衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2019年08月18日    日曜日     第2 回の開示 合計1840回の開示

六根が相互に通じ用いる境地

楞厳経において仏は、修行がある段階に至ると六根が互いに通じ合い互いに用いられるようになると説かれています。大迦葉は円明の智慧を具え、心念に依らず意識を用いず、すなわち意根を用い、意根が意識に代わり、五識をも代替します。かくして意根は五識の機能作用を具足し、意識の機能作用を具足し、具体的かつ詳細に六塵の境界を了別することができるのです。これは即ち意根が物体の具体的な色彩などの粗い五塵境界を見て触れることができ、極めて微細な法塵境界を了別するために意識に代わり、思考分析推理判断記憶などを営むことができることを示しています。例えば虚空蔵菩薩は身体を持たずとも触塵を感じ、意根が身根と身識意識に代わっています。かくして意根は全能のものとなり、その機能は制限されず、六識の心所法を意根はすべて具足し、ただ意根と第八識のみで生命体の存在を維持し、大いなる神通を顕現し、為さざることはないのです。

法法はすべて相通じるものであり、我々が仏法に通達する時、一切の法義は相互に貫通して一体となるのであって、互いに関係のないものではありません。ただ仏法に通達していない時、自らの認識に障礙があり、自心が自心を局限し、煩悩性障が自心を局限しているのであって、法義が人に理を悟らせないように制限しているのではありません。法義そのものは人を制限する心を持たないのです。

——生如法師の開示
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