真に我見を断じ、心を明らかにし、三つの結びを断った者だけが、三悪道に赴かずに済むことを保証されます。我見を真に断たず、ただ五蘊が無我であると心中で思うだけでは、三つの結びが断たれず、三悪道を免れることはできません。弘法により衆生を救う心は尊いものですが、自らが修証を得ていないならば、衆生を生死の輪廻から救い出すこともできず、自らの道業も損ないます。一旦煩悩と無明が現行すれば、直ちに三悪道に堕ちるのです。因果は一つには発心にあり、もう一つには事実によるのです。
自らが救われぬ先に人を救おうとする者は、菩薩の心を発していても真の道行がなければ、その報いは恐るべきものとなります。自らが三悪道を免れた後に弘法により衆生を救い、個人の道業を犠牲にするのであれば、もはや問題はありません。ある者は「我は我見を断じ、心を明らかにしたから三悪道を免れる」と言うかもしれません。しかし真に我見を断じたか、真に心を明らかにしたかは、自らが決めることでも、誰かが証明することでもなく、因果が自然の理をもって定めるのです。
ある者は五戒を守れば人身を得られると言いますが、無色界天の天人も八万大劫の間心清浄で、些細な悪業も作らずにいても、命終の時無始劫以前の悪業が熟せば、直ちに地獄に堕ちます。欲界天の天人も色界天の天人も同様です。今生で悪業を作らなくとも、無始劫以前に多くの悪業を積み、未だ報いを受けていない極めて多くの悪業を抱えています。命終の際それらの悪業の縁が熟せば、即ち業に随って流転し、全く自主の力はありません。真に我見を断じ三つの結びを断って初めて、三悪道の業を滅することができます。ただし再び大悪業を造れば、依然として三悪道に赴き報いを受けるのです。
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