五遍行心所法は最初に作意、触、受、想の順序で運行されますが、その後順序が逆転することがあります。思心所は不定時に現れ、意根は不定時に抉择を行う可能性があります。中間には多くの思择が現れ、最初は小さな決定であり、特定环节の部分抉择を行い、運行の最後には総決断となります。中間の抉择は究竟ではありませんが、最終決定にも対応する作用があります。例えば、この一口の飯を吃完した場合、次の一口を食べるか否か、および何を食べるか、どの程度を食べるかについて、思心所が抉择を行います。整顿飯を吃完した場合、思心所は食べないという総決断を行い、五陰身は碗筷を放下します。自身が食べないと思っても、旁に人が劝める場合、思心所は主意を拿不定し、利弊得失を权衡します。迅速に自身が食べた飲食および胃部の感覚を作意触受想し、最後に思择を行い、この飯は結束します。
作意は識心活動の始まりであり、一切法の生住異滅の开端です。作意を行わなければ法を接触できず、接触しない場合は接纳と感受を行わず、接纳しない場合は了知できず、了知しない場合は思量与抉择を行わず、抉择しない場合は身口意の造作ありません。因此、作意は重要であり、思は更に重要で、思の作用は最大、思の過程は最长となります。しかし、受想思を行う時には触必ず存在し、触しない場合は受想思ありません。受与想無しの場合、后续の身口意の造作ありません、識心は寂静し、清净となります。大修行人は法に轻微短暂な作意を行い、触した後に觉受を生起しない、了知を想しない、次の行為造作ありません、即无心无事となります。
法を運行する時、作意は一直存在します。仔細に想する時、六尘は法尘に転变し、法の重点が転移し、新作意が現れます。最初に作意から想までの過程は特別短暂且快速で、刹那间に思に到ります。了知不清楚の場合、思量不明白となり、重新に作意触受想を行い、この過程は反復相续不断となります。この過程を细致に觀察することは困難であり、粗略觀察も相当困難です。しかし、自身および他人の身行、語行、思想、观念を对照觀察することで一部分を觀察できます。
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