衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常開示

2019年07月20日    土曜日     第1 回の開示 合計1704回の開示

推論された結果は現量として扱うことはできない

例えば世俗法において警察官が事件を捜査する場合、全て関連現場に赴き容疑者の犯罪証拠を探す方式で処理しており、事務机に座って意識的に分析推理する方法では行いません。たとえ推理が正しくとも、決して証拠として採用されないのです。調査と証拠収集の過程で推理活動は存在しますが、その推理は迅速に証拠を見つけるための手段に過ぎず、証拠が見つからなければその推理は無効となり、一からやり直します。確実で正確な証拠がなければ、容疑者の嫌疑がどれほど大きくとも有罪判決を下せず、無罪放免とするしかありません。裁判所が犯人を裁く際、全て事実と確固たる証拠に基づいており、推理によって有罪判決を下すことはありません。

仏法の実証は厳密に客観的法則を体現しており、世俗法よりも厳格で、些細な誤りも許容しません。確固たる事実的根拠がなければ、意根は証得できず、これは如何ともし難い道理です。

甲が捜査担当者に「乙の日常の言動や習慣から判断して、私の金時計は必ず乙が盗んだに違いない」と主張したとしても、捜査当局や裁判所は甲の推論に基づいて乙を有罪とすることはできません。たとえ甲の推理が正しくとも、それは事実ではなく、有罪判決の根拠とはなり得ないのです。たとえ誰もが乙が盗んだと確信していても、乙を罪に問うことはできません。

仏法における証悟も同様であり、論理的思考力が如何に優れ、推理が如何に正確であっても、それは事実ではなく、証悟に属しません。推理の過程において、自己を否定して我見を断ずることは不可能です。なぜなら意根が事実を直観せず、身心に触動が生じなければ、五陰の自己を否定できず、我見を断ち切れないからです。我見を断たなければ証悟を得られず、解(理論的理解)は許されても、それには功徳の受用がなく、法眼浄を得ることもできず、解脱の心を生じさせることはありません。

意識の推理は誰のために行われるのか?それは意根のために推理するのであり、意根を理解させるためです。意識の分析は誰のために行われるのか?それは意根のために分析するのであり、意根を理解させるためです。意根は自ら推理・分析できないため、往々にして事に臨んで決断を下せません。意識が分析推理を行った後、ある程度理解が生じ、判断を下し、決断を行うことができるのです。

——生如法師の開示
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