衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常開示

2023年05月30日    火曜日     第1 回の開示 合計3952回の開示

経典を暗唱するのは意識によるものか、それとも意根によるものか

問:未熟な者が経典を読誦する際、時々定静の状態が現れ、心が愉悅し、身体が特に快適になります。本を見ず内容を考えなくても、お経を間違えずに唱えられますが、これは意識が唱えているのでしょうか、それとも意根が唱えているのでしょうか。

答:このような状況は、慣れた道を軽く進むように、経典読誦が非常に熟達した時、心が経典に定まり、妄念が少ないか無くなると、入定し、身体も同時に静止し、軽安で快適な感覚が生じます。心が経典に専注しているため、意根は経典に慣れ親しみ、意識が暗誦できるほどになります。意識が了別する法塵は意根の伝達に由来し、意根が熟知した法については、意識が苦心して分別や憶想する必要がなくなります。読誦暗誦の機能作用は表面的には意識のものですが、実質的には意根が経文に極めて慣れ、意識や眼識が経文を見て了別・記憶しなくても唱えられる状態です。これは意根と意識が共に読誦暗誦している状態です。

お経を唱えて定に入るのも、意根が定まることで身心が軽安快適になるのです。これは意識が意根を牽制・誘導する力が優れ、両者が良く調和していること、また前世の善根によるもので、前世で常に経典を読誦し慣れ親しんだため、今世で入定や暗誦が容易になるのです。

別の問い:弟子の体得したものとは少し異なります。私は掉挙が現れる時、いつも真言が非常に慣れた時です。真言を唱えて頭部に清涼な快適感が生じる時、意根もこの境界に攀縁しやすく、すると心が散乱します。

答:そのような見解も正しいです。真言に過度に慣れ親しむと、真言に心を用いる必要がなくなり、唱えることに専注せず、意根が他の法に攀縁すれば、意識は放心状態となり、心が散乱します。双方の状況が共に存在し、矛盾しません。違いは、意根が法に慣れ親しんでいても、なお他の法に攀縁しないかどうかです。攀縁しなければ定を得、攀縁すれば散乱します。故に私が最初に仏法を学んだ時、念仏を好まず、仏号が短く妄念を降伏できなかったため、経文を読みました。後々人事が多忙になり経文読誦が困難になると、真言に改めました。真言の効果が最も優れています。どの経文を読んでも暗誦できますが、経文はやや長く、用事が多い時は中断されやすいため、真言に改めたのです。

経文読誦時の定境と覚受は、心の専注によって自然に現れます。しかし時間が経ち境界に過度に慣れると、少し油断して心に雑念が生じれば、定境は消失します。人が如何に修行しても、禅定が現れず入定しないならば、効果が不十分で心が散乱し専一でないことを示します。修行とは戒定慧を修めることで、戒めによって雑念を断ち、法に心を定め、智慧を生じさせ、不如理な思想観念を改めるのです。禅定がなければ悟性が非常に低く、智慧が成長しません。

ある種の聡明な人は思慮が多く、定を得にくいです。愚痴な人は思慮が少なく、かえって定を得やすいですが、この種の定は一般的に言って痴呆定で役に立たず、智慧を生まず、かえって畜生道に堕ちてより愚痴になる恐れがあります。故に私は一日中空っぽで愚かに座る人々を見たくありません。最終的に痴呆愚痴人になってしまいます。愚かな人は控えめに座禅し、多く経文を読み法を学び思惟し、思慮多い者は心を止め、定慧を随時調節すべきです。

——生如法師の開示
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