衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2019年07月27日    土曜日     第2開示 合計1725開示

意根とは何か、衆生とはその何かである

<h2 style="text-indent: 2em;">問:もし意識のみが第八識を証得し、意根が第八識を証得しておらず、意根によって証することも必要ないとするならば、この人が死後に極楽世界へ往生した場合、あるいは天に生まれた場合、極楽世界に到着して以降、色身は天人の色身であり、意識は新しく生まれた天人の意識です。もし意根が第八識を証得していなければ、この人は極楽世界において依然として開悟明心の菩薩なのでしょうか?果位は何ですか?凡夫が極楽世界へ行く場合と同じなのでしょうか?いずれも凡夫に属するのでしょうか?凡夫と同じ待遇なのでしょうか?</h2>

答:衆生はいかなる世界でどのような形式で存在していても、その身分と果証は意根を主とし、意根が何であれば衆生も何であるのです。意根は衆生の主人であり、作主識であるとともに、業種と相応し、また後世へ連続することができるからです。したがって、意根がどのような業を造作すれば、どのような果報を受けなければなりません。意根が凡夫を造作すれば、後世も凡夫となり、意根が我見を断てば、後世は初果から四果の人となり、意根が明心見性すれば、後世は開悟の菩薩となります。七つの果位は意根の明と無明の程度によって定まるのです。

もし人間の身において意根が第八識を証得していなければ、それは凡夫であり、後世の極楽世界への往生は凡夫の身分で行くことになり、極楽世界に到着しても依然として凡夫です。蓮花の中に若干劫の間住し、業障が一定の程度まで消除されて、花が開いて仏を見、法を聞いて道を悟って、はじめて真の菩薩となります。人間の身であった時の意識の解は、根本的な作用を果たさず、もし若干意根に熏染されていれば、相応の微弱な種子が存じ込まれ、後世の意根はやや容易に熏を受け、証悟することができるのです。

——生如法師の開示
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