愛楽心なきは即ち仏の境界なり
愛楽心なきは即ち仏の境界なり。仏の境界には愛楽心なく、五欲六塵に対していささかの喜楽や貪愛もなし。仏は即ち如来なり、如来は即ち如来蔵なり。これには喜怒哀楽なく、好むことも厭うこともなく、無為の性質を具える。前七識の心には喜怒哀楽あり、真如の心には喜怒哀楽なし。七識の心が喜怒哀楽を生ずる時、その中に真如の心の随順なる配合あり。これなくしては七識の妄心も喜怒哀楽の現象を現じ得ざるなり。一切の法において真妄二者の共同作用あり。七識が喜怒哀楽する時、喜怒哀楽せざる如来蔵が絶え間なく諸々の種子を輸送し、以て七識の現行にその喜怒哀楽の心行を保持せしむ。この背後に黙々と無償の奉献をなす者を見出せば、即ち明心開悟し般若智慧を得るなり。
何を以て愛楽心なきを仏の境界と為すや。仏の曰く「愛楽なければ即ち能く一切の諸法を遠離す」と。諸仏は既に寂静無為にして、世出世间の一切法に執着せず、境に着かず、心中に法の存在なく、究竟して一切法を遠離せり。仏は五蘊の虚妄相において絶えず造作し、無量の衆生を広く度すとも、仏心の無所住を妨げず、一切法に対し愛楽心を生ぜず。法身仏は更に世出世间法に心住することなく、一切の法と相を遠離し、一切法に愛楽心なし。
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