楞厳経二十五聖の修行を観るに、昔の修道者たちは修行が非常に実践的であり、学ぶ理論は多くはなかった。彼らは少しばかりの理論を薫習すると、直ちに禅定に入り実際に観行を修め、修行は禅定と観行を主とし、定を修め参究することに修行の八割以上を費やした。そのため彼らは速やかに理を証し、三昧を得て成就が早く、理を証する者は多く、理を説く者は少なかった。
現代人はこれと逆で、九割以上の精力を理論知識の学習に用い、復唱暗記の能力はあるが独力で修行する力がなく、禅定を修めることを好まず、心が煩乱しているため禅定も修められず、観行はただ意識の情思意解に頼り、多くを知っていることが道を得たことだと錯覚し、似通った答えを知るだけで証得したと思い込む。知解宗徒や説食不飽の帰結が何かを全く理解せず、著作を著し徒衆を集め、人を誤り衆生を邪道に導く危険を顧みない。これは末法の衆生が思想浮躁で思惟浅薄な結果であり、見渡す限り理を説く弁士ばかりで、理を証した道者はほとんど見当たらない。衆生が福徳を具えるほどにこれらの現象は深刻化する。これらの事を説けば人々の恨みや罵声を招き、古仙人の修行の軌跡に復古しようとするのは極めて困難で、仏教に存在する重大な危機や不良現象の深刻さに気付く者はほとんどいない。
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