八つの識にはそれぞれ執持作用がありますが、各識の作用は異なり、一つの識や幾つかの識が欠けると、色身の状態が変わります。例えば五識の執持作用がなければ、人は座っていられず立っていられなくなり、意識が執持しなければ眠りに落ち、色身はぐらついてしまいます。
多くの人が悟りを得たと語りますが、実際に悟ったとされるその法においても、依然として八識の和合運作であり、各々の機能作用を区別できていないのに、どうして第八識を悟ったと言えましょうか。全ての識の機能作用を第八識のものと見做すのは、張冠李戴に等しいのです。このような悟りは単純で、如来蔵の存在を知る者なら誰でも悟ることができ、難しいことではありません。たとえ八識の各作用を区別できたとしても、定力が不足したまま論理推論に依拠して第八識の作用を推測するなら、依然として証悟ではなく単なる解釈に過ぎず、功徳の受用がなく、我見を断つことも解脱を得ることもできません。
多くの事柄を安易に人に知らせると、その者に何の触発も起こらず、何の作用も生じず、彼を変えることができません。自ら一歩ずつ探求し、事実の真相を求めさせてこそ、初めて真にその事を信じ、自ら触発されるのです。人は皆、外から押し付けられた思想観念ではなく、自分自身を信じるものです。
意根もまた同様に、意識の思想観念を安易に信じず、自ら目撃したもののみを信じます。従って意根に、意識の提供する情報に基づいて自ら参究し考量させ、自らが考量した結果を真に信じさせる以外なく、そうして初めて疑いを断つのです。
参究の過程において、意識が多用すれば意根の用は少なくなり、意識の用が少なければ意根の用は多くなります。意根に多用させてこそ証することができますが、これにはより深い禅定が必要であり、そうでなければ意根は用をなさず、意識のみが用いることになります。意識の作用で優れているのは推論と論理的思考ですが、意根本来の思量考究に代わるものではありません。意根を用いることを学んでこそ真実の智慧が生起し、決定的な作用をなす智慧が現れます。自らの禅定が充分でない時は、根本の法を思惟せず、参禅すべきでなく、解して証さないことを避けるべきです。
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