五遍行心所の作用過程は業を造作する過程である。善心所が加われば善業を造作し、悪心所が加われば悪業を造作する。作意と触心所自体は善悪無記であるが、善心・悪心が加われば、その作意と触は善意あるいは悪意となる。受想思心所も本来善悪無記であるが、善悪心所が加わることによって善悪の性質を帯びる。五遍行心所の運行に慧心所が参与すれば、業行は智慧的となる。これに反すれば愚痴的な業行となる。勝解心所が参与する者は聡明で、人情に通じ理解力に優れる。定心所が生起する時は受想が微細となり、五遍行心所の運行は緩やかで微細となる。作意と触は受動的に生起し、受想思心所は縁に随って現起し、自然に作用する。
意根は一切法の作用過程において推進的役割を果たし、業行の主宰者である。これは日常の身口意行において観察できる。例えば手を挙げ、筆を取り、紙に手を按ずる過程を細心に観察すれば、明らかに一種の心力が推進しているのを感じられる。時には推進が顕著で、時には不顕著、時には随意で推進していないように見えても、実は慣性による作用である。しかし意根の作用が如何に随意で不用心であっても、意識に智慧がなければ観察し難い。
自転車乗りが極めて熟達した場合、意識は乗車方法を思惟せずとも、意根は刹那刹那に指揮作用し、常に心を用いている。ただ意識が知覚しないだけである。熟達時は転倒を意図しても容易に転倒せず、未熟時は転倒を意図しなくても転倒する。熟達時は意識が思惟制御せずとも意根が掌握し自在に指揮制御する。未熟時は意根が習得しておらず、意識が反復思惟して意根を熏習し、意根が完全に掌握して自由に制御できるに至れば、意識は心を用いなくなる。
ある者が無意識に事を行ったと主張しても、意識が如何に無心であれ、意根は有意である。意根が推進して事を成し遂げるのであって、自覚していないだけである。慣れた状況下での無意識・下意識の動作は全て意根が指揮操作しており、意識は単に意根に協力するだけで思想的意見を持たない。さらに意識が無心でも意根が無心とは限らず、意根が無心の時こそ真の無為となる。
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