衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2023年05月31日    水曜日     第1 回の開示 合計3953回の開示

福徳を積むことは修行といえるでしょうか?

修行の指針は戒定慧を増長させ、煩悩を降伏させ、貪瞋痴を滅することにあります。もしそうでなければ、修行とは言えません。布施や福徳を修めることも同様で、どのような心で福徳を修めるかが重要です。もし自己の貪欲などの欲望のためではなく、恩を売ることもなく、純粋に衆生を利益する菩提心をもって福徳を修めれば、道業を助長し、戒定慧を生じさせることになり、そのような福徳こそ修行と言えます。一方、菩提心を発さない福徳は最終的に貪瞋痴を増長させ、無明を深めるだけであり、それは修行とは見なされません。

明らかな事例として魔王波旬が挙げられます。波旬は前世で寺院を建立し、辟支仏を供養したことで大福徳を得て、他化自在天の天主となりました。しかし前世で菩提心を発しておらず、福徳を道業のためではなく貪欲を満たすために修めたため、その大福徳を用いて六道の衆生を支配し、眷属欲を満たしました。彼は衆生が自らの支配から脱するのを防ぐため、絶えず仏法を破壊し、衆生が欲界を脱する機会を奪い、六道から解脱することを阻み、生生世世にわたり魔眷属として貪欲に囚われ生死を輪廻させ続けました。よって菩提心を発さずに福徳を修めると、福報を得た後に大悪業を造る可能性があり、むしろ福徳を修めない方がましだと言えます。もう一つの事例がヒトラーです。ヒトラーも非常に大きな福報を持ち、その大福徳によって大悪業を造ることに何の障害もありませんでした。彼が殺害した人数は娑婆世界において最多と言え、地獄に堕ちた彼に解脱の機会はほとんどないでしょう。もし彼が福徳を修めていなければ、世界は平和になり、衆生は生死の苦しみを受ける必要がなかったのです。

菩提心を発さずに諸善法を修めることは魔業に等しいという理に対し、未だに納得しない人々がいますが、事実が眼前にあるのに何が不服なのでしょうか。多くの大悪業は、福のない人間に造り得るものでしょうか。福が大きく権勢が強いほど、悪業を造ることを阻止できる者はおらず、また比類なき規模で悪を成し遂げます。このような福こそが衆生の不幸なのです。

——生如法師の開示
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