衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2019年07月06日    土曜日     第2 回の開示 合計1680回の開示

習気に種子は存在するのか

あることを頻繁に行い、習慣化されると、後に類似の事態に遭遇した際、知らず知らずのうちに行ってしまうことを習気と呼びます。習気は意根に宿り、意根が慣れ親しんだ行為には習気が現行しますが、意識は意根の習気に気付かないことが多いのです。習気は良き習気と悪しき習気に分かれ、悪しき習気は無明煩悩に属します。意根には無始劫以前から無明煩悩が存在しており、これを無始の無明と呼びますが、種子は持っておりません。しかし意根は無始劫以前には煩悩習気を持たず、五陰身の造作がなかったため習気を形成できなかったのです。後に五陰身が生じると、意根は五陰身を利用して絶え間なく無明煩悩を現行させ、これが習気を形成し、造作された無明煩悩は種子となりました。故に習気には種子があり、無始の無明には種子がないのです。

五陰身は生生世世にわたり世俗界で活動する中で、無明を増減させ続け、無明習気は強化と緩和を繰り返します。よって修学において断ずべき一切の無明煩悩は、主に意根の煩悩を断ずることにあり、意根の煩悩が断たれれば、意根の煩悩習気と六識の枝葉的煩悩は自然に消滅します。実際の修行過程では、意識が先に煩悩を調伏し断除します。なぜなら意識は理を速やかに理解し、正理を明らかにすれば自心を修証できるからです。一方、意根の煩悩は深重で理の理解が遅く、自己修正が困難です。故に意根が煩悩を調伏断除しなければ、意識の煩悩が断たれた後も、再び意根に依って再生します。修行とは即ち意根の全ての無明を断除し、意根の明を増長させることにあり、無明が尽き果て明が極限に至れば、仏道は成就するのです。

——生如法師の開示
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