衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

生如法师のウェブサイトロゴ

日常開示

2018年12月26日    水曜日     第1 回の開示 合計1130回の開示

因果は真実不虚

末法の世において衆生の心は浮ついているが、ある人々はあえて衆生の浮ついた心に迎合し、衆生の歓心を買おうとする。もし少しも衆生の悪習に逆らわないならば、どうして衆生の悪習を改め、どうして衆生を解脱させることができようか。

衆生は貪欲であるだけでなく愚痴でもあり、刃先に付いた蜜をなめようとするが、結局得るものは何か。これを考える者はいない。多くの者は眼前のわずかな利益に目を奪われ、三悪道に堕ちる危険を冒す。一見大胆に見えるが、実は愚痴によるもので、目先のことに囚われ未来の大きな利益を考えることができない。

大多数の者は実際には自己の利益ばかりを考え計らっているが、その行いによって利益を得られないばかりか、既に持つ利益さえ失ってしまう。しかしこれを悟る者も見る者もいない。なぜか。無明と愚痴により、煩悩が目を覆い、自己を見失い、真の利害得失を見極められないからである。

因果に対し、多くの者は真に信じておらず、常に侥倖を抱き、因果は他人に降りかかっても自分には及ばないと思い込んでいる。そこで自己の利益のために、他人が自分の言うことを聞かなければ必ず悪果が訪れると説くが、自らに迫る悪果に気付かず、まさに悪因を造り続けている。

私が仏教を学び始め経典を読んだ頃、因果に関する実話に触れ、因果の真実不虚を信じ、身口意の所作に細心の注意を払った。しかし現代の学仏者は経典を読まず、経典の説くところを知らないため、心が盲目となり因果を理解できない。

今はインターネットが発達し、悪業を造ることが昔より格段に容易となった。指先ひとつで悪業が全国に広まり、まさに慨嘆に堪えない。自らの指先が招く悪果に気付く者はいない。無知だから恐れを知らず、心が塞がれて他人に盲従し、善悪の判断もつかず、大いなる悪業を造りながら悔い改めることを知らない。

ある者は他人に唆され悪業を造るが、自らはそのことを知らない。例えば「こうすれば問題ない。因果は私が引き受ける。あなたには善果のみあって悪果はない」と言われ、心盲の者はこれを信じ、本当に代わって因果を引き受けてくれると思い込む。しかし因果が現れる時、それぞれが自らの果報を受けるのであって、互いに代わることはできない。仮に肉親であってもどうすることもできないのである。

——生如法師の開示
前の記事前の記事

意識はなぜ蘊・処・界を縁することができるのか

次の記事 次の記事

唯識と唯心の違い

ページのトップへ戻る