臭穢腐爛した色身に貪着しないなら、清浄な色身にも貪着すべきではない。二つの身体は同じであるから。もし二つの色身の真実の清浄相を求めても、全く得ることはできない。何故ならば、どちらも生滅の法であるから。

人心は狂乱迷惑し、自らの倒見に覆われ、不浄の色身を清浄であると計着する。もし心の倒見を破れば、実相法の観行を得、不浄相が虚誑で不真実であると知ることができる。また、死屍には火大の温度がなく、命根がなく、識心がなく、六根がない。人はこれを仔細に観察すれば、心は貪着を生じない。身体には暖かさがあり、命根があり、識心があり、六根が完備しているため、観察すれば心は倒惑貪着を生じる。

原文:また次に、心が色に着く時は、これを以て浄と謂う。愛着の心が息む時、即ち不浄と知る。もし実に浄であるならば、

常に浄であるべきである。しかし今はそうではない。例えば犬は糞を食い、これを以て浄と謂う。人の観るには、甚だ不浄である。この身の内外、一処として浄なる所はない。もし身の外に着くならば、身の外の薄皮を、全身を取って之を得れば、才めてナツメヤシの如し。これもまた不浄である。ましてや身内の三十六物においておや。

また次に身の因縁を推せば、種種不浄である。父母の精血、不浄にして合成す。既に身を得ては、常に不浄を出だす。衣服床褥もまた臭く不浄である。ましてや死に臨んではなおさらである。以って之を以て知るべし、生死の内外、皆不浄である(此の下、経本は二門の初めに至る)。

釈:また、心が色身に貪着する時は、色身を清浄であると考える。貪愛の心が消えれば、色身が不浄であると知る。もし色身が真実に清浄であるならば、恒常に清浄であるべきであるが、今はそうではない。故に色身は確かに不浄であると言う。例えば犬は糞便を食し、糞便を清浄であるとするが、人から見れば糞便は非常に不浄である。色身の内外、一処として清浄なところはない。もし身体の外側の薄皮に貪着するなら、全身の皮を全て取り去れば、身体の皮膚が一枚の樹皮のようであり、これも不浄であることが分かる。ましてや身体内部の三十六物は、更に不浄である。

また、色身が合成された因縁を推論すれば、種々の不浄相があり、父の精と母の血という不浄物が和合してできたものである。和合して色身となった後も、常に種々の不浄物を流出し、衣服や寝具も臭穢不浄に染まり、ましてや死に臨んでは、非常に汚穢である。故に知るべきである、生と死の時、身内と身外は共に不浄であると。

原文:また次に観にも三品がある。或いは初習行、或いは已習行、或いは久習行。もし初習行ならば、教えて言うべきである。皮を破る想いを作り、不浄を除却して赤骨人を観ぜよ。意を観行に繋げ、外念をさせず。外念の諸縁は、念を摂めて還らしめよ。もし已習行ならば、教えて言うべきである。皮肉を却ける想いをし、頭骨を尽く観じて外念をさせず。外念の諸縁は、念を摂めて還らしめよ。

釈:また、不浄観も三品の観行に分かれる。一つは観行を始めたばかりの初学の人、二つは既に観行をしばらく行った人、三つは観行を長く行った久修の人である。もし初めて不浄観を修習する人には、色身を皮を剥いだ様子と観想させ、色身中の不浄相を除去し、赤裸々な骨の人像を観行すべきであると教えるべきである。一心に諦観し、心念を外に散らさず、他のことを考えさせない。もし心念が他の法に攀縁するならば、心を摂めて念を引き戻すべきである。もし既に修習をしばらく行った人には、色身を皮肉を除いた様子と観想させ、心を尽くして頭骨を観想し、念を外に攀縁させず、もし外に攀縁したならば念を引き戻すべきであると教えるべきである。

原文:もし久習行ならば、教えて言うべきである。身の中の一寸、心に皮肉を却け、意を五処に繋げ。頂・額・眉間・鼻端・心処。この如き五処に、意を住めて骨を観じ、外念をさせず。外念の諸縁は、念を摂めて還らしめよ。常に観心を念じ、心が出れば制して持て。

もし心が疲極すれば、念の所縁に住し、外を捨てて守り住せ。譬えば猿猴が柱に繋がれ、極まりて乃ち息み住むが如し。所縁は柱の如く、念は縄鎖の如く、心は猿猴に喩える。また乳母が常に嬰児を観て堕落せしめざるが如し。行者が心を観るも、また復是の如し。漸く心を制して、縁処に住ましむ。もし心が久しく住すれば、是れ禅法に応ず。

釈:もし久しく不浄観を行った人には、身体の中の一寸の厚さのところを観想し、心の中で皮肉を全て除き、意念を五つの処所:頭頂・額・眉間・鼻端・心窩の処に縛りつけるべきであると教えるべきである。意念をこの五処に住まわせ、この五処の骨を観行すべきであり、意念を外に攀縁流散させてはならない。もし心念が外に攀縁するならば、心念を摂めて念を引き戻すべきである。心念は常に観心にあり、もし心が散らばれば、強制的に摂持すべきである。

もし心が攀縁して非常に疲労を感じれば、念を観じている骨に住まわせ、外に攀縁せず、心は観念している法の上に留まり止息し、外縁を捨てて観行している所を守る。譬えば猿が柱に縛られ、跳ね回って疲れ果て、遂に休み落ち着くようなものである。観行している法を柱に譬え、意念を縄に譬え、心を猿に譬える。また乳母が常に嬰児を観て落ちないようにするようなものである。

観行する者が心を観るのもまた同様で、次第に心念を制して、観行している法に住ましめる。もし心が久しく安住できれば、禅観は修出されるであろう。

原文:もし禅定を得れば、即ち三相がある。身体が和悦し、柔軟で軽便、白骨が流光し、白珂の如し。心が静かに住するを得る。是れ観浄と為す。是の時、色界の中心を得る。是を名づけて初学の禅法、色界の心を得ると為す。心が禅法に応ずるは即ち色界の法なり。心が此の法を得て身は欲界に在り。四大極めて大いに柔軟で快樂、色沢浄潔で光潤和悦、これを悦楽と謂う。

二者、先の骨観。白骨相の中に、光明が遍く照らし浄白色となる。

三者、心が一処に住するは是れ名づけて浄観。肉を除き骨を観る故に浄観と名づく。上の如き三相は皆自ら知る。他は見ず。上の三品は、初習行は先だって意を発せず。已習行は三・四の身を修す。久習行は百年の身を学ぶ。

釈:もし禅定が修出されれば、三つの状態が現れる:一、身体が潤い、色沢が和らぎ、柔軟で軽便となり、心中に白骨流光相が現れ、白骨が白い貝殻のようであり、心が寂静となる。これが不浄観である。観行が成就した時、心は色界に相応し、色界に入り色界心となり、色界の初禅定が現れる。これが初めて禅法を学んで得る色界心である。心が色界禅定に相応するとは、色界法である。心が色界法を得て、身体は依然として欲界の人間に住するが、四大の色身は非常に高大で柔軟で快樂であり、膚色は光潔で鮮やかで、内心は和雅悦楽である。これが第一の悦楽相、心喜びの相である。二者、先に修習した白骨観で現れた白骨流光相の中に光明が放たれ、一切を遍く照らし、全てが清浄な白色となる。三者、心が一処に止まり、雑念や妄念がなくなる。これが浄観である。皮肉を除いて骨を観行する故に浄観と名づける。

以上述べた三相は、修成就した者は自ら知り、自ら見ることができるが、他人には見えない。以上述べた三品とは:初めて不浄観を修習する者で、まだ証果していない人;既に修習を始め、初果を証し、更に人中で三、四回修習して涅槃に至る人;長く修習し此の世の百年の人身の中で修習後に涅槃に至る人である。

白骨を観行するには、心念で白骨の様子を想像し、その状態を保ち、更にその状態を変化させ、最後には観想した像が常に心中に現れ、永遠に変わらないようにする。最後に成就すると、特に観想しなくとも像が自然に心中に現れ、開眼閉眼を問わず見えるようになる。これが三昧であり、禅定である。貪欲を降伏する時、初禅定が自然に現前する。欲界の心が消滅すれば、色界の心が自然に現れる。心が欲界法にあれば色界法には至れず、心が色界法にあれば無色界法には至れない。下位の心があれば上位の心を持つことはできない。故にやはり先に捨てて後に得るのであり、捨てなければ得られない。これが仏法修学の鍵であり秘密の処であり、我々は必ずこれを掌握し、運用することを学ばねばならない。

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