意識が蘊処界を縁ずることができるのは、まさに意根が先に縁じたことによる。意根が決定して別個の究竟を了知してこそ、意識は蘊処界を縁ずることができるのである。もし意根が蘊処界の種々の相貌を縁ずることができなければ、意識も縁ずることはできない。いかにして意識は生起するのか。意根が法塵と相渉り、意根が何かを為さんと欲するとき、第八識はじめて意識を生起させて造作せしめる。もし意根が法塵に触れた後で何かを為さんと欲しなければ、第八識は意識を生起させない。されば意識が蘊処界相を縁ずるのは、必ず意根がまず蘊処界相を縁じたことによるのである。意根が蘊処界相を縁じないという理は存在しない。
いかなる時においても、意根は刹那刹那に第八識に依って蘊処界相を縁じ、蘊処界と須臾も分離することはない。たとえ眠りに就いて夢なき時も、昏迷状態にあっても、無想定の中にあっても、死に臨んで色身を離れざる時も、中有の身にあっても、意根は常に蘊処界と共にあり、蘊処界を縁じ続ける。ただ蘊処界が存在せず、五蘊のない時に至ってはじめて止むのである。
もし意根に縁じない法があるならば、いったい何を以て意識は縁ずることができようか。いかなる法の上にも意根がなければ、そもそも意識の存在する余地もない。ましてや意識が縁ずることなど到底不可能である。意と法の因縁によって意識が生ずる──これこそ世尊の聖教量であり、世尊自ら口づから説きたもうた聖言である。どうしてこれに背く理があろうか。意根が一切の法を黙容することは、世尊が楞厳経において親しく説きたもうたところである。どうしてこれに背く理があろうか。
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