衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2019年06月04日    火曜日     第1 回の開示 合計1575回の開示

六識の了別は意根による

ある者は意根がただ法塵を縁じると言いますが、五識が五塵を了別するこの事柄は、一体誰が主導し、何を原因として生起するのでしょうか。六識の出生および六塵における了別活動はすべて意根の主導によって生じるもので、意根が六塵において何かを造作しようとするが故に現れるのです。五識が五塵を了別するのも同様に意根の主断によって決定されるもので、例えば眼識が常に特定の色彩に随って運転するのは、誰の決定と指揮によるものか。それは意根が特定の色彩に興味を抱くが故に、眼識がその色彩に随って運転するのです。耳識が常に粗燥な声塵を追い求め、轟隆轟隆という響きに注目するのは、誰の決定と指揮によるものか。これもまた意根の操作によるもので、意根が音声を特別と感じ、了別しようと考えるが故に、耳識にずっと注目了別させ続けるのです。

大多数の人は、自分(意識)が知らない法は存在しないと言いますが、実際に存在する法は必ずしも意識に知らせるわけではありません。意識が知らない法を、意根は知っており、意根は縁じ得て、粗略で概括的な了知を持つことができます。ある法は意識六識に知らせることができないのです。その理由には幾つかあり、一つは意識に感知する智慧がないため、一つは意根に意識をして知らしめる智慧がないため、一つは縁が具足せず意識が知ることができないためです。ある法は六識に知らせる必要がありません。なぜなら意根が詳細に了別し処理することを望まないからです。無数の人々は六識を自己と見なしていますが、実のところ真の仮の我は依然として意根であって、六識ではないのです。

我思う故に我あり、これは意根を指すもので、深層の思惟、内心のその種の思想観念はすべて意根のものです。普通の人は「我知る故に我あり」と言いますが、この「知」は六識を指し、六識が知らない時、意識は自分が存在しないと感じます。しかし六識が知ろうと知るまいと、内外の六塵は存在し続け、無数の法は存在し続けます。たとえ六識が知り得たとしても、知り得る法はさほど多くなく、了別する範囲は限られているのです。

——生如法師の開示
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