衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2023年06月01日    木曜日     第1 回の開示 合計3954回の開示

邪見がどれほど長く伝えられようとも、真理ではございません

問:どのようにしてあるお経が真経か偽経かを判断すればよいのでしょうか?仏教の呪文の中で如法なものと不如法なものはどれか、その判断基準は何ですか?大蔵経にはチベット仏教の経典が多く収録されていますが、もし偽経ならなぜ大蔵経に収録されるのでしょうか?もし問題のある経咒があるなら、なぜ1000年以上も途絶えることなく伝承されてきたのでしょうか?

答:経咒の真偽を判断するのは全て経験と智慧によるもので、伝授できるものではありません。経験と智慧がなければ、評定したり断定したりせず、極力慎重に距離を置くのが良いでしょう。知らず知らずのうちに悪業を造らないためです。大蔵経の多くは凡夫が収集・収録・編集・整理したものですが、凡夫に何がわかるでしょうか?もし魔王が大蔵経の影響力を見て、自ら整理印刷しようとするなら、どんな内容を加えるでしょうか?

外道の邪法がどれほど長く伝承されようとも、伝えられている法が正しいことを説明するものではありません。長く伝わる理由は、衆生が愚痴で智慧がなく、正邪を弁別できないからです。例えば衆生は無量劫もの間、五蘊が我であると考え、我が実在すると思い続けてきました。無量の無量劫を経て現在まで伝わっても、五蘊が我であるという観念が正しく誤りがないことを説明するものではありません。衆生は無量劫もの間、五蘊世間法を執取すべきだと考え、世間法こそが良く、一瞬も離れるべきでないと思ってきましたが、実際はそうではありません。もし仏が五蘊世間が空で無我であると教えてくださらなければ、私たちは永遠に五蘊世間を執取し続けるのではなかったでしょうか?たとえ更に無量の無量劫があろうとも、愚痴無明の衆生にとって時間が何を説明し、何を変えるというのでしょうか?

同様に、同じ知見を持つ人がどれほど多くても、邪見は正見にはなりません。真理は信受する人数の多寡によって確立されるものではなく、常にピラミッドの頂点にあり、最下層の人々の手中にはありません。だからこそ娑婆世界のような穢土において、真理は常に少数者、ごく少数者の手中にあり、時には世界中に真理を把握する者が一人もおらず、全てが愚痴無明の衆生である場合さえあるのです。

——生如法師の開示
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