邪定は解脱の道にない道であり、解脱の智慧を生み出せない定であり、解脱に向かわない定であり、外道と共通する定である。この定においては、識心が沈滞あるいは昏沈し、思考を用いず、思惟を起こさず、教理を考えない。
正定の中で最も正しい定は、定中において心が転倒せず、世間の一切の法を思わず、善も悪も思わず、一切の法に執着せず、しかも無上の智慧によって衆生に随順し一切の法を生じさせ、一切の法に拘束されず、一切の法から解脱する。次に正しい定は、定中において様々な正理を深く細やかに思惟し、世間の一切の相に執着せず、善悪に執着せず、様々な解脱の大智慧を生じさせ、世界を変化させ、自他一切の善根福德因縁を成熟させ、心が正道に向かい、心が正道にある。
禅定がある程度修まると、心が清浄になり、心力が高度に集中し、思考がある深さに達した時、定中で思惟を起こし、現在解決すべき仏法の問題を考え、現在理解すべき問題を思考しなければならない。さらに定から出た後も、心を用いて仏法を思惟し、朝に夕に、心心念念、全て仏法を中心とし、現在解決すべき仏法の問題を巡らせる。これによって仏法を明らかにし、因縁条件が具足した時、相応する法を証得し、智慧を開く可能性がある。
比較的深い正定においては、意識の思惟は少なく軽微で、情思による理解はないが、意根が気付き難い思量があり、意根が深く思考し、意識よりも多く功用し、意根の思量を主とする。ここに定と慧があり、定は正定であり、邪定にはこのような思量がない。自らは着実に工夫を重ね、思量の技巧を掌握し、思量を学べば、必ず益があり、百益あって一害もない。
禅定中の昏沈には幾つかの原因があり、原因を探し出し対治すれば、昏沈問題を解決できる。一つは気血の不通で血管が詰まり、供血不足による昏沈。座中に経穴を按摩し気血を通す。一つは睡眠不足あるいは身体の疲労。呼吸を調節し、数回深呼吸を行う。一つは意根が興味を抱く所縁の法が不足し、心が沈滞する場合。この時は興味深い図景を観想し、心を沈滞から解脱させる。
禅定がない時は、まず仏法を観行せず、定力が不足する時も仏法を観行せず、こうすれば容易に推論によって一つの結論・答えを出し、後で真に工夫して参究できなくなり、後続の実証が困難となり、道業が大いに阻害される。禅定のない思惟観行は、解脱に益なく、道業に益なく、只々知見と我慢を増長し、我見を断除できず、功徳の受用がない。
10
+1