これは世俗の法が説く「目で見ることは真実で、耳で聞くことは虚妄である」という道理と同じです。他人の言葉を聞くことは意識による理解に相当し、実証されていないため、自分自身の心の中ではまだ虚しく、真剣に受け止めることができません。その後、目で見て初めて真に理解し、「ああ、そうだったのか!」と悟るのです。この時、人や事柄に対し、どう対応すべきかを知ります。目で見ることは意根による証得に相当し、耳で聞くことは意識の理解に相当します。これは全く異なる次元のものです。意識の理解は他者から聞いたものであり、意根の証得は自らの目で見た現量知であり、真実を見極めたものです。理解したものは伝聞に過ぎず、実際の目撃とは大きく異なります。例えばある人物の評判を聞いて一定の見解や印象を持っても、実際に会って観察すれば「思っていたのと違う」と気付き、直接感じた印象の方が真実味があり、それに基づいて対応を決めるのです。真実を理解し観察した後では、自分の見解・意見・考え方・行為は、単に聞いていた時とは変わります。だからこそ私たちは心を込めて修習し、深く心に染み込ませ、真実に諸根が幻の如く五陰に我無しと観行しなければなりません。観行する時は第六識の思惟分析を行い、分析後に意根に引き継ぎ、意根がこの理の真実性を認証すれば証果を得ます。意根が意識の観行した理を認めなければ無益です。意根の証得を早めるには、確固たる証拠を揃え、現量観察に近づける必要があります。観行の過程には多くの手順があり、修めるべき法も多く、絶えず福徳資糧と道糧を積み、戒律・忍辱・禅定・智慧を完成させ、六波羅蜜の条件を満たしていかなければなりません。一切の諸法はことごとく空寂、これを空解脱門と申します。空にも空の相はなく、空法そのものに相は無く、ただの名称概念で相を持ちません。空に空の相貌はなく、一切の相も空相も無い、これを無相解脱門と申します。もし一切の相が無くなれば、私たちに何の希求がありましょうか。一切法が空であるなら、どうして願い求めましょう。願求が無くなれば無願解脱門と名付けます。この三法が空と共に行じられれば心は解脱し、これを三解脱門と申します。空・無相・無願、この願とは希求・願果・誓願を指します。一切が無い故に、何を執着しても空であり、成仏さえも空なのです。『金剛経』に説かれる通り、成仏の果位は得られません。成仏の果位さえ得られないなら、他に何を得ようとしましょう。私たちが得たと思うものも、仔細に分析すれば何も得ておらず、得る人さえ存在せず、まして得る法などありません。或る者は問うでしょう「全て得られないなら、何を修めるのか」と。修行とはまず一切法が得られない道理を知り、次に一切法が得られないことを証得し、最後に心が空無となって大解脱を得、有所得の束縛から解かれ、一切の生死の苦から解脱するのです。たとえ真に得るもの無くとも、この「不得法」を得なければ、生死輪廻は止みません。一切法は虚妄で得られず、私たちの受ける苦報は偽物ですが、誰も苦報を望みません。悪行は偽物ですが、悪業を造りたくありません。殺人は偽物ですが、人を殺すべきではありません。地獄は偽物ですが、誰も行きたくありません。成仏は偽物ですが、皆成仏を願います。修行とはこのようなもので、仮の法には仮の作用があり、真の法には真の作用があります。全てを滅却できない以上、仮の法をより良く清浄にすべきです。私たちの七識心は偽物ですが、大きな作用がある以上、必ず良い作用を起こさせねばならず、仮を全て放棄しては成仏できません。この弁証法は矛盾に見えますが、証果すれば矛盾しないとわかります。
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