仏法を学ぶことにより、徐々に五蘊無我の理を認識し、真理の智慧という陽光に照らされることで、心の中の堅い氷が少しずつ溶け、最後には滅尽するのです。この段階には長い時間を要し、厳密には五蘊無我を証得した時から、厳密でなければ四聖諦の法に触れ、理にかなった観行が可能になった時から始まります。
まず五蘊無我を証得しなければ、その後徐々に我執を破ることができません。これが修行の次第です。五蘊無我を証得する程度によって、意根の執着の度合いも異なり、我見を断じた後、意根の五蘊への執着は次第に軽くなり、一定の軽さに達した時、我執は即座に断たれます。凡夫衆生と初果人の意根の執着は非常に重く、一斉に断たれるのではなく、少しずつ軽減されます。長年積もった堅い氷が陽光に照らされ、最初は少しずつ溶け、最後には消え失せるようなものです。意根が執着を断じるのも同様に、まず軽減され、最後には消滅するのです。
これらの法は、禅定がなければ適切な思惟観行ができず、理解することも法と相応することも叶わず、必然的に興味を持てません。意識による理解さえ困難であれば、実証など論じる余地もありません。
禅定が不足している時、あらゆる思惟は意識の解釈を生むだけで実証に至りません。もし意識の解釈を究竟と見做せば、実証は不可能となります。故に時として知識や解釈が多いことは善きことではありません。禅宗の祖師方は参禅人が知識や解釈を多く持つことを最も戒め、道を妨げるとされました。しかし現代人は、ほぼ百パーセントの者が多くの知識を求め、知が多いことを誇りとしています。そのため今や実証者は極めて稀で、知解の宗徒は至る所に存在します。仏法が一旦氾濫すれば、必ず急速に滅びるのです。
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