衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2019年07月23日    火曜日     第2 回の開示 合計1713回の開示

《雑阿含経》巻第八

如是我聞。一時、仏は毘舎離の耆婆拘摩羅薬師庵羅園に住したまえり。爾時、世尊は諸比丘に告げたまわく、六触入処あり。何等を六と為す。眼触入処、耳鼻舌身意触入処なり。沙門婆羅門、此の六触入処において、集・滅・味・患・離を如実に知らざれば、当に知るべし、是の沙門婆羅門は我が法律より遠く去れることを、虚空と大地の如しと。

釈:世尊は諸比丘に説きたまう、六根の触入処あることを。眼根が色塵に触れて入る処、耳鼻舌身意が声香味触法に触れて入る処なり。沙門婆羅門が此の六触入処において、六触入処の集起を如実に知見せず、六触入処の滅去を如実に知見せず、六触入処への味着貪着を如実に知見せず、六触入処の過患を如実に知見せず、六触入処の貪欲を離るべきを如実に知見せざれば、当に知るべし、此の沙門婆羅門は未だ四聖諦の法と律則より遠く離るることを、恰も虚空と大地の隔たりの如し。

原文:時に異なる比丘有り、座より起きて衣服を整え、仏に礼し、合掌して白しき、我は六触入処の集・滅・味・患・離を具足して如実に知りぬと。仏、比丘に告げたまわく、我今汝に問わん、汝随って我が問いに答えよ。比丘よ、汝は眼触入処を見るや、我なりや、異我なりや、相在りやと。答えて曰く、否なり、世尊。

仏、比丘に告げたまわく、善哉善哉、此の眼触入処において、我に非ず、異我に非ず、相在らずと、如実に知見する者は、諸漏を起こさず、心染著せず、心解脱を得ん。是を初の触入処と名づく。已に断じ已に知る。其の根本を断ずること、多羅樹の頭を截つが如し。未来の法に於いて永く復た起きじ。所謂、眼識及び色なり。

釈:時に余処より来たる比丘、座より立ち上がり衣を整え、世尊に礼拝し、合掌して申し上げき、我は六触入処の集起・滅去・味着・過患・離欲を完備して如実に知りぬ。仏、此の比丘に告げたまう、我今汝に問う、我が問いに従い答えよ。比丘よ、汝は眼触入処を見るや、我なりや、我が所有なりや、互いに存在するやと。比丘答えき、世尊、我は眼触入処を我とも我が所有とも相互存在とも見ず。

仏、比丘に告げたまう、善き哉、此の眼触入処が我に非ず異我に非ず相在らざることを、如実に知見する者は、心に貪瞋痴の煩悩諸漏を起こさず、心再び眼触入処に染着せず、心解脱を得ん。是れ已に最初の眼触入処を我と見る知見を断じ、已に眼触入処が我に非ず異我に非ず相在らざることを証得せり。此の如く我見を断ずれば、根本を断じたるが如く、多羅樹の頭を截断するが如し。未来世に眼触入処を我と見る知見は再び生ぜじ。

即ち眼識を貪愛し、色塵に染着する心行は再び現れじ。眼触が我に非ず異我ならざる故に、眼触より出生する眼識と色塵も亦た同様に我に非ず異我ならず。眼触を貪愛せざれば、眼触に依って何らの分別を起さず、眼識は出生せず、色塵は眼識中に現れず、心は色を見ざるなり。

原文:汝は耳鼻舌身意触入処を見るや、我なりや、異我なりや、相在りやと。答えて曰く、否なり、世尊。仏、比丘に告げたまわく、善哉善哉、耳鼻舌身意触入処において、我に非ず、異我に非ず、相在らずと、此の如く如実に知見する者は、諸漏を起こさず、心染著せず、心解脱を得ん。是を比丘の六触入処と名づく。已に断じ已に知る。其の根本を断ずること、多羅樹の頭を截つが如し。未来世に復た生ぜんことを欲せず。所謂、意識と法なり。仏、此の経を説き終えたまう。諸比丘、仏の説きたまう所を聞き、歓喜して奉行せり。

釈:世尊は更に比丘に問い続けたまう、汝は耳触入処・鼻触入処・舌触入処・身触入処・意触入処を、我と我が所有と見做し、我が耳鼻舌身意触入処の中に在り、耳鼻舌身意触入処が我の中に在りと見るや。比丘答えき、世尊、我は斯くの如く見ず。

仏、比丘に告げたまう、善き哉、耳鼻舌身意触入処において、其れが我に非ず異我に非ず相在らざることを如実に知見する者は、心に貪瞋痴の諸煩悩漏を起こさず、心再び耳鼻舌身意触入処に貪染せず、心解脱を得ん。比丘らは此の耳鼻舌身意触入処に於いて已に我見を断じ、已に非我・非異我・不相在を知る。恰も多羅樹の頭を截断するが如し。未来世に再び耳識と声塵、鼻識と香塵、舌識と味塵、身識と触塵、及び再び意識と法塵を出生せず、再び声香味触法と耳識鼻識舌識身識意識に貪着せじ。

此れは誰が六識と六塵を貪着せざるを説くや。即ち意根たる我が已に貪着せざるなり。意根が六触入処の我見を断除し、六根に依って起る如何なる分別をも再び愛好せざる故に、六識は出生せず、六塵は六識心中に現れじ。

観行して我見を断ずる者は六根の処に於いて如実知見を生じ、真実の智慧を起こし、六根の事実真相を観察し、非我・非異我なるを知る。煩悩断尽し、心解脱を得、再び我見あること無く、邪見生ぜず。即ち我執を断じ、無余涅槃に入る。意根の元来の邪見は

六根を我と我が所有と見做せしが、今は再び六根を我と我が所有と見做さず、正見を具足し、如実知見を有し、六根を我と見做さざる故に、心解脱し、煩悩を断尽せり。

第八識を当て嵌むれば、道理通ぜず。意根の元来の邪見が六根を第八識と見做し、観行を経て正知見を得、再び六根を第八識と見做さずとは有り得ぬ。若し斯くの如くならば、元来の邪見は邪見なりや。観行後の正見は正見なりや。決して然らず。若し斯くの如くならば、各衆生は再び我見を断ずる必要無く、各衆生は本来無我なり、第八識を我と見做し、色受想行識を我と見做さざる故に、仏陀が再び娑婆世界に来て阿含経の四聖諦理を説き、衆生に明心見性して第八識を悟らしむる必要も無きなり。

——生如法師の開示
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